2016年4月29日金曜日

母子草断章



  近頃、選択的雑草の配置をしている文庫番の庭。 
 マハラバ文庫にあった装い箱の表紙写真が2009年の間は母子草にしてありました。
それは、母が胸部大動脈瘤乖離の発作があったにもかかわらず、一人暮らしを続けていた頃に、母の元に通った時の路傍の花。
 ハハコグサ。御形。ホウコグサ。
 昨年の今日だったでしょうか。車で都内に出た戻り、中央高速を連れ合いが運転する中で受けた携帯電話は、私ったら、悪性リンパ腫だっったんだって、ステージ4だけれど、お医者さんは悲観することはないって・・・・。。。何それ、、悪性リンパ腫って。。そういう声に連れ合いがハンドルを強く握りなおしたのに、後でゆっくり聞くからねと。その後の不安。インターネットで情報を調べまくっても、続けて母、義父、義母を亡くした私達には、ステージ4である事の重さがのしかかっていました。義母は大腸癌でステージ4だった。それをすべて、子供達も共有してきた家族。
 当然、次女も承知していたステージ4。宣告。
 私には3人の子供が居ます。居ました。そう今も、居る。一人ここには居ないけれど、永遠の中に居るのです。
 下町の家の横にもあったこの草の名前を教えたら、へえそういう名前があるんだと言ったのはどの子だったでしょう。
 遥か遠い日に、学習教材に書かれていた母と子の別れ別れの涙のあとから咲いた花だと言うお話もしていた記憶。




2016年4月25日月曜日

バイオガス利用、と 木質ペレットサイロ




 九州地方での地震に、まさかこのような災害がまた来るとは、と皆気持ちも落ち着かない日にちでしたが、東京ぱるとも会で続けている被災地応援ツアーは、継続してみていく事も考え南三陸町の東日本大震災からの、立ち上がりを見てきました。
 いろいろなところを繋いでいますが、今回はデジカメのメモリーを忘れて内蔵メモリーで残した新しい訪問先。 二つの写真は、別な場所です。
 南三陸町の生ごみなどを処理してバイオガスと液肥利用を循環させていく町の委託施設。BIO。
 下の写真は、南三陸町病院の木質ペレットタンクです。
より、循環型の社会システムを作っていくと言う事、お題目の“復興”ではなく市民参加で行えるものでした。南三陸病院は以前の志津川病院の被災後の新生の姿で、木の温もりの実際がありました。
 これらを含めて続けてみてきたところに、具体的な明日を感じる旅となり、あらたに起こる災害にも対処していく参考もたくさんいただけました。


2016年4月17日日曜日

三年経ちました


 明日からは、4年目の大鳥居暮らし。庭にノムラカエデが赤く芽吹いて、庭前の川にはツバメが飛んできた夕方。
 朝から山神社の祭礼の花火が上がって、雨の午前中は、甲府緑化祭に行って、それぞれの好みの草花を庭に増やしました。
 三角ネット支柱には生協で購入した早咲きクレマチス。まだ伸びていませんが、今年の新顔。
 河津桜の根元には百合の類が集まっています。
穏やかな、夕暮れは陽に映えて。

2016年4月14日木曜日

石けんは、面白い


 水の循環を考えて、石けんを使う生活になったけれど、その裏付けが欲しいと思う頃から、どれほど学習会に参加してきたことでしょう。
 その都度つど、奥川さんは頼もしい講師であり、解らないことが有った時の問い合わせ先であったり、くらしの疑問を化学式で答えてくれました。
 揺るがないものがあって、人物の面白さも懐かしく思いだした一宴が開かれた事に感謝。
パルシステムのこだわり。

2016年4月8日金曜日

花泥棒


 花の名前は母に聞き、そうです。母の命日も過ぎ、昨年の今頃を思い出しています。
母の生涯を綴った原稿が一応終わり、できれば、父の書類をまとめ。。そんな思いもあった昨年。
同じ月のうちに何事も見えないような、春は通り過ぎてしまった昨年。
 昨年蒔いたこの花は、今年増えています。種をひっそり植物から分けて貰い増やしていく。そんな優しい花泥棒の新聞切り抜きを母からもらったのは、どれほど前でしょう。
母の一人暮らしだった家の周りにも咲いて、次女と行った時もあったかしら。いつも帰りは私よりも母の家に長く居て、互いに補い合っていた母と孫娘。そういう関係だった二人とも今は居ないのです。
 母の命日にはお花をお供えしてと、知人から送られてきたお金はお店の切り花を買い、床の間に次女への花に合わせて飾りました。そして母のお骨は、山梨のこの地に収めようと、その墓守にもなっていくことになります。母には、栽培された切り花よりも、ひっそり増えていく野の花が合うのでしょう。
 いろいろな呼び名のあるこの花を、この季節に一人で見ています。なんだか空っぽな文庫番。

2016年4月5日火曜日

キャベツの内外


 キャベツは3㌔はさすがになかったです。規格内です。大きいのに勢いで背中のリュックに入れてしまったので、両手に着替えと財布が入ったカバンを持つスタイルは、あまり麗しくなかったけれど、頭の中ではこのキャベツを剥いて味噌をつけて食べても美味いよ。と言われたリフレインが鳴り響いて帰路になった味噌仕込み。
 参加者とは数えない、仮設住宅を取り巻く大勢の人たちが、いろいろな気持ちを寄せてくれて、差し入れもあって、台所のお米方も来てくれお蒸かしもできました。どのように感謝を伝えましょう。
 そして、次世代への食文化。結返しのお話に感動します。なんと豊かなこころが繋がっていくのでしょう。
「おもてなし」・・・この頃、行政の観光用語になっていますが、ご亭主のおもてなしに対応する「お客振り」は置き去りになっていないでしょうか。主客で一つの場が演出されるというたしなみが互いを構成する食とくらしがあった事をどこかで言いたい。
 支援する、支援されると言うのが一方通行のことではない。置き去りにされてしまった受け手のこころが空しくて。主権者のこころを置き去りにしたことが遠因となっている原子力政策だったのだと思っています。あらためて政策の責任は問い続けなければならないのです。わすれないというのは、どうすれば赦せるのかを問い続けると言う事。自分が主体であるという確認。
 近世代の学びは、暮らしの中のこころを教え育てる力が、そがれているとしたら、たかが味噌かもしれないけれど、微生物が教えてくれることばを聴くようにしたいものです。見事ではないですか「結返し」。