2012年6月19日火曜日

方丈記を

ゆく川の流れは絶えずして・・、この文章を朗読の稽古の内輪の発表会での題材に選びました。
今、仕上げ校正のものもあるので、充分には練習してませんでした。本日は、朗読の会そのものが台風の影響を考え一時間繰り上げての終了。まさに方丈記の無常の世界のような東日本大震災・そして、大雨、竜巻、季節外れの台風。都の乱れ。
 誰にも大過なく本日も終わる事を願います。
向田邦子「お辞儀」朗読の際の写真を添付しているのですけど。

2012年6月16日土曜日

先へ先へと

新しいページを作成中なのですけど、技術が追い付いていません。梅雨時仕事に少しずつ整えていきます。三年単位です。三周りに入ったのですね。

ユリの開花、芝生の向こう、吊り鉢


 ともかく土づくりからと考えたら、堆肥づくりからとなりました。現在暮らしている狭隘な家の台所で出る生ゴミ堆肥なのです。以前ベランダで数年かけて、ようやく黒くほんわかしたものは3月に梅の木の根のあたりに埋めました。
 ということで、玄関先に義父が園芸資材を入れていた古いプラスチックの漬物桶を移動させ、かつお厚削りの出汁滓や野菜屑をぼんぼん入れて、朝市で買った米糠や、僅かな墨田の土を混ぜ、都会らしくない匂いが出はじめた頃、母のお供えに、古いお付き合いの信州のリンゴ農家さんから一箱届いた春リンゴの詰め物だった有機の籾殻にリンゴの皮・芯も入れて、匂い問題の緩和ができたものを、畑予定の場所に畝を作り埋めました。冬春中庭の草取りをして積んであったものも合わせてあります。
朝市でトージバさんから買った大豆を植えます。
荒れた土地でも大豆からが良い。と義父も言います。本日はその桶に入っていた石灰を撒きました。来週種まきできるでしょうか。私にも何の用事のない日は義父母の山梨見学デーです。
 結構、不定休にした文庫稼業は、皆さんそれぞれが予定を入れるので大変なのです。不定休・無給でしょうかね。
私たちは、このくにの肥やしになるしかない。と考えた話を母にして、新潟で聞いた人間の土葬したところが一番良い肥やしになるんですって。と話したら、そう言われるとカトリックの神父さん達は土葬だったわと、教えてもらったのです。
その意味を今考えると、皇室が従来は土葬であったというのは、この国の土となる責任を果たしていたのだとも思えるのです。衛生上などは遥かに超えて、微生物と神格が一体だったのかもしれません。
火葬になる事を、立派な葬儀にしてしまったのはつい半世紀です。

2012年6月11日月曜日

感謝

 二カ月経って、6月9日「大仏(おさらぎ)照子(あきこ)を偲ぶ会」実行委員長里内龍史さんを軸に行われました。写真には、司会の坂本さんと献杯の天海さん。  プリントアウトしたものではなく、書をいただいての横看板でした。土浦モール505ホール。最初は30人程度と言っていたのが、50人、60人となって、ホールは100人まで大丈夫だからと言われてました。雨にも関わらず大勢の生前の母との交わりがあった方々が出席してくれました。皆さんからの一言一言を、子供達と聞きながら、寺の庫裏を賄うだけ、そして、古アパートを拠点にし、他の人達のお手伝いだけをしてきた母がくすぐったく思ってはいないかと、至らぬ私は考えていたのです。82歳の賄いのおばあちゃんがこんなに大勢の人に、死んでのちにも集まってもらうなんて。讃辞をたくさんいただいてしまいましたが、人との交わりの中で生かされてきたのが良く解ります。私が生まれる前からの父の友人も来てくれていました。そして、この2カ月母の前に花の絶える事がありません。本当に皆さんに感謝するばかりです。  大仏の家の大正期の貧民救済、社会運動や、父との農民運動、障害者解放運動。青い芝の歴史。北海道での母の生い立ち。富良野国の子寮での仕事。信仰。そして晩年のネットワーク。脱原発、冤罪、死刑反対。  この日に冊子となった母の原稿は、マハラバ文庫としてまとめていかなければならないものです。どこまでできるのか、三部構成でと思っていますけれど、今は、義父母の状況を見ながら文庫番の動きを組み立てなければなりません。資料の掘り起こしなどを考えると、即急にと思いながら、ちょっと厳しいかもしれません。  これらの活動、裁判支援などの時間経過を間違って記録することはありそうです。おっちょこちょいの文庫番には荷が勝ち過ぎている記録です。  大丈夫。少しずつやっていれば、必ず前に進めるから。なんとかなるのよ。そのことばを残してくれたことに感謝です。