2013年12月31日火曜日

静かな年越し・・・

 激動の2013年はどうやら終わっていきます。昨年は母の喪中と言うよりは、12月に入院した義父が年を越せるのかどうか、緊迫する状況での年越し歳旦祭。
 今年も喪中となって、今までとはすっかり違う大晦日。お正月はしないからと言っていながら、若い人たちも来る。場合によっては、雪の長岡から出てくるかと、10人を超える食事と布団の用意に大掃除で、この数日は過ぎたのですけれど、最少人数の訪れとなりました。12月半ばから、長岡の叔母と義母が会えるようにしたいと連れ合いも思って、場合によっては、私も雪道走行する心構えで居ましたが、まだそのチャンスはきません。大雪の長岡に来るよりはと連れ合いのいとこがこちらに来る案もあったのですが、無理はしない事になり互いに高齢の姉妹は、雪解けの春には会おうねと電話で話していました。ちょっと気落ちしました。
 今年はお節ではないのですが、同じような人寄せの料理を準備してありました。連れ合いは墨田での年番。ここぞと物入れを開けてミシンを出して古布拡げます。
 本日ずっと煮物をつくりながら、針納めに台所の足元マットやテーブルセンター。古タオルの雑巾などミシンで縫ったりしながら、机と台所の行ったり来たりだったのです。素材は古くなったタオルケットと布団カバーの布など。母のものや義父のものが、縫い直されて新しい年への用意となりました。ここの家には、引っ越しするのと同時に、親たちのものを整理していくつくり直して整えていくという状況なのです。私の担当の古布整理は、なんだかんだと大晦日までかかってしまいました。
 ましてや資料整理なぞは、年が明けてからです。
 激動・・・したはずではなかったのか。こんなに、単なる月日の流れだけで、懐かしみ、少しばかりのつくり直しで気持ちを収めていけるのだろうか。それはおいておいて元旦だから。例年だったら浮かれるのですが、今年は慎んだままで新しい年を迎えます。
 
 

2013年12月26日木曜日

神様からのプレゼント


 文庫番のクリスマスを思い出すと、枕元にあったのは寺に潜むサンタさんがいろいろと考えてくれたのであったろう本ばかりの年どしでした。
 ある年も、無かった年も。いつの間にか、自分へのプレゼントよりも、世界中の子供たちの平和を願うようになると、すっかりサンタのプレゼントはなくなりました。
 決して豊かな寺ではなく、ましてや、大勢の他の眼のある中でのプレゼントは、一人のものとはならないのでしょう。もともと本とは誰かから誰かへの伝える道具。文庫番の家では取扱いを丁寧にするように厳しく言われていたものです。父は様々な包装紙を取っておいては本にカバーとして、本を読んでいる食卓にも湿気がないように台拭きは濡らしておかず、使う都度、濡らす程度で本に湿気が移るのを嫌っていました。そのような書籍の数々をそのまま仕舞い込んでいる文庫番。自分の扱いはぞんざいだけれども、他の人の読み方は気になったりします。ああ、まだ寛容には程遠いと。
 文庫といっても、まだ閲覧開放もできないただのパソコン文庫。それでも、父母の書類をまとめなけりゃ、自分の文章も上手になりたい。。。え?株式会社でしょう。って、そう一人の在り方として社会の仕組みの中で逆説として。それすらも、兄の構え、社会に対しての個であることを思うと、人格としてどうかとは別に、実に及ばない事だと思ったりします。
 庭畑に今朝大麦の芽生えを見つけました。この秋は、義母と連れ合いと続けて入院をし、慣れない薪の準備に追われていたり、間に合わないかと里山畑は、春を待つにしても、庭畑には霜は降りたけれども撒くだけ蒔いた大麦と小麦にすっかり諦めていたのに降誕節を経た朝。芽生えているのです。
 その隣では薪割りにすっかり傷められた芝も、これからの寒さを耐えるという意思を見せていました。どのような賢者の贈り物よりも、愚者の喜びよりも力を秘めてます。
 この、芽生える力こそ神様からのプレゼントに思えた朝でした。写真は義母がリハビリディから持ち帰ったクリスマス会のプレゼント。人生にはさまざまな贈り物が。
 

2013年12月22日日曜日

年月を洗って

46年経ったと言います。そうだったのかこのベビーバス。この数日とろとろ石けんや、アルカリウォッシュやらで、繰り返し洗って、年月は流せないけれど、そこに積もった汚れが相手に不快にならない程度には落とせたかと考え、白い袋に入れて赤いリボンで結びました。(リボンは甲府駅で失くしました)46年前の春に生まれた赤ちゃんたち。そうマハラバのベビーラッシュ。自発的共同コロニーから成り立ったカップルたちには、当然のことに子供ができて、そう、その歴史。物として持っていた文庫番は、それらへの執着も手を放していこうと思うのです。
 だって、横田弘さんの葬儀で、覚君のベビーバス、私が保管しているの。と言ったら引き取ります。って答えられ。全国青い芝の会金子会長に、その引き渡しの場を創ってもらいたいと言ったら、よっしゃ。解ったよ。となったのですから。もう私の責任は、引き継いでもらえたのだと思いたい。
 マハラバ村で季節を隔てず生まれた子供たちを、湯船を使わせていたのは、文庫番の母。そのお湯を焚いたのは和尚である文庫番の父。私と同じ山の水で、私と同じ山の薪で、このベビーバスで私の母に抱かれて。
 どうして健全者が生きているのか。それは障害者を、より弱いとされる者たちを支えるために。一定の社会の枠では生きていけないものが居たら、その枠を壊す力を与えるために。
 全国青い芝の会に九州から、関西から、そしてもちろん茨城からも、集まってきて、皆が立ち会ってくれたこの引き渡し、健全者から健全者への引き渡しだけれど、障害者同士の結婚から、新たな希望が生まれていくことを、物証であり、人個人としての証明であるとして、今を生きる。
 この事が、福島の、悩んでいるこれからの生まれ出るいのちへの後押しとなるから。そして、その事を地域の、周りの社会も受け止めているという事を私のことばで言う機会をもらえたのです。文庫番冥利。
 もちろん、その汚れは簡単には落ちなかったから、天袋にしまっておいたと言っても、下の娘が使った後はほとんど放置してあっただけのものだから、プラスティック表面に着色したように色が重なってしまっていたものを、風呂場で、スポンジで洗いながら、石けんでどこまで落とせられるかを、しなければ、私自身の経てきた活動の意味もないじゃないかと、ゴシゴシの数日だったのです。石けんで洗うという事は、科学的根拠を追わなくていい。いのちの流れを、継承を断ち切らないため。決して奇形児を産まないためになんていうことばじゃないと、暮らしの中に言い続けてきて。だから今味噌も台所で熟成できる。より安全なものを求めるという事は排除には立たない。どこかで、互いを認めることで安全を保障していくのだから。と考える私の経てきた事。
 今、新たな里山に近く、芝も移したところで、毎夜、毎朝、茨城の山を思い、忘れないとは何なのかを考え、そこにある自身の執着を情けなく思っていても、そんな文庫番が、その中から、伝えられることで大きな叫びとなっていく事を、この夜に確認したのです。


 
 
今の脳性麻痺者が、障害者であるというだけでお金がでるので、家族が囲い込んでしまって、そのまま施設で満足してしまい地域で自立を目指さないと、小山さんは嘆きました。
 
 まるで、青い芝が芽生えた頃と同じようなことばであって、そしてさらに、では経済で、人の在り方が保障されるのかと。これからの社会をこれからの経済の組み立てを、もういちど、健全者は障害者をささえるためにというところから考えなければならないし、真の自己存在というのは、役職でもない立場でもない、己が何物なのかを自分で言えないものではだめだと、もう一度叫ばないと。

2013年12月11日水曜日

ほっとする時間

 先日は、まるまる一日!連れ合いが義母と一緒に車で出かけていました。もとい。連れ出していてくれました。
 今、我が家は三人の主婦が居る状況。文庫番は一人なのに、台所に目が届くのは三人もいて、家内だらけです。ここに来て「きなり歳時記2007-2008」と「山仕事讃歌」を買ってくださる人がちらほらでてきて、さらに、もっと散文を書いたらなんて言葉をもらったり。仕事もしたいし、薪割りも面白いし。
 文庫番稼業は、フル回転でくたびれが連れ合いに見えてしまったのでしょう。お鍋の蓋を開けるのも一人でいいという時間ができたので、紅玉刻んでアップルクーヘンなど焦がし焼き。一人鍋も楽しんでしまって、書類整理はあまりできないままでした。その前日にプリンターでの作業が、台所つづきの事務所なるスペースでしていると、三すくみでささくれる気持ちが出そうだったのでしょう。出ていたのでしょう。こういう新しいレシピを試したり、端布で何かができる時間が、なぜか生み出すことができないと、家の中も錆びついた感じになるのでしょう。
 朝になってお母さんも行こう。と連れ合いが拉致。いきなりの事。

 ところで、文庫番ではなく主婦として家に居る人たちの多くの人たちがとても一生懸命な事あらためて、思います。あら、、主夫さんも。
 くらしをきちんと成立させるために、朝からの一日を組み立て、そのために様々なものを調達しした上に文化をちょっとプラスして、子供にもお年寄りにも居れば夫にも気配りできる。その毎時、毎秒でどこかすり減ってしまうこともありますね。果敢にそういう自分の姿を見ながら、より良い方向を探して皆発信しているようです。
 文庫番は、本来のマハラバ文庫からの発信が、中途なままこの半年が過ぎてしまって、実りもままならない中に、冬籠りの用意になって、ちょっとエネルギー補充が必要な状態だったのですね。
 台所に居ても、気が休まらない、いつの間にかお鍋の蓋が開く音が聞こえては、パソコンの前を離れたり、庭で薪を割っていても、集中しているつもりがつまらないことに氣を取られたり。考えればどうでもいい事なのに、テリトリーをつくって囲い込んでしまっていたのでしょう。
 そしてそんなに過敏でいるのは、また別な気がかりがあっての自分だと思うのです。どうにもならないことなのかと、少しばかりの書留で送ったとしても、底はなく。そして連れ合いには伝える機会がない。では、見捨てることができるのかと。自分にこれ以上の嘘がつけるのかと。国体の秘密なんてどうでも良い。己の地獄を見極めよと!そこに安穏があると!
 

2013年12月7日土曜日

人参・かぼちゃに牛蒡だったのに

昨日の中身で表現できていないと感じ、さらに考えているのです。
生きている甲斐ということばにしながら、食べるものにだけしか関心がいかないのは、つまらないじゃないかと、言ってしまっても、自由と不自由の間。できることは限られているのは解るのです。
しらばっくれているのが、解っていて、そ知らぬふりをこっちもできるほど人間ができていないから腹が立ったり、残念な言葉を発していて情けなくなる。
 自分で落ち込んでしまうところに牛蒡は焦げていきます。一日かかって柔らかく煮ていたのに・・・・。ここでもまた寛容であるというそれが見つからない。
 国会前の様子が伝わってくるとなおさら、鍋の底に(川沿いの葦原の穴ではなく)気持ちを吐き出していて。

2013年12月6日金曜日

たら腹食べながら

 美味しいね。幸せだね。と暖かい分け合いのものを調理して食べています。文庫番の勝手で。
釣った人も、産地も分かって、こういうゆっくりとした時間を味わえて、ひとつひとつの取り合わせも嬉しいのです。頭から尻尾まで、骨の髄までです。肝心な肝も使ってしまいます。
 そして、遠近の到来物。こういう確かな関係があって、それでもこの季節に、信頼ということ、確かめられる食べ物について考えます。
 信頼はどこから生まれるのか、互いに同等ないのちだと知った時に。そうなのです。そしてその事を忘れないようにし続ける努力が解った時に。再びの信頼になるのです。誠実であること、互いに足りない事をさらけだすことができてこそです。秘密とか嘘とかをずっと持たなければならないような関係であったら、寂しいだけですね。薄っぺらな関係というか。・・・この話はここではやめにしましょう。
 互いに同等ないのちであること。私はたら腹食べられる。一方で、餓えているものが居るのかもしれません。それはとても辛いことです。もし手をとって一緒に歩めるのであったなら、その相手の在り方を丸ごと受け止めるところからです。
 高校時代にバス通学で、いつもたった一人の乗り降りのバス停の傍に、大きなネズミの死骸があって、数日曝されていて、雨でぶよぶよになったものに、どうしても吐き気のこみ上げるような感じがして、父となにかの話しで、違いについて、区別と差別からだったか、どうしても生まれてくる感情について論じたときに、例に出しました。
 そんな事はないんじゃないか。と教えられました。あくまでも主観だったと知らされたのです。それを大切な食糧とする人たちもいるのじゃないかと。その頃は、それを聞いても嫌だったのです。
 食の深さを知ってきて、自分の体験とは違う食べ方も想像力を働かせなければならないと知って。指定外なんて、想像力が足りない時に起きることばですね。めざしてきた社会は、持ち寄って、そして分かち合うことでくらしが成り立つのに、そのたしなみを置き忘れると信頼がなりたたないのです。我勝ちに囲い込んで、なかったような振る舞いをして、秘密を恐れて余計にだらしなく見えるようです。それを乗り越えるには新しいやりとりを認められる仕組みを創っていくしかないのだと、何か今自分の周りに大きな渦が回りだしたことを感じるのです。
 義父の一周忌、納骨が済んで、やっと次の段階が見えてきたのでしょう。先をつくらなければ。
 
 

2013年12月3日火曜日

届くかしら?投函済み


内閣総理大臣 安倍晋三殿

 

 拝啓

安倍晋三さま

先日衆議院で可決され、今参議院にて論議中の特定秘密保護法案の採決について、一票を持つ選挙民の一人としてお手紙いたします。

 私は、この法案の細目についても、どのような提案背景があったのかも、ほとんど知ってはおりません。うかがい知る範囲では、今後の日本社会で社会生活、また国としての外交・国防、将来計画も含まれての重要法案として国会の場で論議に乗ったのだと思います。

 それだけ、国として、国民の生活の隅々までを考えての重要な法律を制定していくご決意なのだという事でしょう。

 衆議院での採決の仕方と短かい論議未了の審議時間について、重要性を量った時に取るべき判断ではなかったのではないかと、一票の立場で疑問に思っております。

 自分の中では、小さな会議を総理する経験があったのですが、そこに関係するものにとっての重要な案件であればあるほど、審議には手順を取り、時間を持ち、論議を重ねて、採決に及ぶ段では、それぞれが、論述をおえたのちに、より良い案に練った上で総意としての賛否を採る、その責任が総理するものとして求められたのだと考えてきました。

 一国の、多くの国民の将来にわたる生活を規定する法を定めていく場での、審議未了の声も出る強行採決は、会議を行う立場だったものにとって、決して採るべき判断ではないと考えます。

 国の国会から、市井のものが総べる会議まで、倣うべき姿とはできません。

疑問のままでいることができなく、総理大臣の判断についてお手紙差し上げる事にしました。お読みいただけることを願っています。

敬具
  
                     住所・・・・・・・・
                         増田レア
 

2013年11月25日月曜日

文庫番一刀両断

 ←会場入り口




 こんせん君ダーツ→







←ぶどう絞り実演




                      

                            味噌Cafe→                    





 いちのみやセンター10周年、発酵まつりを覗きに行ってきました。商品展示会ではフラフラしていた義母は元気に試食。連れ合いは、まだ少しゆっくり歩きなので、その二人が会場をあれこれしている間に、いろいろと感激!こんせん君ちくっと痛いかな。何より今回見たかった味噌Cafe、長蛇の列で並ぶのは断念。
そのあとは、会場出ての昼食でした。ぶどうの丘で開催されていたので、連れ合いには懐かしかった社会人最初の頃の話も聞くことができました。

 まだ大学生だった連れ合いと最初に会った頃。。山梨に住むことになるなどとは、まるっきり考えてもいなかった。そういう土地で、ましてや味噌を楽しむくらしをするなんて。
 山育ちは、今のくらしでも、身体から引き出せるリズムがあったのです。普段はあるとも思えない文庫番の集中力。薪割りの斧を持たせたら、感覚が取り戻せられて、直径が17㎝長さ30㎝程度の薪相手になら、持ってる限りの集中力が発揮されるので、中心点にしっかり打ちこめています。
 この頃発信が少ないとも言われてしまったのですけど、パソコン相手に御託を書いていてもぼやけた文章ばかりなのに、すっぱりと文庫番一刀両断。
でも、実際には中心点にしっかり打ち込むという事は、材の固い芯に切りこんでしまうので、振り上げるには、腰も肩も鍛えていないので(もちろん腕っぷしも)重さもかけられず、打ち込んだ刃がくい込んだまま退くも進むもままならず、にっちもさっちもいかなくなって、足で踏みつけてはずして思案です。そうなのです。ここまで重いものになったら、外側から少し割って軽くしてから割ればいいのです。それなのに中心点狙い。見かねて連れ合いが近づこうとしても、妻は髪振り乱して、息も荒く斧を振りかざして、近づかないで!。そうなのです。いつも、私に集中力が欠けるのは、先に回っていろいろ気を使ってくれてしまうから。
 この数日は病み上がりの連れ合いからハンドルと斧を、引き渡されて気分よくいる文庫番。
 これからの年月には、その役割は・・・一人になっても必要なのだから。

 一日中、薪割りをしても疲れてしまうと、パルシステム山梨の発酵まつりを楽しんだのでした。

2013年11月19日火曜日

種綿は・・・・

 昨年は、ただの掛詞のようにあった種綿は、義父と楽しみにしていた誠園で芽を出して、葉を茂らせまた今年の種を宿しています。さらに、数か所にお分けすることがたまたまできました。私には未知の手仕事も誘っているのかもしれません。プロ・・・・になるかしら。

 その前に、庭畑の実りをひたすら選り分ける作業が待っていました。ただ選り分けて風でとばしている微かな欠片たちは、胡麻にしても綿にしても、そうそう麦もまた作業しなきゃ。それらのチリはまさに塵なのです。箕から風で飛ばされていくのはまた土に戻っていきます。その陽だまりの時間。満たされている。過去幾世代ものはるかな祖先たちも、洞窟の入り口でしていたと思う風選別。文庫番はまだまだ、その技を身体に引き出せません。
 伊達東の仮設住宅で一体何の話しをしていたのかといえば、この季節の実りの作業。丹念な女たちの指先が、陽だまりで、生きる喜びを拾い、太陽の輝きを浴びながらしていた作業の断片を、見せててもらったのです。エゴマが瓶にいっぱい入って。それはただ選るしかないのだと。もらった胡麻は蒔くと場所がなかったからね。いいのです。この瓶のエゴマを見ることができて。
 それは、あの唐紙もなくなった寺の庫裡で押し入れの下の段にあった、つくばの胡麻も思い出させるのです。障害をもつ息子をひたすら思い、何かと送ってくれたある母親が居た事を。そうですあの綿入れちゃんちゃんこを縫ってくれた根本かねさんは、そういう手仕事を惜しまなかった。そしてその旦那さんが、“ずるびき”という呼び方のうどんを打っていた話。大晦日か馬の種付けに獣医さんが来た時の特別な料理。きっとかねさんの胡麻も添えられていたのではないかと。陽だまりで胡麻を選りながら、さまざまな記憶が空中に舞いあがり、土に沈んでいきます。
 文庫番は、もう身体で覚えられる世代ではないから、聞きおぼえた事の実証、追体験ができるだけですけれど、何も猛々しいマシーンを使わないでも。。でもその風選別をしている反対側の軒下にはチェーンソー。私たち三人、メンテナンスしながらの暮らし。連れ合いの軽手術は義母の大手術とは違いあっけなく。二日三日の様子見で、わ・た・しの運転で、この庭に戻ってきます。しばらくは薪割りも文庫番仕事になるかと。。なかなか金曜日も土曜日も出かけなくなりました。ここに抗いの在り方もあるのだと。抗い続けるのだと。
 それより、大豆の収穫後は、何らかの機械力も 春に備えることも考えないと、また来年も手で石を拾いカラスに学ぶばかりになるのです。今持っているのは菜種に大麦、小麦、胡麻に綿。栄子さんのニンニクは、庭の木の下で芽がもう出ています。綿の作業もしなければなりません。種を採るために必然に繊維なのですが、綿、育てた事もなかったのに種があったからと植えて、日照りも台風も来て、今霜の頃まであったのを無理無理小さく押し込んだら乾燥していた萼や軸が砕けて繊維に混ざってしまいました。これも取りのけて・・。
 

 その摘み取りは、大所有の綿畑にいた逃亡奴隷たちにとってどれほど辛かったのか、その片一方で自動織機ができたときに手織り職工たちの暮らしがどう追いつめられ、資本と闘い、闘い、抗ってきているのか・・・。学ばなければと。
 

 私は、陽だまりで、胡麻を選り、ストーブの横でで綿からゴミを除きます。

集全學文衆大界世
ンビケ・スムト・ルクンア
ウトス
朗次律氣和
社造改
年三和昭
 
 
黒いランプ
ピーター・カーター
犬飼和雄
ぬぷん児童図書出版1979年
 
 
アンクルトムの小屋については敢えて書きませんが黒いランプの中を少し
1819年のピータールー虐殺事件が描かれています
言論と集会の自由を禁止した法律がどれほど労働者を苦しめていたか
そんなことばも書かれています
 
 

2013年11月15日金曜日

たきぎだ たきぎだ おおさわぎ

 あたろうかあたろうよ。と高齢者対応の暖房になるのでしょうか。薪ストーブは、11月に入って本格的に使い始めることになりましたが、まだまだ、用意した分では足りないよ。と。ご近所さんも心配してくれます。
 果樹、その前はシルクの産地、桑の古木もあるし、と6月後半からは二、三年分はすでに確保して里山再生にもなる薪造りをしましょうという仲間に連れ合いはすっぽり入って、河川敷にあったアカシアを払下げてもらったのを好きにしてよいということから、薪づくりをしていたのです。その間も良い廃材が出たら薪小屋も作るという話しがあったのでした。その廃材が届いたという知らせで、この数日は薪切りをしている山宮の大欅下に行って、今度は廃材からの釘抜き作業に、これまた文庫番も!
 だから、、私はパソコンで御託を打っていたいから、資料整理をするはずだから、でも運動不足。今、冬に近づき日が短くなったのと、義母の朝食が少し遅くなってきたので、全般にリズムが取れない文庫番稼業。外で身体も動かせるし、整理していた写真の中には、山育ちそのものの写真。父の作業風景などを見て、さまざまに思い出し、これもいいかと廃材に足をかけ腰を引きくぎ抜き数日。
 仲間の皆さんも、朝に昼に夕に、見ながら、それとなく手伝ってくれます。連れ合いには、どうも私を容赦なく、片割れと扱うように思えてきました。まさにパートナー?ならば良いのですけど、さすがに五寸の釘を抜くのにはもともと膂力の無い私。できる限り相手にも負担はかけたくないので、踏ん張ってみるのです。汗がたらたら、腰がばりばりになりそうですが、そこにこれ運んで。と柱材。梁材。いそじの女心はどうしてくれる?何と言ってもご長男の連れ合いにはお義母さんを寒くさせない冬を過ごしたいのが第一。
 薪小屋づくりは、連れ合いは大工さんに手間でお願いすることにしました。無理はできない何事も経験不足の私たち一家。その事を、薪仲間に話したら、そうなんですよ。このあたりは皆お互いに知っているから、助け合って生きていくのが当たり前なんです。と言います。大工さんは彼のお父さんと同級だというのです。この家のもとの持ち主も確かそうでした。そういう地域の中での助け合いが続けられれば、高齢社会にも対応できるのでしょう。地域が声高にいわずとも福祉を担っているのです。だから村だったのです。マハラバも。いづれ、私たちも、どちらか、片割れになるのですから。そして、今や体〇も連れ合いに並ぶ私はこの薪作業に追われて、畑に行くのは昼間のほんの短時間。もう霜が降りて、土も凍るとは言われるけれど、本心はパソコンより畑のカラス大先生に学びたい。
 樹々からの声もまた火の声になるのだから、そこからも学ぶしかないです。火は水の巡り。
そして、庭の半年を輪にして、飾りながら今のところ置き場の無い母の大切にしていたものも並べました。藤蔓、綿、ベニカナメモチ、菊、アイビー、松ぼっくり。

2013年11月9日土曜日

この人生の、、

並木道~

 
 またまた市立病院に向かいました。大きな行事は一段落した文庫番、三様メンテナンス。連れ合いもまた同じ総合病院で点検修理の年代。すでにセカンドライフに入っている我が家では、調整しながらあれこれ畑も家の直しもするわけなので、重大事項なのですけれど、まずもって市立病院に向かうまでけやき並木に入るまで、私がハンドルを握っているのですけど、え?対向車線に注意してないですって、そんなことは無いです!大回り過ぎるですか、、あなたほどでは!方向指示器、、出してます!あなたは一緒に動くしかないでしょ!。。この関係のメンテナンスは誰ができるのやら。
 先日、深く突っ込まれました。忘れないという事は、何ですか?少しアクセントは仏語でした。で私は大仏語で答えます。忘れないという事は許すという事を、どうすれば許せるのかという事を自分に問う、問い続けることです。
 この人生もフィフティフィフティ。けやき並木を一緒に走る連れ合いと、それでも、秋の葉の色を楽しみます。
 山梨の我が家からの道は、茨城の山の中へも続いているのです。その道端には芝が青くあちこちへと根を延ばしているでしょう。
 

2013年10月29日火曜日

さすがだ

 義母は明日退院です。本日は、いわゆる三様メンテナンスの一部、私の検診結果を聞きに予約時間に行きました。どこも敢えて言うほど悪くはないですよ。断層図も観ながら医師がいいます。そうね、肉が薄いところがあって、、え!!。筋肉が無いですよ。。、、、ああ、そうです。昔から弱かった部分で、。いや筋肉が無いのは運動不足ですよ。もう少し運動されると楽になります。・・・・・。
 そんな会話があって、午前中は一旦病院を出て、所要を済ませ、義母の入院生活も万端整えられたと考えて時間調整をして午後病室に入りました。なんと!もういつでも退院していいって言われた。とのことでナースステーションへ。あたふたと。めまぐるしい展開に理解の追いつかない私に執刀医が来てくれて術後の状況説明と帰宅後について説明を受けました。これからは緩やかにゆったりと時間が過ぎていくのです。
 明日への体制も整えなきゃ。

2013年10月25日金曜日

グランドデザイン

 義母は手術後の回復は良好。めきめきと!リハビリにも励んで、流動食はおいしくないと言って粒食になりました。経過を見守る緩やかな体制をどう作れるのかが今後になります。そして今回の入院に併せて、私たち夫婦もおざなりだった、身体のメンテナンスでそれぞれ気になる科を受診。
 総合病院での待ち時間を使い、どちらかと言えば、介護、老後を迎えるという事で湿った話題になりがちなのかと思われるのですが、先をつくれる点検としています。
 入れ替わり立ち代わり孫も、休みを利用して山梨まで来てくれているので、義母もある意味寂しくないのでしょうし、安心を一つずつ数えているようです。
 文庫番も、病院食とこれまでの自分の調理を見較べながら、さらに食べやすい献立も思案中。あまり今までのものと変わりはなくできそうですが、より一層台所時間が長くなるかもしれないです。
 先日は、薪ストーブの試し焚きでお芋や栗を楽しみました。熱源と調理器具が一体であるのは楽しみですが、しばらくは失敗もするでしょう。それもそれとして薪をどう調達するか、そのために自分たちの可能な体力とスペースをどう考えるか。地域で取り組める里山再生に、いつの間にか入っていて、そこからまた教わることも多くあるのです。通院見守りの間には薪運びに薪割り(こっそりと)、それはまた、山の中でどう暖を取るのか食を得るのか兄の姿もよぎり。たとえ昔薪割りもしたからと言って、今もやれるとは限らない文庫番なのに、先々を考えるとこれもお稽古。いえ身体を動かす楽しみ。またまた「山仕事讃歌」。
 地域の中の協同をどう表現するのか。ひとの在り方は。それらをことばとして表現するのが文庫番の仕事です。
 そうですね。文庫番は家の手直しが一段落したあたりから幾つかの預かった原稿に目を通したり、調べたりはしています。そして、企画に、その他。自分の文章力は向上しているのでしょうか。まだまだですね。今後・・・・。できる事、できない事の勘案。誰とどう時間を使って。
 そして、食べると言う繋がり、里山、庭、畑。傾斜や水はけ、風向き。適地適作をもう一度ですね。これも老いの体力でできることを考えないとなりません。だから、グラウンド・デザイン。。いえグランドデザインを、更新しながらです。え?脱原発、、、国の方向、、、いえ単に自分のくらしの必要です。

2013年10月21日月曜日

明日は義父母の結婚記念日

昨年、二人揃っていたのに、今年義父が亡くなって、そして今義母も入院中。
ステージ4の大腸の腫瘍。肝臓にも大小の転移。本日手術となりました。すでに延命のためのものと理解しています。より良い状況で過ごすには今塞がっている部分を取り除かなければなりません。でもすべては難しい。いつから?かなり以前から。。
 9月に東京にやっと出ていけたけれど、その後さまざまな病院を受診。即刻を争っていた状況でした。文庫番も夏バテしていた時には、むしろいつも臥せっている義母の方が健やかにみえたのに。思い合わせれば、2011年の3月の骨折以前からも整体に通ってだるさや痺れを緩和してたけれど、骨折以降はその治療とリハビリに移って、身体全体についてのケアをおろそかにしていたかもしれません。そして義父の死、引っ越し移住。良く頑張ってくれています。
 孫たちも励ましに来てくれて、本日の手術無事に進むように、願っています。

2013年10月19日土曜日

雨音の中で

 夜明け前の雨の音に、もう少し寝ていられると布団に顔を埋め、そして考えるのです。庭の葉っぱに着いた青虫は、葉裏に回って、雨を逃れるのだろうかと、キャベツに着いた青虫は深くもぐっているのでしょうか。大豆畑の周縁にある茂みの中ではイノシシが、頭を低くして、息を凝らして台風の行くのをやり過ごすのでしょうか。その獣の思念。
 生き物たちが、雨風、寒暖をしのぐ夜明け前、屋根の下で布団に温もり安穏としながらいる文庫番。その兄は、茂みの中のイノシシと、どう違う生き方ができるのだろうかと。
 未熟な理論、社会への不適応、家族との疎遠、血縁という裏切り。互いに自分の理屈に引き寄せている傲慢。生きるという事。
 そんな事を思いながら、日の短くなった明けるようでなかなか朝を迎えない時間に、自分のだらしなさを思います。
 自他の間。兄と私との間になんの違いがあるのだろう。立ち行かなくなったようだ。何回も無心に来られて困る。そういう連絡が幾つか来ました。文庫番は兄との直接の連絡は途絶えているのにです。何通出しても、着いたのかどうかもはっきりしない葉書。
 
 
 悠々自適に農住憩い。朽ち落ちた小屋に信者もない無心僧。
少人数には食べきれないほどのやりとり。一人の口も糊することのできない埒外。
 幼いころから知っている、兄の世界は、自分だけの理屈で組み立ててあり、それを寺に生まれた、もといマハラバとは社会に抗うことと、身につけてきて。それは、文庫番も相似同根。
 ああ、何を被り雨をしのぐのだろう、何を食して日々をつなぐのだろう。
だからと言って、一切構うな、関わるなという連れ合いと兄のお互い。そしてすでに我が家は年金暮らし。文庫自体もやりきれていないのに。
 2011年の1月に土浦駅頭で逮捕された時から、母には、もうお母さんが私のために責任を感じなくて良いのだから、すでに、文庫番と兄との間のことになっていくのだからと、母の背負っていたものを解いたつもりだったのだけれど、あれから三年近く、大豆畑のイノシシは、閑居山に居たものなのでしょうか。いつまで潜んでいるのでしょう。いつ飛び出してくるのでしょう。・・雨音の中。
 

2013年10月9日水曜日

手帳もカレンダーもなく

 家に時計って本当は無いものじゃなかったのか。なんて、話をして、最低限…一応マハラバ事務所と義母の部屋には掛け時計をかけてあります。カレンダーは予約米のが2013年はあって、連れ合いの机横にはネパールの手漉き紙のネパール暦が下げて有りますが、手帳はもたなくなって2年目。もうそろそろカレンダーや手帳を新年の分など揃えはじめる頃なのでしょう。
 そうそう我が社だってお得意様にお配りすれば、いいのに。でも、予定はないです。
そう、予定はない暮らしです。最低限のスケジュールは町会が配る市の広報の当月のカレンダーに書きこんでいます。義母のデイサービスと、ゴミ収集日が優先。
 テレビ・・頂いたものがあります。インターネットに代わってきましたね。新聞も取りません。
日の出、夕日、月星。そんな空を見上げるようになりました。雲が行き、月日の傾きを身体で四季と合わせる。庭の実り、隣近所でのやりとりでの食卓。よりくらしの歳時記に近づいたのです。
 
 何かに捉われて生きてきたのだけれど、それって生きるという事の本質だったのかと問い直します。家にカーテンも、スリッパも要らない。そう考えると、時計が不思議なものに見えました。
でも、気を付けます。パソコンやモバイルにばかり向かっているとそれは、また何かに誘導されている生き方になります。
 今は、ただ一日一日、場当たりにも思えます。明日は何をする?そんなことが夕食の会話です。それぞれの、予定を確かめて庭の木々や畑の様子を思い浮かべ、そうそうテレビの天気予報は少し足して、今年は何をやっても失敗だけど、何が向き不向きな土地柄なのか、いろいろ試すことができたのです。秋は、今在るものを確かめて、そして次を考えられるのです。
義母の部屋で時計だけが時を刻んでします。

2013年10月6日日曜日

金曜日のずんだだだだ


ずんだだだだだだずんだだだだずんだもち

あずきだだだだあずきもち

じゅうねんだだだじゅうねんもち

 

今年の畑でつくったの、何にもないけどけってらっしゃい

ずんだにあんころ、エゴマ餅 ぎゅうぎゅう並んだ食卓は

仮設住宅、狭いけど 今はここがわが住い

二年経ったら、だんだんに、一人びとりが外に出て

畑を借りて鍬を持ち、大豆も、小豆も育てただす

青菜も絶やさず作ってる蔓紫にアスパラ菜、きゅうりの漬物美味しいよ

喜びは、自分で育てた成り物を皆で囲む御膳です

 

ここにくらしがあるならば

周りの畑を無駄にせず、一苗一苗育てれば

野菜は買わずに食べられる

土地の恵みで生きてきた、お金じゃ買えないものだった

地団駄踏んで涙した あの日の事を忘れずに

五体の張り裂けそうな嘆きの中に

農婦の我らを苦しめる、母のいのちも縮めたか

 

豆をより分け、茹でたてを

ふっふうあちっちと冷ましたら

莢から出して、皮を取り、すり鉢に擂り粉木あてて

粒を擂り、滑らかに、豆の緑も鮮やかな

これが飛天と言う豆で、ずんだ餅ならこの豆で

ほっと口に入れて味見をし

豆の甘味と味付けに、今年の工夫を足してみて

 

そうそう、今日は味噌談義

今年もやっぱり収穫祭、皆でいのちを繋いでく

大豆に麹に塩なのに、材料それぞれ奥深く

智慧と経験熟成し、男の人たち手伝って

これから、味噌をつくるなら、浄化の願いも込められて

どうすべこうすべ、味噌談義 打ち合わせも満腹の味噌の里親、お母さん 

 

一人だけではつまらない

二人だけでは、まだできぬ

三人寄れば何だって、できないことはないのです

栄子さんに、よし子さん、とし子さんも来てくれて

ずんだだだだだだずんだもち

あずきだだだだあずきもち

じゅうねんもちもたっぷりと

 

届けてあげるよ金曜日、官邸前でもずんだだだ

くらしの中で、立ち止まり

原子力に依存せず暮らしていける社会へと

未来をつくって、ずんだだだ

大勢さんがより集い、声に出してずんだだだ

2013年9月29日日曜日

秋の甦り


 早朝畑へ通う道のハナミズキの実は色づいています。
まもなく葉も染まって落ちていくでしょう。夏の暑さが過ぎて、また一斉に雑草が伸びてきています。春の芽ばえとは別な意味での甦りを感じるのです。もしかしたら、いのちの連続 そういうことばかもしれないです。
 昨日は、いろいろな会議、学習会があると言われていましたが、文庫番はでかけません。連れ合いが市の男女共同参画推進の一環の男性の料理教室に出かけて行ったのです。お・る・す・ば・ん!です。
 反TPPも福島の学習も、里山の再生も、奥の細道もどれも、鶏肉のトマト煮と生姜ご飯に勝らなかったわけです。義母の昼食を用意しながら、私は庭の小石と語らったり、胡麻についている魂消るような芋虫を摘まんで河原に投げたりしていました。
 なんだか指先がかさかさっと感じます。季節が変わったのですね。商品案内ではしばらく出ていなかったフットケアクリームがあったので買いました。日焼け止めと並べて置いて、踵の美白の逆になりそうです。頬にフットクリームを擦りこまないように気を付けないとなりません。
 庭の瓜たちも、秋バージョン。末成りの西瓜も収穫し、かぼちゃは、元が太くなったのを見つけて採りました。苦瓜は冷えてきた川沿いの藤の下にまだぶら下がっています。
 男女共同参画ね・・参加じゃなくて参画と言っていたまだ活動の最初の頃。連れ合いはすんなりと参画というところから始めていきます。この人は、猪だったかしら?猟友会についてもいろいろと聞いているようです。庭木の剪定講座に、料理教室、何か付け加わるのでしょうか。
 里山畑も、たまたま伝手は私だっただけで、連れ合いが、どこか借りるなど言っていたのをとどめたのが一昨年だったのに、早朝畑は今のところ私の、一日の身体を整える体操代わりになっています。草刈りから石を除く作業になってきたら、畑の傾斜が気になり始めました。夏の日照りの中でも谷に向かった部分は湿り気のあったところ。道からの傾斜と坂の向きと二方向の傾斜をどう考えるのか。カラスに聞いています。


2013年9月27日金曜日

文庫の上に

 
9月25日17時30分
 
 外に出てごらん。と庭に遅くまで居た連れ合いから声をかけられ、三人で見てみます。
この一日は、朝からあちらこちらに架かったたというお話が伝わってきました。夕方の東の空に虹が、西の空には夕焼けが残った庭で、こういう鮮やかで完全な形のも珍しいという事で、思いっきり崖っぷちに退いて屋根に跨ぐような虹を写してみました。
 その間にも鮮やかさは刻々薄くなって、消えていきましたが、ちょっといい画に撮れました。
地域のくらしの中に、協同はあるのだから。この下で石を拾い、草を取り、そういう毎日に架かるのです。いわきから、山梨の虹も見てみたいと。ああ、いわきの友よ。忘れてはいないのです。お味噌のお蔵に感激したことも。
 ここで、この屋根の下で、飯舘のさすの種を宿した味噌はツブツブと熟成を続けています。天空の約束を地上で追いかけるように。
 しかし、、、、瓦の漆喰が落ちてきて、屋根は葺き替えをすることになりました。雨樋も直さなければならないという事です。
 その上、黒瓦は鉛も含有しているのがあるし、銅の雨樋は緑青を吹くから雨水利用はできないと瓦屋さんに言われて、ちょっとショックな文庫番です。物事はやってみようとして、突き当たる現実があります。
 虹を掴む男。。ダニー・ケイの映画も古い記憶になってしまいます。
 


2013年9月17日火曜日

台風一過


 実りの秋の季節にやってきた台風18号。北上したらさっさと出て行ったようです。その被害はどれほどだったのでしょう。昨日、午前中には雨戸を閉め切った中で、あの暑い日照りの夏を過ごした山梨の最初の秋は台風直撃なのかと、自然のもたらすものの大きさを考えます。死亡者、行方不明者、全壊、半壊、道路寸断、増水、冠水など見ると、目の前の川が襲ってこないのが不思議な事でした。夕方には一転して、素晴らしい夕焼けも見せてくれました。義母も連れ合いも庭に出て西の空を見て、もう二度と見ることのない、この一瞬の夕雲。台風はその雲も連れ去ってしまって、夜明け前の星空にさらなる大きな物語を読み解きながら、畑の様子を見に行きます。三角ホーを使いながら思うのはやはり今まで見てきた、そして今食べている食材の各地産地の様子。それもよぎって。なお庭畑に戻るのです。
 小さなくらし、その中のさらに小さな小石を拾って、アップにすると解らなくなりますが、砂利の細かいもの、篩の目からも落ちてしまっていたものが、雨で剥きだしにになってきているのです。これを、もう少し細かい目の篩にかければ良いだけのことを、先日の大雨以来気が向くと庭に出て、径3~5ミリ程度の石を指先で摘まみ、手の平に集めては、車を置いてある方の地面に移しているのです。これがまた楽しい。細かい指先の作業は嫌いじゃないし、ほらこんなにやったのよと見せる、誰もやらない事が私にはできる。そう言いたいのかと思いながら、ここは花果山だと、一個の小石の下を考えるのです。その小石が私の上にあるのです。
 得意げな自分を表現しながら、それもまたあざとく感じる自分。それでもなお伝えたいと。そして、カラス大先生に学びながら、自分の中に兄を考え、他者を感じる時に、自他一如ということばはやっと、うっすらと見えるのです。一人じゃ力にならないと?では群れたら力なのかとも・・。
 爽やかな秋晴れになって、東京からの消息にも、また身の回りの者たちの状況にも、すでに子供たちは独立し、いづれはこの庭に私たちのどちらかが一人で立つ時もそうは遠くなく。いろいろ考えると、やたら肩ひじ張って、個人の身分保障の形を考えてきたけれど、小石と対話していると、対峙すべきは国ではないかもしれない。カラス大先生もそう言っているのかもしれない。
 今までの活動は、暮らしの中に集結していて、今の在り方ですべてある。
 自覚するというそのことばは、父のテープから聞こえてきたのでしょうか。

2013年9月15日日曜日

台風途上


 今日は朝市には出ない事になって、父の講義録テープを聴いたりして一日過ぎているのですが、あまり机の前にばかりいるのもいけないので、庭畑の様子も見に立ちます。
 まだ、台風18号は南の海上に居るばかり余波の雨は降ったりやんだりで、ぽっかりと暑さがもどったりする落ち着かないお天気です。陽に照らされた地面に何やら不穏なものが落ちていて、この頃また夜いたずらしている近所の猫の落とし物ではと見ると、やわらかそうです。綿を植えた下です。花の蕾と実とが、あまり区別がつかないので、いつ割れるんだろうねと言っていた茶綿は、雨と陽射しで実を落とす時季の到来を知ったようです。できちゃいました。
 早いものですね。そして、植えた分から全部の実が収穫されたらと嫌な予感もしますが、綿と胡麻は、優等生の様です。あまり手をかけていないのに、見栄えはともかく結果を出しています。
 文庫番は全然結果が出せません。朝市はいいのです、コミュニケーションの第一歩ですから。もっと今の居住でもできるようにしたいところです。
 畑も、いろいろな生き物との共生共栄で、それはむしろ身体を動かす動機です。家の掃除は連れ合いの方が向いている事は暗黙の了解になっています。
 机に向かっているのは、一応仕事の姿勢ですが、ここに来て、自分の預かっていたテープ11巻に加えて同量くらいの父の講義テープがあることがわかりました。ヘッドホンで聞いていると重なる内容、いままでインターネットで上げてある文章とも、同様な内容もありますが、活き活きとした語り。父の講義は学校での教室形式ではありません。マハラバ村塾と言っていた、茅葺の庫裡の擦れた古畳に座したり寝転がったりする幾人かの脳性麻痺者と語り合い辞書を引き、板書をするチョークの後まで、庭で、隣の部屋で遊び泣いている子供の声までも記録されているテープです。
 これをどう活かせるのか。いったいいつになるのか、そもそもの出版も定款に書いた目的がこれなのですから、新解放理論研究会。そんなことを考えているうちに聞きかえしたテープがプッツンと切れてしまいました。まだデジタル化してない文庫番。吝嗇ほど情けないことはないです。
 もう老眼になって、指先はキーボード叩きに疲れているのにこのカセットテープは治せるのでしょうか。綿を繰るなんて、。。。したいです。


2013年9月13日金曜日

ここから見えるのは

やはり9月には考えてしまう。13日の金曜日!違います。2001年の9月11日と9月10日の二つの日。
 どちらかだけがあったのではなく、一日違いのこの二つの日がくっきりと記憶に刻まれていて、考えるほどその二つの日の意味はパラレルに続いています。もしかしたら交差しているのかもしれない。日本国内でのBSE発生とニューヨークのツインタワー航空機追突事件。どちらもテレビの映像で見ていて、その意味が遠い事なのか、自分のくらしにそのまま突っ込んで来ようとしているのか。
切ないくらい、気持ちがちぎれるくらいに見ていたのでした。
 電話の向こうで連れ合いも見入っているのが伝わって、同時。別な場所なのに、同じ画面を見ながら、くらしを裂くような、二日続けての報道画面。伝えると言う力についても考えさせられました。
 いかに理解していないのか、この出来事は画面からの報道よりももっと知らなければならない事はあるけれど、まずは起こったことを観させられて。もっと演繹して考えられる力が欲しかった。
 
 その後の年月の中に、BSEに関連していかにたくさんのことがあったのか。あの時の食い入るような少しでも、情報が欲しいという気持ちからは、何をもって30か月齢などになるのでしょう。
 そして、やはり暴力的に、記憶に擦りこまれる世界貿易センタービルの崩壊。そこに突っ込むという航空機の異様さにアフガン侵攻が続いていき、イラク派兵、サブプライム破綻、リーマンショック。
 この二つの二日の間に起った別々な事でありながら、どちらもグローバルという事の中にある自分のくらしを意識したものでした。

 さて、そういう9月の記憶です。これらも忘れてはいけないことですが、今、毎日地面から石を拾って投げての時間に、これからを考えます。確かに自分を取り巻く空気ごと社会は押し流されて、TPP開国だ、税率だ、東京五輪だ、見えなくしていく放射能報道なのか。秘密保全法は、また相互監視の隣組を生み出すのではないか、など思っても、石を拾いつづけ、何も生み出さない行為を面白く思うとそこに居る「我」が見えるのです。そして、そのことによってこの空気と対峙しているように思われるのです。その我というのは、ぼやけて境目のないものになっていきます。幾数千年もどこかの誰かが地面の石を移動させていたのだと、その僅かな時間が今なのだと思ったとき自他一如。
今できることをし続けています。

 この地面はなかなか、ものを生み出すには労力を必要とします。雑草ですら枯れる夏の日照り、表土を取り去る冬の風。そして石くれだらけ。だから桑くらいしか育たないのですが、換金できる繭でこの村は栄えた時期があったのでしょう。甲州の絹は横浜から世界へと出されていっていたのです。今は繊維も変わってしまって、産物は果樹とトウモロコシになっています。そう、有為転変は世の常です。名残りの街灯が庭の真ん前にあります。
 

2013年9月11日水曜日

いよいよ正体現れる

 


 
  連れ合いが、東京に出ている間に、義母は、あんた車でどこかに連れて行って。ということになって余計なのが居なくて、自分の考えで運転できていいねと言ってくれます。良く見ているんですよ、自分の息子の性格も、嫁の気性も解っているから半分呆れながら、諦めながら普段は後部座席にいるのです。嫁姑でルンルンドライブなのですが、まだ自由走行が少なかったのでまずは知っているところへ、大豆畑の惨状を見せに連れて行きました。私のお借りしているのがヴァンタスファームですが、山梨のパルファームのすぐ傍ですから、ちょうどこんせん君の軽幌車があったので、畑の経過や今後を滝さんと話しました。きっとイノシシだよ。カラスはこうは食べないから。そう言われればそうです。以前この畑の横の畑で皆で作った大豆も一晩でやられていた。そうだったですね。
来年は、何らかの防御をして小さい範囲で・・。
 
 
 さて、そういう段階はあったのですが、昨夕、庭の秋の用意も進んできて、先日蒔いた蕎麦も見ようと連れてきた連れ合いは、発見したのです。この足跡を野ブタ!猪ですね。フジサクラポークの豚舎も近いけれど、しかし、大豆が好物なのかと、豆を食べるのは鳥だと思っていた文庫番は、事実を積み上げる連れ合いの思考方法が、これまた発見。どうして周りの畑の大豆は食べられないのか。。。?いろいろ話しましたが、相手が解ったらその対処。という事になります。
 義母の介護保険認定の申請に今朝、役所へ行ってきて、ついでにイノシシ防除をどうするか相談してきたのです。今から猟期になるので猟友会に連絡して畑に箱でも置くようにします。またその時は連絡しますとなりました。
 これは、致し方ない事なのでしょうね。。耕作放棄地に近いところに住む野豚。そうそうこれで、墨田のものづくりとも繋がる流れができるでしょうか。もしや印傳の高級バッグに化けたら。捕らぬ何とかが頭をよぎるのです。

2013年9月9日月曜日

東京で・・・


 ガリガリ君ソーダばっかり冷凍庫に入って、これは立花のお祭りの子供への振る舞いのもの。もっとたくさん、この家の冷凍庫にも。7日8日は、長女の住まいの・・もとの地元のお祭りで、年番の役が残っている連れ合いが一日先に行ってましたが、私は義母と山梨の家のすぐ前の停留所からバスに乗って、自家用車でいくのとはえらく遠回りな路線で甲府駅まで出て、甲府から亀戸まで、そしてこの家の前まではタクシーで移動して、ほぼドアtoドアの行き来で一泊。連れ合いより一足先に帰宅するという行程でした。
 子供の絶対数が少ないから、準備手伝いの人達も、なじみの通りを歩いて子供の山車にばったり遭った義母と私にも、ガリガリ君は振る舞われ、冷凍庫へ。
 神輿を見ても山車を見ても、担ぎ手のすくない事。7年後、担ぎ手は居るかしら・・あら違う話題。
地元、今回思ったよりも短時間単純移動ができたので、義母は帰り際には家に向かってまた来るね!と言って出ました。・・・・連れて動く嫁にすれば、え!と言いたいのですが、悪い事でもないかと考えたり。山梨のマハラバ事務所続きで一部屋になっている台所では、互いの動作を窺って息を詰めて、相手の出方で自分の行動を決めていく無言の時間が延々と続くより、気が晴れるでしょう。部屋がオープンでもなかなか気持ちはオープンにはならない間柄ですから。
 それにしても義母の子育ての頃、私の子育ての頃、現在。高度経済成長期、バブル崩壊前後、東日本大震災後。この町内のお祭りの様子を考えてもいろいろとあるわけです。自分の移動の範囲についても合わせて考えるのです。
 東京でパラリンピックが開かれ、青い芝の会は招待されてスタジアムで観戦。私の記憶にそのスタジアムで、横田弘、よっちゃんを小突いて、スタジアムの席から落としそうになったように覚えているのです。茨城から行ったのかどうか辿って確認したいところです。あの頃の、社会に障害者が出ていく、そういう勢いと、戦後復興を成し遂げたと世界にアピールした東京、オリンピック。パラリンピック。それの一端として障害者団体の招待。
 その時この工場の町東吾嬬は、多くの地方から出てきていた労働力を受け入れ、その人たちも町の一員として祭りを盛り上げ、それぞれの町内で睦に入り。。。経済振興というものの中に巻き込まれながら社会は、情報に乗って変容させられてきていたのです。
 結果、町工場は少なくなり、地域の経済は衰退気味になり、町の中は空洞化が押し寄せ3Kは、地方から出てきた人の手からアジア近隣の人の手にとなり、障害を持つもの、福祉の対称のものは、施設にまた管理されるような仕組みが増えて、主体的行動はネット上で電磁上ではすでに地球的な監視の網があるのでしょう。
 
 東日本大震災後、しなければならないのは景気というまやかしの高揚ではないはずだということを、町の中にも地方にも子供が少なくなっているのは、ひとが生きている実感を失くしてしまっているこの市場原理を変えるにはどうするのかへの対処をしなければならないのに。
 回りくどくなってしまうけれど、自己の存在感を渇望して、汗臭いような、人と人の見合いで力関係がうごめくような感覚があって、お祭りもそうだったはずなのが、いつの間にか、薄められて、手が届かないようなものになって、誰かがやってくれているから、素晴らしい事なんだ、それが、みんなで一致することになるんだ、大きなお祭り騒ぎの事。と。それも地球の反対側でよく解らない委員なる人たちの投票で決められたことが、本当に自分たちのくらしを良い方向にできるなんて考えられるのでしょうか。
 存在感、それは、スポーツでしか達成できないものでもないでしよう。あの頃、自分の家が、大勢の脳性麻痺者やら報道関係者、よくわからない奉仕の人たちが寄り来った中で、はっきりしない自我が、横田弘の背中を押しさせた、そんな忘れたい記憶。
 存在感とか、達成感とか、生きる目的は、一人ひとりの中にこそあるのに、どうして、大きくお金が動くことで証明されると思ってしまうのでしょう。
 みんなで一致して、、。最初からそんなものに乗り合わせたくない。それは一人の意思はどこだかわからない事を賛美することなのではないかしら。それなのに、個々人は見世物のように競わせる、闘う事を尚武する。
 誰とも競わない、誰のことも落とさない、そういう人間になりたいなという贖罪の意識は、あのスタジアムの記憶の頃から付き纏っています。なかなかなれないものです。
 ふと、そんな事を以前の町内お祭りの最中に考えたりする今日でしたが、立花の町内をうろうろとすれば、そこは私も子育て時期を過ごした場所。総武線で新宿に戻って山梨へ向かえば両国、秋葉原、御茶ノ水、飯田橋、四ツ谷、新宿。そして連れ合いの職場への日本橋、東京、銀座、有楽町、ずいぶん夜も待ち合わせしたあたり、そこも一日で過ぎて庭畑の家に。そうなのです。一つの時期は私の中では卒業しているのです。隣で車窓から町を見ている東京生まれの義母は一体何を考えているのだろうかと、思うのです。そして7年後。

2013年9月5日木曜日

庭畑という考え方

 
秋蒔き在来種
 
 
 お連れ合いさんは何をしているの。。庭に居ます。文庫番はパソコンの前。
お百姓さんではないお互いに不器用な者。あと一ヶ月もすれば、結婚してから37年。知り合ってからは45年経ったのですね。今頃こうやって、種蒔く人になるなんて、草取る人になるなんて。昨日、甲府に行って買ってきた種袋を見ながら思います。(自然食品有機村で)
 文庫番はまた朝市参加を画策しながら、あちこち予定を入れていますが、まずは連れ合い優先の予定です。連れ合いは秋になって行政主催の料理教室に申し込んでいるではありませんか。そして庭木の手入れ教室も県立高校の社会人授業であると申し込んでいます。
 ここに来て、前と同じ仕事が続けられる?と何回も尋ねられて、そうね、もともと形の無い文庫番だから何とかなるの。と言っていたのです。連れ添っての年月は、自分たちのしたかったこととしてこういう形で実っているのです。在来種の秋蒔きなんて見つけられたのですし。
 相手がしたいということがあって、何も異存なくこの土地に移ってきたのですから、焦らずに少しずつ。大丈夫なんとかなります。
 文庫のお仕事、このところ、やっと父の最後の講義録のテープも聴いています。
 やっとなのです。東京に居る間は何かとバタバタしていたので時間が取れなかったのですが、今はある程度は時間に融通が利きます。そして、ホームページマハラバ文庫の新解放理論研究会で、父の文章として残っていたものをアップしてきたことで、講義録というテープを聴き取る力ができてきたのです。「明日へ帰る」の取材経験も良かった。だから難しい教理の言葉を確かめられるのと全体の流れを掴むということができました。あとは打ち込みです。 ついでに義母の楽しみも何か考えられるゆとりができると良いのです。
 何と言っても事務所は台所直結。ここは文庫番のテリトリーだねと友人から言われたという事は、そこに多くを包摂できる力を持たないとならないのでしょう。今は義母と連れ合いと、それぞれの主体性を活かして暮らしたいものです。
 でも、庭畑なのです。
 庭は畑じゃないという事に、昨年夏気が付きました。二年かけて夏・秋と草取りを庭でして、義父にしてみれば、何故草を取るのかという不思議さがあったのです。畑は、草が生えていていいんだと。義父は言ってました。うっちゃっておけば枯れて肥料になるんだから。そうなのですか。草が作物の大敵だと思っていたのですが、草は放っておけば肥料になるというのが義父世代の考えだったと解った時に、何故庭は、草取りをするのかと考えるのです。生産性というのとは別の世界、造りものなのですね。寺男の仕事と言えば、庭を清めることなのです。幼い記憶は竹箒と熊手の扱いを祖父から言われていたことです。草も葉も無いのが寺の庭であるのです。庭はどこの家でもそうでしょうね。石と砂。有機質を還すところではないのです。枯山水と言わずとも、生産のためではない場を暮らしの身近に置いてあったのです。さらに今年の夏考えたのは、山(寺)と庭の違いです。一昨年の夏、閑居山でみた圧倒的な自然の力、人間が手を入れてどうこうではないのです。それを覆い尽くす時間と生命が山には在って、その中に一人が対峙するという事。寺には寺号と山号があります。国土地理院の地図上の山ではない寺の山が表すものとは、もう少し学ばなければならないようです。そこに在るもの。そういう観念だとは思うのです。家庭。家と庭。そして出家。堂々めぐりですね。
 でも庭畑なのです。
 裏庭の一部が家庭菜園。そういうのがよくあるわけです。どちらにしても、私達夫婦は農業者ではないのです。畑ともつかない庭に連れ合いはいます。この人もストイックなタイプ。今までの四か月、ひたすら草取り、石の配置。そして家の掃除で過ぎてきています。里山の大豆畑は、ヴァンタスファームが、味噌の里親プロジェクトに共鳴して貸してくださっているものです。連れ合いは、あくまでもその助太刀。そこにもいく時は寡黙にやるだけのことをして、あとは私の判断と体力になるのです。この袋の種は庭畑では余るようです。文庫番は、まもなくテープ起こしを始めるつもりなのですが。
 


2013年8月28日水曜日

父の名前

父の名は~、浄瑠璃のようでもありますが、父の名は大仏尊教(そんぎょう)僧名が戸籍上の名前となっています。得度をして改名の手続きをしてあったのです。得度前の名前が晃(あきら)、そのあきらという読みを仏教での大切な観念空に充てて、大仏空(おさらぎあきら)としたのが父の呼称。同じ空の字をひろしと読ませたのが兄の名前。

 8月27日は父の誕生日でした。

2013年8月25日日曜日

種蒔く人


山梨県立美術館、マハラバ文庫の移転前から見に行かなくっちゃと思っていたこの絵。土・日に大切な友人が来てくれて、雨になったこともあり美術館へと。
 都内の美術館とはまた別な雰囲気も興味深く、ここへはこれから数度くるのだろうと最初の本日は常設展を観ることにしました。
 連れ合いの高校時代の同級生で、実家である閑居山に最初に連れ合いと来た人で、当然義母とも話題があって話をすることができる古いお付き合いです。来客の多かった8月でしたがこの土・日は雨で暑さも収まっていましたので、近くにある日帰り温泉みたまの湯も案内し久々に炭を熾してのゆっくりとしたひと時。直前にはご近所の葬儀もあって、ばたばたはしていました。この地域では、冠婚葬祭は、何をおいてもするべきことで、会社は第一義ではないと聞いて帰ってきた連れ合いは会社時代の仕事優先との違いに思いに浸っていたようでした。そんなこともあって、人生の来し方、そして互いに初老へともなっている現在、これから。いらした友人ご夫婦との話は尽きないのです。
 おしょうさんは、何でも知っていて、照子(あきこ)さんは・・・・
 そして、マハラバ文庫はどうなるんだろうとも、カラス退治の現在になっちゃってとか。何をカラス大先生に学んでいるのか、TPPとか、フクシマを忘れないとかをもっと深く、自分への問いかけとすると、“原罪”とは何なのだろうと言うところを教えを乞うているのだろうと思うのです。
 地面を掘り返し、草を刈り、種を蒔く自分。その事は何かを負うからなのでしょうか。生まれたときから兄が居て、兄にすれば、いきなり父母との間に入ってきた者。働かずとも生きていかなければならないというものと、どこかで、世俗の嵩に追われるもの。業(ごう)とはまた異なる原罪。
 その意味を、カラス大先生ならば教えてくれているのでしょう。それなのに不肖の弟子である文庫番は理解していないのです。畑で学んでいる事の実に多い事。
 そんなこんなも、こころ許して話すことができる数少ない交わりなのでした。
 ミレーの種蒔く人が、農民の、力強さを表すとされているとも、鳥の群れを背後に書きこんでいる事で体制に抵抗する姿ともみられたとも、この展示の前にまで来て知ったこととも合わせて面白いのです。

2013年8月22日木曜日

虫すだく


 早朝、西の空に月が残っているのを後に自転車を漕ぎ出して、畑に行ってみます。もう庭も河原も秋の虫の声です。例年という比較ができないのですけれど、季節は確かに移っていくのです。
 朝の空に残っても大きな月でした。
 昨夜は、どこかで花火をしていたのか稲光なのか夜の空の光っていた一角です。甲府まで迎えに来てもらいうどんを夕食にした帰る途中の空でした。稲光なら雨が降って欲しいわね。途中の上野原過ぎまでは大雨だったのよ。と話していました。
 日中は、花衣訪問。私たちの先輩が地域でどのように活躍されているのか、無理をしないでしなやかに芯のある生き方に多くの方たちが寄っている。そこに小さなお金も生み出して動いているのでした。決して一足飛びにはできないから、やりたいことを見失わずに、やっていくのだと学びました。そして、お声かけて引き合わせていただいた、お仲間の方々。地域でいきいきと活動していくには、周りの人たちもまた活き活きとして、忌憚なく意見を交換できる関係をもっているのでした。
お野菜中心の、品数の多い昼食を用意していただき、集まった方々の人となりをお話しいただき、運動を暮らしの中で見せていく姿を知らせてもらい、そして、時間も物も粗末にしない、その場をご披露していただき、そして官邸前に行ってきたのよ。とさりげなくおっしゃるのです。そう一昨年の5月18日集会ででしたか、ご一緒した時から、お味噌のお願いもしたり、不思議ですね。やはり大切なご縁だったのだと、一緒に行った方々も思ったのでしょう。
 そしてまた話に出た、韓国交流で教えてもらった、お豆を蒔くときの教え、「空を飛ぶ鳥の分、地面の虫の分、人の分」このことばを確かめて、心満ちて戻ってきたのでした。
 だから、早朝、虫すだく中、雨の降らなかった畑に行きます。教えてもらっているのです。鳥にも虫にも。そして植物にも。茎だけになった大豆も、また葉を出し、小さな花を付け莢を持っています。
 しかし、また鳥も虫も寄ってくるのでしょう。おこぼれがあれば、取っておきましょう。




2013年8月19日月曜日

冬が来る前に


 
 そう、もう風は秋の気配でやってきます。
義弟が土日と泊りがけできたので、今まで家の事、周囲も必要に迫られての買い物だけしか出ていなかった私たちは、日曜日の午前中に甲府の周りを車で観光してみました。出発はお定まりの武田神社。躑躅ヶ崎館あとでした。そのお堀に夏もこっちで過ごしている白鳥がたった一羽だけいました。義母は何を思っていたでしょう。皆で亀がどれくらいの大きさとか鯉が見えるねとかの中に紛れた白鳥です。
 それとも北へ行かず仕舞いの白鳥はもう一羽いるのでしょうか。お掘の泥水の量も少ないようです。鬱蒼とするというイメージの社の境内の地面も干上がったようなこの夏です。先日、お盆供養に参加した集まりでは、今年は暑さと雨不足で雑草も枯れていると話が出ていたと言います。武田神社の中では能舞台で一の谷の稽古がされていました。
 長禅寺というところが中央線から見えたので行ってみたいと寄ります。武田信玄が建てた母親のお堂がある臨済宗の寺。同じ人の子として生まれ、同じ人の子の母親であり、それぞれなのです。人の幸不幸はどのような秤でもはかることはできないのだろうと考えます。連れ合いと義弟。義母。私も10歳から知っている人たち。
 一旦戻って、なんだかんだ大騒ぎしながら、お稲荷さんの昼食。静岡の抹茶羊羹の意外。
義弟が帰ったあとは、寒さに備えての薪づくりです。途中に里山の大豆の見回り。昨日連れ合いが寄った時に較べまた啄まれているのです。四六時中畑に張り付きますか。そうもいかない。
 
 日中の暑さのピークは避けての薪切り、秋にはストーブの火入れで、少し薪を買い足す分も考えていますが、できる限りは用意したいのです。もう夕方には、空が高く、汗ばみ方が盛夏とは変わりました。まもなくこの作業場にもコスモスが咲くのでしょう。一時間半ばかりの作業を終えると、成りすぎたので持って行ってという夏野菜。この夏の輝きをとどめてはおけません。

2013年8月15日木曜日

中央市与一公祭りの花火

 
 
 昨夏は義父も一緒に庭で見た花火。義母がグラウンドまで行きたいというので、ゆっくりと連れ合いが手を引きながら歩いていきます。車で来られる方々も多く駐車場も取れそうもないし、かえって面倒だからといい、歩けるでしょう。本人が行きたいと言ったので頑張っています。この体育会系母息子。ぶらぶらと後ろからついて行って、なぜか立ち見ではなく椅子を譲ってもらえました。
花火の前の踊りと歌謡大会はパス。夕食を終えてのんびりと見れたのです。夕食時にはテレビのニュースからだったでしょうか、義母と敗戦の年の8月14日と15日の大違いを話してもらいます。14日は、敗けるなんてこれっぽっちしも思っちゃいなかったんだから、それが一日明けりゃあんなことに。。その食卓のある台所は通りに面していて普段から通行は多いのですが祭り会場に向かう車がエンジン音を響かせています。お義母さん爆撃機が頭の上を飛ぶ音って知っているの。もちろん。あんなもんじゃないと手振りで外をさします。
 そう私たちの国は、今ではよその国の軍隊の爆撃機が国民の頭の上を飛んでいる国。
それはまた脳裏のどこかに置きながら、復興支援だ東北応援だという花火も上がる夜空。魂や、鎮まれ。この花火に乗せて。義母を支え家に戻りました。我が家はお墓の都合で初盆が来年に延びています。
 明けて15日。やはり早朝畑に出かけたくなってしまいます。面白い。ここまで突っつかれて、同じ生き物としてこの大豆たちがどうなるのか。しっかりと見届けたい。花火を見ながら思ったのは、自分の親と花火なぞ、打ち上げ花火なぞは観た事もない、たった一人の兄妹だった兄とも観た事もないのに、今この土地で、これからも、ここを住処として夏をすごし冬を迎え、春が巡りくる暮らしなのだと、さて秋の実りがあるのか。烏の濡れ羽色じゃなく烏の濡れ衣?畑の前の坂道を毎朝散歩やジョギングする人たちとも、この二か月で顔なじみです。却ってその人たちがショックだったでしょう。と畑の様子を慰めてくれるのです。カラスじゃなく鹿の害かもしれないよと。!ええ、でも売るわけじゃないし、一年目だから。でもショックでしょう。ええ。ショックです。
 義母たち、私の親達世代が生きのびてきた、この国。どう立ち向かってきたのだろう、その一日での落差に。人はどれだけのことを抱えて生きていくのだろう。私は母の骨箱をまだ抱えていくのだろう。それもカラス大先生にはアホーと。魂や~。
 
 
 


2013年8月12日月曜日

踵の美白

瓜は、なんと今日も暑い日でした。夕方水撒きをしていた連れ合いが、チョットと呼ぶので行ってみると西瓜が一個、実が割れているのです。しっかりとお日様の力をもらって中から割れた赤い小玉スイカになっていました。ずっと薄甘なもので我慢していた義母もこれは食べられるねと言って食べています。これが5個目。まだ10個あまりが5本くらいの蔓になっているのです。しばらくは西瓜任せに食べ頃を測りましょう。お世話になっているご近所にも差し上げられる見極めができるといいなぁ。
 今朝は蜂に刺されました。富山生まれの祖母が蜂刺されにも血止め草を揉んで当ててくれた幼いころの不思議を思い出します。湿潤な木々に守られた、池を幾重にもめぐらせた山の中でした。
今は、すっかりカラカラの川の畔。それでも、西瓜は乾いた地面からこんなに水分と甘さを吸い上げているんだと、西瓜がスイカの味である不思議を思います。同じ地面でもトマトはトマトに茄子は茄子に育つのですから、ましてや同じ瓜なのにニガウリは、苦み走って実るのです。
西瓜、胡瓜は、その皮の水分を日焼けに当てて冷やしていたのも懐かしい記憶です。青い芝の海水浴に行けば山の緑陰から出た白兎のように陽膨れができていた痛み。
 今、家の直しで残っているのは漆喰の抜けた屋根瓦の直しなのですけれど、先日見積もりに来た屋根屋さんは、この気温だと屋根の上は60℃超えているから仕事終わったら足の裏に胡瓜の擦りおろし貼り付けて冷やすんだと言ってました。
 足の裏も、大変です。そうそう、五本指ソックスの素材が変わったからなのか、忙しすぎたのか、今年の冬から文庫番の踵はカサカサ、ガサガサしたままです。え、更年期。。。
 まあいいや、肌が変わったのか、条件が変わったのか、他人様には見せられないまるで手入れのしてないお肌。なんでもいいから塗ったくっておくのよと、言われて、一晩にして閉鎖されていた化粧品工場の古いホワイトニングクリームを擦りこんでいます。西瓜がいいかな。ともかく、都内では集中豪雨でも、この盆地はお湿りにもならない状況で乾いたままです。烏が畑の大豆を啄むのも猛暑の中水分を摂っているのかと想像したりお人よしゴンベです。そうまだらなのはホワイトクリームを塗っている踵じゃなくって、雨降りの様子。バロンがのし歩くのかもしれません。

2013年8月11日日曜日

ウリウリガウリウリニキテウリウリキレズウリウリカエル

 今朝はお隣にお声掛けして庭先に伸びた小玉スイカの蔓の中から実を選んでもらいました。差し上げる分です。我が家用のも一個、さて、また早かったようです。でもこぼれ種からですし、庭・先なのですから、マルチ変わりに伸ばしてる蔓です。その並びの藤棚の支柱の間に張ったネットではゴーヤがだいぶ育ってきました。
 そういう時間を過ごして、連れ合いと車で大豆の里山畑に行ってみると!!今朝は早朝草刈りには行かなかった。。昨夕遠雷とともにカラスが騒がしかった。でも40℃。大豆の伸びていた青々とした葉っぱは、また啄まれていました。まるっきり葉っぱの無い畝もあります。二反。
 補植後に出ている芽は少し残っています。
わざわざ、連れ合いと行ったのは、昨日まではあった葉っぱの中に幾つか莢があったから。見せたかったわけです。あれ?連れ合いが主にする畑だったのでは・・・そうは言っても、私が大豆をと言いだしたのですから、それは私が草刈りも補植も、この斜面の水源は離れていますから水遣りはしません。マルチの上の茎だけに花のついた大豆の姿に、最初の年だからと連れ合いは言います。せっかくテグスで防鳥を教えてくれる便りがあった時に、一緒に来てくれなかったと愚痴りたくなりますが、どうも連れ合いも私のいう事がわけのわからない時があるようです。テグスを知らなかったそうです。
 こうなれば仕方ない。それでもここで、一年目は仕方ないと言ってくれればそれが救い。小玉スイカのお隣からお昼に食べてとピザが届きました。義母はちょっと食べました。
 さて、昨日に続いての40℃超えなのですが本日も、薪の用意をするために午後はでかけます。これは、私たちの移住前から地域の里山再生をしたいし、ストーブの燃料を確保したいとニ三軒で薪割りの仲間ができていたところにすんなりと声かけてもらって入っているのです。文庫番の家の三軒隣は郵便局なのですが、その局長さんが、窓口で、増田さんのところストーブをつけるみたいだけど薪はどうするの、と声かけてきて、え?と言う話から、土日休日の作業に加えてもらった状況ですが、出遅れている我が家は真夏のこの時期に薪仕度です。終わる頃、ニガウリは食べますかと聞かれて、ハイと応えましたら、ニガウリだけでなく、夏野菜を沢山いただきました。
 夕食には、先日新宿で食べたいくつかの料理を試します。冬瓜の擂り流しに始まってニガウリの甘酢漬け、オクラの酢味噌そしてニガウリと茗荷は天ぷらにします。茄子の素揚げ。お漬物はべつのご近所からの青瓜の糠漬け。夏野菜大作戦が済んで、台所片付けついでにニガウリ4本は刻んで干し網で物干しに干してあります。そういえば熊本に行ったレポートで干しニガウリについて書かれていたのがあった事など思い出します。胡瓜、茄子も何とかやっつけました。瓜、行ったり来たり。お金じゃない。ウリさんは福岡でのSNSの友人でしたっけ、あの時のお会いした人たちが、皆優しくそれまでのネットの中だけのお付き合いを飛び出して後悔しない人たちだったから、今も、支えになってくれているのだと、お金じゃない。。ウリウラナイデウラギラレナイ。

2013年8月7日水曜日

まばらな雨


昨日は新宿での小さい打ち合わせが重なって、夕方の雨を見ながら小一時間、空いた時間を雨の中を帰る人々をCafeの窓外に見ていました。大勢の雑踏。傘をかわすように仕事帰りの夜に向かう人々。
 同じ日の朝は、やっと出揃っていた大豆をまた烏がついばんでいる畑に居て、一人を感じ。夕方は都会の息苦しさの中でまた一人の時間を過ごし。
 里山の畑の中にいても、新宿の帰宅の人混みを眺めていても、同じ日に広島でも福島でも沖縄でも経産省前でも、もっと多くの場で平和を求める声もあるのに、繋がっているのだろうか。
自分の中では、文庫番の日常は確かに、今こそその地平を歩みだした感覚はあるのですけれど、スクラムを組めるわけでもないし、座り込んでいるわけでもない。この雨は色は無い雨なのだろうか。黒い雨ではないのだろうか。
 でも、同じ日に重ねた別々の三つの打ち合わせが、最後にお土産の味噌をもらって、一つに溶け合うのです。
 私の日常。それはまた、別な誰かの日常もいとおしむもの。暮らしの手仕事であり、台所で繋がる。そう言っていた自分は過去のものでもなく、遠い未来に居るわけでもなく、この雨の降る夜を過ごしている一人なのです。それを言える人たちの会議ばっかりだったと、お味噌が教えてくれました。
 新宿では夕立だった雨は、甲府を過ぎた誠園にも大豆畑にも僅かなお湿り程度だったようです。
 
 
 
透明な雨がまばらに降る8月6日
 

2013年8月4日日曜日

開墾の写真と呼ぶ


 
晃ちゃんと松ちゃんに見えるけれど、古い写真。

 金曜日、早朝大豆畑の草刈りとまだあきらめない補植の種まきをしながら、烏の声を聴きます。
もうすべて適わないのですから、逆に新参者の机の上しかいじらない私に、教えてくれている「カラス大先生」と考えることにしたのです。ともかく面白い。生産性は無い文庫番。出来も度外視してともかくやってみる事。隣の畑のおばちゃんが、まだ種があるんだったら蒔いてみれば。もったいないじゃん。といった言葉に救われて、農事暦も知らないからできるのです。
TPPですって。オタオタしないことにします。もちろん徹底抗戦の先頭に立っている畑だと思っています。けれども、出来高も質もカラスに学ぶばかりにします。すなわち例外なきと言われるけれど、同等に見てもらえるのか文庫番だから。

 そうすると、先日の横田さんの法要に携えた母の資料の中のこれらマハラバ村の写真がどれほど意味深いか。
 その席でも話したのですけれど、あの頃の農村は、ゆとりがあったということ。いきなり地方の一つの村のその中の集落の古寺に大勢の脳性麻痺者が集まって、自立だ解放だと論じているけれど、その社会保障をどうするのか、近在の住民たちも気になっていたはずです。どの家も、金銭的には豊かであったとは言えない農村の中で、この共同体を受け入れる度量があったこと。個々の人々をまだ私が茨城に帰ると郷里の人たちは消息を尋ねるように、一人一人の障害も人柄も、そこに像として残っているのです。
 そして、当時は、皆すなわち障害者も健全者も、身体性を共有していた、だからこそ、この写真が許されるわけで、今の高度な福祉行政と市民社会の中であったら、重度障害者虐待とも言われかねないのではという写真。
一輪車をバランスとりながら扱い、篠竹や笹に覆われた斜面をスコップで掘っている。
 でも、この一枚以外にも彼ら彼女らが、籐椅子を作っていたり編み物機での講習を受けていたり、例の鶏を飼っていたり、台所も皆で当番になって、自らの意思でその場に集まった人々。その象徴のように思えた写真です。おぼつかない社会への一歩でもあったけれど、マハラバのコロニーで、父性としての和尚さんが居て、母性としての奥さんが居て、そこからも自立を願って。
 実際の大仏(おさらぎ)の家族として、今私は、持っている写真の整理が始めることができるタイミングで少し早目ですが古びたものを出してみました。
 あの頃の、そういうまだ身体を使っての農作業が当然の時代に生かされていた・生きていた脳性麻痺者をはじめ障害者たちは、存在が社会を構成していたのだと、むしろ今の時代よりも。
人間としての存在を取り戻せるのだ!そういう実感を私は、早朝の僅かな烏からの学びで思うのです。土に触れ大気とのやりとりを体感する。きっと連綿と続く人類史の中で、排除ではなく受容を私たちは知っているはずです。豊作もあれば凶作もある。上手な畑もあれば見ちゃいれず声かけてもらえる畑もある。その中に、工夫して餓えない分かち合える文化を世界中それぞれの地域で持っていたのです。だから、オールディズの写真に見える中に意味を持たせられるのです。
 季刊福祉労働にマハラバ村時代の横田さんの写真を載せたいという事だったのです。
文庫番はこの母の資料整理を急がないと。新しい軸が見えているのだから。

2013年7月31日水曜日

茗荷に寄せて


 

酒の席で、死ぬ前に最期に食べたいものは

茗荷の塩揉みだ と言った漢(やつ)がいたのです

虚を突かれた座の一同は

店の主人に頼んで試してみたものです

それぞれ自分が最後に食べたいものは、と語り出し

でも、茗荷とな

 

サンフランシスコ講和会議の席で

私たちの国に対して賠償を求めなかった国があったのです

実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、

ついに怨みのやむことがない

怨みをすててこそやむ これは永遠の真理である。と

 

その国に行ってみたのです

仏歯寺の門のところで、箒で掃除をしている男がいました

周利槃得よ、そこに居るのは来る日も来る日も掃き清め

そして通る人がまた汚しの繰り返し

毎日の事を続けなさい、それが師の教え

 

許しましょう、けれど忘れません

あの日のことも忘れてはいけない

あの日からの事が許されるのだろうか

それ恕かと!

 

食べると物忘れをするという茗荷は

周利槃得の墓に生えるとも伝えられ

覚えられないという事が悟りであるならば

許しましょう、けれど忘れませんという事の厳しさを

最期に食べる人が居る

 

庭に出てきた茗荷の子、お隣さんにお福分け

お福は胡瓜になって帰ってきたのです

私たちは、互いの自由と独立を目ざしていく

その爽やかなアジアの香りに

 

                         2013年7月31日 マハラバ文庫 増田・大仏・レア