五月以降は、山梨の家にマハラバ文庫事務所を開かざるを得なくなりました。整備はまだまだですが、多くの方の訪問に耐えられる事務所運営を順々にしていければ良いです。 そのような考えで、なるべく、閑居山時代のもの、富良野時代のもの、そして近年のものも母の残していったままに箱に詰めました。山からの植物もアパートの周囲に植えてあったものの株分けをして明日、山梨の庭に植えてみます。
あの机は誰々の、このパソコンはあの人と、あの人たちと、出し合ってくれたもの。ご近所さんからの、ボランティアの、学生の・・・。 そして、生協パルシステムでの購入も、私から言わせると、一人暮らしとは思えない単位の雑貨や食材であったりするのも、配食サービスを受けながらも、他の人達との共同を単位として、その上での繰り回しをしてきたようです。
プラスを出さない、生活保護の暮らしを続け、昨年の三月十一日。三月十四日に一緒に東京で住もうと説得しても、自分の生活はここにあると、ベッドの手すりを掴み、自立自尊の暮らしを貫くとしたのです。嫁いだ先にも高齢の両親を抱える私を慮ってだと解っていても、だからこそ涙を浮かべながら、茨城を離れなかった母。その自立した経済。自立自尊を支え、ある意味ベーシック・インカムと呼ばれる社会を創るための彼女の闘いが、差し引きの残らない暮らしとして、私に渡されました。
6畳二間に玄関・台所、浴室、トイレ。その住まいの鍵を返して、手向けの花束を持って子供達と、山を上ります。昨夏母と歩いた道。庭。また今年の筍が、道を閉ざし、庭を山に変えようと生えてきています。いつか兄が戻る時に、少しでも、住まえるところが残ればと、その筍の頭を蹴ります。せっかくですから持ち帰ろうとしたら、セシウム、セシウム。と若い世代は言いますが、山の霊気は守っているはずです。そうでなければ、母の闘争も、また引き継げません。