2011年12月25日日曜日

山仕事讃歌

山仕事讃歌


渓流にはまだ解け残った雪の塊も見えている
流れには、魚が遡ってくるのです
滑らないように、足を取られないように沢も歩き
人も山に入っていく季節です


浅緑の柔らかい葉が芽吹きはじめたのは
高い梢の先にも見えるけど
水を吸い上げる木の皮に日用の具へと
形を変えるこの時期に、皮を剥ぎ

たった僅かな許された日にち、一年の春の木の皮しなやかさ
大きな節理の取り決めで、この季節だけのことだから
滑らない様に踏ん張って

山菜も採って戻るは、夕餉の分、昼の弁当は腰にある
その編み組みの容れ物は、空気を通して涼しげに
カンスゲの香りも残るものなのです
春の山仕事、草を敷いて休む時

南の島茶は二番摘み、果樹の枝は蕾を持っているでしょうか
それとも、来年の実りの約束いただいて一服ついているのかと
木々がしている交信に耳を傾け、こころを飛ばし
各地の山畑の芽吹きの音が、伝わって

野山に生きるものどもは、人の技よりはるかに深く
命脈繋いでいるのです
言葉で表すものじゃなく、畏み敬い学びます

今日の採りものは使える分、力量以上は超えません
自分の技と思いたい、毎日の習練も
山中に生まれ出る、静かな力の尊さを
授けられ残していくのが、仕事です


灼熱というのだろうか
天上から降りて来る暑さだろうか
それとも、窯口の熱さになっている
入口塞ぐにすでに燃え盛り

奥から立てた枝も、最後に入れた枝も
今窯の中で色を変え、堅く身を締め輝いて
闘っているのか、外にまで鬨の声が聞こえ来る
変化する苦悶、大地の水を吸い上げ緑を茂らせた枝

見極めろ、匂いを嗅げ
まなこは赤く、鼻腔の奥につんときて
むせ込む喉もガラついて、一寸の油断
瞬時にして燃え尽きるか、灰にしてはなるものか
窯の番をする、時を見計らう役割も

枝の叫びには、負けじ
山火事の移り火のあの痛さを思い出せ
黄金色に輝いて、空気に触れても崩れない
夕刻過ぎて大気の冷めた頃
ここぞと、掻きだし灰被せ、水をまき

灰といえ、畑に播かれる花が咲く
炭に宿った魂は、また新しく再生し
送りだす先には、働くものの声がする
くらしの中に甦る熱なのだ

野鍛冶もいない今の世に、いかに伝える
身体を労わる、ものづくり山づくり
短い夏は過ぎてゆく
格闘の終わりではない山仕事





マタタビの蔓の刈り取りは
寒くなる前、秋のうちに下ごしらえ
雪の白さを移すには、幅を揃えて束ねおき
秋の収穫と競ってます

漆の実が黒くなり被れる心配なくなって
山のキノコも、出る頃は
一年の稔りを寿ぐお祭りを
山の神様、紅葉を纏って待っている

田畑の仕事が終わったら
家の中での山仕事、リンドウも小菊も壺に飾ります
栗もお芋も蓄えて、蕎麦打つ粉もここにある
子供達も集いなさい、翁も嫗も寄り来たり

山の怒りは無かったか、現し世の悲しみは無かったか
働き怠る日は無かったか
他者への配慮を欠くことは日々のくらしに無かったか
山の神様とくとみて、こころ安らにお帰りを

熟成の頃なのです
実りの喜びは、皆で楽しむため
子孫にも伝えるため
玄籾で残すものは取り分けて
熟成、醗酵、知恵伝え

囲炉裏に炭火を熾します
鉄瓶湯沸かし鍋に替え、まずはお供え致します
それから、少しの酔い心地
唄を歌って下さいな、その声聞けば一年の
辛い仕事の甲斐がある
辛い日々の甲斐がある


山河あり、草木あり、くに土がある
生みだされるいのち、次代をはぐくんできた
山の仕事は、古へよりの営みなのです

牛の列車で来たのです
二人で始める畑起し、ここに村を作ります
夢を語り、夢を追い
その毎日は、過ぎていき

いつの間にかランプの灯りは電気となって
霜にやられた蕎麦の苗、思い出話になりました
助けてくれた親たちに、今の自分が似て来たか
若い者への、語り継ぎ

馬を駆っての伐り出しも
キノコの栽培、乾燥場
地域の皆で取り組んだ乳質改善、品評会
地域の学び舎暖かく、冬の山仕事で思います

いつの時代でも、人の人生苦しくて
山の仕事も苦しくて、見返りなどはごく僅か
子供を育てる時も過ぎ、後悔少しあるけれど
誇りを持って生きてきた

第一に、生きる誇りを語りたい
山の喜び伝えたい
伐り拓き、掘り返しての開拓者
新しいことへ挑むのは、この村に留まってもできるから
先の事を考え、世界を考えて、フロンティアで在りつづけ

人の過ちは、人の手で償えるから
必ず希望を捨てないでこの一冬を超えていく
分かち合う、皆で力を合わせる、伝える言葉は一つです
夢なくして 何の人生ぞ


山仕事讃歌より   増田レア

2011年12月17日土曜日

佐須挽歌

佐須挽歌


虎捕り太鼓は躍動し

ダ、ダ、ダ、ダ、ダーン、ダーン、ダーン、ダーン

撥を持つ手に響くのは

この地に住む事受け止めて、精一杯生きている

毎日の、気持ちの響きを通わせてた


お姑さん見てください

若嫁たちはいきいきと、集まり稽古を重ねてた

手早く食事を済ませたら、後の始末はお願いし

出かけて行った精華です


衣装も揃えて新調し

髪を結い上げ、紅をさす

晴れやかな、お祭り盛り上げ、この村の

別嬪揃いが人を呼ぶ


娘たちにも伝えてく

撥を交わして、身を翻し後方に

退くようでも、目は追って、育ってきたのが嬉しくて

タ、タ、タ、タ、ターン、ターン、ターン、ターン

この地に住む事大切に、覚えていなさいこの響き


ああ、あの秋の日の講堂の屋根突き抜けて

響き渡った、虎捕り太鼓

飯舘の、佐須の集落農業祭


かぼちゃコンテストは皆外れ、猪の牙の愚痴話

生き物いるのも生業の、一こまになってる佐須の村

餅つき、蕎麦打ち、大振る舞い

豊かな実りを、褒め称え


何より、味噌蔵見てください

熟成菌が住みついて、胡桃の桶で寝かせてる

この地で採れた大豆です

確かな思いで作ってる、その味わいをいただいて


白狼は先導で、虎捕り山の山登り

山津見神社の横の道

奥の祠に参拝を、している道だと教えられ

一日限りの修験道


落ち葉の中に、見え隠れ

ムラサキシメジの時期でした

もう一週間でお祭りで、また、大勢が登ります

集落守るこの山の、守り神の言い伝え


神妙に聞いてはいますが、足元が

自分じゃしっかり登れると

鉄鎖も握りしめ、もっと身体を使わなきゃ

この梯子、長い間の信仰の続いているのを表して

先人も登っていたのを追いかける、そんな虎捕り山登り


吹き渡る風に四方を見遥かし

ここが、一番見どころで海の方まで望めます

岩から生えてる緑も見つけ、根が割る時を思い

ああ、あの秋の空、佐須の山


泊った宿の囲炉裏端

語り続けた村づくり、一夜の話は続きます

言い伝え、祭りがあって、人が来て

それが、営み、人の生


この世紀

白狼は、どこに居る

悪党退治の先導に、山に霊気を集めてる

福島の飯舘村の佐須の山

ああ、二〇一一年三月一一日



『山仕事讃歌』 マハラバ文庫 増田レア

2011年12月15日木曜日

希望の響き

他のものと分け合う心
 ともに暮らそう

希望の響き

よくぞ、二〇一一年を耐えてきて、力を寄せ合って新しい年への杵の音。

実りを皆で尊んで、お供えを作るのです。

つき手も多く掛け声方も参加して、一臼がつきあがります。

手早く丸めた鏡餅。町内や親戚にも配ります。

それぞれの福を願って丸くして。

田んぼの一年も入っています。町のくらしも映します。

産直は、産地と消費地のやりとりの関係だけではありません。

目の前には居ない、他のものと分け合う心を繋いでいます。

世にある争いも、いさかいも、食べ物を皆で分け合えば、

なくすことができるはず。新しい世の中を願います。

逢うことのない未来の世代へも伝えていく、

その希望を籠めてのお供えです。


パルシステム連合 きなり 2011年12月5回 マハラバ文庫 増田レア

2011年12月8日木曜日

いのちへの信頼が生まれる瞬間(とき)

食卓が礎

 信頼

喜びの宴です。客人も来て、来年は家族の増える予感です。

賑わう声の、一人ひとりに行きわたるように、

丸ごとの鶏を捌き、とり分けます。

この一片によって私たちは生かされている。

そしてこれから、生まれいでる、すべてのいのちの尊厳を、

損なわれることなく受けとめたいのです。

思い出す。幼子を腕に抱いた時。

その瞳の中にある自分の姿は、ありのままの私でした。

信頼は自分の在り方がつくるのだと解ったのです。

今年、多くのものを失った悲しみを持っている私たち、

今日の宴から新しく結ぶことができるでしょう。

ささやかな贈り物を。喜びの言葉を!

さあ、世界中に。



マハラバ文庫 増田レア

パルシステム連合 きなり 2011年12月4回 鶏ももロースト

2011年12月1日木曜日

炎の向こうに

暮らしを築く同士との"ひととき"

 大切な人との協同

ねぎらい

窓ふきも済ませ、障子紙も張り替えました。

少しだけ明るく見える室内、夕食にキャンドルの灯りも添えました。

炎の揺らめきに、グラスを鳴らし労わり合うのです。

暮れの仕事は、二人の協同からはじまっています。

残っているのは、石けんで換気扇を洗うだけ。

それは言いたいけれど、スモークの山桜の匂いでけむに巻き。

その向こうに、各地からの被災地への応援を思います。

多くの人々が重なります。

たくさんの取り組みが重なります。

ねぎらいの気持ちは広がります。

微かな明るさと温もりも届くでしょうか。

食卓から、連帯のかけはしは続くのです。


マハラバ文庫 増田レア


パルシステム連合 きなり2011年12月3回 スモークサーモン

2011年11月24日木曜日

人の愛

次世代に伝えたい


 いのちの一粒


滋養

滋養の詰まった黒豆。つややかに輝いた、

この一粒ずつを大切にします。

丹波地方に「春日の局お福」の里がありました。

誰を育てたことよりも、他の人の子にお乳を与え、

慈しみ養育するという事実を、記します。

次世代に伝えるということは、

親から子だけでなく、経験されたのです。

それは、人としての愛だったと考えます。

今年、身寄りを亡くされた多くの人々、今を生きる中に、

様々な思いの深さがあるのでしょう。

2011年の年末に「愛」と「協同」をあらためて掲げます。

人としての在り方を繋いできたことが、

いのちの一粒を輝かせているのです。


マハラバ文庫 増田レア


パルシステム連合 きなり2011年 12月2回 丹波黒豆

2011年11月14日月曜日

にわか雨でしたが


 今日は、朝市で束子を買ってもらった水天宮の遠忠商店さんに行ってきて来年の年明けの企画相談。ついでにお買いもの。

2011年11月10日木曜日

暮らしの元に

 例の山芋?。墨田区立花産の町芋?ですが、大きさはなかなかのもの、まだ食べています。アクのあるものとそうでもないものがあるので、あまり人様にも差し上げられず、嫌いだという義父抜きで、食べきるには、もう一攻略が必要です。
 炊いたご飯が、今朝は無かったので思いっ切って、すりおろした芋と小麦粉、キャベツ、カニカマ、葱、卵でお好み焼き風にしてみました。一人お雑煮を食べている義父も混ざった朝の食卓。この芋を掘り上げた、僅かな地面の話になります。ある程度掘れば硬いようです。埋め立てたガラの入ったところ。前はこの辺りも、地面があって、あの家のところなんか池のようなものだった。って、すぐそこです。いや水気の多い、そこにいっぱい土入れて、家を建てた。そこは鞄をつくっていた家だった。あっちは前は鉄を砂にいれてものをつくって・・。???。
 鋳物屋だったようです。メッキ屋もやめちゃって、金属加工もやめてもう、町工場も数えるだけになって、年金暮らしか勤め人の家ばかりの通り。連れ合いの育った頃は、周りは皆将来の社長候補が同級生だったわけです。
 そういえば、母の育った家は、万年筆屋。万年筆の商いだけで、祖父はたくさんの子供を育てたのです。その手伝いを長女であった母が帳面付けなどしていた話。それは太平洋戦争前。
 私たちの暮らしの中に技術があり、商いは子供でも理解できるものだった。
 祖父は神田から仕入れて自転車の行商で、北海道中を回っていたのです。私たちの暮らしの中にあったもの、主権は暮らしにあったはずなのです。いえ、もっと一人一人の自尊の中にあるはずなのです。
それを、失くしたら暮らしも失くしてしまいます。

2011年11月7日月曜日

週が変わって

 雨といっても、そんなにたいした降りにもならずに、日曜が過ぎ新しい一週間がはじまります。この太陽暦で日々を数えていくのも、自然の時の刻みと言いながら恣意的経済に合わせているのかなと思い、身体を労わらないといけないと考えます。朝昼晩、毎日の食事。排泄。入浴。睡眠。
 曜日に関係なくなって、今日はいったい何の日だったろうとなるのかもしれません。それでいいじゃないかと、自分の呼吸があって、生きていける。
 その人が生きていくと言う最低限の保障をするのに、今の仕組みの方が合っていない部分が幸福な老後を約束できないのです。天体は自然の運行なのに、それに付随して暦が決められ、曜日もできて、いつの間にか暮らしというものが、暮らしの範囲の他者への配慮と感謝の交わりから、もっと大きい力の動きに連ならないと、動けないように組み立てられていて、その競争をしつづけるのが人生になってしまっているのです。
 おかしいと感じていても、抜けだせないのを当然としてしまうから、何事についても自分がどう判断したのかはあとで考える、まずは大勢が決める事で世の中は動くのだからという思考形式が、正しき社会人だろうと考えるような教育だったのです。労働可能年齢、終身雇用制、年金支給年齢。それらも、意味があったのかどうか、誰のためのものだったのか、誰によって判断されるのかと考えると、生きている枠の中でもがいてしまいます。まだ、現状を変えていかないとならない事も多く見つけるのです。

 でも、一番大事なのは、自分で判断し、その事に責任を持っている生き方だろうと思うのです。もう、父が死んだ年齢の今年を迎え、父が亡くなった時からずっと、一つの節目として考えてきたものは終了して、残された時間になったのです。付録のごとき自分の仕上げの時間が与えられたなら、それは喜んでいただこうと考えています。変に加齢を嫌がりたくないのです。
 まだ若い、と若いものと競うのではなく、自分らしい歳のとり方、齢の重ね方をしたいものです。穏やかに日々を暮らしながら、芯をもっている。それを夢見ています。一週間のはじまりといつもは思うのにふと疑問を感じました。

2011年11月3日木曜日

喜び



 我が家の庭。すなわち義父の領分である階下の僅かな地面から、昨日連れ合いはなんと山芋を掘りだしました。東京スカイツリーの下とも言える墨田区なのですが、ムカゴの蔓の本には、やはりちゃんと芋があるのですね。お昼に二八そばでとろろ蕎麦にしたのですが、義父は、山芋は嫌いといい、丼から掬い出します。好き嫌いあるなら、作らなけりゃいいのにと義母と私が言い立てます。もごもご食べていました。
 お米、娘の友人が長野に嫁いで初めての今年。自分でつくって稲刈りしたものを届けてくれました。墨田から、信州の農家の嫁に、若い世代が選んだ道もまた喜びです。これからの希望です。
 そう、母と話ました。信頼と言う事を書いた、「何もないのに」の、話が違うと感じていたけれど、何もないけれど何とかなったと言う事ではなく、「御まかせした」と言う事が書かれていないという感じだと言う事です。生かされていると言う事は、信頼するとは、深い意味での御まかせしていくと言う事なのだと。
 その事は私にも分かるのですけれど、なんだか、貧乏を誇るような、良い子ぶりっ子の様な文章だったのです。未熟である事をあらためて考える日です。なんとか行き詰っている文章ができるでしょうか。秋の喜びの日。

2011年10月28日金曜日

自画像について


 前々から約束していたゴヤ展。「光と影」と題されたプラド美術館所蔵作品展が上野の西洋美術館で開かれていて、経産省前に行かずに秋の半日は、エルミタージュより潔いプラドへの敬意を表しました。
 堀田善衛の「ゴヤ」が連載されていた頃には、難解さを飲み込みながら読んでいく体力があったなと思い出します。受験期も重なっていて幾章か飛ばしているので、この機会に読みなおそうと思い文庫本を買いました。
 出かける前に、鏡をみると、そこに居るのは誰だったのか。自と他というならば、そこに居たのは自分であったのでしょうか。諦め、もしくは嫌悪、または拒否のまなざしを持った写し姿。もう一人の分身が居るのです。およそ、近代的自我について、いつから認識されてきたのかと考えると、日本画では、ほとんど自画像というのは知らないのです。この数年の西洋絵画展では、幾つも画家自身の自画像がかかるのに、日本の画家の自画像ではあまり印象に残るものがないです。
 それは、自というものの在り方が違うのだと、その連載を読んでいた頃から、自分の中で探るべき命題だったのです。
 光と影を、見詰めた画家と説明アナウンスは言いますが、私は鏡の中のもう一人との対話で自分の中に在る光と影。そのパラレルな関係を兄と分け持ったように感じながら、人生を経てきたのです。鏡に映るのは、自分であって自分でないようにも見えてしまったのでした。そもそもが、自というものはあって無いもの、無くて有るものなのだと。まだまだ追求しなければならない課題です。

 そんな事を考えながら、ゴヤ展に入ると最初の展示は自画像についてでした。

2011年10月25日火曜日

何もないのに

 あのプレハブが建った頃。一銭のお金も無い、米櫃にもお米の一粒も残っていないコロニーの台所を任されていた母。それでもなんとかなるだろうと寝て、一晩明けたら、町の製菓店から、お餅が残ったからと持ってきてくれて、今日はお雑煮です。と出していると、お地蔵様にお供えしたのを分けてと麓の村の人からお米のお下がりをもらって、大丈夫なんとかなったのよ。と言います。
 信頼の根っこはどこにあるのでしょう。自分の絶対的な信頼を、生かされている。そのことばを私は今こなし切れていないで、呻吟しているのに、母のしてきた経験。この実体験をことばにするという作業。
 富良野の国の子寮でね。と電話の向こうで話します。あの頃外米に麦のぽろぽろのご飯だったのよ。すぐぱらぱらになって。そこに山わさびを子供達が山に行って採って来てくれて、それを擦りおろしてご飯に乗せてお醤油かけて食べて、今週、懐かしくて山わさびの漬物買ったわ。
 私は、幌加内のおそば。お母さん、女学校に幌加内の人達は橇で来て、冬は寄宿して勉強していたって話してくれたでしょう。そう確かね。だから、私も購入してみたけど今は幌加内は国内でも大きな蕎麦の産地だって。
 どうにかして、私は母との会話をまとめようとし始めてすでに三年。沢山の思いと言葉は蓄積してきたのに、肝心なところが、詰めていない。今現在の事。信頼ということの揺るぎなさを、2011年の秋夕。

2011年10月24日月曜日

減反


 ついに、ベランダ田んぼの減反を考えたのです。そしてエネルギー自給を?相変わらずチマっとした思想しかないのです。火鉢田んぼは、本来の火鉢に復活させる事にしました。この中で育っていたイトミミズ達は残したいので、その土と一緒にあとの二枚の、容器に移して、秋耕起だとか思っています。今年のお米は自家採種から育てたものだけに、絶対また、どこかで増やせると思っているのですが、冬水田んぼ。
 新たな事を学びながら、次の在り方。仕組みづくりをしないとなりません。今週末からまた忙しい時季になります。

2011年10月18日火曜日

精神の強靭さ


 安穏朝市では、見事に束子売り。今月は箒を良く売ったかもしれません。秋とは思えない暑い日でした。それでも空は秋の色。10月に入ってから、少しまたものを書く時間を意識しないといけないと思っていますが、イベントの連続であったり、我が家イベントもあったり、半ばを過ぎてまもなく霜の月。菊の花も似合うはず。朝市のお客さんが抱えていたのを、思わず、綺麗な色と雪柳の葉が赤くなるのを知らなかった文庫番は、声をかけました。そしたら、生け花帰りのそれこそ妙齢の方が、菊と吾も紅と赤い葉っぱの雪柳の束をどうぞとくれました。どうせ遠いからと。
 向かいのブース。朝一本50円だったまこもダケ。夕方値下げしていると店開き直後に買った悔しさが顔に合ったのでしょうか、帰り間際にかぼちゃをもらっちゃいました。
 菊、これからの季節の花ですね。華やかな印象ではないのですけど、自分の誕生月の花。飾ってみました。
 ガラス越しに精神のぶっつかり合い。互いに折れる事の無い意思を持っています。ここまで来て“自”と“他”の間に違いが有るとか無いとかを真っ先に論じあう兄妹も、あまり居ないのでしょう。メモ執る人もいぶかしそうです。
 対立する意見の様で、互いを知っているので、同じ事を言っているのを知りつつ、言葉を変えることなく所定の時間を終える。不毛の会話であるようでいて、確信を残す。くじけていない。言葉も意思も多くは持たない。

2011年10月13日木曜日

ムカゴが実って


 おさんどんと白拍子など考えて、
 昨日は、一カ月に一回の義母の通院付添。!なんて楽な嫁稼業。午前11時の予約で帰宅は5時過ぎ。徒歩で15分足らずの病院であるにも関わらず、しかも何故か担当医の診察日は連れ合いの休日日なので、車で行って迎えにも来てもらうのに、被曝レントゲンは毎回、そして診察数分、お薬処方。医院内薬局で受取、会計を済ませる。それだけで、一日は終わってしまいました。
 本日は、9月に軽くなった介護度に合わせたケア・プランの作成に、支援センターから来てくれたのですが、義母も私もちょっとぐったり。午前中は終わり、お昼はばたばたと作りましたが、難ありかな。
 おさんどんの日々。ここに充実を見出しているのですけれど、こうなって、やっと見習い主婦から、台所が我が城とも言えるはず・・・・。
 掃除・洗濯・三度の食事の支度で日々暮らし、今の社会状況で、家の中で食事の支度ができる、自分で納得のできる素材を注文して作れるのは、贅沢とも言われそうです。
 平家物語の講座は毎月、第二火曜日午後に隣区で開かれるのですが、何やら水準が高く、DVD造影も駆使されていて、好評で4回講座が半年間になりそうです。今回は「祇王」仏も昔は凡夫・・でした。白拍子という職能についても話されます。納得できる事が多いにある男装の麗人の説明。そうだったのかと歴史に学ぶのですけれど、女性の能力で、家の子縁者を養うと言う事が求められるのはいつの世も変わらないのだろうと思うと、芸能と闇権力。そして、さまざまな社会の中の関係が考えられるのです。 求められる事が二分されると、そこに障害となって顕れてしまうのです。そこを昇華させての芸です。さて
 格差を是正したいという世界での動き。ベン・ハーが絶った奴隷の鎖が、また誰かにはめられたのは、何時なのか。歴史の中から、収奪する側と、抗う側という構造を無くすには、何をすればよいのか。あの映画もアメリカハリウッドの傑作!。

 ひたすら長い待合室での時間。義母は無駄に話をしない人ですから、私は岩波文庫の平家物語を読みながらそのような事を考える時間としました。 
 病院から戻ると、ベランダの山芋の蔓は、落とされてムカゴが集められていました。

2011年10月8日土曜日

継続している


 ほそぼそとですが、すでに20年近い雨水探検隊。今日がその二カ月に一度程度の活動日になりましたが、今月は、私にとっては楽なスケジュールで、環境ふれあい館と、花と緑の学習園での、すみだの生き物についてのお話。環境ふれあい館。しばらくぶりに中に入るとやはり面白い。
 今年はとても緩やかな募集の仕方ですので、保護者も入れて20名に満たない人数。広くはない学習園の中にはちょうど良かったです。次回12月についてはまだ、日程も決まっていませんけど、クリスマス会。自分のスケジュールが年末ぐちゃぐちゃになっています。それでも、長く続いているものです。

2011年10月3日月曜日

希望


 まわり道 出会い道と題された個展が大宮で開かれると案内のはがきが来て、茨城の母と一緒に観るのには、どうすれば可能なのか、これは是非にも行かないとならないのだからと、お互いの自由の効く時間を合わせると半日しか取れなかったのですが、前々泊した下の娘と常磐線で上野に出てきた母と落ち合って、伊賀和子展に行ってきました。この葉書の絵は「希望」。
 そうなのです。原町出身の彼女は重度障害を持ちながら、障害者同士結婚、出産そして画業を続け、今回の個展を開いてくれた。そこに行く私たちにとっても希望であるし、今、もし放射能で脅え、将来子供を授かれないと思う人が居たら、そうじゃない、どんなに障害があっても、生まれてくるいのちを受け止められる社会をつくろうと言う事ができるのは、忘れてはならない希望なのです。
 個展は明日までさいたま市大宮区上小町522 ギャラリー「空」048-644-4086で開かれています。

2011年9月29日木曜日

煌めきはここに

 私の虹は、そう言えば今年の雨の降り方に、昨年あれほど観る事ができた虹をみなかった。いやみる事をしなかったのかも知れないと、今朝、思ったのは、軽米のリンドウを活けてあるガラスの花器を通した、朝の光がプリズムとなって、水仕事をしている流しに虹の七色を映した一瞬があったからです。
 この一瞬は、私だけの喜びです。台所に立ち、花入れを洗い窓辺に置く。そんな暮らしの中に、この不思議な偏光の投影ができる。毎日の暮らしを見つめる事で、光を発見できるのでした。
 爽やかな秋の空となり、一年中で、今しかないという大気も、義父にはエアコンの数字で調節したものが、自分の世界になって、体感を忘れているようですが、義母に追い立てられ、リモコンを手放し、外に出かけます。家の中で言う事を聞くのはリモコンだけなのかしらと、ふっと可笑しくなってしまいます。
 

2011年9月23日金曜日

何か変わった

 花は紅 柳は緑 何を季節はずれなとなりますが、今朝、空気が変化し、季節が移ったのが感じられました。その意味を考えていたら、憑き物が落ちるように、整理されてきたように考え方がまとまってきたのです。
 私の挨拶で、自分で一番覚えているのは「花は紅 柳は緑」でしょうか。東京駅から春の修学旅行で京都へ向かう中学校の生徒たちに話したものです。春の京都であるがままのものを感じていらっしゃいとあなたたちもあなたたち自身なのだからと。中学生という多感な身体も精神も伸びていく年齢の生徒たちへの挨拶から経験したことが、その後の私には、大変役立った真剣なやりとりでした。もちろん東京駅集合に間に合うように急ぎながら、花は緑柳は紅と間違わない様にと、心したのです。その学年の子たちは、秋の文化祭のテーマを、「To be Natural」 として返してくれたのでした。挨拶は一方的に自分を語るのではなくやりとりできる投げかけなのだと知ったのです。
 今朝は、お彼岸の中日。秋分だったのです。そして野分のあと。相対性理論は崩れたのでしょうか。それでも、不可逆である時間と、天文の巡りからの季節の繰り返しに折り合いを付け、その日に縁のあった人を偲ぶ折り目をいれた生き方の智恵。無理のないあるがままの朝の空気を受け止められました。
 玄関先には台風の置き土産の落ち葉の吹きだまりができていました。それを掃きながら、または階段の埃を拭きながら、シュリー・バンドクにお釈迦さまが諭した内容を、また思い出したのです。自分のこころも、繰り返し繰り返し、浄めていくのだと。いくらでも捉われるように、吹きだまりもできるけれど、また、最初からやり直せばいいのだと、お彼岸にやっと思い出せました。生成りはあるがままなのです。きっと新しいことばが生まれる兆しなのです。

2011年9月22日木曜日

氾濫する思いに

二河白道という言葉があります。この場合適切な用い方ではないと思いながら芦屋駅ホームから見た流れの写真です。
 
 台風15号が来ているにも関わらず、新幹線の下りは動いていたので、神戸に日帰りで行けば、夕刻の顔合わせには戻れると考え、小倉修悟さんの告別式に出ました。会議に出ていた中で、一致するところも多かったかと思っていますが、事業を牽引する立場と、組合員のくらしの視点との考えを一致させていく難しさを互いの立場から考えていたのではないかと今は思います。
 なかなかできない事であるのが解ります。
 人間が、絶体絶命で、引く事も、進む事もできない。その中で、どうしたらいいのだと、救われたいのだと思った時に、白い道が顕れるのだそうですけれど、絶体絶命の連続でもあったのではないでしょうか。
中国北部からの引き上げ体験からその人生は始まるのです。そして、この冊子の最後には般若心経の大事な言葉がありました。 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 心が安らかに、安らかにお休みください。
 
 壮絶なスキルス型の胃癌の闘病。生協への思い。家族・・。私は連れ合いの最後を看とるよりは看とられたいのが願いですけど、そうもままならないのだろうと考えます。
 一年にも満たない闘病で逝かれたのです。ご家族を残しながら、自分の余命を数えながら、痛みと恐怖の中。3月の震災・津波に襲われるのと、理不尽な病魔に押し寄せられるのと。重ね合わせてというくだりを、台風の影響で新幹線の止まった新大阪の駅の待合で読むのでした。関西はそれて、東海・関東に上陸となり、大阪での宿と食事を探す事になります。上りの新幹線は、朝にならないと動かないのでした。
 
 溢れ出る思い。滂沱の涙。そして、道筋を付けていこうとする人の知恵ともいう煩悩。
 この台風の最中の葬儀の取り仕切り、案内誘導は、風雨に飛ばされそうになりながら、白いビニール合羽でご当家のホール案内を示してくれていました。コープこうべの多くの職員さんたちの涙もこの雨になっていたのでしょう。そして・・。 
 二河白道。私などはまだまだ、本当に前へも後ろへも行けないほどの苦しみは味わっていないのだろうと、だから迷いながらしか、日々を暮らしていないのかもしれません。

2011年9月17日土曜日

分かち合うと言う事

 産直と言う事を、産地から消費地へのものの流れと単純には言えない。
以前、そこに持たざる者同士が協同する意思を持つ事と、一つの解答を持てたのですけれど、藪川の開拓組合の歴史を聞き、墨田の皮革産業を受け止め、いのちの在り方を考えると、その大切な産物をどう分かち合えるのかを産直と表現するのだと、いまさらながら自分のことばとする事ができました。その事を、狭山で報告できた事。私のこころにひっかかっていた痛みだった事の一つをお話できました。
 消費する側として、どう分かち合いの形。仕組みを作れるのか。それは争いもいさかいもない世界を目指す事になるのです。産直とは、戦争と飢餓の無い思考を人類が手に入れる道なのです。先輩方が創ってきてくれた道です。

2011年9月13日火曜日

諸行無常

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響き有り
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す
奢れる者久しからず 唯春の夜の夢の如し
猛き人も終には亡びぬ 偏に風の前の塵に同じ

 本日から、平家物語の講義となりました。全四回。昨年までの伊勢物語とはがらっと変わって、二時間半。みっちり、中世の無常感と政治の権謀術数について、祇園精舎のところと殿上闇討のところを、学んでいます。
 8月半ば過ぎに保護観察官から兄の今後の身元引受ができるかと一通の封書が来ましたが、義父母、そして母の様子を伝えると、同居が前提だからと、役人らしく判断され、私一人であれば、兄との理解もあろうと思うのに、ままならない。そのまま。この在り方を抱えて、マハラバはあるのです。たった一人の同胞でさえ、棄てるのかと。一体いままでしている事は何なのだろうと。

2011年9月11日日曜日

あの日から

あの日からと言う時に、どうして震災から半年。9.11から10年としか言わないのだろう。9月10日は国内でのBSE発生からの重要な日であったのに。その時もっと深く国際経済・金融の動きを消費者として、食べるものとして感知していれば、この巨大電力の構造とも正対できていたのに。

2011年9月9日金曜日

重陽

 菊のりがあったので、日本酒と思っていたのですが、さすがに蒸し暑い昼夜。今日はノンアルコールになったようです。一年中で一番陽気が集まるのです。なんとなくやり残して秋になっていた事も、順々に済ませて、身の回りの変化が季節の移りを表すようになった感じです。繰り返す事の無い時間の流れ。その中に折々に刻みを入れていた古人のゆかしさを辿ります。
昨日からお茶も九月のお稽古。床の掛けものは「清光」。

2011年9月5日月曜日

山仕事讃歌です



 見本ができてきました。発売は9月15日ですが、書店に予約していただけると幸いです。
一冊の本になるまでの、岩手県盛岡市玉山区藪川とのイーハトブ農場を通じた交流。そして「茨城を愛する会」を含めた各地域への訪問。岩手県軽米町、茨城県常陸大宮市、福島県大沼郡三島町を中心に、山梨県上野原市西原、福島県南会津郡布沢、福島県南相馬郡飯館村佐須などから得た、ものづくり、地域興し。食と分かち合いの思想。そして外山開拓の歴史、3月11日以降のこれからの社会と経済のしくみはどこにあるかをまとめる事ができました。ほっと一息つく事ができます。
 
「山仕事讃歌」一冊1200円+税 著者 増田レア(増田・大仏・レア) マハラバ文庫 図書新聞社刊

2011年8月27日土曜日

数えてみれば

 本日、8月27日は、父の誕生日。とは言っても53歳で死んでいるので、今年の私と同じ年齢だったのです。この数日父の文章として、アップしてあるものを読みなおしていますが、7月6日の文章や、父からの手紙のような小文の中で、簡潔に言われている事を実際に“生き方”としてできる人は少ない。
 実践があって、思想となり、思想があって実践が可能であったのです。その事に賛嘆するのはできても、同じ生き方はできない人が、ほとんどであったのです。父の死の前の絶望、マハラバは絶望の思想なのだと言いきっている事は、生きていた間の、家族として目に見えていた個人にかかるさまざまな苦しみ、悲しみも言っているようでもあるのです。
 そして、残された私は、至らない娘だから、希望を掲げる事を選んでいるのだろうと思っています。どこまでできるのか、自分の意思を貫けるのか。
 この年齢になって迷いながらも、一つの意思を守ると言う事が、相対するものも守る、もっと言えば他者を守る事なのだと考えるのです。
 いくつもの、小さな産地や技が、今消えていきそうです。ですが、そこに貫こうという意思、守っていく拘りがある時、その事が他者の希望となり、他をも守る事になるのだとこれからも言っていこうと、私にできる事をするしかないのです。父の年齢を超える、時間という不可逆な流れに生きていくのです。

2011年8月21日日曜日

ショウジョウトンボ


 昨日、8月20日は、雨水探検隊の活動日。都立水元公園での半日野外観察。ほっとするところ。ホットスポットなんて探検隊は考えない。
 沢山の生き物との触れ合い。自然の不思議に引率の子供たちも親たちも大喜び。蚊に刺されたら、ドクダミ擦って、かゆみ止め。これもまた、大事な知恵も学べました。
 沢山のトンボの交尾の時期でした。この個体の傍に番がいます。残念なことに二頭一緒の写真は撮れませんでした。こころが吸いつくような、緋の色に人間とは違う生き物のいのちの美しさを思います。
はたして、人間のいのちの在り方はこれほど美しく彼らから見えるのでしょうか。

2011年8月15日月曜日

並々ならぬ決意で

 そう言われると、そうではないですよ。8月15日が株式会社マハラバ文庫の設立日であるのは、この記日を選んだのでは全然なく、2006年から2007年にかけて自宅の水周りの改装をして、ようやく6月過ぎに会社の定款作りをし登記手続きをしたら、たまたま8月15日という日にちになったのです。
 肩に力を入れて、終戦なのか敗戦なのかという論議をしていたのとは、訳が違いますね。創立記念日。あ、来年になったらいよいよ5周年・・・・。持つかな。

2011年8月13日土曜日

流星も見ずに


そう言えば、遥か昔の高校時代の私は科学部とかに居た記憶があります。天文部には合宿もあったのですが、天体の事、宇宙の動きは父の興味からか、良く会話にありました。合宿するのはあまり好まなかったので科学部だったのかもしれないです。
 私はあの空に観える星が一体本当は何色なのかも知りたい。そう言った時、星は星色なんだ。と変な説明に納得してしまい、地上に居続けることになったのかも知れません。
 この一ヶ月間で走行距離は1200㌔。車を買う前の中央線での往復も入れると、どれほどの行き来になるでしょう。連れ合いは山梨に入り浸り。そのほとんどに同行しながら、二地域居住など現実を見てない話だと、こけつまろびつ夏休み。義母からは保養所と言われるけれど、私は行けば掃除に炎熱の草むしり。そして魂を置いてある茨城の山の中でのあの会話に、もっと慎重に思慮を働かせられる経験があったらと思い返すのでした。

2011年8月10日水曜日

茨城行


八月九日は母の誕生日でもあるのです。なんとお誕生日手術!ということで先日の白内障、左目もするということでした。右目の手術がうまくいって、鏡をみたら皺くちゃ婆さんがいたの。と言いますが、これで両目が明るくなったら、娘の衰えも分かってしまうでしょう。
 所詮、人のしていることには、限りがあってもっと大きい摂理の中での惑いなのだと、考えています。この母の手術の間にも茨城に来ましたが、その時は午前でしたので、土浦から神立の間の蓮田に大きな白い花があり、ピンクのも混ざって、大きな緑深い葉の波が風に動くなかに、その垂直の茎の上の花が揺れるのを見ると、今年の震災・津波で波に巻き込まれてしまった魂が、お盆月に何かを語っているようにも見えるのでした。これは、何回もこの蓮田を見てきて今年初めての感覚でした。その日は、帰る事など一生のうちには無いと考えていた、ふるさとの山に行き承知はしていたけれど、物事には留まる事はない、無常ともいえる寂寞感が蓮田の花に感じたのでしょう。この葉や花の下。水の中、泥の中で育つ今年の蓮根。丹精込めている生産者のためにも、出荷できることが望ましいのですが、それも願いながらも、どこかでやるせない眺めだったのです。遅れて昨日の午後の常磐線から撮った写真です。昨日は長崎原爆忌。

2011年8月7日日曜日

分裂を招いたか


バケツの稲は、出穂しました。この一株だけは先に火鉢から直に生えて田植えをしなかったもの。その他の稲も順調な様子でゴーヤのカーテンに負けず伸びています。間もなく全体に穂がでるでしょう。検査はしません。またお正月の〆飾りにする分とします。今年は二つ作る事になるのでしょうか。夏休みになった連れ合いは山梨のところと行き来をしてます。義父母は、今のところで死にたいと言います。子供たちはそれぞれ。私は今は兄との音信が繋がり、茨城での責任も感じるところ。この先どういう形が望ましいのか、順調と言えるのか。すべての要因が、見えません。

2011年8月1日月曜日

実ると言う事


ゴーヤの実は案外早く種を実らせるのだと解りました。しかも効率良く地面に(ベランダに)落ちるのです。順番に、全部食べきれないうちに、下部が膨らんで色が変化したら、気がついたらもう種は、集まって落ちるようになってました。この下に落ちた種の周りには、どこから来たのか蟻が黒く群がっていたのです。
 この苦瓜、全部を適時に収穫されないものとして即効無駄なく種を落とすのが面白い。

2011年7月26日火曜日

内視鏡検査

 まさか、腫瘍があるのだろうか?確かに暴食・悪食。ストレス過多。
昨年11月に検診を受けて、何も所見は無かったのに、今年検査施設を変えて早めに受けたバリウム撮影で、何か膨らみがあるようだから、再検査となったのです。
 この半年の間の環境変化については、本人の意思とは関わりなく襲いかかって来ています。自由な個人であるわけだから、すべて、関わる必要ないはじゃない、そういう事が言えるのでしょうか?
 ストレスの原因はあれこれ探って、家族を悩ませ、義父母には伝えず、日程を合わせ合わせて、時間をやりくりして行った内視鏡検査。スコープを飲み込むのにも涙して、綺麗ですね!
 普通に生活して大丈夫ですよ、異常はありません。きっとバリウムの泡でも写ったのでしょう。
検査申込みの費用、検査費用、時間、心配・・・・。医者のぼったくり?
結果良し。

2011年7月16日土曜日

ベランダ里山?




一体どこに、洗濯物を干せばいいのかと、この数日蔓を外しながら、悪戦苦闘しています。そんなに広くないのか、私の身体の幅が増えているのかともかく狭くなった原因は、何でしょう。
 山芋の花らしいです。一階の義父の庭から、絡まり上がってきています。これは西側に繁ってきました。このまま屋根に上るかもしれません。要らなくなったパラボナアンテナを取ってみて、花に気が付きました。
 ゴーヤのカーテンと、三枚の田んぼ。南に面している田んぼにはアオミドロも沢山。奥の火鉢田んぼは、今年はアオミドロはでていません。ミジンコに続いてイトミミズも居ました!こういう裸体の美しい生き物が、今年の大気と水にどうその姿をさらしているのか、観察しながら、将来の大地の健やかな事を願います。
 ゴーヤ、できました。今朝娘が初収穫して、家族に見せると感歎の声。お昼にチャンプルーにします。きゅうりと一緒に写したので、それなりの太さが解ると思うのです。まだまだ沢山実ってきそうです。
朝顔の蔓も延びてきました。さて。

2011年7月4日月曜日

メロンパン



茨城に行く時間が取れない文庫番。思いっきり出ればいいのにと思う時もあるけれど、私以上に出歩けない義父母。それらを考えてしまうと自縛。そういう私に母のところに行った娘が買ってきてくれたお土産は、話題にしていた、茨城産クインシーメロンを使った、茨城限定品のメロンパン。午前中のお茶時間にすっかり食べました。

2011年6月30日木曜日

恐れていた事に



我がベランダのゴーヤに実が付いていました。
物干しの中にネットがあるのでつかえています。この大きさのものは三個発見しました。まだまだ花芽はあります。雄花はすぐ散りますが、雌花は実と一体の時間が長いように感じます。これが全部大きな実になったらどうしましょう。そんな心配をしています。野菜中心の食べ方になったと言っても、連れ合いの好き嫌いは、食卓でのお箸の進み方で感じるので、工夫すればいいのですが、あまり手はかけたくないのが本音。
実りは嬉しいけれどです。
 また一方でこのゴーヤの蔓は私の大事な火鉢田んぼの稲の葉に絡みついていたりします。誘導して絡まないようにしなければなりません。これも、最初にベランダゴーヤの話になった時からの恐れでした。

2011年6月27日月曜日

小麦価格




それも、気にならないわけじゃないけれど、どうやって美味しいものとして食卓に出せるのか。大人ばっかりの世帯には、毎日が難しい。朝のパンが無いようだと分かった日には午後、乾物のところにパンに焼ける小麦粉や酵母があれば、家で焼くようにしたい。出不精な自分。
 今日の焼きあがりはまずまず。焼きおにぎりもあります。人参と、夏 ミカンのサラダ。昨夜おかずが多いと、見向きもされなかった小鯵のエスカベーシュ摺り胡麻。大根おろしを主としたドレッシング。ピクルス。お皿は焼き魚用のものでした。お鍋はジャガイモとホウレン草のスープ。これはパン皿と揃いのスープ皿にいれました。なんだか、写真を撮ったのでアップしておきます。しかし、文章が形になりません。葉書も書かないと。

2011年6月21日火曜日

二地域居住宣言

父の日に連れ合いは、集まってくれた、長女、その相手、長男、下の娘。三人の子供にも、二年後の退職時までの、二地域居住を宣言します。車も買うとか。義父母は、私の母は??そして兄は・・・。私は三地域への通いになるのでしょう。全員一緒に来たら良いとは、構想したようですが、高齢者にはそれが通じるか難しいです。連れ合いは、セカンドライフを考えていたのだと。あらためて、できる限り傍に居ようと思うのです。先行きこの二年間どうなるかは解りません。
土いじりができるようになりたいのだと言う事すら、仕事第一だった時には解らなかった妻だったわけです。なんだか夢の先を越されたのが、嬉しいのですが、家族それぞれハレーションを起こしています。わくわくです。

2011年6月16日木曜日

レベルアップ?


今年は、稲の苗をどのように入手できるか、雨水探検隊もなかなか今年度の立ちあがりが進まないうちに、昨年の籾から試しに発芽するかと置いたものが、育ってきていたので、5葉になるのを待って定植。
 今年はゴーヤも育てているので、ベランダの混雑は、語りようもないです。
 現在、三枚田の中にはミジンコが沢山。まだイトミミズの観察は今年していないのですけれど、苗が落ち着いたら、また観察をしたいと思っています。

2011年6月15日水曜日

所詮この世は

仮住まいなのだと思う。この数日間、実にめまぐるしく動いていたと思います。どちらにしても、義父母とのくらしを中心に組み立てるのに、土・日は岩手盛岡に行き、始発で帰り、その翌日には茨城県南に朝のうちに着くようにし、兄の土浦駅内での托鉢に伴う、暴行事件のなりゆきを見に行き、次の日は、新宿の京王プラザホテルでの総代会のなりゆきを見、水曜日には、山梨に連れ合いと行き、人生のなりゆきを見る。その合間には、娘たちとのリレーで、義父母の食事があったのです。
 所詮この世は仮住まい。そういう思いに浸ったのです。これだけ移動していると、しっかりと、朝からご飯を炊いて留守宅用にはおにぎりを置いてでるのに、自分は駅で買ったおにぎり。
しかし、日本の食事は、薄っぺらな味になってしまったのだと、思わず涙が出そうになるのです。この兄とも行き来せずに、ひたすら食べるものを追いかけてきた間。社会への働きかけができていなかったのだろうと、消費者としての自分の家庭の食しか考えてこなかったのだろうと、外で買おうとすると、単純なおにぎりですら、これほど、添加物にまみれているのか、鬼嫁になりきって、義父母の分を減らして、自宅で炊いたお米でつくったのを持って出る方がどれほど納得できるのかと、思うのでした。
おかしい。なんのために。

兄は、実刑でした。行為は行為であっても、通じない理論の中。いづれ茨城の朽ちた寺で死んでいく覚悟であることは確かめられたのです。言葉を交わしたのは四半世紀ぶりでした。

2011年6月9日木曜日

夏 ミカン



今週の配送でe注文の夏 ミカンが来たのです。まだ夏風邪の残っている我が家。静岡生まれのしかも、昔でいえば小笠郡浜岡町云々の義父。蜜柑を食べたいと言ってますから、ネット注文に夏 みかんを見つけて、ハウスみかんじゃないし、貴重なもので一袋に三個しかないのだから二袋購入すれば、我が家一人一個は食べられるかなと、画面で見てわくわく一週間まって届いた夏ミカン。夏ミカンだ。夏 ミカンじゃない。
そういう日ゴーヤの一番花が咲きました。

2011年6月8日水曜日

葉っぱいっぱいあさひや農場の箱


この頃、今までと食事作りの内容が変わって、真面目に野菜で朝昼晩を調理しています。漬物、煮物が中心です。微妙に登録のふーどの野菜ボックスでは足りないと、あさひや農場さんから、今週は買ってみました。
小岩から、佐久穂に就農したあさひや農場さんは、自然農。畑には一回しか行けてませんが、食べる時に畑を思い浮かべられるのは、美味しく食べる要素です。

2011年5月29日日曜日

グリーンカーテン


今年は我が家もゴーヤを育てる事になりました。娘が4本植えてネットも張ってあります。
ところで、思ったより色が濃いのはなたね油だからでしょう。これは何かと言えば、ゴーヤのワタの部分の天ぷら。塩でも天つゆでも美味しい。種もぽりぽりとして、ワタの食感とも相まって。
もちろん皮の方はチャンプルーにしました。ミミガーの揚げたスナックがあったので、それを使ったものでした。丸ごと食べるって、美味しい事です。
 ベランダの苗からは何個実るでしょう。名前はサンジ1号からサンジ4号にしました。

2011年5月27日金曜日

被害は拡散されるだけ

本人の風邪は峠を越えて収束に向かうのでしょう。娘たちもなんだか鼻声です。無理せず通院は休んだ義母もすっかり風邪声の上に、義父までも。昨年の義父の発熱もあるので、寝ていてくれるといいのに、二人並んでテレビのニュースを観ては、言う事がくるくる変わるのです。大丈夫、心配要らない。最初に防いだ。・・掛け布団は厚いのに戻してくれ。などなど・・・対応する方も、なんだかなぁ・・。みんなビョーキと言いたいです。

2011年5月26日木曜日

ご報告



 昨日開催の「もっと知りたい!アニマルウェルフェアのゴール」無事終了しました。
写真撮影記録は杉山忠義さん。(株)パルミートの桑島雄三さん、山口産業株式会社山口明宏さん、お二人の報告内容と会場も含めたディスカッションと実際の展示物を見ながらの交換で、時間一杯使いました。会場は中ノ郷信用組合立花支店ホール。だからこそ、できた催しでもあったと、振り返って思います。
参加した方々にも感謝です。地元でできること、地域を知らせるという事の大切さをまた勉強。風邪は本復にはまだ至ってません。

2011年5月20日金曜日

悪化の一途

どうしてこうも咳が出るのだろうという夜明け。ごほごほ、げほげほしながら。隣へうるさいのだろうと寝てもいれず、また目覚めているとそれだけ、咳き込んで。今朝はまた苦しかったです。
一昨日、午前中で終わるかという会議が長引いて、それでも帰宅して町内の内科医にいって、風邪の治りかけと言われて、処方してもらっているのにです。
 昨日は、半日立ちっぱなし。有楽町国際フォーラムでの「想定外被害をぶっとばせ!青空市」での呼び込み、売り子でしたから、朝市に出てないマハラバ商売。野菜売りもできるのです。と。張り切ってみせて。
今朝の悪化。だるい一日。
 情報によれば、関東一円どこへ行っても、放射能まみれのような。風邪はもう峠を越えた感じですが、原子力発電事故はまだまだ終わりが見えません。昨日は東電の会議室に先輩方と行きましたが、風邪薬の効き目でぼーっとしていたのでした。

2011年5月16日月曜日

風邪が治らない・・。

どこかで、不摂生が続いているようです。運動不足だってさんざん言われている事は、その通り。
体力は落ち、体形は言うに及ばず、体重は強い味方。それなのに、喉に何かが絡まったままのこの二週間。
そしてこの二カ月。休んでいないなと、休めていないなと思います。
それでも、昨日は予定よりは一週間遅れたけれど、茨城の母のところに行きました。常磐線沿いにみえる家の瓦屋根の修理は少し進んだようですが、まだブルーシートのところもあります。以北ではさらに大変だと聞いています。茨城県南で、いつも通りの母のところの様子。空気にも、空にも見えていないという平穏さ。
 もっと目を凝らせば、恐ろしいものが見えるなら納得できるのに、以北の人々の、やるせない、持っていきばのない怒り。想像します。
 そして、少しみんなと飲み食べ唄い、遅い帰宅でした。昨日。だから風邪は治りません。

2011年5月2日月曜日

夏風邪は

どうも、気温が安定しないで月が変わったようです。気が付いたら鼻風邪をひいて頭は重いようです。
放射能の影響とはげに恐ろしいものだと、わけわからず、風邪薬を飲もうかどうしようかと考えます。
そんななかで遅れていたお便りに企画あんないを出したら、参加費を書き忘れていました。
まさに夏風邪は・・・・・がひくでした。
5月25日午後2時~5時予定

会場 中ノ郷信用組合立花支店4階会議室

「もっと知りたい!アニマルウェルフェアのゴール」
 私たちの食べてるお肉って、革製品ってどうやって届くの?
 そして、東日本大震災の被災地の餓えていた動物たちは・・・!
 みんなでディスカッションしましょう。
(株)パル・ミート桑島雄三さんと山口産業株式会社 山口明宏さんを囲んで
主催 マハラバ文庫 お問い合わせ申し込み FAX03-3617-5730
参加費(資料代含む)お一人1000円です。定員30名を考えています。

 ぜひ、ご参加いただきたいので、いつものお便りの方々には近々、案内添付で再度の呼びかけにします。

義父母には嫁のおバカはうつせません。

2011年4月29日金曜日

いちい


『山仕事讃歌』のはじまりだった、岩手県軽米町。山根林業さんの炭焼き窯の裏に生えていた小さな苗木。
我が家玄関先に来て二度目の春。また、芽を伸ばしています。
新緑の清々しさ、健気さに申し訳ない気持ちと励まされる気持ちです。
 来年も芽を付けて欲しいと願っています。

2011年4月22日金曜日

自立性志向と協同

 まだ、退院三日目の義母、介護用具で来た杖をついては家の中を移動しています。あまり、急に動きすぎるとまた無理が来るのにと、思っているのですけど、言っても無駄であるのは解ってます。
 今までも本人たちの意思が第一。そして私たちも私たちの自由を確保して。しかしながら、良くコミュニケーションがとれていないと、難しい局面も出やすいのです。個々の自由自立がかならずも生活の調和に立っているものではないです。これは、同居世帯の事だけじゃない。
 協同とは不思議に自立がなければ成り立たないものであるのに、何かに依存する在り方で協同に置き換えてしまう場合が出てきます。
 元も子もない、自己責任とは言いきらない、同じ家の中での自立自尊を保障するには、鬼嫁のままでいるのがいいかもしれないです。
 茨城の母と電話で話します。テレビを見ながら怒っているようです。東電が節電の呼びかけをテレビでするなんておかしいというのです。テレビだって電気を使っているからですし、いかにももっともらしく、被災地の復興の後押しやらの放送しながらだと言うのです。ほとんどテレビは見ない私にはそれも解らないですが、時々義父母の見ているニュースを見る時もあるので、今日のニュースでの天皇皇后の避難所訪問などが映っているのを観ました。あの人たちも必死なのだろうと考えるのです。元号では表せない有史以来の災害なのです。この東日本大震災と原発事故は。古書では祀りごとの長とは、首長、祭司とは、天変地異の際に民に代わって首を切られる役割です。なんとか今まで続いた日の本の体制は残したいわけです。最初は皇室典範などという明治からのを、替えて男女別なくすればいいと思ったのですが、この禍は、そのような近年の間違いの糺ではないのだろうと思うのです。
 いいえ、もっと本来の無駄の無い、家すらも建てないで、(洞穴に)暮らし、灯りなどは太陽に任せる暮らしになる事を、今、よりスマートに考える時代なのかもしれないです。そこにエネルギーでも自立と協同の調和がありそうです。
そう今日はアースディ。母にはおめでとうと伝えます。私の兄の誕生した日です。
 

2011年4月20日水曜日

本日の義母の退院

お赤飯でお祝いしました。
自立性の強い人ですから、本人の意思に任せるのですが、できない事できる事それぞれあります。
入院中とはまた違う大変さがやってきそうです。
まずは、めでたい事です。家族相互の自立自尊の気持ちを損なわず、それが自分にとってもベストであるはずです。

2011年4月17日日曜日

低級日

わが社の休みは、連れ合いの定休日に合わせて週休二日にしているはず。はず。そのはずですが、日頃の業務が人からは、お休みではと思われる自宅会社。ここに、無報酬、非選任、常勤会長のような立場の義父。この常勤というのは、いつも居るという事ですから、ありがたいと思っています。ほっつき歩く嫁を暖かく送り出してくれていた義父母の存在を、今まで通りと考えられるのかどうかが、これからの体制になるなぁと思います。
 もしかしたら、月一の稼ぎところだった朝市出店を今月は義母の退院日かと、見合わせていたのですが、その分しがらみから、今月も築地まで行く事になりました。義父の朝食は7時半。お雑煮でいいのですけれど、誰が作るって、今朝まで考えてもいなかった文庫番。自分は朝食抜きで朝市に出ますから従来通りに朝起きてみたら、そうだ、お義父さん自分で煮えるように出汁と調味しておくからとは言ったのに、今煮てくれて良いよとなって、一時間早く済ませてくれましたが、想定外だったので、結局あたふたと、朝市手伝いになりました。これからもこうなるのであれば、出店できるかなぁ??と事業計画。
 それでも、顔出しただけで戻るしかなかったのですけれど、仕事もすすまず調子が出ず、やはり社長業は、なかなか休みが取れないものだと文庫番社長は思うのです。営業日はなかなか無いのですが、休みも無い。
水曜日に義母は退院できることになりました。明日は地域包括支援センターに介護用品についての相談に行く予定です。

2011年4月13日水曜日

なぜか畳替え

 文庫番家、全室和室。日曜日思うにかなわぬ事が、連れ合いに発生したとばっちりのように、この時期に?畳替えをすることにいきなりなって、昨日は都合が悪いと言って今日となっています。
 朝食後一番に畳屋が来て、二部屋の畳を持って行きました。床板の上に座っています。明日はどうなるのでしょう。義父は自分たちの部分はいじって欲しくないと言います。それもどうなるやら。
 

2011年4月10日日曜日

誰のものかと

 こういう日曜日は、薄曇りで、桜は満開で、どうでも良いから洗濯物は外に干して。
義父の食事は確保して、なんて午前中は忙しいのに、小学校の体育館の投票場へも出かけます。
まだ選挙ポスター掲示板は、知事分あって、すぐ区議選もあるようで隣に設置されています。
知事候補全員が貼られている訳でもないですが、選挙民としての義務感があります。
でも、義母は入院中で誰も一言も触れていません。義父も歩くのも面倒と投票しないし、若い世代も誰も良いのがいないと言います。
 有権者って重いですね。民主政治は、選挙からなのでしょうか。選良であればいいのですけれど、消去法で当選する人が勘違いしたまま数年を経るなんて事を繰り返して。これほど選びようがない、どれをとっても期待はしていないのに投票用紙は実効しなければならないのかと思うのです。
 有権者は政治に期待しているのでしょうか。何を・・・・??。

 坂本竜馬が、アメリカの将軍は入れ札で決めると聞いて、民主主義を納得したというような話を聞いた覚えがありますが、入れ札で民意があらわされると考えられたのは、将軍家も世襲だったのと違いを知ったからです。さて、まつりごとは、常に民意を得なければならないものです。いろいろな時代にいろいろ体制で、まつりごとの仕組みが考えられ、常に民衆を味方にする事で行われるのでしょうけれど、今民主的な政治は選挙という方法で表せているでしょうか。選挙をしなかった頃の人々の暮らしの中での社会としての決めごとは、地域の中での顔役たちや、いわゆる実力のある人が担っていたのでしょう。
 
 現在、もしかしたら多くの人、有権者が、選挙で選ばれた政治家がしてきた事は、評価していないけれど、自分たちの選挙民であることの義務行使で投票しなければならない事が先にあって、人物はあまり選べない中で投票が行われているのではと、思うのです。それほど、与野党どちらと入れ替えても政治家が機能しないと言う事を思い知ったこの数年なのです。区議選もはじります。宣伝カーは自粛して欲しいです。

2011年4月7日木曜日

泣けてくる歌です

母は、ディサービスでは、声も出るし、会話を楽しみ意欲的になるべく居るようにしていると言います。一人暮らしゆえに入ったようなもので、利用者さんの中では意識明瞭、理論的思考の人なのですが、カリキュラムが団体行動になっていますから、体操の時間、歌の時間。四季折々の行事などになっているようです。カラオケもあってね、古い歌ばっかり、軍歌ばっかりの時もあるの。歌いなさいよ、なんて職員さんがマイク持ってくるんだけれど、絶対嫌だから歌わないでいると、症状だと思うのよ。みんな口を開くのもかったるそうな人達だから、この間朧月夜を思いっきり歌ったら、歌えるんじゃないと言われたわ。と言います。
 本日、私は地域の中学校の入学式に顔出してきました。こういう式は面倒です。音痴な私でも斉唱などあるのですよ。一斉に歌うというのです。息もつづかないような、君が~~~で途絶えそうになるのですけれど、音痴であるのは代々の役員さんたちも知っているので気楽です。でも、向かい合わせで地域の人達と、教職員とが対面するような起立で歌うので、互いに誰が口を開けているのか、口を結んでいるのかを、窺い見るような位置で、牽制しあう「式」は子供たちへのお祝いには、残念な感じです。この歌が無ければ、喜びの場になると思うのです。
 それを言えば、小学校の頃に制定された県民の歌がありました。その頃から音痴でしたし、なんとなく三番に疑問を感じたのですが、今あらためて泣きたくなります。茨城県民の歌です。http://www.youtube.com/watch?v=-_OVs_J1HoA
 

2011年4月5日火曜日

奥の細道

 朗読の稽古の発表会は、繰り延べになっていますので、本日が最終稽古日となりました。「外郎売」「原体剣舞連」「奥の細道」すでに一年になる演目もありますが、先月開催される予定だったものが、稽古日も含めて、今月になったので、参加できる人数も分担も変更が今日になってです。
 この一カ月、お稽古はなかったのですけれど、家での練習ができる時間もありませんでした。皆さん同様です。それでも、自分の箇所をしっかり読みこんでいる人は上達が見えるのです。朗読なんて、ただ読むだけだとはなりません。お稽古のあるものは必ず回数で内容が深まるし、それが技術となるものです。
 子供の頃は自尊心が強かったのか、人に教え込まれる事がうっとおしかったのですが、今は、かなりありがたい事だと思うことが増えました。教えてもらえると言う事、ともに学ぶと言う事が、必要だと解ったのは、周りも、セカンドステージになった方々になってからです。やっと素直になったようです。
 「外郎売」も、指摘指導される事はなるほど、「原体剣舞連」は組み合わせがかなり変化ができました。「奥の細道」には泣きそうです。この平泉までの前半部、名勝旧跡と、奥の細道で読まれたところの多くが、被災地であることに、情景を思い浮かべながら、こころを込めるという朗読は、どうもテレビで報道されていた災害がオーバーラップされてしまいます。皆さんの中には昨年訪問もされている方もいらっしゃるので、惜しむ声、そして今回の地震・津波の話になってしまいます。あと二週間で、この演目も仕上げていかなければなりません。稽古二時間半。帰宅し母とは今朝もあった余震について電話し、義母の病院に寄ります。

2011年4月4日月曜日

花のいのちは


短くて、そんな言葉を書けるほどではない文庫番。ベランダで育てたフリージアを活けてみました。
花を育てていながら、切り取ってしまうのは、と思いながらですけど。今盛りと咲いてくれていて、ベランダの小さな三枚の田んぼ!の脇だと、あまり見る人は多くないし、和みたい気持ちの時に、花があると、力づけられます。義母の病室に持っていくには香りが強いようです。
 ここらへんで、少し力づけられたいわけです。考えても解決できない事はいつまでも考えちゃ駄目と、母には言われました。そうやって、気持ちを整理するしかない人生を経てきてくれたのでしょう。
 今の時代にでも、この空の下で、花々は懸命に咲いて、生き物たちも懸命に生きて、ベランダの小さな田んぼのミジンコたちも元気です。

2011年3月29日火曜日

情報差

 義母が入院してから変わったのは、いろいろとあるのですが、それはもう高齢親との同居にともなう暮らしの変化としています。義父があまり整頓などができなくなったのではなく、どうやら男族というのは、女性が傍に居てこそピシッとする種族なのかと考えるようにしています。入院中の義母にそれを言い付けに行くのが、嫁の勤めなのだと、あら探しをしているので目につくのかもしれません。いろいろな身の周りの始末が緩くなっているようで、嫁・孫娘は手足の一部で心は妻とあるのだと考えると羨ましくもあるのです。
 義父は今日のニュースは見るに堪えないのでしょう。プルトニウムが検出されているというのを詳しく見たいのに、正午のニュースは大江戸捜査網になっています。午前中にも時代劇を観ているのです。ちい散歩もかかしませんが、義母とあれこれ言いながらでないので、私にその街の思いでを話してくれます。しかし、私もニュース好きの野次馬根性、パソコンからのニュースを読みますが、長年、ニュースはテレビからと習慣になってしまっているようです。
 義母は病院のベッド際のテレビを観ません。テレビカードを買ってきましょう、と聞いても、いらないのだそうです。テレビは見なくてもいろいろ考え事があるから却って良い。と言います。・・・本は?と読書好きだったひとなので訊いてみますが、それもいらないというのです。しっかり考える時間があるという事の方が、今受け売りの、こころ塞ぐ報道のあるものより、良いのかもしれません。
 家にいる娘と時間差で病院に行くと、これもまた、病院での説明や、治療段階がどんどん変わっていきますので、なるべく情報を合わせるようにしないと、今後の退院後の段取りなどが混乱しそうです。近いうちに義父、連れ合いなどとも話合わないとならないと考えています。
 昨日、電話した母は、今は洗濯物も布団も室内干しにしていると言っています。飲料水も購入予定だと言いますが、あまり、神経質に一人で考えるのも良くない事ですが、電話だけの会話では、なんの役にもたたないのです。話しているこちらにも、日々変わる情報を、きちんと伝える能力はないのですから。お年寄たちも心が惑うのですが、伝えての私も不確かであるのが申し分けない事です。

2011年3月28日月曜日

西も東も解らない


菜の花や 月は東に 日は西に  この一句が私の人生を迷わせたのだろうと思い当たるのです。
与謝蕪村 国語の授業の次に理科の時間でもあったのでしょうか。小学校のある時点で、月は東に日は西に沈むのだと思いこんでいた時期がありました。天空の真ん中で、行き違いになる運命を菜の花が見ている句。
 こういう解釈もする子はいるかもしれません。今回の地震で、5メートル地盤が東に動いたと聞いた時に、そうだろう、そうだろうやはり“東洋は一つ”なのだと思ったりしたのですが、東とは太平洋側の事でしょうか。すっかり西も東も解らないのは、小学校の頃(恥ずかしい話かなり成長するまで)と変わりがありません。この大きな大地の力。多くのいのちを飲み込んだ津波。それらの力に畏敬の念をいだき、その悲しみを包みこんで生きていかなければならない、悲しみを慈しみながら、人生の芯として残された生者はいま居るのです。 西も東も解らない、けれど、生きている。慈悲。

2011年3月26日土曜日

同時多発的状況なのか

 一夫婦にそれぞれの両親が居れば、ましてや、一人二人の兄弟しかいない世代同士が夫婦となっていれば、双方の親の高齢期というのは同時にやってくるものです。
 そして、親の姉妹兄弟は、まだ大人数だったと言う事は、おじ、おばなどもやはりほぼ同様に年をとって来ているのですね。この一週間は義母の入院にともなう諸々で、自分も含めたいろいろな人の年の取り方を考えています。その事が、避難所に映し出されるお年寄達の状況とも重なってしまって、振り払えません。
 おじいちゃんは、寂しそうです。5日間に長岡から二往復で出てきていた義母の妹にも、結構我がままを言います。いきなり、嫁である文庫番には、言いづらい事も長い付き合いであるこの人には言えるのでしょうけれど、義叔母さんも結構ぐったりと帰って行きました。
 マスクをして、怖々と東京の水を飲みながら、テレビからの報道の横で義父に相槌を打ったり、たしなめたりしてくれて、助かったのですが、義叔母さんも年をとったのだなと、感じる事もありました。無理もない、あんたも、年取ったねと、逆に言われています。

 そういう中。今の自分に何ができるのか。より辛いであろうこの地震・津波・放射能禍に被災している人に対しての、さまざまな支援活動を観ながら、自分の無力さに、がっかりするのも、また、現役を離れている人々なのかもしれません。組織を動かす力も、自分の身体を動かす力も薄くなってきているのですけれど、それだけにこころを動かし、動揺した思いを、あれができたはず、これも可能性はあるかと、惑っているのです。
 無理をすれば義母のように強風に吹かれて自ら怪我をします。

2011年3月24日木曜日

魔法の幕

わたりむつこ作のはなはなみんみの物語が、私が図書委員で預かった最初の物語。三部作。それを子供たちに読み聞かせることから、はじまった事が、生協が売るものの幅広さを知ることだったかもしれません。
 小人大戦争で使ったいかり草、大地のゆらぎを止めるためには、何かを犠牲にしないとならないのだろうかという葛藤、閉ざされた人工の安全な世界というのは、衰退の生活だったという、それらが、はなはなとみんみという双子の兄妹の生まれる前の世代が起こした誤った戦争の結果だったけれど、旅をつづけ仲間をみつけ、新しい希望の生活を得ていく物語でした。
 これから子育てをする人達に読んでほしいと、奨められて楽しく読み聞かせたもの。
 ぜひ、もう一度読み直したい。そして多くのこれからの人にも奨めてみたい物語です。
 本日も余震が続いています。このゆらぎ。列島が東に寄っていったというのですが、それをまた戻そうという微調整なのでしょうか。ゆらいでいるのは、もしかしたら、大地ではなく自分の心の中だけなのでしょうか。

2011年3月23日水曜日

福分け


 今、こころを伝えるという事だけでも、とても難しくなっているようです。日増しに流言飛語の類と、真実に裏打ちされたことばとの区別がつかなくなっている状況なのだと感じます。
 そういうところに本物が届きました。お裾分けだと言う事です。種子島の黒糖。それも特定できる畑、技、人々からのものです。これはきっと、もっと大勢の人に、この喜びを分けて欲しいということだと、考えます。そう、確かなものを収穫し食べられるものを作りだせる幸福。もとは、一粒の種、一株の芽。
 苦しい思いでいる人々に届けたいです。そして、この黒糖に添えられていた冊子にある漂流船の島の人々を思い出すのです。入り人の島。古へより、海流に乗って人が行き来し、赤米の保存されている島は、いつの時代でもおおらかに人々を災難から救助し受け入れているのでした。
 数日、被災地、避難所ではこんなこともあるという、悲しい事態が知らされます。虚々実々、人の感情が、極限に在る中で、情報は作られるのだと思うのです。その大部分が、今までより良い社会を創りたいと願った事を数段階引き戻すような、心無いと言って良いかどうか、誰もが、人間の本性は自分が生き延びる事だよね。そのためには、あきらかに差異を見つけ出して、排除していく事だよね。と考え始めているようなことです。ですが、だからこそ、それは、事実ではない伝聞なのだと考えたいと思うのです。
 今試されている本物力は、人がひとを信頼できる、自分が(家族が)大事だと思うのと、せめて同じように他のいのちも大切なものだと考えられる力だと言う事。食べるものが、世界の大消費地東京に来るのには、どれほどの手が必要とされているのでしょう。そして、その国内産地には、多くの研修生受け入れがあったのか、被災者の中に居る外国籍の人々の多さを考えます。
 情報は作られるのです。一国だけが、窮状を救いに来ている訳ではありません。今回、最初から海外メディアで知らされている内容も知ると、義父も憤っている同じニュースしか流さないテレビの偏向を感じます。
 少しの福分けの中に、実にこころの豊かな本物があると味わえれば、水も葉物野菜も、大切な一粒のいのちです。

2011年3月22日火曜日

回復に向けて

 やっと、対処手術が終わったところです。母の居る茨城から戻って半日、不気味な風の強く吹く中、レイモンド・ブリッグズの“風が吹くとき”を観た記憶を思いだしながら用を済ませ出かけていた間に、義母が幹線道路の横断中に転倒。骨折。たまたま休日で在宅していた連れ合いが電話を受けて中央分離帯で救急車を待つ事5分。病院に行っているところに戻った私に、義父が告げる行き先は、テレビに映っている地震被災者の避難先の名前。はて?どうしたものかと、お義父さん〇〇じゃないと確認し、連れ合いと入れ違いに病院に行ったのです。 急にぽっかりと義母が家に居ない。義父は同じ報道ばかりで、言っている意味がわからないと、テレビを前に座っています。そっちも心配しながら、担当医に今後を聞いたり、介護保険認定の申請をしたり、でこの数日が過ぎています。近いところの病院への往復などなど、している空には、月が赤く上るのを観、その反対側にある東京スカイツリー、各家庭への電波を受ける機器の需要は仕組まれている不必要な消費ではないのかなど考え、降り落ちる大気も雨水も、恵みと感じられない春を嘆きました。雨水利用東京国際会議の時に、雨水宣言というのをしているのです。二度と黒い雨は降らさないという宣言でした。文庫資料のどこかにあったかな。探してみましょう。
 そんな事を考えても、身動きできないですね。いったい今の自分にできることがあるのだろうかと考えます。本日、義母の大腿頸骨を金具で止める手術は終わりました。明日からはリハビリだそうです。退院時には介護認定もできているようになると良いです。母にはやっと、後からの連絡になるけれどと伝えました。まずは、身近な人々に少しでも微笑むことができるようにしたい。不肖の娘・鬼嫁の自己改造です。

2011年3月21日月曜日

自己決定できる消費者でいたい

 いつも、そう考えているつもりですが、時々、大したことのない自己などを振り回してもみっともないと考えたりします。
 でも、消費者(人)とは不思議な心理を持っているのです。国民の一人として、原発事故の対応をしている電力会社や自衛隊の英雄的行動を称賛する一方で、暫定規制値を超えた放射性物質の検出された野菜や牛乳はいらないというのです。
 というかそのことを受け各県が生産者に出荷自粛を要請しているのだという報道です。食の安全を国に求めてきているのですから、その発揮は当然として受け止めないとならないのでしょう。けれど生産県であったところが、今回の被災地でもあるということ。特に茨城県などは1999年にもあったJCO事故の際にも農産物が消費者に受け入れられない状況であったにもかかわらず、生業として踏みとどまった多くの生産者がいるのです。それなのに、私たちは、“買い支え”という美辞は伝えられないのです。我が身が第一になるからこそ、自身を顧みずに、災害救助や原発事故に立ち向かっている人々を称えるのです。
 特殊訓練を受けている人と同じような決意で、自分に出来ることが、僅かにでも農産物を消費することだと思っても、流通されていません。独自ルートを開通させるにはまだ物流が整備されていない中での我がままになってしまうのでしょう。買い支え以前に、今、避難しているひとたちへの、個々の状況に対応できる、水や食事を届けなければなりませんね。
 気持ちを表すしかできないのでしょう。食の安全ということの、深く広い概念が自分の中に無かったと思い至ります。このような、暮らしの中に張り巡らされている、さまざまなネットワーク全体を通貫できる、食の安全を助け合いとともに考えていたつもりですが、浅く、狭かったのだと今は思います。
 これからの、私たちの社会には、ほとんどの人が放射性物質を取り込んでいるという想定での、医療制度・介護制度、それにともなった経済の理念を持たなければならなくなったのです。過去も被爆国であった日本。今回、一国の一地域の原子力発電所が天災を受け、そこから発生する事態で他国への拡散放射能を発しているのも、過剰なエネルギーを享受していた、都市生活であったと考えると、これからはもう少し生活全般を変えないとならないかと思っています。
 そう考えると、今できる事は、ここに暮らす自分が、何を考える日常を送っているのかを発信することだとみっともない、自己との向き合いになります。

2011年3月19日土曜日

今月今夜のこの月を


僕の涙で曇らせよう。2011年3月19日はスーパーフルムーン。この反対側には東京スカイツリーの見える我が家のベランダ。満月と、世界一になったタワー。そのどちらもが、悲しく見える夜です。

2011年3月18日金曜日

新しい秩序の世紀に

TPPはどうしたのか、政権を軟弱と言っていたのはどうしたのか、そう言う事のレベルではなかったのでしょう。自然の力は。そして制御しきれないものを持っていた人間。
 遥か神世紀、オリンポスの炉から隠し持ってきた火でしょうか。兎が尻尾に着けて持ってきた火でしょうか。
 大気も水も大地もつい一週間前とは違っているのだけれど、今日の私のベランダには春のつぼみが膨らんでいます。新芽の柔らかさもいとけない。大事に育てていきたいのです。
 もしかしたら、弱体したかじ取りよりも、組織だって凛々しく立ち向かう姿に賞賛は集まるのでしょう。本当に感謝してもしすぎる事はないのです。自分を空しゅうしても、民を助ける職務なのか、人道なのか。一歩間違えると前世紀の闇と争いの引き金にも似てしまいます。
 それはやはり、人道なのでしょう。ヒューマンです。そこには計りようのない、愛と協同があるのではないかと思うのです。それ恕かと。
 買占めていたり、同じ事かもしれません、他人のものを掠めたり。そうではない在り方をみています。自己の分を与えられるのは、今までの自分があったことへの感謝として、お返しできるように、多くの人が思っているのです。金銭で云えば義援金となります。無償の行為での支援が続々と集められています。行為とすれば自己犠牲や助け合いになるかもしれません。そして、もっと育てていきたい、今多くの人が、他の人の存在への共感を持っていると言う事。今、情報手段の発達は、良し悪しあっても、多くのメッセージを運んでいます。そして個人のものだけとしない、ともに悲しんでいる思い。なくなった生命へ向けての悼み。これからへの願い。
 国を超えて、その気持ちが伝わってきています。本日金融面での協調介入があったと言う事を、金の亡者たちの、利己的な手段とは思わないでいたいのです。むしろ、もうどこかに富が偏在したり、運のよしあしだけで人生が定められていくのではない平等を、新しい世界の秩序を、私たちは模索しはじめているのです。小さな日常の喜び、悲しみ、怒り、安らぎの延長に、育てていきたい芽生えです。
 

2011年3月17日木曜日

日常のなかに

 小さな喜び、悲しみ、怒り、安らぎがあって、それだけではないいろいろな感情を綴って、「きなり歳時記」はあったのです。それはもともと一人ひとりは違っていていいのだと、そこにしか協同の保障はないのだからと言える事だったのです。
 くらしを綴る。

 あの時、何が起こったのか。天災であったと。しかし人災にも思える。
すべてが変わってしまって、一人の喜び、悲しみ、怒り、安らぎをことばにしていいのだろうかと、また縮こまってしまうのです。ほっと取り戻す微笑みも、少しの諧謔も、暮らしの中で見出して伝えることすら、痛ましくなってしまうのです。
 義父母と母の高齢化、そして自分たちのリタイア後のくらしに起こるいずれはという日々。それすらも、書いていくことが躊躇われていた一年。それなりに、食べるという事からまた始められるかとして、新しい場も広げていくつもりでした。
 書きながら、自分で傷を持っていく。他を挿しているのではと、棘を逆立てているハリネズミのようにこれ以上近づきたくない、近寄りたくないという。それこそが、今書かなければならない事なのだから。
 一人ひとりは違うのだという、それすらも、一瞬に、皆が体験した共有の大きさに飲み込まれそうです。
 どこを観ても同じことについての報道ばかり。それの影で小さな日常。一人のことばが、消されてはいけないのだから。それこそが、親世代が経てきた恐ろしい時代だったのだと教えられ、日常の中にある、この私は、ことばを探していかなければならないと思うのです。
 それでも、あの時、何が起こったのか。天災であったと。しかし人災かとも書くべきだし、あの時ではない、今を、そしてこれからを書く文庫番でなければならないと思うのです。
 茨城の母は、地域の中に生きる決意で、まだあなたの世話にはならないと、帰されました。そして、“風が吹くとき”義母は転んで骨折しました。義母の入院を母には伝えられない。母が風邪気味の様子を入院中の義母には伝えられない。そんな日常。

2011年3月12日土曜日

協同を考える

昨日は、誰しもが体験したことの無い天地の鳴動。大津波、大火。まだまだ今でも揺れはやってきています。
茨城方面とは連絡ができていません。常磐線は利根川を渡れないようです。

 最初の揺れ以降、身近の小さな声かけから、出来る事を皆手探りでしています。発生当初は、近代ビルの中で携帯もパソコンもありながら、知りたい家族の安否はとれない時を過ごしました。
 小さな、声かけ、緊急時対処から、きっと被害の様子がわかるにつれ、さまざまな助け合いが必要になるのです。
 各国からの援助も受け入れると言う事です。報道されている被災地の様子には胸を塞がれるような思いです
 昨日の様子からは、国内の各所、微細な部分での影響も、さまざまな面に及んでいるのでしょう。これからの社会の建て直しには、経済という面からは大きく力を要することだと考えられるのです。
 今は、率直に援助を受ける時なのかと思うのです。人道、博愛と言う事は常に災害に呼び起こされたと思います。磐梯山には日本赤十字の創立のきっかけとなった噴火の時の碑がありました。関東大震災の時、そして阪神淡路大震災の時、多くの善意がありました。
 援助を受け入れることはまた、ひととしての約束です。いつかまた、自分も他を助けられるという。
 自立したこころで、これからの災害救助と復興に向かわないとならないと、まだ落ち着かない情報の中ですけれど、思うのです。

2011年3月11日金曜日

東京国際フォーラム





本日は、東京国際フォーラムで本場の本物の研修会。知り合いも多く来ると言う事でオブザーバー参加。
本場の本物認定業者が一堂に会する初めての企画。
その途中に、大揺れ。壁材の埃、床に落ち。天井からは配管ずれたのか、水漏れが何か所か。
よって、一旦散会となりました。全国の農産物の応援、そんな気概も、この大地震の被災された方々への応援もしなければ。

2011年3月8日火曜日

立て万国の農民よ、たて万国の労働者よ!


お茶の水から、経団連会館前までのキャンドル・デモには、おきたまの人からだったのでしょうか。手作りの手持ちのキャンドル風除け付きをもらって歩きました。これを、今机の上に置いています。そのデモを一緒に歩いた、ささかみの石塚さんのお誘いで、星寛治さんと山下惣一さんのお話を石塚さんがコーディネートするという集まりに、行ってみたいと沸々と思いがあって、土曜日には日帰り往復でささかみのふれあい会館にも行ってしまいました。今、そんなに私にも時間は無い。茨城の母のところに行くべきだったのではとか、義父母の食事はとか思うのですけれど、今のこの国で、大地からの恵みをもらっているものとして、この国が、何を選んできたのか、そして今から選ぶ事を、私はどう考えればいいのか。断固阻止!そう断言を壇上に聞き、会場の頷きを確かめて帰ったのです。それは、「米は実りて」で語られた内容でもあり、「山仕事讃歌」の中でも語られているのです。
 一人ふたりの大臣のすげ替えで、この話は終わってしまうとは、思えないのです。私たちは属国ではない!ゆすり、ごまかしとしか他国を見ていないところの主導に何故、唯々諾々とするのか!

2011年2月21日月曜日

巻き戻しの機会


 母が言います。あなたのしなければならないのはお父さんのテープを文章化する事でしょう。いつまで朝市商売やっているの。
 そうは言っても、目にみえるお金は必要なのですけれどね。
 何をやっているのか、定まらない様に見えてしまうマハラバ商売ですが、協同をことばとする事業。すこしずつです。父とは、やり方は違うかもしれないけれど、これを忘れたわけじゃないし、兄も同じだと思うのです。どこかで、すれ違っているのならば、人生に巻き戻しができるなら、ああ、さかのぼることはできないのでしょうか。
 一巻きずつ聞いていこうかしら、今はカセットをファイルにコンバートできる機械もあるし、べらんめえのところも、茨城弁のところも仏教用語も、私にもわかるようにしてくれる翻訳コンニャクもマハラバで仕入れるか。そう。いつも原点を忘れないと思っているのです。

2011年2月4日金曜日

おいらの天下


異常乾燥注意報が出っぱなしで、あちこちパリパリ、ピリピリする関東地方ですけれど、我が家の隣。
門の中の自家用車の上で、布団干しをしていました。
 そこで小一時間身づくろいをして、実に泰然と天下夢想をしています。

2011年1月25日火曜日

相棒


「きなり歳時記」の打ち合わせで出かけた時に、洋品店の閉店セールに行きあったら、とても手の出ない衣服から、外れたポールにこの子がいたのです。目があった瞬間から、相棒だと。
 どうしても、連れ帰ってやらなければならなくなって、少しの値引きを交渉したのですが、服なら着る事ができたかもしれません。
 ロシ子と名付けて、朝市への荷物を運ばせているのですが、その吊り紐をまた私が運ぶというおかしないで立ちになるのが、ちょっと不自由。ちゃんと、尻尾も4本脚もあるので、お荷物といえばこっちの方ですが、それが相棒というものなのでしょう。
 昨日は、母のところで、四方山話。凛として生きていてくれます。
 

2011年1月19日水曜日

寒行

知人から電話があった。お宅のお兄さんについて、警察から連絡があって、何かしたようだ。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110119-OYT1T00057.htm
兄が警察につかまったのは何回になるのだろう。ずっと、私のところへの直接の連絡は来なくなっているので解らないのですけれど、またなのかという思いと、母はこれを聞いても大丈夫だろうかという思いとが、短い時間でフラッシュのように頭に浮かぶのです。
 でもね。お父さんの思想を一番お兄さんは受け継いでいると思うの。法というものが、取り締まりというのが如何に、体制のためにあるか。と言うと相手も、ある意味納得してくれる。
社会の不条理というもの。貧しい寺の子が、一人で生きていく時に托鉢しかできなかった。それから数十年。比叡山でした修行も、兄なりの論理もたぶん、受け入れる社会ではないのだと思っているし、住所も職業も、語らずして、認められる立場でない者なのだろうと。
 すでに、母が山を降り数年たった時から、絶えている関係ではあっても、兄は兄。

 それでも、兄からは連絡先としては、私ではないのです。身内という考えは出家だからなのか、すでに縁の切れたものと考えているのか、こちらに迷惑にならないようにと、言わなくなっているようだとしかここに書けない。推しはかろうとして、幾十年、片身を分けた兄であっても、そのこころの内は解らなくなってとざされたまま、どこかで世間様は、あなたのお兄さんと。
 言われるまでもなく一生。この兄については、私の兄である。そう思いながら、インターネット上のニュースでしか繋がっていないのです。
 むしろ、一人の托鉢僧の主張としてみれば、立派なものだと読むのです。一所不住、僧と認めるものがあっての僧であるのに、住所・職業が不明であるとは、やはり法の論理というのも、手続き論でしかないと。

2011年1月16日日曜日

2011年1月4日火曜日

まま、満足


2011年を迎えたお飾りはベランダで育てた稲穂と夢の谷の稲藁を綯ったもので、作ってみました。