2012年12月31日月曜日

2012年大晦日に


 
 2012年末に、長女の嫁ぎ先のお母さんが送ってくれた冊子の、絵です。加賀友禅作家さんの
志田弘子さんの作品です。「きっと、きっと」ーつぶらな瞳たちへー
 
 いのちこそ そして いのちの水  その二枚をアップしてみます。

2012年12月28日金曜日

種綿プロ・・・・

 
 怪しげ。実に怪しげなもの。またこの嫁が・・・・義父に、この茶綿の中の種で、綿が栽培できるかと無理な事を訊くのです。何やらプラットフォームの朝市で、隣のつくばからの出店者から買ったとか言い出したのです。
 そう、今年の春だから、昨年の種が入っているのかしら?わわたでしょうか?
お義父さんは、昔は綿はやらなかったの?お蚕はしていたんでしょう。そう尋ねると、やったよ。と言いました。なんでもやっていたんだね。でも、この中からどうやって種外せるんでしょう。
 そういう機械があったんだよ。へえ、千歯こきみたいの?いや、じゃあ、自転車のペダル回すみたいの?いや、それじゃない、なんていうか。ふうん。
そこまでになった、雲をつかむような綿をつかむような会話は月初めでした。
 山梨には二間続きの和室があります。墨田の家は三畳に板の間とか、変形4畳半とかですので、布団の仕立て直しは、義母はしませんでした。文庫番は、布団仕立てを子供たちに見せたかった。布団皮の上に、縦横に綿を置いてくるっと返す、あの手際よさ、力加減。真綿の敷き方。
学校から帰って新しい布団ができている、ワクワク感。四隅を綴じ付けるのもまた魔法のような家庭の仕事でした。母が富良野の国の子寮で、憧れていた寮長さんは布団仕立ての名人だったとか。語りながらの仕立て作業に心躍ったのです。
住まいで駄目ならと、墨田の消団連のお姉さまたちに、リサイクル活動で女性センターのホールでやりたいと申し出ても、あんな綿埃りになる事嫌だと、取り上げられず。
 あれから幾年月、義父をけしかけて、綿やってみようかなと思ったりしたのです。そういう夢を紡いで、綿を紡いで、これからはくらしを楽しみたいと思っているのです。
 この年の瀬に、義父は管をたくさん繋いで、いのちを紡いでもらっています。
あの、機械はどんなのでしょう。どうやって種を取り出しましょう。答えが語られません。


2012年12月25日火曜日

希望の光



あなたを思い、この一年を過ごせたのです

感謝しながら、新しい日々を見ることができます

賢者たちも、野で羊を飼う人も


宮居に泊まるのではなく

大勢の旅人の、路上にも近く

馬舟の中に、希望の光がおかれます


純白の産着の柔らかさも、父母の慈しみも

あなたこそが、喜びの源

きっと歩む道は、旅人であり

冠るものには痛みがあるでしょう


でも、私はあなたを思う

そして、信頼によって、世界が満ちていく


  「きなり歳時記2007-2008」 マハラバ文庫  増田・大仏・レア

2012年12月23日日曜日

花果山の下



 近々の誰かとの会話で、どうせ個人の暮らしまで衛星でとらえられてしまう時代なのだからと、あったのです。個人の情報なんてどこかで監視されているから、今度の政権でますます不自由になる。なのですけれど、私には、絶対に揺るがない、何物にも侵されない自分を認識できるのです。
 それは、閑居山の頂上の岩坐に乗っていた少女の自分が、天にも地にも一人の存在でいることが解った頃から、今年母が亡くなって、母との対話が自分の中に落ちている。その事もあって、山の上に居たのですが、天にも地にも一人と思う事は自在に宙を飛んでみたら、結局花果山の、岩の下の猿だったように。たいそうな言葉を書きつけてきたらお釈迦様の掌の上。
 だからこそ、自分というちっぽけな存在があって良いと、長く伸びた髪の毛がいつかお猿の尻尾になるかとびくつきながら、もっと自分をさらす、くらしの言葉の強さを思うのです。
 
2012年12月23日のスカイツリー。

2012年12月22日土曜日

一陽来復

 冬至が過ぎて、もう春が来るのが間近。日差しも伸びる一月がすぐそこになりました。昨日は、一日台所で煮物。夕方の義父の面会時間を基準に家族が動いています。
 それでも、進めるべきことはすすめていく。目標からぶれていない事に、そうなのかとまた思います。義父もまた、言葉少ない会話の中で、不必要な入院の知らせは要らないというのです。気持ちのしっかりしている患者さんと、看護士さんたちにも言われますが義母や長男である連れ合いには甘えがでるようで、体位の変換を言いますが、まだ経管栄養なので、慣れない私たちは、看護士さんたちの動きを観てします。
 介護・福祉・医療の在り方と家族の実際には、よほどのコミュニケーションがないとより良い状態にはなりません。障害者の運動も、福祉や病気に関わる情報も大嫌いと否定してきた義父が、その主人公。今までの事はどこへやら、やはり自分の辛さを手助けしてほしいのですから、その意思をどう伝えられるかが、短い面会時間に集中。
 もう少しの経過観です。梅の枝の剪定をしてきた話を連れ合いがしたら、「山梨に行きたい」と言うのです。春を待つしかないです。なんとか、病院での年越しになりそうなのも我慢してもらわないとなりません。義母は、連日の見舞いで行くたびに、今更の義父のああせい、こうせいにげんなりしているのか、こっちが疲れると、病室を出る都度に言います。
 かぼちゃのいとこ煮に柚子湯。一年の息災を願うのです。
 

2012年12月13日木曜日

自分のやってきたことに価値があった

 そういう感想が、ありました。すごい事なんですよ。今の社会状況の中で、振り返ってみて一緒にしてきたこと協同の運動に価値があったと言えるのは、ただ面白かった楽しかったを超えたことばを、またもらってしまいました。
 一人ひとり個性的な方たち。こだわっている事はゆずらずに、おかしいでしょうと言える。そこから始まって、他の人はどうなのかを考える力を持っているし、どうすればいいかをしてきている。
 組合員番号の一番若かった文庫番。この人たちは今でも私の前を走っているのです。より良い葬儀の在り方までが、話の範疇になっています。くらしとは、そうですね。
 ただ、安全な食べ物をではないのです。自分たちのくらしを変えていくとは、という事をしてきたのです。
 そして、今、私たちが、自分たちのしてきた事に、価値を見出していくことが一緒につくってきた生産者・製造メーカーにとって、どれほど大切な事なのか。
 語らなければ駄目ね。でも、遠いところじゃないし、偉い人の話じゃない。身の回りの、私たちの体験を語るのが、価値。
 地域・協同・主体。スカイツリー下塾の最終講は、和気藹々。文庫番に何をさせられるのか、最初は解らなかった、これがどうなるのか今でも解らない。それでもやって良かったと思う。
 そういう事だったようです。あとは、マハラバ的お仕事にしなければなりません。
センターでも、他の地域でも。こういう場面では。そう言われました。それも、今回のまとめをどう表現できるかからですね。そして他の地域は、そこでの主体性があるのではと考えますが、事業でしょう?赤字だったんじゃないの?本当に心配までいただいています。
 そうですね。得たものの大きさが嬉しいですから。いつかは回収できるでしょう。

 先週土曜日の夜に、自分で立てなくなった義父、日曜日は堪えていたのですが、月曜日夜についに緊急入院・手術でした。予後経過は良いようです。
 近代医療に対しての疑義は持ち続け、そうではない単に、医者嫌いを通したかったのか、ぎりぎりまで、病院には行かないと言い続けていました。月曜のお昼はいつも通りに食事をして、それでも午後は容態が良くない様子に、連れ合いも義母も、離れずに介助して。大動脈瘤破裂、寸前。それを取り除いて、人工管を繋ぐ手術は火曜日の明け方4時近くまでかかって、子供孫は全員集まりました。文庫番スケジュールは当然、幾つものキャンセル。だから、この最終講は無理と思っていましたが、術後は病院が責任を持って見ている状況です。取りやめにせず。

 まだまだ様子見です。現在、何事にも決定打は出さないで、粛々と進めるべき事。日々の暮らしの流れは進んでいます。状況は常に変化するというのが物事の鉄則ですけれど、2012年の年越しもまた、昨年とはすっかり違うものです。

 それを考えても、自分のやってきた事に価値があった。と言えるのが、どれほど大切なことばだったのか、生きる、ただ生きる価値、くらしの中にあると思うのです。

2012年12月3日月曜日

青い芽・・芝にはあらず

ゼルニャトコ(麦)の芽が出ていました。キエフの子供たちの歌と舞踏、バンドューラをつま弾く
ナターシャ・グジー。チェルノブイリの子供たちの支援はあの後も続いていたはずです。
 何もして来なかったわけではないし、小さなカンパを大きな力にと参加した人もいたはず。ただ共有感、継承していく中身がありながら、芽を伸ばすには、外の風が強いこともあるようです。
 山梨の庭・・・畑?に蒔いた大麦が芽を出していました。春には青い麦の穂が並ぶでしょう。
大豆のあとには麦が適すると聞いて、ぜひにと願ったのですけれど、そのうちに、義父の語る麦飴づくりの話に、乗っています。浜岡原発に土地の大部分を売ってしまった、分家のそのまた次代の嫁が、もう食事もたいして食べない義父に無理やり、麦畑を見せるのです。春には飴をつくりましょう。
 私たちは、まだまだ新しい可能性を創っていけるではないですか。
チェルノブイリの子供たちが、抱えていた不安は、私たちの世代から、次世代へ渡してしまいました。この地球上で、放射能で汚染されていない食べ物は皆無となったのでしょう。濃度の問題で、あちこちを較べるのは、分裂にもなりかねません。世代も、地域もこころもずたずたにしていってはいけない。伊達東の仮設住宅。支援するという事。お年寄りをそこに、固定するのではない事。技の継承まではならなくとも、自尊の思いは継承していかなければならないのです。
 その時に、では自宅の年寄りの自尊の気持ちを、踏みにじりながら、自分を通してはいないだろうかとも考えます。一緒に暮らすという難しさは、どうしてもあります。農地解放後の私達のクニは所得倍増やら列島改造やら、気が付けば半数の若者が職もなく、年寄りも敬われない社会。その風潮を抗いながらも一方で是としてきた世代が庭仕事をしはじめたのです。くらしからの発言の難しさは、自分の身の回りからの発言に、普遍性を見出し、濾過し、伝えられるようにするという事。社会を進んでいるとして家の中も変えようと抗った女性たち。手段を与えたおのこ共。
 だけど、手わざの大事な部分を、身体で習得する時間を少し、持てなかった。できる事は味噌造りや飴づくり(になるか)。くらしからの発言は自分の小さな気付き。こだわり。カレールーの油!顆粒でいいわ。離型剤の無いプリン。それは貴重な個性。主体性。芽は伸びていく。
青い芝は、踏まれても踏まれても伸びていくと名づけられてきたはず。そこにこのゼルニャトコ青い麦もまた、幾粒かが地落ちて踏まれても糧となる。そういう庭畑が文庫に続いているようにしたい。
くらしからの発言。濾過し、煮詰めて、もっと多くの人の口にしやすいことばに。

すみだこまちの田んぼも、田んぼ替えでした。車で移動できる田んぼ、もう一枚も水が上がったら移します。
 そういう、悠長な路上なのに、道路渋滞に巻き込まれました。朝8時半に墨田を出ましたから、高速に乗ってしばらくしてから、大月から通行止めという事故情報。そのうちに災害となって、詳細が解ると、もし、時間がズレて笹子トンネルを通っていたらと愕然となりました。痛ましい災難。人命も失われています。お悔みする次第です。 
 麦の芽生えを確認して、稲の来年も植える容器を置いて、スタッドレスタイヤを積んで、東京に義父母と上九一色を通って山中湖に出て御殿場から東名高速で戻りました。山梨県内の山道には初雪が、ヘッドライトに照らされながら降りてきていました。
 高度経済成長で、繋がっていたもの。点検は深層までしなければなりません。何故成長を目指したのかも大計として考えてみなければならない。答えはもの言わぬ生き物たちから聞くしかないでしょう。青々と踏まれても踏まれても伸びていく力。そこにただ生きる姿があります。
 

2012年11月29日木曜日

犬狼星を見上げ

 スカイツリーのクリスマス仕様の電飾を後ろにして、北に向かうと、月の陰った空にはオリオンとシリウスが上がってきているのです。天駆ける白狼に、家路を導かれます。
 迷うことなく信じていける。自分の道が見えるのです。ゆるぎない確信が持てるものがあるのです。
「組合員さんに教えてもらった」幾たび、そのことばを聞いたことでしょう。くらしの願いを具現化していく時の苦しさや課題を、乗り越えていける力。どこまで、苦しんだのか、課題と直面したのか。伝わってきました。そしてともに創ってきたのか。ともに創る。
 今こそ、くらしを語ることが求められている事を夜空に読み取ります。私もまた天駆けていくのです。

2012年11月23日金曜日

果たして・・続き

 どうも、くだらないと思ういい夫婦の日などに捉われて書きだした昨日のものでは不満足だった部分があります。この数日ぐーたらな文庫番を脇目に連れ合いはさっさと、喪中欠礼の葉書を出してます。母 大仏照子とあるのですが、複雑な思いでその文面を一緒に作りました。一番簡潔な儀礼的な消息例を使っていますが、お祭りは、私は関われず一年一ヶ月の服喪の中に居るのに、連れ合いは別個のものとして役割を務めています。ですが、この葉書は連名の差出人で先に主としてあるのは連れ合い。釈然としないような、いたって現実対応のできる考え方が羨ましいやら。今の一般的な扱いは配偶者の親も含んでいると、さっさと印刷して連れ合いのお付き合いの分は出してあるのです。
 私は、死亡通知の葉書を出した後にパソコンが変わったこともあって、自分の方の出すべき住所録もソフトがなかなか対応しないままに格闘中。そのうちに11月も終わるよ。なんて声かけられても腹立たしいままです。例年、年賀状だって松が取れたくらいになっていたものですから、時間が配分できません。
 その進まない中で、また、互いの関係を、別な視点で考えてしまっているのです。夫婦と個というもの。家と個、国と個というものを、卑近なところから普遍化して考えているトライだったのが、昨日の一期一会なのですから、ちんぷんかんぷんです。
 もう一歩踏み込んだものはきっと日月記になるのでしょう。ともかく急いで私も宛名書きをしないと。 

2012年11月22日木曜日

果たして

 一期一会とありました。歩数もまだまだ。矢筈を構えて軸をかけます。
今年は短い秋だけど、風炉と炉の間に、少しお盆手前や、香を聞くのも入れましょう。と先生が考えてくれて、軸物の扱いや、略式のお稽古なのですけれど、一昨年の記憶でまたすっかり頭の中が白くなって、手も足もちぐはぐです。先輩たちと、すっかり忘れてと笑いながら、楽しんでいる11月です。
 その一期一会という書も、大徳寺のゆかりの何某のと先生はお話してくれるのですけれど、今朝あたりからうるさく目に付くいい夫婦の日。一並びの文字が似ていると可笑しく集中しないので、また軸の扱いが解らなくなります。紐を左にやったり持ち替えたり。忍術の虎の巻がこんなだったら、忍者は役にも立ちません。だいたい、もてはやされる記日なんて、本質からは意味ないです。
 所詮、いい夫婦なんて、何年一緒だって外から見た限りでは無いし、本人自身も意識できることのないものですね。愚痴ばっかりで過ごすようなのがいい夫婦とも見えることもあるのではないでしょうか。物事の実体なんて言葉ではないですね。
 私の父と母は対等な関係であろうとしていたことは、その互いの名前に敬称で呼び合う事にも表れていました。そして主人、家内とは言ってなかったし、もしかしたら、力関係も姉さん女房であった母の方が、大きかったようにも思い出されます。それはまた、あの時代の先駆け夫婦だったのでしょう。そして、個人とは主体とは何だろうと悩む子供二人を置いて行ったのです。そもそもが父は出家の身であった訳ですから、家内を置くのは自己矛盾となったのでしょう。
 家内と呼ぶ言い方を、おのこ共がする時。それはかなりの覚悟を要するのだと、この頃解りました。今、家に居る連れ合いは私をどう他に紹介するのか、興味深いのです。
 私の論理でいえば、政りごとは、国政と家政とは対峙するほどのものである。家とはアジールであるか、国と対抗できるほどの力であるものです。くらしの主体者とはどこに居るのか。考え続けていかなければなりません。家内を山の神と崇めるのを単に冗談の口だとしてはいけませんよ。天照とまた違う、根ざした姫神が居るわけです。ますらおであるおのこ共は、だからこそ家の内を、外で守っていなければならなかったのでしょう。その時に、在り方を対等に認め合う事ができる妹背となったのでしょう。
 果たして、こんな事を考えている私の連れ合いは、また何を考えているのか、聞かないことにしておきましょう。
 だからお稽古に集中できない。一期一会。
 
 

2012年11月15日木曜日

はちや柿

 
 東京スカイツリーと一緒に物干し竿にぶら下がっています。剥いたのは私。間延びして紐でくくったのは連れ合い。良い歳して二人ともはじめての干し柿つくりの朝でした。
 昨晩のスカイツリー下塾。考えながら柿を剥きます。食べてくれる人のことを思い浮かべながら生産者はものをつくる。忘れていないか、交流のはじめを。
 そんな思いです。啜っていたウーロン茶は、この柿の実と一緒に届きました。食べてくれる人の背景。作ってくれる人の背景。それを伝えてきたのが、協同であったのです。
 あの薬の時も、まだ見ぬ人達との協同。他の地域の人達との協同と言ってみたのですが。提案の中身が、主体からは遠かったという事でしょう。
 確かに、その組織を形作るのは主体者なのです。では、どういう形を創りたいのか。明確にしながらでなければならないのです。それが主体者であるものの責任。その事を、柔軟に、空に向かうように、太陽を浴びるように、力を中に溜めながら、自らを干すようで甘味を増して、他者への喜びとなるために生まれてきたのだと、この空を彩りたいものです。

2012年11月14日水曜日

資料整理

 

心太のように、資料がわが社の中に我が家の中に所狭しと、歴史的遺物と現在の生活がひしめいてあります。やっと今年の父の蔵書類の保管料は払い込みましたが、できればマハラバの資料整理が今後の仕事と思っているのに、事務所予定のところには、母の趣味のビデオやカセットテープ。そして支援資料が押し入れを占めています。今、その押入れは二間続きで使いたいために抜こうと思うと、また仕舞ったものを出さなければなりません。わが社の仕事は資料の整理が第一に定款にあるのです。
 そちらへまで持って行ったにしても、この約20年近くの議案書は文庫番には使用する機会もないことと区切って、担当の部署に送り返します。自宅での処分でもいいのかもしれません。総代会議案書自体は公開性のものであるのだし、個人情報でもないものです。でも、いつの間にか貴重な古文書となったのもあるようで、この際にとある意味返却です。
合わせて在籍していた時代前後の連合会の議案書もまた入れ込んでます。
 

 それなのに、減っていかない。集約されたものが議案書であれば、地域で活動してきた、個人の資料であるものが、持ち主のように減量したといっても、すっきりとしていないのです。こだわりの元。当時の気付きの糸口。いただいた相手。やはり石けんは運動だったのだと考えるのです。
 運動は、一人ではじめても、人と繋がるから、そこに居た自分も資料の中でまた発見して。
これでは片付きません。雨水の、海外派遣の、牛乳の、それら古い資料は個人のもの。
 この機会を逃さずに、気持ちの整理に、思いっきりと考えても自己への愛着にすぎない紙の束が残るのです。
 そして、自社のこの5年間の資料もまた、出版公開されているものの下準備のものが、捨てないままです。「米は実りて」「きなり歳時記2007-2008」「山仕事讃歌」「明日へ帰る」それらの資料はわが社責任になります。
 
 さらには、別な組織のプロジェクトを一つ継続中です。これも未整理にしておいたら、わけが解らなくなるのが見えます。断捨離なんて簡単にはいかないものです。
 それを考えると、経てきた組織の議案書の年数に対しての責任というものは、組織へ委ねられる。一組合員に過ぎない範囲だったのです。また、退任したものが、いつまでもあの時のあの判断はなどと個人の語りで言い出すのも、いかがかという事です。
 送り出せばまた、新しいものが注ぎ込まれる心太。

 地域・協同・主体と組織。

2012年11月11日日曜日

浜仕事讃歌 産稿

 本日は雨降り。それでも、幾本かの苗木を持って庭に行きました。松に桜に楓だったところが、桃栗柿に、大豆を来年植えるところ。そして苺や竜胆。笹も植えてみました。
茗荷、紫蘇。茗荷の歌は、湧いています。
 そして、庭に繋がる小さな畑となるべき場所。麦は芽生えませんけれど、菜種は揃ってきました。大豆は、今年の枝豆を終えて今は種もしくは味噌用の分が採れるのだろうかと、貧弱な実りを待っています。そこに麦穂が天に向かう姿を夢見ます。
 義父は、麦踏みは、草鞋でするものだと言いました。靴ではない。そうなのか、それだけ足に近い感覚で麦の育ちを知っていたのか。そして、飴を作る話を、この食べ物の事なら取りつきそうな嫁に教えるのです。麦を水に浸しておいて、アッつく釜で煮て、飴にするという。80年前の郷里への懐かしみを込めたことばで語ります。
 飴も作っていたのですね。浜で塩を作っていた話も良くしてくれます。そして、にがりで豆腐を作って藁で縛って歩いた事。味噌も醤油も、酢も、鰯が取れたら、釜で茹でて茶畑のたい肥にした事。
 あと何回、この話を聞けるでしょう。
 庭から帰った今夜。新しい話を聞きました。浜岡の家は、舟を持っていたから、サボウが回ってきて、え?お義父さん鯖が来るの?静岡でもサバ?。困った顔をして、砂を防ぐと教えてくれました。砂防。おやおや、砂防会館とはそうだったのか!。
そうではなくて、麦わらをさしてね。へ?麦を一本ずつ挿すのかしら。いや、言っても解らないだろうけれど、鍬で埋めて立てていくんだ。だそうです。
 わざわざ紙を折って、麦藁を鍬で立てていく形を見せてくれました。麦が砂防になるんですか!と訊く私に、しかたないと言う面白がる表情で、そして藁で蓑を編んだんだけど、俺は編めない。そこは私の得意分野。会津では、ミヤマカンスゲだし、和歌山では棕櫚のもあるし、形は国内でほとんど共通だけど、材料はその土地土地なんだね。と。すごいね、蓑も作ったんだ。ああ、そして桑も。
昔はテレビが無かったから、時間があったんだね。砂防は暮らしの中にあったんだ。浜仕事讃歌。唄いださなければ。そうだ、あの北に面したところでは、明浜でも、アマモを大事に植えていたのです。私たちが防ぐのは、くらしを損なうものからだったのだ。そこにクニがある。郷里の仕事が守るもの。ああ、私は唄えるのです。そして今、霞ヶ浦が防ぐもの。小さな庭の仕事は、忘れていない。そう思える雨の夜の食卓での会話だったのです。

2012年11月5日月曜日

繰り返す過ちに

 取り返しのつかない過ち。そういう認識ができない組織。個人・・・・自分を省みてしまいますが、被害者の発生する場合があるという事。
 人間の生きるという事は、罪深いことだと思うのです。生老病死 その生きる中に背負わされる苦しみ。自ら背負ってしまう事。
 なぜエレベーターまた?旅行が暗転?同じ会社が繰り返す。失敗から学ぶという事ができない。そして、今日も指摘される自分の間違いに、平気な振りをしますが、実際には、情けなさに陥るのです。
  自分の場合には、見えるのです。良く言われる根本的な欠陥が。直さなきゃ!それなのに日々過ぎてまた同じような過ちがやってきて、デジャヴと思ってしまう事もあるけれど、実際には再現です。この組織には、改善ができなかったのでしょう。何が、阻んだのかを考えています。解決できない事だったから、起こった再事故なのでしょう。言い訳も謝罪も、間に合わないけれど、他山の石としていては仕方ない。まず我が失敗からも学ぶ姿勢を持ちたいものです。
 失敗する原因。ただただ、事態にあたっての余裕がない中、見切りでスタートしていることがままあります。目視・・・それ以外に試運転とか何故?予備実踏はどのように?そして、大切なのは人のための事をしているという認識を持つかどうか。あまりにも自己満足で、自分だけの納得で行って、相手に迷惑をかけ自分もまた苦しんで。そこに人の生死があることを忘れてしまう。
私はことば。皆が喜びを持って生きられる言葉を使わないと。
 

2012年10月30日火曜日

いのち(命)をあらためる(革める)

この国のありようを「革」てほしい。
 水戸事件。母が関わっていた支援裁判からの本。知的障害者への性的虐待事件。その事務局を担っていた三好誠三さんから一冊の本が送られてきました。そして、マハラバ文庫の新しい書籍も数冊預かってくれています。神立の人たちの近況も少し教えてもらって、さあ。では私のところでも売りましょう。とは言っても、取り散らかって本だらけになっている我が家。例年の払い込みもどうするか、そして山との関わり方も、このあたりで区切りにして欲しいと思っている連れ合い。
 それであるのに、ひととは、人の感情とはいかんともしがたいと、私はこの「孤立しないで生きるⅠ」を売ってみます。定価1500円 マハラバ文庫取扱い
 この国のありようを革めて欲しい!

2012年10月25日木曜日

コミュニケーション・クリエイト=造語

 
 スカイツリー下塾は第4講座を終えました。まさに私たちの石けん物語。謙虚に語りだした講師が、この墨田区で巡り合った人でなかったら、文庫番はこんなにおもしろき人生を歩まなかったのだと思います。一緒にやってきたあれもこれもあって、お互いに補いながら、できることできない事、ああやれば良い、あそこに行こう、あの人と会ってみよう。なんて大胆に無防備に、子供に安心な石けんのシャボン玉液、魔女の如く。石けんネットにドラム式洗濯機。
 シャンプー講習会、極め付き、面白くて換気扇壊れるまで洗っていた。そんなお話に笑いながら、でもね女心がねとか、だってさ、親だからとか。屈託なく話せるのは、この面々の中で。さて4回目になるとある程度の、姿が解るのです。何なのかが。
 
 最初は、ただただ、一緒に活動してきた先輩方にきちんとお礼を言える機会を作らなけりゃという事でした。そうすることで新しい生活にも踏み出せるし、それは、失くすことではなく増やすことになるけじめだと。それが、打ち合わせを重ね、内から見た姿と外から見た姿と垂直軸・水平軸・紙面・専門と活動を分けて講座として、11月には協同のパートナーたちからの見方を話してもらうとすると、まさにこれは、店舗の無かった行政区でパルシステムの中に居た主体者が何を考えていたのかを、ある時系列の中で腑分けできる事のようです。個の組織論。それが、こういう語り場がとなると、コミュニケーション・クリエイトとして、地域・協同・主体をことば化するということを事業とする、株式会社のお仕事に見えます。そして新しい場は、まさにマハラバの語り場として機能するのかどうか。
 その整備ができているかというと、縁側どまりでしょうか?そう思っているところに、ご近所からのたくさんの秋野菜をもらって、またまた奮闘をすると、文庫番の勝手は土間という事を考えるのです。土間でする仕事。そして食べ物の分け合う工夫、そこにことばが付いてきて。それは理想です。縁側と土間。失くしてきたものでしょうか。そして、盥で洗濯板の洗い場をという、昨夜の話だとなっていくことでしょう。このいきいきと、これからはを語る人たちは、くらしの主体者なのです。そこにある他者への配慮とは、まだ見ぬいのちへも、これから送るいのちへも、責任を持っているのです。そこにコミュニケーションを作り出すのです。個の組織論。石けんから。

2012年10月15日月曜日

内なる主体と、外なる主体

  秋の連続講座を進めながら考えているのは、協同をことば化するという一方で語ろうとしてこなかった主体とは何なのかを、探すことであったのですが、三回を重ねて面白くなってきました。
 

 一般的に主体性を言うと、個人の人格について沿うことなのでしょうけれど、一人一人が、物事の主体者であるのは当然であるのですが、組織に対する主体性または国に対するアイディンティティとも言われる個人の存在価値。
  組織が問われる時に、そこの主体であるものが何なのかが問われるのだと考えます。協同という崇高でありながら、実態の表現しにくいものの中で考えると、一段、悪い言い方だと、責任のなすりつけ合う、生ぬるいものが、主体としてのし歩くことになります。
 協同の社会となると、組織ではないわけですから、さらに、 始末の形が解りません。
 それでも、人が一人では生きられないのであれば、互いに気持ちよく生きられるようになっていなければ、逆の締め付け合う協同が出てきます。
  そうじゃないよね。と。そこを語る企画は、自分が、やりたいと思ったから、楽しかったから。そして覚悟があって。そんな話がたくさん与えられるのです。主催者はお茶くみでいいかな。機会を持てたことが第一の成果です。

 その話者によって、一つの地域で経てきた活動を多面的になおかつ、くらしからの視点で語ることを重ねてきて、浮かび上がるのは、話者のその人柄・人格・言い換えるならば主体的にかかわって生きている姿なのです。この人たちと一緒に活動してきたから、ちゃらんぽらんな文庫番が今でも、なんとか、くらしからのことばを、考えることをし続けられるのです。
 責任を取る意思のあるものの集まり。協同組合原則にあるのですが、くらしの責任は、事業にあるのではないのです。個々の暮らしの中にあって、だからこそ、他の人の暮らしへも、配慮ができる事。それは、原則として誰に書かれるものでもなく、なんらかの組織に固有のものではなく、自分が生きる意志を持つものが、掲げるものであるはずです。
  くらしの主体。もしくは生きているという主体が自分自身であることは揺るがないのです。そこをブレない時に、協同する意味が出てきます。
  個人の思い、くらしからの出発が、何を求めてきたのかをその人自身のことばで語ってもらう事で、そのことを他から見た場合には、こうだったという事ができるようになります。その時に、また語った本人が、自己の姿を観ることもできるようになります。
  この世紀、いえ。人間の歴史が、主体と協同を、別な表現でも求めて続けてきて、それでもなお、苦しい人々の居る。自分であることを見失う若者や老人たちの多くいる社会となっているならば、もう一度。何度でも!私はここに生きている。と叫ぶのです。

一如

2012年10月4日木曜日

秋だから


 そうか、今日かとまた呑む機会だと連れ合いが買ってきたのは、山梨のワインだとか、何故藍茜なんだろう。葡萄じゃなくって、あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや・・・ってそれは危ない歌じゃなかった?大丈夫?今日のグラスに。
 そして侵入者はアキアカネ、なんでここに墨田のどこに棲んでいるんだろう。中川の河川敷も綺麗になったじゃない。プールのヤゴ獲りもしてきたし。でも家に入ってきたなんてね。肥やしの桶のところには、やっぱりヤモリが居てくれたし。アニバーサリー。
 本日、お茶の稽古はやっと濃茶の初歩。袱紗捌きを教えてもらいました。お茶はどこに行っても続けられますからねと。
 6歳に満たない歳に祖母に習いはじめたのに、すぐに祖母は亡くなって、土浦の高校時代、そして取手からも通えるかとしても、無理があって中断したのですが、近年にやり直しで、やっとです。まだまだぎこちない。
 そのうちに、あなたも一緒に・・・。どうも飲み物が違うようです。

2012年10月2日火曜日

夕映え

 

 
 町並みに浮かぶ夕映えの東京スカイツリー。個人として、この巨大な信仰無き建造物は、嫌いなのですけれど、そこに夕映えという自然現象と、今、自分が住んでいるここが写っている。台風17号の過ぎていった、夕方。歩きます。家から外に出て(大決心なのですよ)メール便で茨城のしんちゃんに、母へと贈ってもらった新米のお礼を出してきた帰りに、下町の空に観た美。
 刻まなければ、私のこころに、もう二度とはない繰り返し。この時だけ。
 ライトアップなんて下手くそな演出じゃないです。その照り返しは私の足元にもありました。
 
 さて、あとの写真は、車の中での肥やしの移動の様子と、まだ未熟なのだけれど、枝豆とはこう茹でるのだと義父母がそれぞれに、ご指導くださる一コマ。この夫婦は仲がいいのか悪いのか、意見は合わないのに65年。見ていて面白いなんて不敬ですね。それは、人生の照り映える時間かもしれません。
 
 

2012年9月27日木曜日

自分たちでつくってきた

 今度、個展を開くのよ!と連続講座に来てくれた佐藤さんが教えてくれました。なんと84歳の先輩。
 地域の中での協同をどうつくってきたのか。秋の連続講座はくらしからの出発という大きなテーマです。事業と運動という言い方は、私の中から抜けたのです。くらしから出発している。その様々なのだから、くらしの中からの声で語る事。地域が見えていて、ひとが見えていて会話の通じる間柄が、何故?どうしてを言い合えるところから、個々が在る。そんな講座にしていきたいのです。
 最終の形は、わからないけれど、それぞれがしてきた事に今がちゃんとある。このグループ味噌の里親のおひとりが、コツコツと書き溜めてきた水彩画を仲間が押して個展開催にまで持ってきたのです。分け合いから始まった、繋がりがなかったら、一つの生協と言う場がなかったらここまでできなかったと、口々に言うのです。
 第二講座は、「繋がりをつくって」だったのですけれど、余禄のようにこの烏瓜の絵葉書をもらって、地域で生きるという事の、実際を感じます。
 講師が語られた中身も、またすごい。小さかったからできたけど、今ではは許されないという事では決してないはずだと考えるのです。そして、生協はプロじゃないと、言うのだけれど、協同組合の主体者である、地域の中で生きる主体の一人であるという事が、くらしのプロなのだから、その事を薄めてはいけないのだと、伝え合っていかなければなりません。文庫はどうまとめられるのでしょう。
 今、実存感が感じられず、自分が生きていると叫べば潰されそうになり、その潰そうとしている力を振りかざす者に、あなたは誰のために、この権利をないものとできるのかと、問おうとしても、相手に実存感が無い。
 それに較べて、地域で生きる、自分たちでやりたいことをさせてもらったから恩返しなのよと話す人たちの、なんと主体的な生き方なのか。繋がりなのか。84歳の協同。
 
 
 佐藤房子展
  日々描きためた水彩画の数々
2012年11月2日(金)~7日(水) 11:00~19:00会期中無休
 
ギャラリーアビアント 03-3621-0278 墨田区吾妻橋1-23-30-101

2012年9月22日土曜日

新鮮野菜の行く先は

佐久穂から、野菜の箱が届きました。サニーレタスはとても柔らかいので義母も入れ歯でも噛むことができるのでしょうか、無理やりの秋刀魚フライの付け合せにしておくと食べています。  前日がパルシステムの配送なのに何故また野菜の大箱が来たのかと、訝しい家族ですが、事情は、トウモロコシ最終にやはり、ここのも食べなけりゃ。
 五人の食卓で少量多品目で出荷レベルの栽培を就農者でしているのってすごいよね。とか、最初はMIXIで今はFBでの関係。という説明をします。元は北小岩で育った人。
 三人子供育てていて、子供と肥やし踏んでいる動画見たからすごいでしょ。と説明します。
 

 そして、トウモロコシの皮を剥いて茹でます。枝豆も枝からはさみで切って、茹でます。トウモロコシの皮も細かく切った枝豆の枝も、玄関先の漬物容器に入れます。朝のリンゴジュースの不揃いつがるの皮はもう蒸れてきていました。
 玄関先において!なのですが、意を決してこの夏は約40ℓほどの容器に、野菜果物の不可食部分と鰹厚削りのしっかり出汁とったガラを入れています。一回、蛆だらけも見ましたが、土をかぶせていたらいなくなりました。蛆虫あんなに居たのにどこ行ったんだろうね。と言うと連れ合いが、蛆虫は蠅になって飛んでいったんだろうというのに、納得してしまいます。でも小さな園芸用シャベルで、拾い上げて、眉根に皺寄せながら何匹も踏み潰していたのは私だったことは忘れることにします。
 毎日この肥やしの様子を見ているうちに、匂いは気にならなくなっています。我が家は和式水洗トイレですけれど、それぞれの個臭が、外に匂うし、生ゴミもたい肥も、人間を巡って一環した同じ匂いだと、いよいよこの夏は思うようになりました。
 6月最初に山梨に持って行った時より順応したのでしょうか。夏を越す温度が高くて、上手く熟成もしているのでしょうか。
 そんなに大袈裟に言うほど生ゴミが出ないのです。三角コーナーから、野菜や果物の皮を除けば残りのほとんどはラップや包材容器。プラスチックです。そして毎日、だからイシハラが!!とぶつくさ言いつつ、生ゴミを資源にすると、残りほとんどが、石油系の家庭では始末できないもの。
 先日首都高から中央道にと高速道路を車を走らせながら、残暑に路面の方が温度は高いよねと、連れ合いと話していました。アスファルトだし、保熱性ありそうな材料だよね。と言った時。道路は石油精製物の余り物で作られているんだ。と、だから道路に利権が付くように仕組まれて、ゼネコンからもっと裏にお金が動く仕組みだったんじゃないと連れ合いと話ました。私の先輩は、まず人が居て、それから道ができ、鉄道なんて最後にと教えてくれたのよ。と。
 道路じゃなく、道を歩いていたい。高速道路を車で走って、物も人も移動する中で、柔らかい野菜も食べることができるともいえるけれど、歩ける範囲での物のやり取りが理想。
 それでも、この玄関先の容器と中身は、近いうちにまた運ぶ事にしましょう。そう言う矛盾だらけの中で、くらしがあるという、その事をさらけ出すのが、解決に一歩近づくのだから。

2012年9月19日水曜日

情報戦って

 少し、扇情的な気配できな臭さを立てていこうというのでしょうか。それとも、どこでも民衆の声というものが、語られなければならない、底辺の人間の権利として尊重されるべきものだという人類の合意が、活かされる仕組みが出来つつある世紀になったのでしょうか。
 情報化時代と言われて久しい。それにもまた、胡散臭いことだと思う感覚を失くしてはならないのだと、やっと気付きました。情報は、早く、秘匿するよりも発信することで、自分を守れると考えてきて、他人から見たら赤裸々な部分も自分を守るために、他人の表現で語られるのではなく自己を形作るべきとしてきています。時々、私以外の人が文庫番を物語ることに、あまりにすごい思い違いに本人に確かめてよ、っと怒鳴りたくもなるのです。でも、情報そのものがお金になるからって個人情報の取り扱いに汲々とする世の中にしたのと、一緒が近頃の情報化時代の事ですよね。
 以前、インターネット子会社(文庫ではない)の発足式に招かれ、インターネットの時代と律令制について語ったことがありました。全国津々浦々に同じ書式で書かれたものが、早馬で伝えられるという事で、社会が成り立ったことと合わせて考えると腑に落ちる。という内容だったと思います。
 決して、インターネットだけが情報化ではないし、いつの時代でも、同じように情報を統制していくことの必要性があった事を語ったのだと思い出します。
 そして、今はパソコンでのやりとりだけに満足している日々を送り、本来の感謝をすべき、お伝えすべき気持ちはすれっからして、タイミングを外し、不義理をしています。
 この近年、、、リーマンショック以降でしょうか。誰からの出どころで、誰に向けての発信なのかが特定されない、個人発、世界向けの主張・ことばが多く見受けられます。インターネットの中に浸っていて、世界のすべてを知っているつもりになっている、文庫番なのですが、心強いようなうすら寒いような、現実感が有るのか無いのか。
 そういう日々に、南の海の上で、または日本海!での領土がどうとやらも、そして、大衆デモだという暴徒まがいの行進も伝わってきました。逆にその国の人々に、私の住んでいる国は、恒久的戦争放棄を至上としている国という事を伝えているのでしょうか。
 一歩も家から出ていないのが、一週間の大部分。食べ物の素材は配達されてくるし、細かい外で用事なら大人ばっかり家族の家人の誰かが、補ってくれる暮らしだからなのです。
 すべての現実感が、地に足を付けていない中で、どこの誰が発したのか、分け合い、結果評価ばかりで、その人の本意はさっぱり見えない交流を、重ねて知ったかぶりに磨きがかかっています。
 きな臭いことは大なり小なり情報戦です。誰がなんの意図をもって語ったのか。それが解らないままに、拡散させていくときに、自分の主体は薄れてしまいます。
 最終的に、情報戦の結果に巻き込まれてしまっても、そこで在り方を決めるのは、自己でしかありえないのです。時代のせい、政権のせい、社会のせい。それは結果。そこでの在り方は。自分という存在。どのように、自分を見つめられるのか、その教え、導きを誰から受けてきたのか。

 お彼岸での入りですね。少しご先祖様との交信という、情報戦も必要だと、文庫番には。

事の真偽
 

2012年9月15日土曜日

莢はできたけど

 「文庫番の勝手」に上手く画像を出していきたいのですけれど、あちらのページはコツコツソースを作らないとできないページです。まだ修行中。だから、途中経過を文庫番日誌にも出しましょう。
上の写真が8月28日。中と下のが、昨日9月14日。
8月の半ば過ぎは文庫番が都内での用事があったので、義父母と長女と連れ合いが、山梨に一泊で水遣りなどしてきたのですけれど、その際に、排水周りを家の元の大工さんからの紹介で設備配管をしてもらう事に、現地でなったようでした。
 その次のところからの写真です。6月下旬に蒔いた大豆の畝の横に大きな石がごろごろあったのは、もとは物置だったところの束石で、それを重機で掘り出し、移動し、川に向かっての雨水管も直してあるということで、束石のあったところも、畑の畝とすることができるようになりました。
 なれない鍬で、ガツガツと跳ね返る乾いた地面をうなっていきます。往復しただけで腰も強張るし、手も皮が剥けそうです。 また、抜き取った雑草を積んで置いたものを、そこに入れ踏んでから水と土をかけておきます。でももともとは建材屋の物置と、その前にトラックなどの出入りしていた、砂利のたくさん入った地面。掘っても掘ってもバラスが出てきます。気長に、畝を立てるたびに、草を抜く時々に、この砂利・小石を左右に投げていって、少しばかりの開拓体験をして、畑っぽくしていくつもりです。その作業を9月最初にはしました。
 朝市で一袋買った千葉の在来種という大豆。どうなるでしょう。9月の墨田のお祭りが済んで来てみれば、莢が豆らしく着いていました。まだ実は入っていません。日照りの中、日本一、日照時間のある土地です。ということは、それなりに乾燥し土痩せのするところです。茨城の私の育った山は朝日の上がる東を向いて、昼日中過ぎれば陽が陰るところでした。湿潤で、鬱蒼とした木々や竹は緑陰ということばを私に与えてくれたのでした。地面も、にじむ水が山に常に含まれていたのでした。関東地方とは全然日照の雰囲気が違います。いろいろ義父も楽しみに植えているものがあるのですが、今年は、試しになっています。ブルーベリーと母のところから持ってきた、ミニ薔薇と山椒は枯れてしまいました。果菜も行き来の楽しみにしたもの程度は収穫できましたが、まかなっていくには、ご近所での分け合いなどになるでしょう。本当に自給自足になるのか文庫番の勝手。
大豆の横に畝にしたところには、平田産業さんからもらって、ベランダで育てて種を持っている菜種を植えてみるつもりです。大豆が、、、たくさん収穫できたら・・・(来年の種まで収穫できるかな、味噌は仕込めるかな、枝豆で全部食べちゃうかな)そもそも、この旱魃の中で実るでしょうか。世界の穀物高騰どころではないです。そういえば、てっぱんの高橋さんが、サラダボウルとパル山梨で昨年育てていた大豆は茎ごと盗まれたと話していました。どうなるでしょう。
 いづれにしても、この畝は、また豆殻も堆肥に埋め込んでから、以前、ベランダで収穫した千葉の海上の「祝いの大地」墨田産の小麦を芽だしして蒔いてみようと義父と相談しています。この後もまだ本格的な畑ではないけれど、これで、豆、菜種、小麦で、最初の土地ならしをしていくことになります。
 なんと!昨年移植しておいた、ムラサキシキブもシロシキブも、それは今までなかったほど花を付け、実がなっているのです。恐ろしいことにまた文章を書いて見れば今度こそ、花になり実がなると思う文庫番の勝手。
 

2012年9月13日木曜日

済みません

 本日、夏休みが終わってのお茶のお稽古でした!うっかり、いえ、ほぼ直前まで覚えていました。それなのに、先生に呼び出し!そんな中学生じゃないですけど、携帯電話でお待ちしてますって。 慌てて行ってきました。まだまだ精進しなければなりません。夏風邪だお祭りだと言いながら9月に突入。昨日は一回すっぽかしてみた義母の通院日。すっぽかした理由は、義父母は近代医療をさして信用していません。病院は薬を出す機能なのだと考えているのは、ある意味市場経済に飲み込まれない、戦前生まれの真骨頂。だから、応援するのが家族として介護者として、お互いを尊重した結果なのだと、底を流れる感情では考えています。
 介護保険の制度も、女たちの自由を得るために、家制度の中に閉じ込められていた人権を広く開放するために導入すべきだったことは間違いないのです。しかし、その一面、核家族以上の自己責任に被せられていたのは、やはり一世代前の、権威とお役所任せに社会を作った仕組みだったのではないでしょうか。介護保険の問題点が利用者主体でないという事。それは義母の介護保険更新時に都度感じる事。同居家族の負い目。
 そしていつも、一人暮らしで、生活保護も、介護支援も自分の権利だと、真の意味の利用者であり社会福祉を自分で作ってきたという自覚の下に、死んでいった母との引き較べを、実母と姑との比較ではない在り方としてしたいのに、そこにもつれる感情が入ってしまう文庫番でした。狭量なのです。女だからという姑と、女だってと言い続けてきた母との違いなどを言いたくなっている自分が情けないのでした。 同じ時代に生まれながら、人権という運動の中に居た者と、家庭を守る主婦という役割を務めてきた者の違いを、社会に対して言っていながら、自分の卑近なところで考えてしまう嫌悪。それが、ぐだぐだ考えるもととなる付き添い通院について主治医からの、「じゃあ、今日でおしまいね」と言われ、ほっとしたところが大きい。さあ、これで、医療に縛られることなく、義父母との老々介護の時間を作っていけると気構えができるのでした。しかし・・・一回すっぽかした予約時間は、午後の2時からですが、終了は5時寸前で診療、会計が済むものとなりました。
 

 お祭り終って、片付けがあって。それだけじゃないひとの出入りに食事は三世代。その台所を司っているつもりの自分。それでばたばたするのとは同時進行に、マハラバ企画を入れてしまっていたのです。スカイツリー下塾。こちらは、曲がりなりにも社会的事業だとか。もう事業頭では物事の仕組みは変えられないのだとは分かっているのですけれど。構えているのは株式会社です。
 数日、資料をあれこれ見較べて、流れをもういちど把握して、自分で理解していたのとはすっかり別な視点であらためて見るという文庫番。はて当時は何を読んでいたのでしょう。それらを継ぎ合せていくと、どんどん嵌りこんでしまっていたのです。なかなか第一回の資料は進まなかったです。無いと思っていても、結構、押し入れの中から出てくる紙。そしてそういえばあれも確認しておこう、ああいう事は他の人からはどのように見えていたのでしょうかなどしていると、義母の通院介助の時間になってしまいます。やはりドタバタ。言い訳というよりは、それらのすべてが面白い。集中より分散とその統合性よと言うと、傍で見ている連れ合いは好い顔はしません。
 しかしながら、この企画に見ていきたい価値は、協同・地域・主体をテーマにしたことから生み出されたこと。きっと、周りに居た人たちにも意味があるとなぜか確信できるのです。
 5時過ぎたら、もう出かけなければならないのに・・自転車でスカイツリー下まで行くついでに買い物する予定が、午前中に作った資料の見直しです。あああ。じたばた。受付娘にも買い物頼むしかありません。下の娘が帝釈天参道で買ってきた草団子も食べている時間もなく、いざいざ、年にわずかなマハラバ企画へ。
 私は、守られている。守られてきた。守ってあげなければ。そう主体と協同、地域。
 
まだまだ、学ぶ時間を与えられたのです。そして!!すみだ価格に改定。スカイツリー下塾参加費。一回500円で大丈夫と、心強い申し出。それより参加を続けたいのだそうです。
・・・・・・・・、営利の時代じゃない。

2012年9月10日月曜日

ポスターを剥がして

 地元神社の秋の禮大祭は滞りなく終了ということになりました。洗濯干してもまだ、家のどこかから、洗わなければならない年に一度のものや、しまっておかなければならないものなどが出てきます。義父母を見ながらの家での祭り見物だった私。でも年番を引き受けた連れ合いに、若い人たちでの町内の担ぎ手の集まりを立ち上げてきた娘たちとその周辺が、この三日間出入りしていた家でした。
 その、一段落した気持ちと、秋になってまた一年があらたまっていくのだという、季節の送りの時期になったのです。それは秋生まれの文庫番にとっては、一年を経た意味を考える時期になってきたという事です。東日本大震災以降の、腰を据えて、地軸の歪みと正対しようとする思い。社会の様々なひずみも、大きく転換できるという考えを見つめる時間なのです。世代を重ねても、虐げられる人々を生み出さない社会を、一人一人が自分が生を受けたことを喜び価値あるものとして、次世代へ伝えられる社会を、創っていく意思の確認です。
  歴史の過程で、人類という種族として協調し共生できる時代を創っていかないとならない。
畢竟、戦後民主主義と呼ばれてきたものは、たわいもなく、現状では、自由主義市場のために仕組まれてきた側面が大きく見えてしまい、逼塞した気分に多くの人が覆われています。
だからと言って、ほとんんどの歴史に読める支配と被支配の関係を変えていけると確信するのに、個人としての一人は、どこかで他人と自分を引き比べて優劣、正邪、その他、つまらない比較をしているじゃないかと煩悩の大きさに、その確信が崩されてしまい、何も前に進めなくなってしまう。己の地獄は、人間存在そのものの絶望だと、マハラバは考察しているのです。
 そうではあっても、昨年の3.11以降もそうであって良いのか。
その答えを求めて味噌を仕込み、ことばを練って、旅をつづけ、家を守り、地域に関わってきて、あらたな旅もしようと思うと。間違っていなかった。これで良いのだと、バカボンパパになります。
 家に居ることの意味。国とも対峙する家。いへ=炉の辺。食べるものを分かち合う場所。醸す力。敬虔ということ。甕の蓋を開けて、そこのつぶやきを聞き取っていく力。
その、一つの形式が、地元の禮大祭であるならば、今日のこの時間しっかり季節を送っていきましょう。

2012年9月7日金曜日

獅子頭が通っていく

 門のところに年番さんたちが並んで、獅子頭に御幣を掲げて秋祭りの先駆けを走っていきます。昨年までは、まるっきり、知らぬ存ぜぬだった、ここの家。連れ合いが先輩に口説かれて年番を引き受けて、今までお神酒所のまかないにしても、娘たちの神輿にしても、一歩おいてある意味冷やかに見ていると思ったのに、今年は日々が、神社の事に追われていって、逆に、いままで、お手伝いしていた私は母の服喪が一年と一ヶ月、鳥居はくぐれないとなっているのです。あまりそういうしきたりには捉われずに、自分の気持ちの中で、自分の落ち着かせるものでの区切りを考えていますが、これは、周囲に禍ごとが無いように仕方のない事。
 でも、根は人と交わることを嫌とは思っていないのですから、そしてお祭り大好きなのですから、半分踵が浮いて、獅子頭に着いていきそうです。夕方からは、若い人たちもまた集まってきて、あと一両日秋祭り。稔りを喜び合います。

2012年8月25日土曜日

もう会えない

 
 背中に、王羲之の書の拓のあるTシャッツを、得意げに着ていたら、もし書道に興味があるのならと、満州鉄道に勤務されていた頃の、同僚の書いたのだけれどと春は曙の書き出しの一切が方眼紙にある墨跡を持ってこられたのでした。満鉄の試験に、書道が得意だと言った奴がいてと、たくさんのお話をしていただいたのに、ただただ、これが彼の満州鉄道の資材なのかと、方眼紙にばかり気を取られていた文庫番です。
深川源三先生が92歳でお亡くなりになって、ご指導いただいた、経営というもの、事業というもの、それを超えての、組織代表であるものの心構え。
 もっと、それ以前、「定款並びに諸規約の学習会」で、定款とは総代会で議決した組合員のものだと、協同組合の機関の姿を一言で教えていただいたことが、その後の私にとっての指標であったのです。
 指導というのは、レールを走らせることではありませんでした。まず、人があって、道ができて、鉄道なんていうのは後からのものだ、と教えていただいたのは、小金井の踏切事故が続いた頃。
 だって(いつも混ぜっ返す生徒)先生は鉄道屋さんじゃないですか。そんな楽しい会話の中に根本から逸らさない教えがあって、いつも精進されなさいと。導いてくださったのに、先月です。7月6日には、司会の設定にも悠然として、洒脱でありながら、今、協同に必要であるお考えを小話で示して、集まった全員が笑いながら、一本取られたとなったあのお元気な姿。終わった茶飲み話では皆、年を取るという事がないわね。と話していたのに、あれから二月も経っていないのに、もうお会いするのは叶わなくなりました。明日は告別式が営まれます。
 今まで、見守っていただきました。ありがとうございます。
 
 
 
 
 

2012年8月22日水曜日

家人の誰もいない朝

 同居娘はバイトに出かけました。誰も居ません。昨夜の夕食もまるっきりの一人。残り物でと思いながら、好きなものを見繕って、好きな配膳にして時間をかけて食べられる。
 久しぶりというか、自分のためにだけの食事用意。結婚して以来かもしれません。
これは、新体験。これからの姿を少しは思い描きますが、いつか、このように一人で食べる日々が来るのかもしれません。気兼ねの無い解放感。どう自分を律するのかも自分次第。
母も兄も一人で食べるのが日常だったのでしょう。孤食?その表現は当てはまるのでしょうか。
 食べるものに感謝をし、そこにあらわされるいのちを受け止め、ひとを想い。一人でいるという事。
 今朝を静かに迎え、外出前の時間。自由に使えるなんて、あれを取ってくれ、これをどこどこに入れてくれ。が無いなんて、台所流しの片づけも、お膳の上の置き方も、楽です。
 

2012年8月21日火曜日

タイムロス

 そう言ったら、身体も動かさずにパソコンの前に居ることが一番の時間潰しになるのかもしれませんが、丸二日、インターネットの接続ができなかった苛立ちと、不定休である文庫稼業は、進まないし、何よりセキュリティソフト会社の方の不具合であったので、その究明と復旧に利用者側に不都合が出るなんて、初めての事態でした。
 さしたる仕事はなかったのじゃないの?と言われても、多少の進めているものを抱えながらですから、いつも以上に、ツンケンしていたかもしれません。
 夏草退治の庭通いは、本日は文庫番は行きません。この夏は一泊を繰り返してと両親を連れて連れ合いは行きます。長女も途中乗車です。さあ、のんびりしながら、ロスの部分を片付けていきましょう。一年ぶりの義父母の留守。できること、やりたかったことが幾つかは片付けばいいのですが、何よりも気持ちを寛がせておきましょう。

 

 さて、自分の狭小な気持ちの在り方も、困ったものですけれど、社会と宗教との関わりなどを考えていました。一つには、人によっては、自分の経験・思考の範囲以上を、日常的には考えることができないのだとわかったのです。
 そういう中での宗教者という存在はあるのですけれど、現代社会での「宗教」って、世俗に近い厭らしさが感じられます。大仏の父母は、ともに信仰で結ばれていたのは確かです。ともに実践的宗教者であったと言えます。日々を仏壇に向かうというのではないし、経を唱えれば救われるというのでもない、他者との関わりの中にあらわれてくるもの、もしかしたら運動にも近い中に、それを超えた精神性を揺るがさない二人であり、共通しているものでした。
 それでいながら、互いに持っているそれぞれの信仰を尊重していたのです。マハラバを名乗る私には、格別の宗旨があるわけではないのです。ただ、あるがままでいるのです。
 表面上の形を言っても、その本質が見えないことが、現代社会の宗教を空回りさせてしまうものなのでしょう。空回りするだけでなく宗教と経済と政治を、結びつけていくことは、どこの社会のいつの歴史でもありましたし、これからも、ことばを変えてもあるでしょう。
 

 そして、宗教を隠れ蓑にしてしまった、無法についても、またそうではないと言わないとならなくなりました。そこを逃げにしてはならないのですが、それにしか、よすがが無いとしたら、その隠れ蓑であるのも、また宗教の一面なのかと、卑近なところで考える文庫番です。
 そこまでを、体系としてもあらわしていかないと、市場経済にも、政治の愚にもいたぶられている、3.11以降の光をともせないのだと思うのです。あの山の寺でランプを灯していた父母の資料を整理していかないと。

2012年8月12日日曜日

都会の実り

出穂です。今年も苗からではなく籾の直播き(それも手抜きも良いところ穂のまま)にベランダ田んぼに育てていた稲は、実りを見せてくれました。喜びです。福島の田んぼを昨日はたくさん見てきました。私のような手抜きではなく、丁寧に仕事をしている稲の揃った波がありました。ご多分に漏れず、耕作されていない田んぼもありましたが、営々とくらしの習いとしてきている作業がそこには見えました。茨城の実りを5日に見たとき以上に、切なさがその美しい稲を見ながら寄せてくるのです。ひとが続けてきた暮らし。営んできた人生。断ち切り、分断していかないためには、繋がっていくという確かな実感が必要なのです。
 味噌を一桶乗せた車は、延々としたお盆帰省の流れに入っていました。昨年は帰れなかった人たちは、それでも今年は帰って、お母ちゃんの顔をみてまた戻るんだよ。そうでした。
 その身動き取れない流れの中に嵌ってから、そのことを考えたのです。浅慮で申し訳ありません。味噌でのつながりは確かなものになっていきそうです。
 私の稲穂はこの数年はお正月飾りにしています。今年の実りは、年越しした後に、次の年のお飾りのために、ベランダから降ろした田んぼで育てる稲の種籾とします。
 朝の一瞬に、白く花開いたいのち。一粒ずつに実りの喜びをたたえています。
 食べるという事、いのちの作業です。

2012年8月9日木曜日

神明

義父母もなんとか、一緒に泊まる手はずができて、8月7日は神明の花火大会。山梨県市川大門でした。隣町の庭の夏草むしりで腰痛気味の私達二人と、義父母での泊り。来夏は本格的老々住宅になるでしょうか。 庭の茗荷と新しいお付き合いのご近所から頂く夏野菜で夕食は済ませます。お腹の底に響く、花火の打ち上げの音は、天空を覆う大花火から遅れてきますが、車の中からとはいえ、大迫力。 
 義母は、懐かしいねぇ。ありがたいもんだねぇ。涙が出てきた。と言います。若いうちはさんざん見たけれど、花火を見れるなんてというのに、家の中に居るお年寄りが、楽しむ機会はなかったのかもしれません。それを当然としてきた私には考えていなかった言葉でした。両国は二か所で上げるんだよ。どっちだろう。というのには、少し返答ができません。解っていながら、現実と少しずれた言葉になるのは、思いでの中、想いの中、現実、が行き来するんでしょう。それもまた人のさがと考えれば辻褄は合っている感想だったのでしょう。茗荷の塩揉みで、すべてを忘れるとしますか。

 私は、天空の輝きとは対照に、人というものの闇を考えます。幾らマハラバだ、文庫番だと言ってもその傍らで、置き去りにしてしまうのかという、問い。自問。この解決は一年前の夏も、きっと生れ落ちて背負っているものだと覚悟しているのです。そして、連れ合いとの暮らし。
 闇。
 また、中に入った時と嘯く傲慢。自分の卑小さを言い換える詭弁。それでいて、甘く見た世間に通らないとなると、また弁を弄する兄を、周囲で心配する人々が居ても、その闇に光があるのか。
 同じ考えを持っているのです。どこかで超俗でありたいと、自分の存在をつくり芝居がかった事をする。自分には許されるのだからという振る舞い、相似な兄妹です。
 社会には対応できない心の在り方を、聖俗、差別・被差別、親子、男女、さまざまに積み重ねて半生。 認められない、その怒りで、すべてを論拠としていくところには、大きくは、戦争であったり、未来への人類的負荷であるけれど、年子二人の間に、言い換えれば母を写す文庫番との間に闇を濃くするのです。

 8月9日 長崎原爆忌 

2012年8月6日月曜日

許すこと、忘れないこと

茨城の田んぼも稲穂が波打って、風を受けていました。この実りが正当な評価がされると良いけれど、そんな思いで見ます。会話にならない会話。理屈ではなく感情で物事を見ていくと同じ事実が、全然違って語られるものになるのだと、わかってはいる。解っているけれど、それでも話をしなければならないのでした。不毛であると知っているのです。
 私にとっては、ここの地が自分が生まれたところであること。山の中を故郷とすること。同じ親からうまれたこと。
 今回、話し合いをお膳立てした人がいるにしても、それ以上の事は当人の中にしかないのです。同じ会話として成り立たないのを承知で、夏の閑居山に行きます。どこかで、歪曲された事柄を、片方の考える事実として話していく無理。

 それは、一方におきながら、山の夏、その時間。自分の記憶となるのだとします。そして、許すことの難しさを考えた夜があり、8月6日の朝を迎えるのです。

 

2012年8月4日土曜日

今度は・・・

金曜日夕方に出かけられるのは、そうそうはないけれど、繰り合わせて、断続的に行ける時だけ、それも一言だけを繰り返して、時間になったらさっさと引き上げるので、誰とも会話もほとんどせず、その他のいわゆる集会にも個人としての、いたって自主的参加であるので、誰にもありがとうございます。なんて、言われる必要もない。敢えてあるとしたら、母の遺志でもあるのだから、自分に対しての責任。30年近く母が続けてきたことの引き継ぎ。それも、託されたわけではないから。
そして、法螺貝を吹く。たまたま、東京に住んでいるから官邸前だけど、石垣の白保の海からの法螺貝は、叫んでいる一言以上に、さまざまな連帯、本当は述べたいさまざまな考え。だけれど、必要ない、ジェリコの壁を打ち砕いたように、一人ひとりが、主体としての声を出し続けることが、打ち砕く。分断、抑圧、威圧。そういうのもありありと見せつけられるけど、愚かです。
また、あの安保の時のように、収まってしまうのかしら?いや今度は違う。

2012年8月2日木曜日

やっと、書いたけど

この数日書いているもの、出しているお便り。気合が抜けたように感じられるのです。統一性のない表現。言葉足らずに、誤解を招きそうなもの。書きたいことを充分に表現していない“恥”。
 決してオリンピックなどは観ていません。良いイメージを体育会系のものに持っていないし、さらに浮かれ大騒ぎする心理には、乗れない。国の大小があるにも関わらず国別で競うし、あきらかにスポーツがお金のかかるものになっているし、それで、まるでゲームの勝敗が相手との人間性の優劣の差のようになっていく。嫌なものじゃありませんか。
 だから、テレビの前で座っている義父母の前に関係無しに流れている時に、その騒ぎの一端は少し解るけれど、それだけの事です。
 家事と、出かける事の均衡が取れていないのでしょうか。それとも、家人の動きに合わせての、文庫番の動きに変えているからなのでしょうか。
 
 そうではない、集中してことばを練っていないのです。本当に集中して書いている時は、その周囲の小さな文にも気持ちが入るのです。これは、逆に次の高まりへの散漫さなのだと許してもらえれば、気を取り直して、しなければならないと、自分で思っている事を、自分自身の責任のためにやっていきましょう。そう考えると、あれこれの小さなミスをしていたことに却って、そんな事で落ち込んだら前に行けないと、考えられる大事な躓きだったと気付いたりできるのでした。

2012年7月29日日曜日

来し方、そしてこれから

隅田川の花火大会。東京スカイツリーとの競演。一夜の騒ぎは終わりました。今年はテレビで観れるからという義母と夏の野菜鍋を食べながら、テレビ画像より一拍遅れて、外の空気に伝わる振動を、聞きながら過ごします。何回も吾妻橋に向かう人の波に入って、連れ合いと待ち合わせして観てきた都会の花火。結局行きつけなくてビルのガラスの壁に映るものばかりを見ていた時もありました。取手に暮らしていた時にも利根川の河川敷で打ち上げられた花火もありましたっけ。
 それぞれに出かけている子供たち。これからもいろいろな出会いがあって、たくさんの花火を見上げるのでしょう。この夏もう一回くらいどこかで観る機会はあるかもしれません。
 今年の隅田川花火大会は終わりました。

2012年7月24日火曜日

ゆっくり、進めば

そうは思っているのですけれど、さすがに一か月以上前の情報を整理しているのは、このインターネット時代にどうなのかとも考えるのですが、マハラバ風土記と日月記をやっと書きました。
そういう躊躇いは文を練っていても出てしまいます。キレの良くない勢いのない文章になってしまうのですが、まずはやっと連れ合いの居る状態で私のペースを作れるようになってきたのと、新しいパソコンにバージョンを変えたソフトを入れてとしている部分と手打ちのも新しい技能でいけたらと欲張っているので、なおさら遅々としています。
文庫番の日常は、ほとんどがご飯つくりです。朝が終わるとすぐお昼。午後にある諸々もご飯の用意を整えるのが前提。その合間のお仕事。言うまでもなく稼ぎにはならないし、金銭には捉われない価値観を持って仕事を!と居丈高に叫んでいるのではなく、普通の事業活動はできないなぁ。とますます状況を見るのですが、少しずつ、大丈夫。なんとかなる・・。?。

2012年7月8日日曜日

新しきバラード




虹が架かった下を通り抜けました。

新しい叙事詩が、見つかりました。

「明日へ帰る」という冊子がマハラバ文庫発刊となりました。

その意味を考えつつ、スベリヒユのお浸しを作ろうと摘んだのです。

その本の中に綴られていた思いを、俯瞰してみたのです。

3.11の東日本大震災の記録集です。

水産加工メーカーさんが、畜産養鶏の生産者が、福島の農産物が、

そして、パルシステムの友好、会員生協が、肉・野菜の子会社が

 食べる消費者が居る、暮らしている組合員が居ると、あの大震災・原発事故の時に

互いに思い合うということは、

食べる側が居て、「買い支える」ということは、いかなる銀行の融資を受けるより

意味があったのです。

いえ、まだ資金繰りも立たないなかで、製造を断念しないで、立て直し、続けてきたのは

あの三月に産直便が、寸断された道路を走って、供給できたのは、

逆に、組合員の出資している生協の子会社の商品を、被災地への支援物資とできたのは

現金として動かす金融であるのとは、別の新しい経済。協同の経済が、瞬時にはじまっていたのです。

競争の原理の復興・再生ではないのです。

もはや、協同のあらたな叙事詩は綴られて謳われ始めていたのです。

そして、さらにそこに見える、新しい歩みがはじめられたのです。

虹の根っこを探しに、こころ踊る歩みがはじめられました。

スベリヒユを摘んで解った事かもしれません。

2012年7月1日日曜日

7月に入って

肝心な、パソコンの液晶を壊してしまった。ので、機能してないマハラバ文庫。
なんと、修理に8万円と告げられたのです。

2012年6月19日火曜日

方丈記を

ゆく川の流れは絶えずして・・、この文章を朗読の稽古の内輪の発表会での題材に選びました。
今、仕上げ校正のものもあるので、充分には練習してませんでした。本日は、朗読の会そのものが台風の影響を考え一時間繰り上げての終了。まさに方丈記の無常の世界のような東日本大震災・そして、大雨、竜巻、季節外れの台風。都の乱れ。
 誰にも大過なく本日も終わる事を願います。
向田邦子「お辞儀」朗読の際の写真を添付しているのですけど。

2012年6月16日土曜日

先へ先へと

新しいページを作成中なのですけど、技術が追い付いていません。梅雨時仕事に少しずつ整えていきます。三年単位です。三周りに入ったのですね。

ユリの開花、芝生の向こう、吊り鉢


 ともかく土づくりからと考えたら、堆肥づくりからとなりました。現在暮らしている狭隘な家の台所で出る生ゴミ堆肥なのです。以前ベランダで数年かけて、ようやく黒くほんわかしたものは3月に梅の木の根のあたりに埋めました。
 ということで、玄関先に義父が園芸資材を入れていた古いプラスチックの漬物桶を移動させ、かつお厚削りの出汁滓や野菜屑をぼんぼん入れて、朝市で買った米糠や、僅かな墨田の土を混ぜ、都会らしくない匂いが出はじめた頃、母のお供えに、古いお付き合いの信州のリンゴ農家さんから一箱届いた春リンゴの詰め物だった有機の籾殻にリンゴの皮・芯も入れて、匂い問題の緩和ができたものを、畑予定の場所に畝を作り埋めました。冬春中庭の草取りをして積んであったものも合わせてあります。
朝市でトージバさんから買った大豆を植えます。
荒れた土地でも大豆からが良い。と義父も言います。本日はその桶に入っていた石灰を撒きました。来週種まきできるでしょうか。私にも何の用事のない日は義父母の山梨見学デーです。
 結構、不定休にした文庫稼業は、皆さんそれぞれが予定を入れるので大変なのです。不定休・無給でしょうかね。
私たちは、このくにの肥やしになるしかない。と考えた話を母にして、新潟で聞いた人間の土葬したところが一番良い肥やしになるんですって。と話したら、そう言われるとカトリックの神父さん達は土葬だったわと、教えてもらったのです。
その意味を今考えると、皇室が従来は土葬であったというのは、この国の土となる責任を果たしていたのだとも思えるのです。衛生上などは遥かに超えて、微生物と神格が一体だったのかもしれません。
火葬になる事を、立派な葬儀にしてしまったのはつい半世紀です。

2012年6月11日月曜日

感謝

 二カ月経って、6月9日「大仏(おさらぎ)照子(あきこ)を偲ぶ会」実行委員長里内龍史さんを軸に行われました。写真には、司会の坂本さんと献杯の天海さん。  プリントアウトしたものではなく、書をいただいての横看板でした。土浦モール505ホール。最初は30人程度と言っていたのが、50人、60人となって、ホールは100人まで大丈夫だからと言われてました。雨にも関わらず大勢の生前の母との交わりがあった方々が出席してくれました。皆さんからの一言一言を、子供達と聞きながら、寺の庫裏を賄うだけ、そして、古アパートを拠点にし、他の人達のお手伝いだけをしてきた母がくすぐったく思ってはいないかと、至らぬ私は考えていたのです。82歳の賄いのおばあちゃんがこんなに大勢の人に、死んでのちにも集まってもらうなんて。讃辞をたくさんいただいてしまいましたが、人との交わりの中で生かされてきたのが良く解ります。私が生まれる前からの父の友人も来てくれていました。そして、この2カ月母の前に花の絶える事がありません。本当に皆さんに感謝するばかりです。  大仏の家の大正期の貧民救済、社会運動や、父との農民運動、障害者解放運動。青い芝の歴史。北海道での母の生い立ち。富良野国の子寮での仕事。信仰。そして晩年のネットワーク。脱原発、冤罪、死刑反対。  この日に冊子となった母の原稿は、マハラバ文庫としてまとめていかなければならないものです。どこまでできるのか、三部構成でと思っていますけれど、今は、義父母の状況を見ながら文庫番の動きを組み立てなければなりません。資料の掘り起こしなどを考えると、即急にと思いながら、ちょっと厳しいかもしれません。  これらの活動、裁判支援などの時間経過を間違って記録することはありそうです。おっちょこちょいの文庫番には荷が勝ち過ぎている記録です。  大丈夫。少しずつやっていれば、必ず前に進めるから。なんとかなるのよ。そのことばを残してくれたことに感謝です。

2012年5月27日日曜日

適地適作

 4月に入って義父が買った苗は、こころの落ち着かない往来の中にも山梨の庭に植えられました。そのほかにも、母の住まいの周囲から移したもの、残していった草花の種、そして、今の墨田の家からの移動している植物。そしてもともとの庭にあるいのち。5月の庭は、まだ、行ったり来たりなのですから、充分に育てることができないのにも関わらず、植物の混住です。
 先々週に義父が植えたスイカの苗は、水不足に喘いでいます。草取りの片方に、昨年から積んでおいた剪定残・抜き草が堆肥化したものを土に被せます。
 ここは何もない土だから、さらさらで、粒になっていないと、義父は言います。ともかくなんでもくれてやれ。トウモロコシは豊富の名産。塩も無い台所で茹で、その皮も芯も庭に放って戻ります。
 中央高速の集中工事は終わっています。首都高速になると、虚飾と収奪の都会を眺めるような気分になりますが、ここに暮らしがあるという事も、抜きに考えてはいけないのです。高速から見える日本銀行。
 生活保護を芸能人の母がなんのと、つまらない報道。そしてなんら本質を守らない、厚労相の話として聞こえる事。個人が、いかに社会から保障されるかどうかという仕組みにしないぞ。扶養の義務は、どんな場合でも家族に第一義にあるぞと、言うこの世間。政治の愚。女性が、不労の者が、誇らしく生きていける社会を作れるのでしょうか。穀潰しと言わない食と農のあり方は今の世に問えるでしょうか。
 何故か、桃とトウモロコシの里にレモンを植えた義父。

2012年5月25日金曜日

自分でバンバン

いよいよ突入したリタイア生活。こちらは傍観者のつもりなのですが、どうも文庫番番です。何この会社は登記移動はできるの?返済条件は?  いきなり突っ込まれてます。しばらくは調整期間だからと思いますけど、これからの数十年・・・これまでの年月より大事なのですから、できるかぎり開示と魔法とを残しておきましょう。  台所は、二人で立つにはL字型よりI字型の方が云々。ええい五月蠅い。今まで、義父母も出入りする中子育てしてきたのは私でしょ。と言ってはいけない・・・。これからは二人で楽しみ・・おつまみ?!!。 違うでしょ。  ピンセットは無いか?薬箱に入れてあるわよ。ないはずないから、ゆっくり自分で探して。訊く前にあるべきところを探してね。で、ピンセットで何するの?え、石けんカス取る、ほー。じゃあやって、今まで何十年、石けん運動の課題だったのを、ピンセットですか。ほおお。盥に洗濯板ですれば、何の問題も無いわけですよ。全自動をエコポイントで買うなんて言ったのは誰でしたかね。  これから、ですね。 え?間もなく事業税、文庫番は自立自尊の・・・!!会社。

2012年5月17日木曜日

毎日が水曜日・・・

水曜日定休だった、我が連れ合い。間もなく毎日がお休み??。 俄かに、食と農と、安らぎを論じる人になっています。土いじりの場を山梨に、そして、墨田の生活とどう組み合わせていくのでしょう。我が社事業も進めないと文庫番の老後は、誰にも面倒を掛けずに逝けるとは解らないのです。
 火曜日、母の偲ぶ会に手書きの原稿があれば、刷って参加者にお渡ししたいのでと、実行委員会事務局からの電話がありました。はいと返事はしますが、どっひゃーと言う感じ。すっかり山梨に運んで、取り敢えず空いてる収納に押し込んだところですから、段ボール開封して探さなけりゃならないけれど、砂漠の中で針を探すような気分です。
 水曜日、ともかく草取りもしなければならないので、連れ合いと分担してやろうと、義父母たちの昼食を娘たちのものと合わせて4つ。海苔弁作って置いておくことにしました。三番瀬の海苔、天然醸造醤油、鰹節削りたて、でもこれだけじゃ色も無い。常盤の卵の玉子焼き。昨日の芋天あった。朝市で買った大豆と昆布で煮た煮豆。やっぱり色が無いし隙間が、野菜は絹さやとにんじん。茹でます。この頃柔らかく小さくが調理の基本になってきました。さあできた!洗濯干して、軍手も持って。え、義父が予定を尋ねるので、この次の日曜は朝市で、その次の水曜は会議予定だから、山梨には当分私は行けない。
 行く!え?!。義父は日曜に植えた、スイカとトマトの苗が見たいようです。え?さっき、今日は私たちで行くからって、ぇ、ぇ。お弁当用意したのに。素直に口と表情に出せる嫁。車に移植予定だった、植木鉢の植物を積んでいた連れ合いに、俺も行く!と言います。かあさんも用意しろ!え?連れ合いまでほぇ?と聞き返しています。
 分かった、わかりました。と素直な長男。座席を調整し、義父の手を取って玄関から車に連れていきます。隣には、自分で歩く義母。出発しました。
 首都高から中央高速に、どひゃあ!何?集中工事。渋滞。20キロ・・お義父さん!再来週だったら込まなかったね。お年寄との長道中。休憩入れましょうか?と言っても、途中で降りる方が煩わしいとひたすら、4時間。道の駅で私たちのお弁当調達して、床の間の前に義父は落ち着くのです。お気に入りの様です。義父の故郷の家の話が出てきます。
 それから、資料さがしと草取り。短時間ですが、義父は庭で野外セットの椅子に陣取ってます。押し入れの段ボールにある母の資料。もう、私が整理することになると、予定していて、活動毎に分けておいてくれてます。それでも、適切なことばは?と思っていると死刑廃止の一連の紙封筒に合わせて、自分の手書き原稿を入れてありました。見つけやすかったです。今まで、母のところに行き来していた下の娘も手伝って昨年資料の整理はしていました。そして今回運ぶための荷造りは上の娘が文庫番が、資料整理を事業化するということを考慮しつつ詰めたのです。何よりも、82歳までの活動を項目的に分けて、準備して逝っていることに、ますます父にも母にも及ばない不肖の子である自分たちを考えます。
 まるでオアシスでした。そこから、現実に帰って、庭に出ます。五月なのに炎天下のような草取り、義父はあれこれ、抜いた草を置く場所を指定します。全然良い土ではないので、これからの土づくりは大変です。くわの柄を支えに立って見始めています。
 それから、また長々と、帰りも渋滞は当然。これからは、曜日にとらわれず行けるからね。そのうちに泊らないとね。また草との競争になるのでしょう。私たちは時間とは競争しないで、物事を整理していく道筋が、この土いじりなのでしょう。

2012年5月14日月曜日

全村避難ということ

先週土曜日は、東新宿パルシステムのテストキッチン交流ルームでの飯館村 味噌の里親プロジェクトの2011年12月から2012年3月までの活動報告会でした。
 約200名の方が関わってくださって、全体では500㌔、里子の味噌として預かっていますのは120㌔となった「さすのみそ」50㌔。
 どういう経緯で、お味噌の救出に至ったのか、開催した味噌作り講習会各会場での様子、個人で作った方、カンパのお気持ちを寄せてくださった方。この話を聞いた醸造会社の方。
 多くの方が発言してくれて、そして、さすのみそでの味噌汁パーティ。有機白米のおにぎり。(これも味噌で味わって)
 報告会ながら、食べることで和む大切さを感じながら、いつか、福島の子供たちとこの味噌の里子で作ったお味噌汁を飲む企画をしなければと思いました。できる限り早くしたいものです。

   菅野宗夫さんに来ていただいて、飯舘村民の今を、農業委員会の立場、こだわり農産品生産の立場でお話してもらいました。
 今の飯館村民は、全村避難の中で仮設住宅3割、借り上げ住宅7割で暮らしているということ。そのことだけでも息を飲みます。いきなり、日常のくらしからひきはがされて、与えられた住まいの中に入ってくれと言うことなのです。
 文庫番も、この数週間、茨城の荷物を仮置きして、山梨に運ぶというてんやわんやを体験しましたが、それはどこかで納得できる荷物の移動でした。
 “くらし”を移すということ、その先に希望を見いだせないままに。それが、東京電力福島第一原子力発電所事故の結果、村民が負ったものなのです。伊達市の仮設住宅で35歳の男性が亡くなって見つかった話もされました。私たちが1月に訪問したところの中だということです。生き甲斐はどこにあるのか、やはり、農業の道を模索したい。隣県に土地を借りて作る事でも、おじいちゃんの喜びになる。食べるということの大切さ。アルミサッシではない家。風の入ってくる家に住むということ。本来のくらしがあったところ、ロスト・カントリーだと!。
 だから、見知らぬ人達が、食文化を守って繋いでくれるというそれだけでも意味があると、話してくれたと要約します。
 食べる事で応援するというのは、浅はかな表面上の論議ではないはずだと思うのです。くらしそのものが、どれほど食と農に拠ることなのか。再確認できた味噌汁交流会でした。
 さて、最後には、6月3日に行われる味噌の天地返しに、天ぷら油リサイクルバスで行くツアーのご案内でしたが、最低催行人数まで、まだまだです。預けてある先は埼玉県神川町ですから、新宿発で日帰り企画。いかがでしょう。天ぷら油リサイクルバスでいく味噌の里親プロジェクトinヤマキ醸造

2012年5月11日金曜日

思った通りに

しなさい。自分で納得して考えた通りに。ということなので、あれこれ処しているのですが、滅多矢鱈に忙しい事になっています。もちろん文庫番は、会社に居るのですから、それなりのお仕事をしなければなりません。そちらはゆっくりでも進めます。  日を決めてしているのは、社会性のある約束事だったのだと、ひとの世の決め事のあり様が、実際に行いながら納得できました。一つ賢くなったでしょうか。  しかし、息つく暇もなく日々すごしています。これも一時なのでしょうけれど、せっかくのご厚意を寄せてくださっている方々へのお礼もすっかり滞ってしまい、まさに渋滞状況です。  思うがままに、物事を進めて良いとは、自分で責任をもって社会に対しなさいということです。  連れ合いは、いろいろな経験を私にさせて、進み具合に、彼なりの考えは言いますが、私のすることは、今回も含めて、尊重してくれています。  あまり、世間ではここまで、やらせてもらえる事はないよね。と今は、嫁の立場でもある長女と、感心して話しています。  それでいて、放任でもないのですが・・・・。

2012年5月8日火曜日

疎密

遣り遂げた感があります。一カ月は、短かったのか長かったのか、ひたすら旅の途上の一点で、自分の周りの空気も風景も別な流れがあるような、それでいながら、非常に現実感をもって、しなければならない事の順序立てをして、自分の思うままの采配で一つずつを決断して、人生の秤を持っている。  本日、二通目のお知らせを200枚ばかり投函してきました。  この期間が定められているのも、自分自身のけじめ。できることとできない事がありました。疎遠であったと思っていたところが、深いつながりがあったり、案外スルーであったり。そして、旅の途上と言いながら、自分にとってのこころ休まるところも、いつでも帰れると、それは場所というより、人のつながりかもしれないと、永遠に続く繋がりが見いだせたのです。  連休があけて、どっと、進めていなければならなかった日常の課題が、やってきています。 これはこれで、また少しずつやっていけば、大丈夫よ。必ず前に進めるから。

2012年4月28日土曜日

鍵を返して

母の家。子供達にはお山のおばあちゃんの家。大仏照子寓居は、本日で閉じられました。 約三週間。急逝とは言っても2009年の三月にも大動脈解離での入院があったので、役割と資料の大部分を私の一存で処分したのですが、やはり山を降りてきてからの活動の拠点であり生活の場であった住まいには、多くのものが残されていました。使えるものは、母がお世話になった方々に使ってもらってということにして、どちらにしても他の人のお下がりを頂いたり、周囲の人達からの援助での家電のほとんどは、リサイクル業者が持って行きました。現役使用中だったPCは、データの確認がありますので、引き取ってあります。そのほかのビデオテープ、カセットテープ、紙ベースの資料などはできるだけ散逸しない事として往復数度で我が家に運びました。
 五月以降は、山梨の家にマハラバ文庫事務所を開かざるを得なくなりました。整備はまだまだですが、多くの方の訪問に耐えられる事務所運営を順々にしていければ良いです。  そのような考えで、なるべく、閑居山時代のもの、富良野時代のもの、そして近年のものも母の残していったままに箱に詰めました。山からの植物もアパートの周囲に植えてあったものの株分けをして明日、山梨の庭に植えてみます。  その運び出しをしながら、その実、資産は何も残らない。富良野で働いていた時期の厚生年金を差し引いた生活保護の金額。そこから、さらに介護料が引かれ、光熱費も通信費も抑えながら、楽しんでいたとする生協への注文。何も金銭としては残らない中で、何故母が多くの活動・ネットワークへの主体としての参加をし、娘たちのいうおばあちゃんの男衆が集まる住まいであったのかを、連れ合いは、家具も、無くなった台所の掃除をしながら一言で決めてくれました。資本主義とは違う考え方だったなぁ。と。

 あの机は誰々の、このパソコンはあの人と、あの人たちと、出し合ってくれたもの。ご近所さんからの、ボランティアの、学生の・・・。  そして、生協パルシステムでの購入も、私から言わせると、一人暮らしとは思えない単位の雑貨や食材であったりするのも、配食サービスを受けながらも、他の人達との共同を単位として、その上での繰り回しをしてきたようです。
 プラスを出さない、生活保護の暮らしを続け、昨年の三月十一日。三月十四日に一緒に東京で住もうと説得しても、自分の生活はここにあると、ベッドの手すりを掴み、自立自尊の暮らしを貫くとしたのです。嫁いだ先にも高齢の両親を抱える私を慮ってだと解っていても、だからこそ涙を浮かべながら、茨城を離れなかった母。その自立した経済。自立自尊を支え、ある意味ベーシック・インカムと呼ばれる社会を創るための彼女の闘いが、差し引きの残らない暮らしとして、私に渡されました。
 6畳二間に玄関・台所、浴室、トイレ。その住まいの鍵を返して、手向けの花束を持って子供達と、山を上ります。昨夏母と歩いた道。庭。また今年の筍が、道を閉ざし、庭を山に変えようと生えてきています。いつか兄が戻る時に、少しでも、住まえるところが残ればと、その筍の頭を蹴ります。せっかくですから持ち帰ろうとしたら、セシウム、セシウム。と若い世代は言いますが、山の霊気は守っているはずです。そうでなければ、母の闘争も、また引き継げません。

2012年4月22日日曜日

新緑へと変わっていきます

二週間は、慌ただしく過ぎていきます。あの満開の花で飾られた樹々の枝は、
葉桜へと変わって、常磐道を行き来している車を運転する長女とも、また次女とも
その早さを話します。

   人は、葉に乗せて思いを伝えようとしてきたのだと、その萌え出てくる新緑をみながら感じます。
一枚の葉書を書かなければなりません。伝わるのかどうか解りませんが、文庫番の責任。

 今日は、兄の誕生日。アースディ。
 母なる大地は、同胞を生み出すこの母星は
 実に豊かに、力強い受容を秘めているのだと、思うのです。

山梨へと、荷物を移動する車の中で「さくらのバラード」が流れます。
 不覚にも、涙が出てしまい、隣の連れ合いも、困ってしまうようです。

マハラバとは、人々の不条理を書かなければなりません。
文庫番は、母の見送りの式をしたのですが、父の教えは、親の死に立ち会えない、親の葬式も出せない、
そのような、生き方にこそ。
人並みという陳腐な幻想を創りだす世間から、落ちこぼれた生き方にこそ
叫びの力を聞くのだったと思うのです。
 葉書を書かなければなりません。今日。

 人は、樹々の葉が、さわさわと音を立てると、そこから、誰かの言葉が伝わってくるのを感じ取る力があったのでしょう。

2012年4月10日火曜日

年年歳歳花相似

麓を通りクラクションを一鳴。
山の中腹は、春の柔らかい新芽と盛りの桜の花で霞がかって見えました。
誰に知らせる車鳴であるのか、誰も確とは知らず、それぞれに想った事でしょう。
座席後ろは柩の置かれている、霊柩車の窓から私も今年の花を見ます。

斎場の庭にある桜は満開でした。
焼かれた匂いの残る骨箱を抱え、一緒の花見です。
骨を拾うまでを、ともにしてくれた人達が、これからは満開の桜を見ると
奥さんの事を想うな。和尚の葬式の大荒れの天気とはまた違う。そんなことを言います。

文庫番は、母とともに今年の花見をします。
常磐高速沿いを、隅田堤を、千鳥ヶ淵を、錦糸公園を

これからは、文庫番なりに、一つ一つを考えるのです。
今までの、対話の中から学び、諭されてきたことは
こなせているとは言えませんが、どこかで、もう自立しなさいと
相談するのではなく、自分の考えで決めるようになっていきなさいと。
育てたられたことを、これからは育てることにしていきなさいと
と潔く母は逝ったのだと思います。

嘆くことではなく、そのように、委ねられた安心を感じるのです。
もう充分に生きてきたと、四月七日、桜の季節、満月の明けた朝
誰を煩わせることなく、見事な散華であったのです。

充分に生きてきた、満足した笑みを浮かべたままの安らかな穏やかな顔でした。

父の時もまた、死に目には会えずとも、納得し覚悟しての対面でした。
母もまた、一人で逝かせてしまったけれど、それが望みだと話していた通りに
願いが通じて天に召されたのだと考えます。

心臓肥大に負担がかかったのだろうと、医師は言いました。自然死。
生きざま、死にざま、まことに素晴らしい母であったのです。


山の麓を通り、そこに父が建てたプレハブの中で、障害を持つ人々とともに
公教要理を母から学んだ事を思い出します。小学生であったでしょうか。
主の祈りの中での 「我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ。」
のことばを思い出します。そうだったのかと、いまさらながらです。
悪人正機そのものです。どれほど、自分の罪を知るということが難しいのか

今になって、少しだけ解るのかもしれないのです。
少しだけです。
だから、母のことばを探しつつ、文庫の整理をしなければならないと文庫番は思います。

2012年4月6日金曜日

甲冑



 いきなり、神社の舞台に鎧兜が整列していて驚いたのですが、植木市をしていたのは亀戸の香取神社。勝矢祭りなどもあって、それなりに勝負事の世界では有名な神社なのです。どうしても神社で願うことに、技の向上の果てに武運長久などがあるのでしょうね。
 人が神に祈る事は敵味方、勝ち負けではない事を見つけたいと思うのです。
自分のこころを見つめるという事の対話の相手に、見つける事が出来たのが、より大きな力である何か。

 まだ難しいです。より大きな力に委ねるという事と、自身と対等に常に他を観られるということのバランスが、凡人の生き方の中には、揺れ動きながら生涯を過ぎていくのでしょう。卑屈になったり尊大になったり。そのような自分の至らなさを、やはり祈りで昇華していきたいのです。ああ難しい。
 この神社、我が家から、そうは遠くないのに、植木市に行きたいという義父とついて来る義母とを、車に乗せて、行きつこうとするとハンドルを持つものとは別の指示があれこれ。頷きながらも、ここは曲がれないからね。ここは一方通行だからね。と伝えます。結局三周りしてから、お目当ての市に義父母を連れていきました。有難い事に山梨の庭に植える果物の木を選んでいるのです。
 対等に自他が在るという事。難しいです。身構える具足もまた、宝物となるのでしょうか。

2012年3月25日日曜日

お買いもの


 普段、週一回のパルシステムからの商品で、ほとんどのくらしを賄っているのですけれど、今回は外での買い物週。それもまた楽し。習志野物語とした催しのお誘いが、三番瀬見学でお世話になったところからありました。少し普段品を買う都合もあるしと行ってきました。義父母用のかりんとうや佃煮なども。

2012年3月21日水曜日

開花宣言




 今年は閏年だったので、20日がお彼岸のお中日でしたね。牡丹餅、美味しくできました。息子も来ないし、長女夫婦も、西表島に行っている次女ももちろん食べないので、高齢で甘いものばかりを喜ぶ義父母と私たち夫婦と、仏様とで食べちゃいました。義母の言う仏様って?ともかく義母の居室に一皿置いてきます。
 文庫番にはお墓はありません。実家は祈願の寺でしたので、墓地はありませんでした。代々の住職の墓石は境内敷地内にありました。古い骨も出てきて幼いころから古い人骨を見ていましたっけ。でも所謂、家族の墓は山内には無かったので、父は、祖父の出た県内の稲敷に葬りたく祖父母の骨箱も棚上げしたままだったのです。その父の骨もどうなったか、祖父母のものと一緒に兄任せ。山のどこかに埋めたのかもしれません。昨年8月最初の日、さまざまな事を決めて自分の覚悟のために数十年ぶりで行った時も、解らないままでした。
 今の家も分家だから墓も無し。網野善彦氏ではないけれど、もともと同じ土地で五代続く家もそうは無いのであれば、こういうものなのでしょうか。
 鉱物も同胞であると言いながら、今、熟年ままごとを始めた山梨の庭は、掘ると石ばかり出てきます。前の持ち主の庭組なのでしょうか、いつになったら、家庭菜園めいたものができるのか、恐いもの知らず、ビジョンも将来設計もないのに、決めた人に着いていくのが、楽しいのですが、さてこれをどうするか、顔を見合せます。自給自足の夢は実現するでしょうか。その庭先、河川敷に降りていく梯子の上に桜が、咲いていました。ソメイヨシノではないですね。そのうち花の種類も判るでしょう。本日開花とします。

2012年3月17日土曜日

20年一区切り



 雨水探検隊の2011年度の修了式。でも、今回で一区切りにしたいと世話人代表は考えています。私も含めて実質3・4人でスタッフ兼世話人のまま20年やってくることができた事そのものが凄いのです。お互いにそれは、認め合ってます。それぞれに他に抱えることを持ちながら、地域の子供たちと住んでいる町の事を考えていきたいと、続けてきた雨水探検隊。成人ですね。最後には保護者と子供とに挨拶されてちょっと感激です。
 私自身は、この活動で区内地域と繋がることもできたし、いざという時の相談もあっさりと、親身になってしてくれる関係ができていました。多組織に関わる人達との連携でできる活動を地域で持っているという事は、所属組織があっても、複眼的に考える素地を与えられていたなとも思います。最大時1994年の雨水利用東京国際会議の頃は30代だった!そして、一回の活動で100名を超える子供の引率、スタッフも多数であったけれど、活動内容そのものは、そんなに変えずにしてきていると思います。個人的に残念なのは合宿の時は参加できなかった事くらい。区内の小中学校、保育園・幼稚園にも稲配りをして、雨水と稲とくらしの情報をお届けしていたことは、別な活動で産地に行っても話ができる内容でもあったのです。農家育ちではないくせに、お米の育つ状況に興味津々で、いつも自分のベランダで比較もできて、季節行事もそれに伴って理解してこれたのです。私にとっては、自分の子供を自然に触れさせる機会とは、本当は自分の育った山の中にしか考えられなかったけれども、それが叶わないのであればと、産地を知り、そのミラージュとしてのベランダの田んぼ。山の中の自然との対峙とは違うけれども、できる範囲でしかできないならば、そこに意味を見出しながら、毎年を続けてきたのでした。
 考えれば、区内で大人向けの学習会を開かざるを得なくて、セイコさんやテラさんも参加してくれて、稲の里の大潟村まで植樹に行って、そこから別なツアーもはじまって。
 様々な事をこの20年の間に経てきたなと、世話人代表・探検隊長とも、それぞれがくぐった時間を互いに見ながら、今回を区切りとするのにも悔いはないのです。
 もし悔いがあるとすれば、雨水利用宣言の中で1994年8月6日に宣言した二度と黒い雨は降らせない!という誓いが、この子たちの時代に、今日も雨降り。どこかで、原子力発電所事故の影響を考えなければならなくなった事でしょう。それも、人間が考えて作り出したものなら、人間が科学の力で解決しなければならないと、覚悟をしっかり決め、この子たちとも考えていくのです。
 今日の企画はレイン・スティックづくりと修了証授与。区内産業のメリヤス工場から出る紙芯をもらって、楊枝・虫ピンを挿した中に、穀物粒や貝殻などを、動かして雨の音、流れの音を聞く道具を作るというものです。錐やハサミも使いますし、楊枝を挿すのにも、注意が必要です。パスタ食べて良い?という子もいます。賑やかに、無事に終了でした。レイン・スティックは玩具でもありますけれど、雨の少ない地方では雨乞いにも使った祭具でもあると言います。二度と忌まわしい雨は降らないようにとするものとなります。

2012年3月11日日曜日

山川草木国土悉皆成仏


 この日までの一年、長かったです。兄は天台の僧侶。母はカトリック。連れ合いは、日月も含めて神道の様です。寛容性があると言えばそれまでですが、オーソドックスであるものは、抱え込む幅があると思っているのです。
 それでも、それぞれの教理との間での引き裂かれるような思いで文庫番としての今までがあったのでした。ですが、この一年を経て、その難しさ、軋轢から解き放たれたのです。どのような宗旨も、どのような政治観も、哲学ですら意味を見いだせない、無明の中に落ち込んだから、そこからの新しい歩みになるのには、ただ、いのちを、生かされている事を信じられる自分への信頼。言いかえると、すべての悉く在るものへの、あるがままの受け入れ。受容によって、宗教の違いからも解き放たれた、大きな抱擁の中に居る事ができるのです。
 その事を、考えられたことで、あまりにも大きな自然の力によって引き起こされた、事態を整理していけるようになったのです。この二つの事を考え続けた一年でもあったのです。東日本大震災の悼み。それまでの既成事実も含めて葬らなければならない大きさ。そして、そこにどのような、信仰、または思想で葬送と祈念をできるのか、母と、兄と、連れ合いと、そして世界の痛み、歪みを越えていかなければならないのだから、自分なりの、精神の支えを持つとしたら、いのちへの、悉く在るものへの、あるがままの受け入れとします。
 そして、いのちを損なうものへの憤りを示し、大きな叫びとできるのだと、自分を認められたのがこの一年なのでした。

2012年3月10日土曜日

春まだ遠し

「雪が降っているよ!」と起きぬけの義母の声。受けて「三月十日にもなってね」と応えます。そうだね三月十日だ。雪の一片、一片が落ちてくるのを見ながら義母。私がいままで活動できたのは、義父母の理解と支えがあっての事ですが、何よりも、三月十日をどう義母と過ごすのかが、あってだったのでしょう。下町大空襲で身内を失くした人です。その義母と生協を通じた慰霊碑巡りをして、親兄弟も今は誰も供養しない私の妹の様な娘さんを、皆で拝んでくれている。と。
 食べる事以外の、生協の意味が、協同の意味が、義母との間に通じ合った日でした。
 私は、毎日、毎時、毎分をこの義父母と暮らしていけるのです。戦争体験は、今この人達の事なのです。あと何年、一緒にこの空からの供養を、ともにすることができるでしょうか。
 ともに暮らすことができなくなった時、どれほどの、身体の痛みとしてのことばを、平和を!願い語る事ができるのでしょうか。今日があり明日がある。

2012年3月8日木曜日

洗濯は


 盥で洗濯板がいいのだけれど・・。全自動洗濯機二代目になって、二年目の春。もう神経戦のような洗濯機に浮かぶ黒いものとが出はじめたのは、今回の洗濯機は、購入して半月くらいたったらだったのです。それから、愚痴を言いつつ、黒いカスとの悪戦苦闘。花かつおくらいのものから、針の先くらいのものまで、布にへばりついたり、繊維に入り込んだり、服の色も変わるほど。以前のメーカーに較べて、あまりにも早い黒カスが出はじめ。それ以来、無精な洗濯女の私も、隔週で洗濯漕清掃などあるコースを選んで、酸素系漂白剤を入れて、半日漬け置いて。その中をお風呂の垢すくいを使って取り除く作業までしているのに、取り込んだ洗濯ものに着いているぽちぽち。ネットで洗濯してないし、工夫が足りないのだと考えるのだけれども、この洗濯機のメーカーのページでどう対応すれば良いかを読めば、塩素系漂白剤の投入しか書いてません。
 塩素はね・・。その罪悪性を考えると、使いたくないけれど、つくづくこういうブランド電機会社は、電気を使い、石油由来の合成の界面活性剤を使い、その挙句に塩素系漂白剤なのだとコース設定されているのです。
 あと二カ月、ワイシャッツのアイロン掛け続け、35年のワイシャッツ洗濯アイロン掛けから解放されるのを楽しみにしますが、神社の式典も背広着用の日もあるようです。先日の梵天、稲荷祭りのお祝いのサイネリアの鉢です。

2012年3月4日日曜日

誠実であるということ


 長女が生まれた時、我が家に来た内裏雛。そしてお道具は次女の時に揃えて、歳々を重ねてきました。今年はその次女はサトウキビ刈り援農隊だとかで、いきなり3月に入る日に西表島に飛んで行ってしまいました。だからと言って飾らないわけにはいかないと、あれこれしながら簡略に出しました。3月3日は、飯舘村支援の玄米味噌づくり講習会。会場を準備していると、ワンコです。って。そしてもう1人参加者ですって。大阪からです。まあまあ。まあ、そして、実際の講習時にはお仕事になってしまったからと、参加費カンパです。ミカさんからのお土産。お内裏さまへのお供えにしちゃいました。
 SNSでのお友達。このFUKUSHIMAを忘れないための取り組みに、スカイツリー真下とは言っても判り辛い会場に立ち寄ってくれたのです。
 SNS、まだ、我が国ではソーシャルという概念は馴染んでいないのではないかと思うのですけれど、インターネットという各国共通のもので、結びつくお付き合いも出てきます。その中での実在性があった味噌づくりでした。誠実であるという事。お会いできてよかったです。
 誠実である事。娘たちのお雛様を見ながら、その事を大事にしてきた年数を想います。今、誠実なのか正直なのかと言われたら、やはり誠実でありたいと、願うのです。それはどのように認められない場合でも残してある自戒のようです。

2012年2月29日水曜日

本日完成


 墨田のタワー!下のホーロー容器には、約5キロ、落合の間kosumiで21日に作った分と今朝我が家で作った分の佐須の種味噌の入った、2012年2月の仕込み味噌。上のホーロー容器には2011年12月に神奈川の株式会社共生食品橋本工場のキッチンスタジオで仕込んだ2011年1月に文庫番が作った味噌(飯舘の2010年秋大豆)を種味噌とした味噌が入っています。言うならば里子と実子のような積み重ね。どちらも、国産特別栽培大豆と国産特別栽培玄米麹と塩で仕込んであります。時々見てやり声かけをしてまたは手当もするとどちらも良い子に育つはずです。
 多くの人達の思いが繋がって来ている事を感じます。そして今、お声かけしている今週末に東京スカイツリーの真下、押上の女性センターで開催する玄米味噌づくり講習会は、最後のさいごに企画したにも拘らず、参加するよと二つ返事で、そして呼びかけもしてくれている人達。新しい「協同」は被災地支援の気持ちが繋がっていくことを実感しています。本当に皆さんありがとうございます。ちょびっとの完成の喜びです。でもこの味噌を飯舘の人達と帰村、移住に関係なく心から楽しく味わう日が来る。その日が本当の完成なのかもしれませんね。

2012年2月25日土曜日

ご近所力


 やっと、ご近所を動けると言いながら、もしかしたら大事な会議をすっぽかしながら、いわゆるビラ配り。違います。この講習会がいかに無謀で無計画で無茶苦茶なのかが書かれている説明書を、最後の泣きつきどころにお渡ししているのですけれど、これが嬉しい。梅まつりも始まった亀戸天神も通ります。昨春の亀戸天神、押上はまだ東京スカイツリーも工事途中。今年の文庫番は麹途中。
 裏道・細道で天神様を抜けようとしたら、ここはど~この細道じゃ、天神様の裏道にはこの碑があったのです。謂れは確かめていません。そのうちに解明しますが、中江兆民ってあのTN君の伝記の中江さん。それ以上はどうしましょう。この碑は板垣退助によって建てられたということまでは解ります。もとは土佐の人と思っていますが何故この様にご近所にと、驚きます。
 ちょうど、FUKUSHIMAを考えながら、肥田舜太郎氏のお話された、この国くらい人権ということを考えない国と言うことの意味を、または、一般的に使われる人権とは何かを考えながら、通ったところにこの碑だったのです。ご近所でありながら、今まで知らずにいた事を申し訳なく思いました。

2012年2月22日水曜日

あり合わせは

一昨日は、午前中は朝食の後いくつかの連絡事項を済ませて、義父母との昼食準備。大概午前中は、朝食と昼食の支度で時間が終わるのですが、午後からの外出がすぐでしたので、余計に間がありません。夢の谷風、芋っこ味噌は作ることができました。夕方帰宅しても時間は迫った夜ごはん。まだ、昼の芋っこ味噌と自分は最後にあったもの。それは・・奈良まで行って漬けた赤梅干し二年目のものと、谷津干潟保全にもなっている稀潮という千葉県産の海苔。フードリレーの予約登録米でのお茶漬け。加賀の棒茶。きゅうり糠漬け。サラサラとかきこむと、言い知れぬ満足を感じました。満腹かな。

2012年2月18日土曜日

ものづくりの詩




 近頃、慌ただしくて、すべてが同時進行になっていて、追いついていません。風土記も書かなければ。でも昨日のこの写真は区内です。MATAGIプロジェクトさんの見学会が、昨年5月にアニマルウェルフェアのゴールという学習会でお世話になった、山口産業さんでありました。島根の猪の皮、塩漬けを水で戻して、脂をこそぎ落とす作業を見させてもらいました。獣害は今高齢化・過疎化の産地どこでも課題です。そのなかからものづくりに結び付け、墨田の産業も維持していけるプロジェクト。そう言えば一昨年の冬は夢の谷で猪アイスバインを、番外編での無茶々園ではイノシシの鍋を食べました。やはり風土記にまとめましょう。決めたばかりだった、押上女性センターでの味噌作り講習会もお誘いできました。これは雨水探検隊の繋がりかもしれません。私のベランダの田んぼ。雨樋からのホースには小さなつらら。バケツには氷が張って。寒い朝でした。明日は洋上学習。そこでも水の循環は繋がるのです。

2012年2月13日月曜日

追走


 日曜日、久方ぶりに自転車で昼食に出るということです。義父母には切干大根の煮たものと麩じゃが、酢のもの、お味噌汁を用意してあります。
 しかし、どの方向にいくのかが、知らされていないのに着いて行かなければならないのです。いきなり止まったり、方角を変えたりついていくのには、難儀です。どうやら向島方向ではなく浅草方向です。めざしていたのは並木の藪のようです。雷門から並木の方向に行くと、あの風情ある蕎麦屋が見当たらないのです。
 ついこの間まで在ったじゃない!。物事の移ろいの激しさには、嘆きとも驚きともつかないものがあります。並木の藪はおでん屋になっていました。あの蕎麦笊を返した出し方。菊正宗のみのゆる燗。失くしてから惜しいと思うものです。
 仕方がないから、あの無愛想な鰻でと行ったら、日曜休み。まったく当てなく走り出すのですから、後を追うのは堪ったものではありません。行きついた庶民的と思った鰻屋。良かったです。これが、何に感激したというと、山椒なのです。捻った店号入りの薄紙に山椒が使い切り分入っています。今まで結構浅草近辺の鰻屋に入っていますけれども、山椒にこだわった在り方は、初めてなのです。山椒好きな私には感激です。そして、お漬物も柚子大根の千切りに胡麻切りを振ったものと柴漬け。連れ合いと話します。これからの在り方は、もう一度、自分でつくる事の復権じゃないのかしら。と言う事です。単なる手作り志向ではないのです。それは某百貨店業界や、某流通業界の臨界を超えた、もののやり取りではないかと思う確信です。数世代かけて、変わっていく道筋。手前味噌の時代ではなくなった?。今、手づくり味噌を呼び掛けて苦しいけれど、お漬物もそうです。この間まで各家庭の味で良かったものが、いつの間にか売り手の味、生産の味になってしまいました。食べる側の味。つくる持ち寄る考える、分かち合う仕組みに変えていくのです。誰もついてこなくても構いません。私が、それを確信しているから。

2012年2月7日火曜日

もぐらたたき


 日曜日に山梨の家に荷物を運びに行って来て、庭にやっと咲いた水仙の茎が折れて、倒れていたのを、墨田の家に持ち帰ってコップにさしました。焦点が合っていない昨夜の写真。たまたま、私たちの庭とするところに前の人が残したのでしょう。球根が幾つかあったようです。
 水仙、茨城の閑居山には、山麓に流れるように増えていた花。その切った長い茎を束ねてこの季節、母はあちこちの知人のところに、春を届けに行っていました。生業を持てない寺という場ですが、それなりに父のお付き合いの仕方をしてきたのです。
 そして長女を妊娠していた春に越前海岸を歩いた頃。もう季節の終わりに近づいて日本海に向かって咲き群れていた花。その情景が二つ、都会の室内に漂う香りの中に浮かびます。素直に私は連れ合いにありがとうと伝えます。

 さて、どうして水仙は折れていたのでしょう。二週間近くの人の居ない家です。まだ以前の人の住まいのままで、茶器程度しか持ち込んでいない建物。そし手をつけようのない庭。夏草を土に梳きこんで、片づけた、庭木の周辺に幾つもの、盛り上がった粒のそろった土。これは何だろうと訊かれますが、モグラじゃないの?としか私には推測できません。スコップで叩いておきましょうか、私の邪念のようにあちこちにまた出てくるのかしら?
 草、埋めていいのでしょうか?土掘り返していいのでしょうか?当たり前の事を、悲しく考えたくない、これから新しい庭にしていくのです。