2017年12月23日土曜日

一陽来復2017年


 八郷からはるばると来た水仙は、お正月迎えに華やぐようにと、健気にも川岸で蕾を膨らませています。
 このところ氷点下、毎朝霜にうなだれながら、日差しが高くなるとそちらに向かって伸びるように暖かさを茎に取り込むのでしょうか。
 八郷の南の、閑居山から、兄が山梨の我が家の玄関に来ました。
会うのは、次女が入院する前の時からだから4年近く経ったのでしょう。あの時の穏やかさはなくなり、表情は互いに固く、会話の糸口がないままで、同道してきた在家の方も、少しでも状況を好転させることができるかと考えられたのだと思いますが、どうだったでしょう。
 お茶をすすって、所在を知りたかった古い知り合いについて、私も解からないという事を確認できたら、戻っていきました。小半時もあったかどうか。
 そして、今朝のようにさらに寒さが厳しく、朝の冷え込みが肩のあたりで感じる日には、毛布にもぐって、また寒いだろうかと兄の吹きっさらしの小屋を考えます。
 会話が一方的になることが、在り方を難しくしているけれども、自他どこにその理由があるのか、探せないままについにこの年になっている、それでもまあ元気な様子にほっとします。 
 マハラバ文庫が、コミュニケーション・クリエイト。それは人生の最初から、会話の難しい状況の中で、互いの言葉を探してきているから。いづれ、最終章を綴るときがやってくるのでしょう。母が育てていた水仙のその系統だという花、この土地で、この寒さでも耐えていけるようにと、今日から陽射しが長くなることを喜びます。

2017年12月15日金曜日

山並みに日は暮れて


 茅ケ崎での二日間を過ごして、中央高速を山梨に戻る12月9日の夕景です。
連れ合いと高校時代からの友人は、閑居山に、父、大仏尊教のもとへ通い、当時のマハラバの人々ともなじんだ方なので、駅前ふらっとパルに展示された写真を見ながら、私たちも知らなかった話をしてくれました。
 神奈川での展示には、連れ合いも友人たちに便りをして、40数年を遡る時間を取り戻しつつ、現代を考えます。
 この夕暮れの下に、まだ、障害があるということだけで、生きる場の見つけられない人が居る。障害があろうがなかろうが、生活に困窮し自分の在り方を虚しく思う人が居る。
 友人が見せてくれた紙芝居「幸せな王子」。オスカーワイルドのもう一作「わがままな大男」と二つが一冊になっていたものを、父は私たち兄妹に与えてくれていたのでした。
 あの楽園を、また美しくしていくことは、できるのだろうか。

2017年11月14日火曜日

チビ太の?


 源助大根が大きくなってきたので、おでんにしました。面白いので串にさしてみて、チビ太のおでん?ケケ。。
 おそ松君を兄とテレビで見ていたころには、チビ太が浮浪児だとは知らなかったのです。それよりどうやって六つ子を見分けるか、そんなことに気が行ってました。キャラクターの中では、あまり面白くなかったけれど、今格差とか、子供の貧困だとかに、どこか変な肌に合わないことばを感じるのに、浮浪児という呼び方には、チビ太の何物にも依らない自由さを感じます。何かのこだわりがあって、おでんなのだったとは思うけれど、それを見ていた私たちも、空気として彼も我も同じ地平に居ることを、腹の底で知っていたと思います。
 今、私は食べきれないほどの鍋を煮ている。兄は・・・満ち足りているのだろうか。あの分かち合って皆で食卓を囲んでいた、マハラバは昔語りではないはずだから。

2017年11月12日日曜日

神奈川生協連合会のページに!

神奈川ゆめコープさんの取り組みがアップされてます。http://kanaken.or.jp/news/2017/171107_01.html

2017年11月8日水曜日

新芽を用意して



 川の湿度と、暖涼の差のあるところの紅葉は、美しいです。庭のヒメシャラ?夏椿?の葉は色づいています。その枝の先には来春に向かって、力を秘めた新芽がきちんとついています。
 私のライフワークである、父の資料を整理してきたことから、~ともに生きる~「大仏尊教写真展」をパルシステム神奈川ゆめコープさんが本部ビルを会場として開催してくれています。昨日はオープニングセレモニーにお招きいただき、写真展主旨の話を、しどろもどろながらしました。山梨の自宅で、自分で説明するのとは違い、写真パネルをお預けし、自分が立ち会わない間も、他の人に伝わるようにするのは、文庫番の力量を超えていることなのです。説明文章を今回は作ってみました。パネルの説明ですが、父の生涯の概要と、マハラバ村の生活の片鱗を知ってもらえたらと書いたものです。
 今の社会の課題として、障害者殺傷事件や生活保護なめるなジャンパー、そして差別のいろいろ、社会化しにくいものをとらえて、共有することで一歩でも踏みだしていきたいという開催主体であるゆめコープ吉中理事長さんの熱意が、開催に至ったことがとても良くわかる展示になっていました。今の社会の問題として、「ともに生きる」という大きな憲章を神奈川県が作ったこともあります。
 私の中では、父を語ることにとどめておくのですが、そのしてきた事、特に神奈川の「青い芝の会」の人たちとの活動は、社会が置き忘れてはならないことだと、捉えてもらえたのですから、文庫番の資料整理も伝えていき公開していく意義を感じます。
 あら~。。まだ着れると10年前のスーツを着て行って意気込んだのですが虫食いでした。穴があったら入りたい。いえいえ、説明が虫食いにならないように、10日にも茶話会として用意してもらった機会を、十分に活かしたいと思います。

2017年10月26日木曜日

亡国



 亡国に至るを知らざればこれ即ち亡国
祖父は田中正造の演説を聴いたことがあると、母に聞いたことがあって、晃雄(こうゆう)さんもいろいろな事をしていたというから、そういうこともあったと考えています。でも、それはきっと、今回の衆議院選挙で大勢の群衆が立ち会った演説の群衆の一人と同じような群衆の一人だと思っています。何かで確証があることではないのです。
 ですから、今また、それらの時代について書かれたものを勉強中。
最後には、菅笠と頭陀袋だけを枕辺になくなったという田中正造。およそ江戸末期の天保十二年に下野の国で生まれたものが見てきた開国、維新、そして・・・文明開化と言われた明治の、その底辺の暮らしをいかにできるかと、常に民衆とともに居たという。
この逞しい精神を祖父は肌で知ることができた世代だったのだけれど、今私はどうだろう。そのことを断片でも確かめていくことくらいで、得意げにしてはいないだろうか。そしてその息子であった父が生きていた時代も、すでに遠くなったことに、今、いまをどう生きるのか。
 今回の選挙は結果もどうしようもないけれど、それ以前に立候補するものの志が育っていない社会であって、少しずつ良くなっていると百五十年前の人たちに胸をはって述べられるでしょうか。
 それでも、抗うとはリベラルであるとは、勝ち負けではないと、だから残されている志を確かめていかないと。
・・・・・蜘蛛の巣を透かし見るバス停と、空き家の庭

2017年10月19日木曜日

貴重な夜明け



 昨日は、何ともすっきりとした爽やかな夜明けでした。新月前の細い月と明けの明星を見て起きて、デジカメ写真を撮っておいたのです。このところ雨降りばかりでしたから、布団を干したり、夏のタオルケットを洗ったり白胡麻のあとの黒胡麻干したり、晴れ間の畑にも行ってみて、防虫ネットを剥がしてみたり、何故かネットの中で虫食いの白菜やキャベツに嘆いたり。
 そんなばたばたしたところに、宅配で高山久子さんの著作。午後からは短歌のお茶のみがあるのでひとまずおいて、出ましたが、戻ってこの「青い芝の会」・生みの親からの伝言を読みながら、今求めていた多くの事が符号して、夜明けから、就寝までが、思い悩む日々を取り払った風が抜けて行ったような良い日でした。ご報告。

2017年10月13日金曜日

千代田PA



 先日、いわきを中心とした福島被災地ツアーの帰りは、車中の寛ぎ時間を経て休憩が夕方の千代田パーキングエリアでした。高速降りたところは、歩いて閑居山にまで帰れるところ。カメラの電源無いから写真は撮れないし、。。恒岳先生の絵葉書の秋があったかな。
このところ、神奈川で開催される、父とマハラバ村の写真展の説明文作成中の福島行だったので、なおさら高速を降りていきたい、様々に昔を確かめたい人たちが居る。と、そんな事を思いながらでしたが、山梨の文庫に戻ったところ、恒岳さんの恋瀬山荘から、硲杏子さんから昨年のお約束ということで、母に由来する、閑居山からの水仙の球根が箱にぎっしりと贈られてきました。なんという嬉しいことでしょう。上手く山梨にも根付いて欲しいです。もう元の地には生えていないかもしれないものです。
硲さんは、園芸上手。昨年山荘を見せていただいた時も素晴らしかった。あの時は、恒岳先生もご健在で一緒にワインを楽しんだのに。小幡の秋の絵をアップさせてもらいます。今年の秋は、そして来春は、季節を彩るのは何でしょう。

 そして、一緒に語った画廊「橋」の事。住井すゑさんの息子さんと、父と恒岳さんは同じ学窓で、そんなご縁もあった茨城の風景。母の持っていた「水平社宣言を読む」をあらためて読んでみるのです。一世代、二世代前の人たちに、顔向けできるような腹構えが私にあるのだろうか。。ただ故郷恋し、母恋しと言っているのでは、意味もない。


2017年9月22日金曜日

秋彼岸になって


 やっと、今年の曼珠沙華は咲きだしました。子供のころは、ちょっと敬遠していた花。
故郷ではお墓に咲く花と言われていたり、緑の茎から突然長い蕊を立てた花びらが反り返る姿は日陰でみると、妖しいというよりおどろおどろしくも感じていたのです。
 その頃は、じゃあぼという葬儀はまだ縦棺の土葬でもあり、村の中の墓場に行列を作って人々が歩いていくのを、学校帰りに見たりして、閑居山とは違う、葬式宗教というのがあって、異界もあると感じたのかもしれません。
 2011年の春の彼岸には、文庫番の家には墓が無いと書いたのですが、今では家から歩いていける墓所に四柱の骨を納めてあります。相変わらず父の墓は、閑居山全体という兄の考えのままのようです。形にとらわれるものではないとした父の考え方を、正統に受け継いでいるのは、やはり兄の考えなのです。そしてどうしても社会と相いれない行動をしているように取沙汰される事も、読み解けば理解できる事なのですが、翻案者がいないと通じないままでしょう。
  写真展パネルの説明文を書かなければと思いながら、なかなか書き進まないのです。文庫番は、兄がどのように父の事を、そして母の事を考えているのかをゆっくりと話し合いたいと思うのです。同じ父母に対しても受け止め方は違うのは当然だから、それぞれが補完できれば、お互いが楽であるのにと、一つの事実というものが語るものの立場で異なるものなのだからと、機会のない照合を残念に思っているのです。
 現在の文庫番には、小さいころには不気味でもあった彼岸花、曼珠沙華が律儀にお彼岸をたがえずに咲くことにこころが休まるのです。励まされる力をいきなり、土の中から宙に放っているごとくにも見えるのです。
 自分の姿で、賢明に生きて行こうとするときに、多くの人が力を差し出してくれるのだと、学んできたのでした。

 文中、書き足し

2017年9月16日土曜日

角出せ


 幼いころから親しんでいた、ドリトル先生漂流記に大きな海カタツムリの殻にドリトル先生の一家?が乗り込んで航海をする巻があったのを思い出したのは、雨上がりの芝生に大きなカタツムリを見たからです。
 どういう種類なのかよく解りませんが、この近辺には居るようです。
家を背負ってその生涯を生きていくのですね。実家とか婚家とか出家とか、考えなくてもいいのでしょう。
 知人が、またその知人から兄からの連絡があったけれど、公衆電話だったらしくすぐ切れてしまったという事を教えてくれました。電話のあるところに居るのでしょう。私にはもう連絡するつもりがないのか、どうかも解りません。
 何を背負ってしまったのか。自身と一体のものが、生きている間は離すことができないのです。その心の中を推し量る事もできないのですからしょうがない。
 ドリトル先生は、ほぼ万物との会話もできて、こころを推し量る事も出来た物語でした。

2017年8月10日木曜日

あゆみに・・


 ピースウォークの絵葉書。虹の旗の9は、亡き母の誕生日の8月9日の9?届きましたが、枇杷の成った父の電話のお話が書かれていて、どなたからなのか推量中。
 そして、深夜になって、二つのテレビ番組を観るのです。
 「満蒙開拓団の女性たち」「原爆の絵”は語る~ヒロシマ 被爆直後の3日間~」
次世代と、ともに考えたい事なのですね。
 ただ、語り始めたのではない、ただ記録を辿るのではない、それは、次の時代には繰り返すことがないようにという願いがあって、語るのですね。
 あゆみは、続くのです。

2017年8月6日日曜日

芝が伸びて


 鋏を置いてあるあたりの芝は神立の母のアパートの窓の外から持ってきたものです。ここでもともと生えていた芝も、砂利と選り分け雑草を抜く年月がもう5年目。
 芝生の拡がった庭になりました。写真展の合間に、お客様のお迎えができるように、刈り揃えて、また雑草を抜いて、母の芝ともともとの芝はすっかり混じっているようです。
 青い芝を思いながら、閑居山から移した芝を守ってきた母。もう数日でその誕生日になります。
 このところ、数人、閑居山に居た人達の不調を聞いています。また周辺で助けてくれていた知人も、年をとって来て不調なようです。もちろん自分もまた年をとっているのですけれど。。
 芝生も手を入れると、それなりに伸びます。父の写真に原爆ドームと写っているのがあったのも、資料の整理の中で分かった事でした。関西での障害者と健全者の大交流会。と横幕のある写真。その年度が知りたいと問い合わせていますが、お返事待ち。
 その交流の日程で考えると、何年前かの8月6日。父はあの頃の同志たちと、仲間たちと、行っているのです。
 不調の伝わってくる人たちの、今の社会を、そして運動を歯がゆく思っている気持ちをまた、私は記録していかないと。

2017年7月23日日曜日

マハラバの贅沢


 先週のあったかキャッチボールの皆さんからいただいたお花が、この暑い中にも関わらず良くもっていてくれます。すべての蕾が開いて、最終週になる日曜日にも飾る事ができました。三つの花がそれぞれの向きで綺麗です。
 本日は、午前中の一番に以前閑居山に居た人もご来客。そして、あれよあれよと出入りが続きましたが、その対応があり、甲府駅までマハラバ文庫の目印を持って連れ合いに迎えに、出てもらいました。
 島根から飛行機でわざわざこの写真展に来られたのは、今年の三月に「障害者自立思想の一源流ー『青い芝の会』の宗教思想をめぐって」の論文を発表された、山崎さん。そしてもうお一人が「マハラバの息吹ーもう一つの1960年代」を書かれた藤井さん。
 この二人と、閑居山に暫くいた人と三人が、それぞれを補い合うお話をされているのを耳にしながら、はじめて写真展の記事から見に来られたと言う土地のご婦人のお話の受け答えをしたり。
 それなりに慌ただしい日になりましたが、この写真展企画を通じて、あらためて「生きる場を与えられた」という言葉の理解ができたことの説明をします。
 それは山の中にあった共同生活の場のみをさすのではなく、父が青い芝の会の学習旅行で行った各地の意味を読み取ると、そこで訪れている社寺仏閣を観光なり参拝として、脳性麻痺の彼らと行っていたのでは無いと言う事。父の書いたものと、その思想の体系と照らし合わせて、その学習旅行の行程の中の訪問先の由緒、由来にある歴史、地域社会の信仰の中で人間社会の内なるものとして、障害を持つもの、またはその顕われとしての神格などが位置づけられているのであるかを、解いていたのです。現場教育という言葉もありますが、まさに目に見えるもので、その地域を学び、人の社会、歴史の中で息づいている在り様が、語られたことで、ともすれば、技能工芸を中心とした特別支援(今風)教育だけでは、競争社会の中での順位にしかならなかった(今は違うのかもしれませんが)ことに不満足だった、脳性麻痺の人達、障害者の人たちが、人の社会、そして歴史の中で、「生きている場」の実感を学んだのです。
 写真を引き伸ばし展示しキャプションを付ける作業をしながら、私に理解できたこと。それは、マハラバの意味であり、読み取る事の出来た贅沢でもあります。「無縁の地平にー大仏照子の生涯」で書いた誰もが生きていく精神的支柱を求めて・・・という内容が写真展の中でも影照していたのです。
 そういう豊かな深い流れがあったことを、私は今までの累々たる弔いへの供養であると7月26日を前に思うのです。
 本日の来訪の方々にも、いろいろと説明したかったことの第一でした。
 
 

 

2017年7月21日金曜日

写真展 山梨の新聞で取り上げられました

地方版ですがhttp://www.sannichi.co.jp/article/2017/07/21/00209398若い記者さんの取材でしたが、このように掲載されました。
お問い合わせを文庫に頂けると、いろいろと、また資料的に確認できますので、写真にお心当たりの方々ご連絡お待ちしています。

2017年7月13日木曜日

資料の価値


 
 マハラバ文庫写真展 開催中ですが、現物資料の一部も会場内に出してあります。もう少し、保管の方法なども考えられると良いのですけれど、母の遺したものそのもの。また私の手元にあったものなどで、大仏尊教の思想を体系化していくには、まだ不十分ですが、一部でも伝わる所があればと思います。
 資料にだけ基づくことを、文庫番は考えてきましたが、そうではないことを求められていると、思うようになりました。
 そして資料が三つあれば三つの事実があるという言葉を、あらたに人から聞きました。
茨城の私が育ったころを中心にしてありますが、(だって父は53歳で亡くなったのですから)あくまでも、私にとっての事実であるのが、私にできることのすべてです。そして会期中から再び取り組んでいる父の講義のテープ起こし。今回は自分に無理がないようにやっていきたいと思います。

2017年7月6日木曜日

とうとう7月6日になって


 

 もうそんなに、月日は経ったのかと、それはそうだとも思いながら、古色蒼然とした昭和初期の写真から、在りし日はついこの前のような、大仏尊教の写真を並べます。
 本日からの山梨開催。亡くなった時には、考えることもよらなかった写真展です。
気持ちだけの入場料は、今回の写真の修復、引き伸ばしを写真専門店にお願いしたことへの費用の足しと思います。
 6月、とても気持ちが乗らなくって、茨城の心配も多く、ブログアップもしなかった。
父に語ろう小林恒吉さんも、そちらに行ったのだと。
 父の言っていたことを、書いたものをまとめ、テープ起こしをしていくのには、まだ自分の力不足を感じて、もうゴールを見なければいけないのに、今回は途中の給水に寄った持久走のような気なのです。
 しかし、写真を幾葉か見ているうちに、何を考えていたのかが伝わってきます。父の思想を、読み取り咀嚼できないと、厖大な知識量の総合された言葉は、軽い意味の牽強付会として扱われていることを、過去に観てきたのです。
 写真を見てその知識、ことばと合わせて行動の意味が、私の理解に落ちて来るのは、また、迷路のような資料の中を、手探りで切り貼りできたからなのです。
 だから、手に着かなかった父の生涯をまとめていくというライフワークの道へ戻らないと、すぐに時は過ぎてしまう。
 写真展を覗きに来たのか蜻蛉。そして玄関の出迎えは、自立した精神のサル。




2017年5月24日水曜日

ここでお会いするとは!


 埼玉大学の前で降りて信号渡って、生協が僕の住いの大家だから、と金子さんから連絡があって、山梨を出るのに二回の用事を一回でできればと、武蔵野線周りで行ってみたら、そこにはこんせん君が歓迎の前肢をあげてポーズしていました。
 埼玉勤労者生協の住宅だったのです。奇遇というべきか、巡り合わせとはこういう事なのかと、私も前肢、、でなく手をあげてその信号を渡りました。
 マハラバ村の事、和尚さんの事を話してほしい。10月に企画をするように仲間と話し合っていく。相模原の事件だって、決まるらしい共謀罪についてだって、僕らは頑張ってきたはずなんだ。。。そうだよね。私は、障害者運動の方向性とか決めてきた事について話しをするものではないと考えているから、閑居山の事や両親の事として話をするように考えるけれど。7月にその頃の写真を引き伸ばして、展示できるようにと考えているところだから、それをそのまま、搬入できるように考えてみる。そのような打ち合わせとヘルパーさんの作ってくれた昼食(美味しかった、でも玉ねぎサラダ残ってしまった)を食べながらよもやま話。そうそう皆自由意思で閑居山に来たんだと言う事を、言わなくっちゃね。大仏さんは、脳性麻痺者のお蔭で思想の実践ができるようになったし、やる事やりぬいて、いい時に死んだんだよね。
 やまゆり園の事件について、もっと深めた話をしたいという、今殺される立場だという自覚。それを、取り戻さないと、共闘はできない。そういうもどかしさが金子さんの中にあることが感じられました。決して歴史ではなく、今を生きる自分たちの問題としてマハラバは有ると言う事を語れるように用意していきましょう。

夕方に、思いがけずいただいた青森のリンゴ。帰宅は別な会議を終え、ほぼシンデレラ。

2017年5月22日月曜日

外に出たい、今昔

花田春兆さんのカード
               石岡駅からのバスで
 
 人の出会いというものを考えます。花田春兆さん「しののめ」を出して、その知性との出会いが、宗教者としての魂のままに光明養護学校に出入りし、その時代の落ち着きどころを探していた文庫番の父、大仏尊教に、その頃の青い芝の会を見出した出会い。
 もし、それが無かったならば、、遺影となった春兆さんに、もっと問いたかった。様々な事。並べられた盛花に、見知った名前はあるけれど、告別式の会場にはよっこちゃんも来ていてくれた。会えて良かった。 
 土曜日は、ちょうど家から茨城に行く用事を予定していたので、間に合うように家を出ることにして、桐ケ谷斎場に寄ってからのつくばの会議。そして、よっこちゃんには、もっと元気でいて欲しい。もうあと誰が残っているだろう。
 日曜日の朝、石岡駅から関東鉄道バスに乗ります。この道筋で幾人の脳性麻痺者が閑居山に向かったことだったのでしょう。河村ハイヤーもまだあるのでしょうか。障害者(脳性麻痺者)が外に自由に出て、自分たちの意思で行動をするという事。人として当たり前の事。
 石岡駅の駅舎は、50年前とは大違い。エレベーターも、エスカレーターもあり、駅前ロータリーは広々として、あの頃の常磐線は、煤けていたし、駅の階段を手摺りに斜めに体をもたせるように一段ずつ、上り下りして、皆、ここを通ったのです。駅の匂いというのも独特のものが有ったように思いだすのに、バス停で待っていると、ステップバスが当然のように来て、、当然なのに、その今昔に驚くのです。閑居山に思い思いに集まってきたみんな。晃ちゃん、よっちゃん、小山さん、ウルトラさん、二日市さんも仁木さんも、山の中に居た私は、皆が来たのは知っていたけれど、思えば、どうやって。。。
 和尚さんに連れて来て貰った。そう言っていた人も多かったのです。父の単車に乗って、背中にしがみつくように、それは個人個人は自由意思で来るのだけれど、見える形は、「和尚さんに連れてきてもらった」という事になってしまう。
どうすれば、そんな気持ちの中も、写真という画像から、見えるようにできるだろうか。
 今回の茨城行も、またヘビーな内容を含んでました。どう表現したらいいか、できうる可能性の中で。

  

2017年4月16日日曜日

白き花に


 
 復活祭、茹で玉子一個にスズランの花。君影草と先週の趣味の園芸で放送されて、家の庭に咲くのを、誰の影を慕うのかと、白いふっくらした頬を思います。
 だいぶアイビーが伸びてきているので、今咲いている反対側の西日の当たる方に少し分けてみようと思っています。そちらはドクダミの蔓延るところ。根っ子の張りっこ合戦となるけれど、紫花大根に取りあわせて、数年計画で植え替えしてみようとイメージしていますが、半日を根っ子(地下茎)と格闘すると、それだけで大仕事をしたような気分にもなります。
 思うに任せない植物との日常が続くのです。
 思うに任せない、いろいろな先行きも考えるのですが、植物の地下茎の陣取り合戦はどのように調和していくのでしょう。イメージをしている文庫番の想像を超えた調整があるのか、恣意的に手を入れていくのか、日々庭で悩むところです。
 根っ子の合戦は、今が戦前のようだとか、まだ戦後は終わっていないとか、(これって良く同じ人が言ったりしませんか?)という人間世界のきな臭さとは違って、植物任せ。
 注意深く観察してかなければと考えます。
 

2017年4月7日金曜日

時は巡る



 女三界に家無し。。母の墓は建っているけれど、どうも、しっくりこないこの地方の石材店はカトリックの墓を知らず、花入れまで備えてしまったので、有難がって、私は時折花を供えに、隣の我が家の墓と同様に扱っているけれど、母の本心は、どこに帰りたいのでしょう。ともあれ、茨城県の森林管理署への、閑居山の極一画の借地は、引き継いでしまったから、兄が居ても居なくても、必要としてもしなくても納付書は、母の命日に合わせたように来ることになっているのです。境内に隣接した土地だったのを知らず、境内の続きとして使って物置が立っているから、それを撤去しない事にはどうしようもないけれど、遠い私にはとりあえずはそのままにしておくしかないものになっています。
 諸葛菜、紫花大根、閑居山で母が愛した花は、我が家の庭に咲いています。お墓に供えるのではなく愛でることで、今日を過ごします。

無縁の地平に

2017年4月4日火曜日

道を歩けば

何に当たるのか、電車を降りて歩いた道は、土浦のほんの僅かな区域。
そう、昨年もあった同窓会。いろいろな事情で、二年連続になりやむなく副幹事をしました。昨年末からいろいろとやりとりをして、4月の桜の頃には先生も回復されているはずと考えて日にちを決めました。これがタイトな中に入れ込んだスケジュールでもあって、心がけが良いのか悪いのか、山梨を出た時は雨模様。長距離移動ですけど、いつもとは違う理由でのお出かけに、ちょっと長閑な感じと郷愁とが入り混じります。
 ここまで来れば、共に過ごした期間も、事情も許されるところがありました。
ご実家は?潰れてます。そう応えておきます。ひろし君だったかしら、お兄さんは。。うやむやです。道を歩くのに、下ばかり見ている訳にはいきません。自分の歩く道は前をみて進んでいきます。

2017年3月31日金曜日

胡桃餡で


 凍み餅を!充分に水に浸けた凍み餅をフライパンで両面焼いて、粒餡と胡桃餡で。
この三月に、胡桃餡を練って思い出すのは、水沢うどんを食べた味。そして蕗味噌のお焼き。私たちの文化。食べると言う事は、さまざまな加工の智慧、そこに集積されるまでの自然と季節を見つめながら、日々工夫をし、手をまめに動かし私達へと渡してくれた気持ち。 
 この凍み餅に入っているオオヤマボクチ(ごんぼっ葉)、そして糯米。油で焼いて、お醤油だけでももちろん美味しい。三月の末日に、この春を悲しんでいる友人たちよ、この春を胸をうつように嘆いている、女たちよ。もう二度と春などは来ないと、その人の世の哀しみを抱え込んで、天は恵み、地は芽生えを、与え続けてくれたのだ。それを忘れまいと、食べることを尊びたい。数字に縛られているのではない、いのちへの信頼。
 
 
 

2017年3月27日月曜日

新しい暮らし方・・・


 のらんぼ村のクッキーをお土産に戻って、美味しさを噛みしめ山梨県産小麦・ライ麦。
私達には可能性があるだろうか。
 第二回里山フォーラムがあると、呼びかけがあり、一人行動の日だったので、四月にも備えした道をひた走り、高根農村環境改善センターまで行けました。
 農村移住の先に何をつくりだせるのか。田園回帰から、さてどうするのかというところでしょうか。着実なのらんぼ村の歩みも素晴らしいなと聞いていたのですが、帰り際に、マイクが回って、つい発言。あたらしい暮らし方。もう「一人前」という言い方はやめにしないか。これは、かすみがうら市でお話できたことも踏まえ、いろいろな条件の人が力を互いに寄せ合って生きていけるそういう社会にななれば、もっと生きやすいのにと言う事。その中には、一定の基準で量るのではない人間の(いのちの)評価が有るはずだと言う事。そこまでを、フォーラム終了間際に、いきなりの話で場違いを感じながらだったけれど、話してしまったと、帰り道はみぞれに変わらないうちにと、またした道を一時間余。

2017年3月10日金曜日

刺に守られ


 
 庭の川に面した側にホタルブクロがたくさん増えました。越してきて義母が川から飛び立つ蛍に手を合わせて拝んでいた事を思い出します。ホタルブクロの上に刺を出しているのは山椒なのですけれど、良い画像でないので、ご免なさい。明日はもっと焦点を合わせます。
 山椒の芽も、間もなくきりっとした緑で開いてくるでしょう。でもとても柔らかい芽です。その芽の出てくるところを守るように刺があるので、亡くなった義母が編んでくれたセーターがひっかかりました。
 こんな鋭い刺が芽を抱きかかえるように両側に腕を拡げているのだと、見入りました。
三月十日。義母の縁続きの母娘が門前仲町の防空壕の中で抱き合うように蒸されて死んでいたというその日です。
 語らずとも良かったのかもしれないけれど、本日の短歌の会で戦争の酷さを、歌った一首の説明をその経験者から聞きながら、義母が、その母娘を葬ったけれども、後になって行ってもどこだかわからなくなっていたという事を語っていたのです。歌の会には申し訳ない時間としてしまいました。
 あの下町大空襲のすぐ後に、行幸があるので、穢れを置いておけないと町内会で更にしてしまったという事。もしありのままを目にしていたら、その後の本土攻撃は無かったのではないかと。
義母も居なくなり、その頃をどう語ればいいのか。
今、見るべきものを見ないでいるのは誰なのか。

2017年2月22日水曜日

富士川街道を









 読めない地名ばかり!百々(どうどう)六科(むじな)下宿(しもじゅく)。
ナビに入れるにも、ああだこうだと読み方を考えて、とと?ふーどバンク山梨さんは以前の事務所を移転して、立派な建物になっていました。ちょっとだけお寄りしました。
 あとはゆっくりと、道路標識を見ながら、味噌仕込みもあちこち済んで、我が家分も今年は畑での収穫した大豆で仕込む事ができたし、一区切り。連れ合いが行ってみたいと話していた武田勝頼の新府城跡に行きました。
 車を止めて、本丸まで上がっていって韮崎をはじめ甲斐の国を見てみます。勝頼はこの城の完成を見ずに火をはなち、郡内の岩殿城に移ったと言うのですが、城跡は広大。
見下ろす武田領を考えていると、その頃の社会は何によって動いていたのかと思います。
資本主義ではなかったわけです。見えている土地を耕していた人々は、川で魚を獲り、山野で鳥獣を捕らえていた人々は、山城が燃えてご領主が滅亡しても営々と、生きて、世代をつないできていたのでしょう。それぞれの地名の中にも、そこに暮らしてきた人たちの営みが込められているはずです。
 資本主義はどう揺らいでいくのでしょう。食べ物を届ける。その傍らで、お賽銭箱には厳重な鎖と錠前。
 お金じゃないんだよ。自分に誇りを持って生きるということは。

 
 

2017年2月5日日曜日

白加賀


 
 庭の梅が白加賀という品種かもしれないのですけれど、小さな花なのに実はとても大きく小さめの鶏の卵くらいになります。
 今年も剪定したものを家の中に飾っておいたら、2月5日にほころんでいる様子。
 義母の祥月命日。
三年経って、淋しさが募ります。人生は逆戻りできないのよ。と。


2017年1月17日火曜日

勇気ある事


  2017年の最初のブログアップなのですが、相変わらずの食べ物話題になります。
ずっと、自分のまとまらない文章を抱えて鬱屈していたのですけれど、商品案内の今期最終の表示に慌てて購入した、芹はJAこまちの根っこ付きの芹です。
あまりにも綺麗な長い根っこにも大感激で、ともかく芹鍋と考えたのですが、ついていた生産者カードには涙するほど嬉しい思いでした。(ちょっとこの頃泣きすぎなんですが)
 三関せり出荷組合のカードには、

このたびは、お買い上げいただきましてありがとうございます。
 三関せりは水を張った畑で栽培しています。
  細かい植物片などが付着している場合や根元の隙間に土が挟まっている場合があるため、茎と根の境目の部分を切り落とし、丁寧に水洗いをしてください。
また、大変デリケートな野菜のため、お届けまでに茎が折れてしまう場合があります。
 傷んでいなければ食味上問題ありませんので、そのままご利用下さい。
ご意見、ご感想などございましたら、お手数ですが裏面へご記入の上、ご利用のセンターへご提出ください。


と書かれているのです。
 
 畑で栽培されている生産物に、土や植物片がついている事を、言って欲しかった。そしてお届けまでの間に、と言う事、食べる側自身が判断すべき事。全部が書かれているのです。
 これでこそ、とだまこ鍋もどき(お米じゃなく、じゃが芋餅)にしました。
 芹の根っこが美味しく食べられるのを知ったのは、墨田の雨水探検隊と大潟村の馬場目川上流を綺麗にする会の交流に行った時のだまこ鍋でした。
今の住いの前を流れる川にも芹は生えるのですけれど、採った事はありません。
 思いがけずに、綺麗で長い根っこの芹は、どれほど冷たい水で、産地で洗い流して、ゴミを除いて出荷しているのでしょう。とても勇気ある事だと思います。
そして何を感激しているのかといえば、つい近頃、以前生協の組合員理事をしていた人が忙しい頃充分に構ってやれなかったと詫びるような思いを持ちながら、お嬢さんの立派に成長した姿を嬉しく報告されている様子、別の先輩理事だった人も、活動組合員だった人も、子供を充分に構ってやれたかという思いを言っていたのを聞きました。それは、私の思いでもあったのです。
 組合員(非常勤=女性)理事が、役割りを果たしながら、どこかで子供をないがしろにしているのではないかと後ろめたく思わざるを得ない状況は今も続いているのです。
 ですけれども、このカードは所謂、消費者教育(好きな言葉ではない)以上の協同を語っているのです。
食べる側が、産地を知る。それだけのカードのやりとり。
 何かの、お肉の事件の際にあった、どうせ消費者にはわからない。ではないのです。
賢い消費者(これも、いまでは古びたことばです)を越えて、食べるということが何に繋がるのかを、考えることができる、紙片です。
 こういう事を伝えられるようになったことは、彼女たち、そして私の大きな喜びとなるのです。子供達は、新たな時代へと送り出すことをして来たと誇れるのです。子供達も一緒に、してきたのです。
 それが組合員の活動であったと、確信を持てるなあと、美味しく食べました。とさ。


 そして、22年前を振り返る日。