2012年4月28日土曜日

鍵を返して

母の家。子供達にはお山のおばあちゃんの家。大仏照子寓居は、本日で閉じられました。 約三週間。急逝とは言っても2009年の三月にも大動脈解離での入院があったので、役割と資料の大部分を私の一存で処分したのですが、やはり山を降りてきてからの活動の拠点であり生活の場であった住まいには、多くのものが残されていました。使えるものは、母がお世話になった方々に使ってもらってということにして、どちらにしても他の人のお下がりを頂いたり、周囲の人達からの援助での家電のほとんどは、リサイクル業者が持って行きました。現役使用中だったPCは、データの確認がありますので、引き取ってあります。そのほかのビデオテープ、カセットテープ、紙ベースの資料などはできるだけ散逸しない事として往復数度で我が家に運びました。
 五月以降は、山梨の家にマハラバ文庫事務所を開かざるを得なくなりました。整備はまだまだですが、多くの方の訪問に耐えられる事務所運営を順々にしていければ良いです。  そのような考えで、なるべく、閑居山時代のもの、富良野時代のもの、そして近年のものも母の残していったままに箱に詰めました。山からの植物もアパートの周囲に植えてあったものの株分けをして明日、山梨の庭に植えてみます。  その運び出しをしながら、その実、資産は何も残らない。富良野で働いていた時期の厚生年金を差し引いた生活保護の金額。そこから、さらに介護料が引かれ、光熱費も通信費も抑えながら、楽しんでいたとする生協への注文。何も金銭としては残らない中で、何故母が多くの活動・ネットワークへの主体としての参加をし、娘たちのいうおばあちゃんの男衆が集まる住まいであったのかを、連れ合いは、家具も、無くなった台所の掃除をしながら一言で決めてくれました。資本主義とは違う考え方だったなぁ。と。

 あの机は誰々の、このパソコンはあの人と、あの人たちと、出し合ってくれたもの。ご近所さんからの、ボランティアの、学生の・・・。  そして、生協パルシステムでの購入も、私から言わせると、一人暮らしとは思えない単位の雑貨や食材であったりするのも、配食サービスを受けながらも、他の人達との共同を単位として、その上での繰り回しをしてきたようです。
 プラスを出さない、生活保護の暮らしを続け、昨年の三月十一日。三月十四日に一緒に東京で住もうと説得しても、自分の生活はここにあると、ベッドの手すりを掴み、自立自尊の暮らしを貫くとしたのです。嫁いだ先にも高齢の両親を抱える私を慮ってだと解っていても、だからこそ涙を浮かべながら、茨城を離れなかった母。その自立した経済。自立自尊を支え、ある意味ベーシック・インカムと呼ばれる社会を創るための彼女の闘いが、差し引きの残らない暮らしとして、私に渡されました。
 6畳二間に玄関・台所、浴室、トイレ。その住まいの鍵を返して、手向けの花束を持って子供達と、山を上ります。昨夏母と歩いた道。庭。また今年の筍が、道を閉ざし、庭を山に変えようと生えてきています。いつか兄が戻る時に、少しでも、住まえるところが残ればと、その筍の頭を蹴ります。せっかくですから持ち帰ろうとしたら、セシウム、セシウム。と若い世代は言いますが、山の霊気は守っているはずです。そうでなければ、母の闘争も、また引き継げません。

2012年4月22日日曜日

新緑へと変わっていきます

二週間は、慌ただしく過ぎていきます。あの満開の花で飾られた樹々の枝は、
葉桜へと変わって、常磐道を行き来している車を運転する長女とも、また次女とも
その早さを話します。

   人は、葉に乗せて思いを伝えようとしてきたのだと、その萌え出てくる新緑をみながら感じます。
一枚の葉書を書かなければなりません。伝わるのかどうか解りませんが、文庫番の責任。

 今日は、兄の誕生日。アースディ。
 母なる大地は、同胞を生み出すこの母星は
 実に豊かに、力強い受容を秘めているのだと、思うのです。

山梨へと、荷物を移動する車の中で「さくらのバラード」が流れます。
 不覚にも、涙が出てしまい、隣の連れ合いも、困ってしまうようです。

マハラバとは、人々の不条理を書かなければなりません。
文庫番は、母の見送りの式をしたのですが、父の教えは、親の死に立ち会えない、親の葬式も出せない、
そのような、生き方にこそ。
人並みという陳腐な幻想を創りだす世間から、落ちこぼれた生き方にこそ
叫びの力を聞くのだったと思うのです。
 葉書を書かなければなりません。今日。

 人は、樹々の葉が、さわさわと音を立てると、そこから、誰かの言葉が伝わってくるのを感じ取る力があったのでしょう。

2012年4月10日火曜日

年年歳歳花相似

麓を通りクラクションを一鳴。
山の中腹は、春の柔らかい新芽と盛りの桜の花で霞がかって見えました。
誰に知らせる車鳴であるのか、誰も確とは知らず、それぞれに想った事でしょう。
座席後ろは柩の置かれている、霊柩車の窓から私も今年の花を見ます。

斎場の庭にある桜は満開でした。
焼かれた匂いの残る骨箱を抱え、一緒の花見です。
骨を拾うまでを、ともにしてくれた人達が、これからは満開の桜を見ると
奥さんの事を想うな。和尚の葬式の大荒れの天気とはまた違う。そんなことを言います。

文庫番は、母とともに今年の花見をします。
常磐高速沿いを、隅田堤を、千鳥ヶ淵を、錦糸公園を

これからは、文庫番なりに、一つ一つを考えるのです。
今までの、対話の中から学び、諭されてきたことは
こなせているとは言えませんが、どこかで、もう自立しなさいと
相談するのではなく、自分の考えで決めるようになっていきなさいと。
育てたられたことを、これからは育てることにしていきなさいと
と潔く母は逝ったのだと思います。

嘆くことではなく、そのように、委ねられた安心を感じるのです。
もう充分に生きてきたと、四月七日、桜の季節、満月の明けた朝
誰を煩わせることなく、見事な散華であったのです。

充分に生きてきた、満足した笑みを浮かべたままの安らかな穏やかな顔でした。

父の時もまた、死に目には会えずとも、納得し覚悟しての対面でした。
母もまた、一人で逝かせてしまったけれど、それが望みだと話していた通りに
願いが通じて天に召されたのだと考えます。

心臓肥大に負担がかかったのだろうと、医師は言いました。自然死。
生きざま、死にざま、まことに素晴らしい母であったのです。


山の麓を通り、そこに父が建てたプレハブの中で、障害を持つ人々とともに
公教要理を母から学んだ事を思い出します。小学生であったでしょうか。
主の祈りの中での 「我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ。」
のことばを思い出します。そうだったのかと、いまさらながらです。
悪人正機そのものです。どれほど、自分の罪を知るということが難しいのか

今になって、少しだけ解るのかもしれないのです。
少しだけです。
だから、母のことばを探しつつ、文庫の整理をしなければならないと文庫番は思います。

2012年4月6日金曜日

甲冑



 いきなり、神社の舞台に鎧兜が整列していて驚いたのですが、植木市をしていたのは亀戸の香取神社。勝矢祭りなどもあって、それなりに勝負事の世界では有名な神社なのです。どうしても神社で願うことに、技の向上の果てに武運長久などがあるのでしょうね。
 人が神に祈る事は敵味方、勝ち負けではない事を見つけたいと思うのです。
自分のこころを見つめるという事の対話の相手に、見つける事が出来たのが、より大きな力である何か。

 まだ難しいです。より大きな力に委ねるという事と、自身と対等に常に他を観られるということのバランスが、凡人の生き方の中には、揺れ動きながら生涯を過ぎていくのでしょう。卑屈になったり尊大になったり。そのような自分の至らなさを、やはり祈りで昇華していきたいのです。ああ難しい。
 この神社、我が家から、そうは遠くないのに、植木市に行きたいという義父とついて来る義母とを、車に乗せて、行きつこうとするとハンドルを持つものとは別の指示があれこれ。頷きながらも、ここは曲がれないからね。ここは一方通行だからね。と伝えます。結局三周りしてから、お目当ての市に義父母を連れていきました。有難い事に山梨の庭に植える果物の木を選んでいるのです。
 対等に自他が在るという事。難しいです。身構える具足もまた、宝物となるのでしょうか。