2013年12月26日木曜日

神様からのプレゼント


 文庫番のクリスマスを思い出すと、枕元にあったのは寺に潜むサンタさんがいろいろと考えてくれたのであったろう本ばかりの年どしでした。
 ある年も、無かった年も。いつの間にか、自分へのプレゼントよりも、世界中の子供たちの平和を願うようになると、すっかりサンタのプレゼントはなくなりました。
 決して豊かな寺ではなく、ましてや、大勢の他の眼のある中でのプレゼントは、一人のものとはならないのでしょう。もともと本とは誰かから誰かへの伝える道具。文庫番の家では取扱いを丁寧にするように厳しく言われていたものです。父は様々な包装紙を取っておいては本にカバーとして、本を読んでいる食卓にも湿気がないように台拭きは濡らしておかず、使う都度、濡らす程度で本に湿気が移るのを嫌っていました。そのような書籍の数々をそのまま仕舞い込んでいる文庫番。自分の扱いはぞんざいだけれども、他の人の読み方は気になったりします。ああ、まだ寛容には程遠いと。
 文庫といっても、まだ閲覧開放もできないただのパソコン文庫。それでも、父母の書類をまとめなけりゃ、自分の文章も上手になりたい。。。え?株式会社でしょう。って、そう一人の在り方として社会の仕組みの中で逆説として。それすらも、兄の構え、社会に対しての個であることを思うと、人格としてどうかとは別に、実に及ばない事だと思ったりします。
 庭畑に今朝大麦の芽生えを見つけました。この秋は、義母と連れ合いと続けて入院をし、慣れない薪の準備に追われていたり、間に合わないかと里山畑は、春を待つにしても、庭畑には霜は降りたけれども撒くだけ蒔いた大麦と小麦にすっかり諦めていたのに降誕節を経た朝。芽生えているのです。
 その隣では薪割りにすっかり傷められた芝も、これからの寒さを耐えるという意思を見せていました。どのような賢者の贈り物よりも、愚者の喜びよりも力を秘めてます。
 この、芽生える力こそ神様からのプレゼントに思えた朝でした。写真は義母がリハビリディから持ち帰ったクリスマス会のプレゼント。人生にはさまざまな贈り物が。
 

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