2012年3月25日日曜日

お買いもの


 普段、週一回のパルシステムからの商品で、ほとんどのくらしを賄っているのですけれど、今回は外での買い物週。それもまた楽し。習志野物語とした催しのお誘いが、三番瀬見学でお世話になったところからありました。少し普段品を買う都合もあるしと行ってきました。義父母用のかりんとうや佃煮なども。

2012年3月21日水曜日

開花宣言




 今年は閏年だったので、20日がお彼岸のお中日でしたね。牡丹餅、美味しくできました。息子も来ないし、長女夫婦も、西表島に行っている次女ももちろん食べないので、高齢で甘いものばかりを喜ぶ義父母と私たち夫婦と、仏様とで食べちゃいました。義母の言う仏様って?ともかく義母の居室に一皿置いてきます。
 文庫番にはお墓はありません。実家は祈願の寺でしたので、墓地はありませんでした。代々の住職の墓石は境内敷地内にありました。古い骨も出てきて幼いころから古い人骨を見ていましたっけ。でも所謂、家族の墓は山内には無かったので、父は、祖父の出た県内の稲敷に葬りたく祖父母の骨箱も棚上げしたままだったのです。その父の骨もどうなったか、祖父母のものと一緒に兄任せ。山のどこかに埋めたのかもしれません。昨年8月最初の日、さまざまな事を決めて自分の覚悟のために数十年ぶりで行った時も、解らないままでした。
 今の家も分家だから墓も無し。網野善彦氏ではないけれど、もともと同じ土地で五代続く家もそうは無いのであれば、こういうものなのでしょうか。
 鉱物も同胞であると言いながら、今、熟年ままごとを始めた山梨の庭は、掘ると石ばかり出てきます。前の持ち主の庭組なのでしょうか、いつになったら、家庭菜園めいたものができるのか、恐いもの知らず、ビジョンも将来設計もないのに、決めた人に着いていくのが、楽しいのですが、さてこれをどうするか、顔を見合せます。自給自足の夢は実現するでしょうか。その庭先、河川敷に降りていく梯子の上に桜が、咲いていました。ソメイヨシノではないですね。そのうち花の種類も判るでしょう。本日開花とします。

2012年3月17日土曜日

20年一区切り



 雨水探検隊の2011年度の修了式。でも、今回で一区切りにしたいと世話人代表は考えています。私も含めて実質3・4人でスタッフ兼世話人のまま20年やってくることができた事そのものが凄いのです。お互いにそれは、認め合ってます。それぞれに他に抱えることを持ちながら、地域の子供たちと住んでいる町の事を考えていきたいと、続けてきた雨水探検隊。成人ですね。最後には保護者と子供とに挨拶されてちょっと感激です。
 私自身は、この活動で区内地域と繋がることもできたし、いざという時の相談もあっさりと、親身になってしてくれる関係ができていました。多組織に関わる人達との連携でできる活動を地域で持っているという事は、所属組織があっても、複眼的に考える素地を与えられていたなとも思います。最大時1994年の雨水利用東京国際会議の頃は30代だった!そして、一回の活動で100名を超える子供の引率、スタッフも多数であったけれど、活動内容そのものは、そんなに変えずにしてきていると思います。個人的に残念なのは合宿の時は参加できなかった事くらい。区内の小中学校、保育園・幼稚園にも稲配りをして、雨水と稲とくらしの情報をお届けしていたことは、別な活動で産地に行っても話ができる内容でもあったのです。農家育ちではないくせに、お米の育つ状況に興味津々で、いつも自分のベランダで比較もできて、季節行事もそれに伴って理解してこれたのです。私にとっては、自分の子供を自然に触れさせる機会とは、本当は自分の育った山の中にしか考えられなかったけれども、それが叶わないのであればと、産地を知り、そのミラージュとしてのベランダの田んぼ。山の中の自然との対峙とは違うけれども、できる範囲でしかできないならば、そこに意味を見出しながら、毎年を続けてきたのでした。
 考えれば、区内で大人向けの学習会を開かざるを得なくて、セイコさんやテラさんも参加してくれて、稲の里の大潟村まで植樹に行って、そこから別なツアーもはじまって。
 様々な事をこの20年の間に経てきたなと、世話人代表・探検隊長とも、それぞれがくぐった時間を互いに見ながら、今回を区切りとするのにも悔いはないのです。
 もし悔いがあるとすれば、雨水利用宣言の中で1994年8月6日に宣言した二度と黒い雨は降らせない!という誓いが、この子たちの時代に、今日も雨降り。どこかで、原子力発電所事故の影響を考えなければならなくなった事でしょう。それも、人間が考えて作り出したものなら、人間が科学の力で解決しなければならないと、覚悟をしっかり決め、この子たちとも考えていくのです。
 今日の企画はレイン・スティックづくりと修了証授与。区内産業のメリヤス工場から出る紙芯をもらって、楊枝・虫ピンを挿した中に、穀物粒や貝殻などを、動かして雨の音、流れの音を聞く道具を作るというものです。錐やハサミも使いますし、楊枝を挿すのにも、注意が必要です。パスタ食べて良い?という子もいます。賑やかに、無事に終了でした。レイン・スティックは玩具でもありますけれど、雨の少ない地方では雨乞いにも使った祭具でもあると言います。二度と忌まわしい雨は降らないようにとするものとなります。

2012年3月11日日曜日

山川草木国土悉皆成仏


 この日までの一年、長かったです。兄は天台の僧侶。母はカトリック。連れ合いは、日月も含めて神道の様です。寛容性があると言えばそれまでですが、オーソドックスであるものは、抱え込む幅があると思っているのです。
 それでも、それぞれの教理との間での引き裂かれるような思いで文庫番としての今までがあったのでした。ですが、この一年を経て、その難しさ、軋轢から解き放たれたのです。どのような宗旨も、どのような政治観も、哲学ですら意味を見いだせない、無明の中に落ち込んだから、そこからの新しい歩みになるのには、ただ、いのちを、生かされている事を信じられる自分への信頼。言いかえると、すべての悉く在るものへの、あるがままの受け入れ。受容によって、宗教の違いからも解き放たれた、大きな抱擁の中に居る事ができるのです。
 その事を、考えられたことで、あまりにも大きな自然の力によって引き起こされた、事態を整理していけるようになったのです。この二つの事を考え続けた一年でもあったのです。東日本大震災の悼み。それまでの既成事実も含めて葬らなければならない大きさ。そして、そこにどのような、信仰、または思想で葬送と祈念をできるのか、母と、兄と、連れ合いと、そして世界の痛み、歪みを越えていかなければならないのだから、自分なりの、精神の支えを持つとしたら、いのちへの、悉く在るものへの、あるがままの受け入れとします。
 そして、いのちを損なうものへの憤りを示し、大きな叫びとできるのだと、自分を認められたのがこの一年なのでした。

2012年3月10日土曜日

春まだ遠し

「雪が降っているよ!」と起きぬけの義母の声。受けて「三月十日にもなってね」と応えます。そうだね三月十日だ。雪の一片、一片が落ちてくるのを見ながら義母。私がいままで活動できたのは、義父母の理解と支えがあっての事ですが、何よりも、三月十日をどう義母と過ごすのかが、あってだったのでしょう。下町大空襲で身内を失くした人です。その義母と生協を通じた慰霊碑巡りをして、親兄弟も今は誰も供養しない私の妹の様な娘さんを、皆で拝んでくれている。と。
 食べる事以外の、生協の意味が、協同の意味が、義母との間に通じ合った日でした。
 私は、毎日、毎時、毎分をこの義父母と暮らしていけるのです。戦争体験は、今この人達の事なのです。あと何年、一緒にこの空からの供養を、ともにすることができるでしょうか。
 ともに暮らすことができなくなった時、どれほどの、身体の痛みとしてのことばを、平和を!願い語る事ができるのでしょうか。今日があり明日がある。

2012年3月8日木曜日

洗濯は


 盥で洗濯板がいいのだけれど・・。全自動洗濯機二代目になって、二年目の春。もう神経戦のような洗濯機に浮かぶ黒いものとが出はじめたのは、今回の洗濯機は、購入して半月くらいたったらだったのです。それから、愚痴を言いつつ、黒いカスとの悪戦苦闘。花かつおくらいのものから、針の先くらいのものまで、布にへばりついたり、繊維に入り込んだり、服の色も変わるほど。以前のメーカーに較べて、あまりにも早い黒カスが出はじめ。それ以来、無精な洗濯女の私も、隔週で洗濯漕清掃などあるコースを選んで、酸素系漂白剤を入れて、半日漬け置いて。その中をお風呂の垢すくいを使って取り除く作業までしているのに、取り込んだ洗濯ものに着いているぽちぽち。ネットで洗濯してないし、工夫が足りないのだと考えるのだけれども、この洗濯機のメーカーのページでどう対応すれば良いかを読めば、塩素系漂白剤の投入しか書いてません。
 塩素はね・・。その罪悪性を考えると、使いたくないけれど、つくづくこういうブランド電機会社は、電気を使い、石油由来の合成の界面活性剤を使い、その挙句に塩素系漂白剤なのだとコース設定されているのです。
 あと二カ月、ワイシャッツのアイロン掛け続け、35年のワイシャッツ洗濯アイロン掛けから解放されるのを楽しみにしますが、神社の式典も背広着用の日もあるようです。先日の梵天、稲荷祭りのお祝いのサイネリアの鉢です。

2012年3月4日日曜日

誠実であるということ


 長女が生まれた時、我が家に来た内裏雛。そしてお道具は次女の時に揃えて、歳々を重ねてきました。今年はその次女はサトウキビ刈り援農隊だとかで、いきなり3月に入る日に西表島に飛んで行ってしまいました。だからと言って飾らないわけにはいかないと、あれこれしながら簡略に出しました。3月3日は、飯舘村支援の玄米味噌づくり講習会。会場を準備していると、ワンコです。って。そしてもう1人参加者ですって。大阪からです。まあまあ。まあ、そして、実際の講習時にはお仕事になってしまったからと、参加費カンパです。ミカさんからのお土産。お内裏さまへのお供えにしちゃいました。
 SNSでのお友達。このFUKUSHIMAを忘れないための取り組みに、スカイツリー真下とは言っても判り辛い会場に立ち寄ってくれたのです。
 SNS、まだ、我が国ではソーシャルという概念は馴染んでいないのではないかと思うのですけれど、インターネットという各国共通のもので、結びつくお付き合いも出てきます。その中での実在性があった味噌づくりでした。誠実であるという事。お会いできてよかったです。
 誠実である事。娘たちのお雛様を見ながら、その事を大事にしてきた年数を想います。今、誠実なのか正直なのかと言われたら、やはり誠実でありたいと、願うのです。それはどのように認められない場合でも残してある自戒のようです。