2012年10月30日火曜日

いのち(命)をあらためる(革める)

この国のありようを「革」てほしい。
 水戸事件。母が関わっていた支援裁判からの本。知的障害者への性的虐待事件。その事務局を担っていた三好誠三さんから一冊の本が送られてきました。そして、マハラバ文庫の新しい書籍も数冊預かってくれています。神立の人たちの近況も少し教えてもらって、さあ。では私のところでも売りましょう。とは言っても、取り散らかって本だらけになっている我が家。例年の払い込みもどうするか、そして山との関わり方も、このあたりで区切りにして欲しいと思っている連れ合い。
 それであるのに、ひととは、人の感情とはいかんともしがたいと、私はこの「孤立しないで生きるⅠ」を売ってみます。定価1500円 マハラバ文庫取扱い
 この国のありようを革めて欲しい!

2012年10月25日木曜日

コミュニケーション・クリエイト=造語

 
 スカイツリー下塾は第4講座を終えました。まさに私たちの石けん物語。謙虚に語りだした講師が、この墨田区で巡り合った人でなかったら、文庫番はこんなにおもしろき人生を歩まなかったのだと思います。一緒にやってきたあれもこれもあって、お互いに補いながら、できることできない事、ああやれば良い、あそこに行こう、あの人と会ってみよう。なんて大胆に無防備に、子供に安心な石けんのシャボン玉液、魔女の如く。石けんネットにドラム式洗濯機。
 シャンプー講習会、極め付き、面白くて換気扇壊れるまで洗っていた。そんなお話に笑いながら、でもね女心がねとか、だってさ、親だからとか。屈託なく話せるのは、この面々の中で。さて4回目になるとある程度の、姿が解るのです。何なのかが。
 
 最初は、ただただ、一緒に活動してきた先輩方にきちんとお礼を言える機会を作らなけりゃという事でした。そうすることで新しい生活にも踏み出せるし、それは、失くすことではなく増やすことになるけじめだと。それが、打ち合わせを重ね、内から見た姿と外から見た姿と垂直軸・水平軸・紙面・専門と活動を分けて講座として、11月には協同のパートナーたちからの見方を話してもらうとすると、まさにこれは、店舗の無かった行政区でパルシステムの中に居た主体者が何を考えていたのかを、ある時系列の中で腑分けできる事のようです。個の組織論。それが、こういう語り場がとなると、コミュニケーション・クリエイトとして、地域・協同・主体をことば化するということを事業とする、株式会社のお仕事に見えます。そして新しい場は、まさにマハラバの語り場として機能するのかどうか。
 その整備ができているかというと、縁側どまりでしょうか?そう思っているところに、ご近所からのたくさんの秋野菜をもらって、またまた奮闘をすると、文庫番の勝手は土間という事を考えるのです。土間でする仕事。そして食べ物の分け合う工夫、そこにことばが付いてきて。それは理想です。縁側と土間。失くしてきたものでしょうか。そして、盥で洗濯板の洗い場をという、昨夜の話だとなっていくことでしょう。このいきいきと、これからはを語る人たちは、くらしの主体者なのです。そこにある他者への配慮とは、まだ見ぬいのちへも、これから送るいのちへも、責任を持っているのです。そこにコミュニケーションを作り出すのです。個の組織論。石けんから。

2012年10月15日月曜日

内なる主体と、外なる主体

  秋の連続講座を進めながら考えているのは、協同をことば化するという一方で語ろうとしてこなかった主体とは何なのかを、探すことであったのですが、三回を重ねて面白くなってきました。
 

 一般的に主体性を言うと、個人の人格について沿うことなのでしょうけれど、一人一人が、物事の主体者であるのは当然であるのですが、組織に対する主体性または国に対するアイディンティティとも言われる個人の存在価値。
  組織が問われる時に、そこの主体であるものが何なのかが問われるのだと考えます。協同という崇高でありながら、実態の表現しにくいものの中で考えると、一段、悪い言い方だと、責任のなすりつけ合う、生ぬるいものが、主体としてのし歩くことになります。
 協同の社会となると、組織ではないわけですから、さらに、 始末の形が解りません。
 それでも、人が一人では生きられないのであれば、互いに気持ちよく生きられるようになっていなければ、逆の締め付け合う協同が出てきます。
  そうじゃないよね。と。そこを語る企画は、自分が、やりたいと思ったから、楽しかったから。そして覚悟があって。そんな話がたくさん与えられるのです。主催者はお茶くみでいいかな。機会を持てたことが第一の成果です。

 その話者によって、一つの地域で経てきた活動を多面的になおかつ、くらしからの視点で語ることを重ねてきて、浮かび上がるのは、話者のその人柄・人格・言い換えるならば主体的にかかわって生きている姿なのです。この人たちと一緒に活動してきたから、ちゃらんぽらんな文庫番が今でも、なんとか、くらしからのことばを、考えることをし続けられるのです。
 責任を取る意思のあるものの集まり。協同組合原則にあるのですが、くらしの責任は、事業にあるのではないのです。個々の暮らしの中にあって、だからこそ、他の人の暮らしへも、配慮ができる事。それは、原則として誰に書かれるものでもなく、なんらかの組織に固有のものではなく、自分が生きる意志を持つものが、掲げるものであるはずです。
  くらしの主体。もしくは生きているという主体が自分自身であることは揺るがないのです。そこをブレない時に、協同する意味が出てきます。
  個人の思い、くらしからの出発が、何を求めてきたのかをその人自身のことばで語ってもらう事で、そのことを他から見た場合には、こうだったという事ができるようになります。その時に、また語った本人が、自己の姿を観ることもできるようになります。
  この世紀、いえ。人間の歴史が、主体と協同を、別な表現でも求めて続けてきて、それでもなお、苦しい人々の居る。自分であることを見失う若者や老人たちの多くいる社会となっているならば、もう一度。何度でも!私はここに生きている。と叫ぶのです。

一如

2012年10月4日木曜日

秋だから


 そうか、今日かとまた呑む機会だと連れ合いが買ってきたのは、山梨のワインだとか、何故藍茜なんだろう。葡萄じゃなくって、あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや・・・ってそれは危ない歌じゃなかった?大丈夫?今日のグラスに。
 そして侵入者はアキアカネ、なんでここに墨田のどこに棲んでいるんだろう。中川の河川敷も綺麗になったじゃない。プールのヤゴ獲りもしてきたし。でも家に入ってきたなんてね。肥やしの桶のところには、やっぱりヤモリが居てくれたし。アニバーサリー。
 本日、お茶の稽古はやっと濃茶の初歩。袱紗捌きを教えてもらいました。お茶はどこに行っても続けられますからねと。
 6歳に満たない歳に祖母に習いはじめたのに、すぐに祖母は亡くなって、土浦の高校時代、そして取手からも通えるかとしても、無理があって中断したのですが、近年にやり直しで、やっとです。まだまだぎこちない。
 そのうちに、あなたも一緒に・・・。どうも飲み物が違うようです。

2012年10月2日火曜日

夕映え

 

 
 町並みに浮かぶ夕映えの東京スカイツリー。個人として、この巨大な信仰無き建造物は、嫌いなのですけれど、そこに夕映えという自然現象と、今、自分が住んでいるここが写っている。台風17号の過ぎていった、夕方。歩きます。家から外に出て(大決心なのですよ)メール便で茨城のしんちゃんに、母へと贈ってもらった新米のお礼を出してきた帰りに、下町の空に観た美。
 刻まなければ、私のこころに、もう二度とはない繰り返し。この時だけ。
 ライトアップなんて下手くそな演出じゃないです。その照り返しは私の足元にもありました。
 
 さて、あとの写真は、車の中での肥やしの移動の様子と、まだ未熟なのだけれど、枝豆とはこう茹でるのだと義父母がそれぞれに、ご指導くださる一コマ。この夫婦は仲がいいのか悪いのか、意見は合わないのに65年。見ていて面白いなんて不敬ですね。それは、人生の照り映える時間かもしれません。