2021年8月15日日曜日

2007年~2021年一区切り


 

 今年は、お盆のお供えにSANYO堂の桃缶。
なんと、これがパルシステムの商品案内に出るとは。早速購入し、亡き母にも報告。もっとたくさんの事を報告しなければならないのだけれど、一番に伝えました。
 でも、母はお仏壇には入っていないのですけれどね。まあ、逝った人たちは皆、いつも私と語らっているのですから。
 父、大仏尊教は、母方の澤山の家の人たちが二代に渡って逸見山陽堂さんに勤める人たちだったので、いつも身近にあった缶詰。そして、今思いめぐらすと祖母と祖父の縁も、たぶん、谷中村への援助の関係だったと考えられるのです。祖父は私が4歳の時、祖母は、私が6歳になってすぐに亡くなっているので、その事情を聞いたことはないのです。富山生まれの祖母と茨城生まれの祖父が、東京で出会ったのであれば、逸見斧吉さん周辺の、田中正蔵に関わる人たちの端だったように考えると辻褄があってきます。
 子供の頃は風邪をひくと、この桃缶だけが、喉を通って。あの頃も茨城の山寺にいつも有ったのも、そう言う訳だったのでしょう。
 父が、伏した時にも「照子さん、山陽堂の桃缶が食べたい」と言われて、母は、石岡中の店を探したけれども置いて無くて、と話していたのでした。父の一周忌には、私から山陽堂さんにそのことを手紙で書いて、そしたら、大叔父の部下であったと言う方から、届けられたものを、母と私の手作りの法事の食事に添えたのでした。
 その法事の最中に、修行中なので戻れるものでないと考えていた兄がいきなり現れて、それからは、法事の始末どころではなくなり、私からはお礼の手紙をまた出した記憶は無いのです。


 そのような経過も、いつかは書いて置かなければとマハラバ文庫はあるのですが、父の書籍目録と、講義テープ起こしができたことを一つの区切りとし、2007年に立ち上げた株式会社と言う形は解散して、もう少し身動きのできるものへ変える手続きを始めました。

父の洗礼日が8月15日。株式会社マハラバ文庫の設立日も同じ。

2021年8月8日日曜日

立秋過ぎて



 紫葉藤袴、藤袴と二種類が庭にありますが、これから細かい美しい白の花が咲き始めます。名前の由来はまだ調べていません。思いのほかに種をこぼしてあちこちに増えました。面白いです。
 どうしてゴーグルの写真があるかと言えば、今年の田んぼの稲の種類は今頃の時期に、かがんで草を取ろうとすると稲の葉が目を突く高さだったのです。いろいろと書類を作らなければならない文庫番さんは、今は活きの悪い魚のような赤い目になっています。対策を考えなければと、取り敢えず、下を向いてもメガネの落ちない鼻呼吸で曇らない水泳用のゴーグルをします。取っておいて良かった。東墨田の清掃工場の余熱利用の温水プールを楽しんだ時のものです。
 田んぼで草取りをしていると、道行く人も声をかけてくれますが、それは田んぼの事稲の事、里山の獣害の事。
 テレビや、新聞をなるべく避けて、インターネットも本気で知識とは思えない我が家では、田んぼの道行く人の話題が何よりの知識になります。
 それにしても、世間で話されている事は少しは、目にも入りますし(イテっ)耳にも止まります。この重苦しい、何物も喜びにならない世間はどうしたことでしょう。
 私には、普遍的な人間の善と言うものが感じられない世間の話題に思えるのです。いじめや、差別を肯定する話でのし上がったものが居たら、引きずりおろすのも侘しい思いが残り、どこがどこに勝って、メダルだ。誰か文字も文章も理解せずに挨拶している。困窮しているものは都会の路上を彷徨うのに、利権を貪る者は飢えることも無い。一方で、勝利を歓喜することがもてはやされている、その一方で勝ち組への苛立ちを生んでいる。
 どうして、子供の時には人間には普遍的な善があると考えることができたのでしょう。悪の様は世の中に、あったとしても、それでも真っすぐな生き方を学ぶと思えたのは、時代が違うという事だけではないのです。
 

2021年7月26日月曜日

障害者解放運動のあゆみ



  表題は、あゆみをつけたのですけれど、茨城から送られてきた60年のまとめになる一冊。よく頑張って仕上げたと思います。今、地域自立障害者の人たちが「生きる」ために。私はなんらお手伝いもできていないけれど、中に一文を昨夏書きました。もし、今だったら、と思う一年が間にあります。それは自分への宿題。
 茨城青い芝の会の40周年誌には母が文章を書いてあって、そして、7月26日は北海道産まれの母が、茨城に嫁いだ日。閑居山の下の集落の夏祭りの日。
 地域で、障害者が自立して暮らす。それは当たり前の事。それは誰もが暮らしを「生きる」という事を保証されるという事。さあ、もう一踏ん張り。

2021年7月9日金曜日

桔梗咲き


  7月6日は父の命日で、もう37回忌になったのだと考えるのだけれども、毎日その生前の声を聴き、文章にしていると、つい側にいるような気もします。今の様子を知っていてなのか、歴史はいつもそんなには変わらないのか、今に通じるような話の内容に、じゃあ、自分がどうしたらいいのか。と。
 親に比して、何もできていないばかりで、じゃあ、何もしなくて良いのかとはならず、異端の系譜は、まだ続くのだと、異端でいいじゃないかと開き直りたいものです。
 53歳で亡くなってしまい、その遺した文章や考え方は貫かれていて、短かった人生ゆえに、変節することもほとんど無かったのは、羨ましいような、あまりにもシンプルなような気がします。
 そのテープを録音していた山の中には、今頃の季節は、桔梗も咲き、山百合が匂い、萩も咲きはじめ、そして枇杷が最後の実りで盛夏へとなる頃なのです。

2021年7月1日木曜日

今年の後半へと


 6月はベニカナメ(レッドロビン)の剪定時期ということで、だいぶ時間をかけて刈り込んでいたのですが、途中で、あとは引き受けたと連れ合いが言うので任せっきり。そうすると言ったは良いがなかなか進まない事にイライラ。
 でも自分は「全集中」ですか。やっと11巻のテープの音を文字化できました。目標とした7月6日には間に合ったのですが、大変粗い起こしなので完成度は低いものです。内容はすでに文章になっていることが多いのですけど、生の声、雰囲気のあるテープに没頭できる時間が取れて、充実した7月を迎えました。
 ベニカナメの中にあった鳥の巣は、巣立ったあとなのか、上手く孵ることができたのか、殻だけになっている卵が残っていました。
 

2021年5月5日水曜日

端午の節句に


 柱のき~ずは一昨年の・・そんな歌を歌いながら、直角定規を頭に当てて背を測ってたのは庫裏の4畳半に在った柱。もはや、その建物も朽ちています。兄さんは~。

 この頃、チマキが商品案内には出ていなくて、柏餅。昨夜は息子とやり取りで、屈原を知らなかったという事で、チマキは食べさせていたけれど、そういう話をしていなかったなと反省をします。
 楚辞から、郭沫若から、そんな話まで出て、自分で思い出すのは、ようやく電気も通り、テレビを観ることができるようになった庫裏で、NHKの芸術劇場という番組だったと考えますが、前進座の河原崎長十郎の「屈原」を観ていたこと。
 今も芸術劇場はあるのでしょうか。テレビも配信のものも、家族(みんなで)で観ながら共通の話題の下地になる経験はなくなってしまったように思います。ゴールデンタイム共有のチャンネルだった時代でした。自分が子育て期にそれができなかったのは、少し悔やまれます。
 屈原の諫言を聞き入れない、為政者。はかなく身を投げるしかなかったさま。そのような悲哀が画面から感じられたのでした。今、今の時代はと思ったりします。
 愚君と、賢君の差は、いかに聞く耳を持つかではないかと、柏餅食べつつ。そうそう、崖下の川に今年来る鴨は、最初は二羽だったのに、いつの間にか単独になっているのです。
 
 

2021年4月27日火曜日

縄文の時代




 25日の日曜日に甲州街道、釈迦堂遺跡博物館を訪れて、縄文時代人の生活を考えます。展示パネルに書かれている年代と説明にも、読み入ります。
 ムラが形成される前の年月の長いこと。有史と言われている文字には残っていない祖たちの暮らし。直接私たちにつながっているのでしょうか。もしかしたらマヤ文明のように忽然とこの列島からいなくなってはいないでしょうか。
 いつも電子レンジをどうするかという話になると、私たちは甑(こしき)で煮炊きしている訳じゃないから。と辻褄の合わない言い繕いをしたりしますが、この頃の食材と調理だって、どのような雰囲気だったのでしょう。狩猟採集の時代もあって、三度の食事が当たり前のような現代人とは違っていることでしょう。作物栽培だって、それを尊び願う以前に驚きが続いていたことではと思います。
 父のテープ起こしは、小休止で年度の会計もしています。テープの内容は、人類史を6000年は遡って解説しているところですが、それも根拠を研究者たちの書物や、発掘された遺物から読み取って論じているのです。何よりマハラバ村塾は、そこに集っていた人たちの共有の時間だったことがテープを聴きながらも思うのです。
 そのことから離れての、県内の立ち寄りでした。人が歴史の中で遺すことの意味。この釈迦堂遺跡の発掘品にはわざわざ欠片を別々の場所に移動させてあるものが発見されているというのです。
 その時代の祖である人々の精神の中にあった、感情とか知識などへの探訪をするには、ちょっとの時間の見学なのです。その短い時間にもかかわらず、今、自分がしていること、やらなければなどと思い込んでいることは、結局意味があるのだろうかと。11巻のテープの7巻目を文字として、考え込みます。

 

2021年4月22日木曜日

アースディ


 オオアマナの花が開きました。昨年は咲かなかったのですが、今年は4っつの花茎があります。少し株が大きくなっているのでしょう。植えた覚えがないのに庭に出てきたものなのです。ハナニラともよく似ていますが、違う花です。この花の別名もベツレヘムの星という外来種。
 今日は母なる大地を思います。そして生まれ出た子たちの地上に喜びがもたらせられるようにと思います。
 以前は、夢の島でのアースディの日にちが固定していて、石けんの様々なアピールに出て行ったものでした。アメリカ発祥の運動です。この国ではどうなのでしょう。もっと大地に根付いたものがあったはずだけど、その時々のブーム的な言葉に乗っていく人の心は致し方ないのでしょうか。
 私にとって兄が生まれた日なのです。その兄は、生まれ出た事すら喜んでいるかどうかもわかりません。
 

2021年4月17日土曜日

山之神さま



 いよいよ、積年の・・・熊笹を根絶できるでしょうか。なんで、家の傍に笹などを植えるか。梅の木があったから。松梅竹が揃うのが・・・。笹は、竹じゃないし、さんざん閑居山の様子を見てから考えたらと言ってからすでに何年。

 笹の根を掘るのが春の恒例になってしまったけれど、今年こそはすべて取り除きたいのに、蔓延。はびこっているじゃないかと思います。アンダーコントロールなんてとんでもない、こういう自然の力は、人間の手の及ばない力を持っているのです。地下深く、もともと植えてあった、梅の木もドウダンツツジも、あとから植栽した紅白の椿も、根の下に笹が降りていっているのです。言い出したものが管理すべきだと思うのだけれども、なかなかそういう方向には考えないのか、放っておけないので私は実力行使。せっせと掘り出すと、何日かの作業のやっと最後の仕上げくらいのところで、さもさも自分の仕事だったというように鍬をふるってくれました。でも、絶対根絶やしにはできていない。あっちにも、こっちにも新芽がきざしていて、また来年の春は大騒ぎになる予感です。
 熊笹、もちろん大切な植物です。味噌に黴が発生しないように昔の人は笹で覆ってから、重しをしたと聞いています。それをするには、笹の新葉の延びている時期に天地返しがいいのでしょう。今年の味噌仕込みは例年より半月ばかり早かったので、自分たちのメモリアルとして様子を見ます。山梨の豆で作ってみたのですが少しタマリが出ているようです。もちろん黴などはないのですけれど、水分が多いと床が塩で傷むので、早めに天地返しをしなければと、まずは重しを軽くしておきます。そうそう、熊と言えば、また出没したと、先日防災無線でアナウンスされていました。笹薮も気を付けないと。
 今日で越してきてから丸8年。9年目に入ります。この土地の祭神の祭りの日に越してきたのですが、どうやら祭日を曜日に変えた方がいいのかどうかと、アンケートが回覧されました。本義を失っては意味の無いようになってしまうのではと文庫番は残念です。
 

2021年4月8日木曜日

オダマキに


  もう今年の春で9年になります。母が逝ってからの年数を思います。知人たちからの便りが多く来て、ああ、私は何もできていない不肖の娘と思います。
 仕方がない、父の講義テープを起こすことを母も私に委ねたのだろうからと考えます。
オダマキの花の後ろにホウチャクソウ。もっと奥にヒトリシズカ。母の庭からのユキノシタもちょっとよく見るとありました。

2021年4月1日木曜日

新年度で


 

  母の遺した詩吟のテープは思いっきり捨てることにしました。プラスティックの衣装ケースに二つ。これ以外には別に父の講義テープがあり、冤罪裁判支援関連のテープも段ボール二つあります。その中で母が一人暮らしの無聊を慰めていた・・、何かに学びたいという気持ちでいた、父が亡くなった後の時間が採られていると思うと、いつか懐かしみながら自分も聞いてみたかったのですが、やはり、子供がすべて親のことを受け止められるものではないのでしょう。今整理しないとできなくなるのだからと、思いっきりますが、中身はきかないのですけれど、母は、一本ずつに表題を書いておいてくれたので、それを見ながら仕分けると、やはり文庫の資料的なものも出てくるので、一本ずつ点検しています。
 昨年度、やろうとしてできなかったこともありました。そちらの方が多いのですが、父のテープ起こしは、じっくり進んでいます。この後をどうするか、新年度ですものね。

2021年3月28日日曜日

蓬摘み


  ヨモギを摘みました。お彼岸に煮てあった餡子で草大福をこしらえました。

茹でたヨモギを刻んで、擂鉢で擂るのです。だんだん流しの調理台から台所の床におろして、膝頭で押さえながらすりこ木を回すのです。腰も疲れないし、力が安定して腕も楽。
そういえば今の季節に母が作ってくれた酢味噌和えや、木の芽竹の子などは、マハラバ村の食事は、そもそもが寺の庫裏で作ったので床が配膳台でもあったのでした。そこで盛り付けお盆に乗せて、皆の待っている部屋に運んで。そういう事を思い出します。
 台所改善運動の前の釜戸から、流しと台所。そういう流れだったのだと改めて思います。そこには、様々な女性たちが手伝ってくれていて、傍らで、食事を待ちながらの人もいて、時々、母の指示を無視して父が先立って何かを作るにしても目線はみなと同じ位置で。
 何もユニバーサルフリーだとか、段差がどうだとかではなかったのだと今更ながら思いました。
 それは、福島原発事故避難の伊達東の仮設住宅で榮子さんたちと、料理をした時もそうでした。なーにレアさん味噌の擂り方もできないの。はい。かしてみな。そんな会話もついこの間。ようやく私も擂鉢が扱えるようになっての草大福作り。春の芽生えの真っ先に、雑草と化して戦う相手ではなく、柔らかい香りを楽しめるために。

2021年3月11日木曜日

白い花のオオイヌノフグリ



 白っぽいオオイヌノフグリがありました。畑際の数本です。というか畑の畝全部の草を見るほど熟練していません。
 二日にわたって麦の株へ土入れ。これは蕎麦の裏作に作っているところです。石っころだらけの硬い土。そこに咲いていました。そしてのっぷいと言われる柔らかい八ヶ岳の噴火土壌の畑の麦も同じように本日土入れの作業。ひたすら、鶏の餌用、おこぼれを私たちが粉にして楽しむ小麦です。
 その作業が終わったのが午後2時46分。サイレンが鳴ります。
10年前のその日。9年前のその日、8年前。。順に記憶を手繰ります。
 そして純白の野の花。

 

2021年3月4日木曜日

同じ釜の飯



 嫁ぐ私に、その時一緒に暮らしていた女性が持たせてくれた折雛を今年も出してみました。だから、40年以上なのですね。
 彼女も保育士さんだったとか。色々な事情の人たちが身を寄せていた山寺の庫裏。今でも時々電話をかけてきてくれます。もう、その頃の人たちもそれぞれに老いに向かっていて、ポツンポツンと様子がわかると、ほっとする中継点なのかなと思ったりしながら、何ともつかない話をしています。何か書いているのだったら読みたいと伝えると、今いるところの様子を書いたのがあるのと2冊ものノートを送ってきてくれました。
 みな、頑張って生きているんだなぁと思います。
そう、中継点なんて言いすぎてますね。同じ釜の飯という意味を考えます。
共食って、ただ一緒にテーブルに着くようなことじゃなく、その共同体での賄いもわかっていて、お互いにお腹を満たせるというこころ配りのできる間柄になるという事。そういう体験の共有。食べるというのは実に、個人的、自分の世界であるのに、共に居る人と一緒に食べてこそ、伝わる事がある。そういう言葉でしょう。
 そういう身を寄せ合える場を、増やせないかと毎晩思うのです。
 

2021年2月21日日曜日

今時



 コロナ以降の時代になって、布おむつで子育てしたいという人がいるでしょうか。

とりあえず屋根裏にしまい込んであった布おむつは、断捨離の時。

なんとなく長くしまい込んでしまって、もう用途もなくなったはず。
器用な人なら女性用の衛生用品を作ったり、介護用の使い捨て布にもできそうだけれど、そう思うとまた粉石けんで洗って、酸素系漂白剤で晒すというドビー織の白さに、日当たりのよい物干しでうっとりしていたのです。
 畳みながら、そばに居た連れ合いにこんな贅沢に布おむつで子育てさせてもらってありがとうと言ったのはバレンタインの日だったかしら。返事はなかったけれど、肩が一瞬動いたように見えました。


 

2021年2月5日金曜日

大雪の年


 義母の亡くなったのは、義父の一周忌が1月に済ませた、その翌月、追うかのように2014年2月5日に亡くなって。家族が駆けつけて葬儀が段度られて、義父の時とはまるで違う山梨に越して、その地での習わしでのものでした。葬儀をした日から雪になって、一旦、雪も解けるかと思った時に2回目の大雪。一晩に120cmというものでした。ただただ移住した土地に慣れるのに必死だったのに、次から次へと状況の変化に、追いまくられるようでした。
 今年は、誰の年忌もなくて1月2月をゆっくりとしていますが、パソコンから離れていた期間もあって、その間に義母が亡くなった年に、片づけなくちゃと一回ほどいてあった着物を、手縫いで別なものに作っています。
 針目を進めながら、気概と品位を保って生きていた親たちの世代を思います。義母は大きな場所に出ることはなかったのですが、私の足りないことを言うといつも人数の一人でと、図書の委員になってくれたり、産直見学のバスに参加してくれたりしたのでした。
 そして、ふらふらと外に出ていく嫁に、いつもあんたが失敗しないようにと出かけると拝んでいるのよ。と話してくれたことが、いつかありました。思い返せばありがたいものでした。
 危うい嫁でしたから、長引く会議もいくつも経験しています。誰のせいだとかは言うものではないでしょうね。会議は参加者全員の責任です。議長として心掛けたのは、全員の発言。それがわかってくると参加する人は議事の中での自分の発言時間と、相手の主張を聴くことができるようになっていったのだろうと振り返ります。それまでには、何回か工夫をして全員参加の意識を高めたものです。その土台はくらしの中での配慮だったのでしょうか。
 気概と品位って、会議の中でも表せます。そして配慮が基本です。
無責任な人を戴く組織委員会って、義母たちから見たらどうなのでしょう。

 

2021年1月27日水曜日

志筑の便り


 小学校の帰り道の神社にあった椎の木の、昨秋の実を拾って送ってきてくれた友人がいます。故郷の幼友達。それこそ母が嫁いでいった時から、同じ地域での親同士の行き来があって、意識しないうちから一緒に遊んだ数少ない友。
 今、またその故郷の実家に戻ったといって神社や、小学校のその後の便りを送ってくれました。数年前に千代田公民館であった講演会にも来てくれました。彼女も、また新しい出発をするというのです。そんな近況も、懐かしい場所の話も、様々なことを経て、やりとりすることになるなんて、一緒に学校帰りに歩いていた頃には思わなかったことです。
 この次の同窓会には私は帰る事があるだろうかとまだわからないですが、時間を作ってゆっくりと話したい。