2016年12月25日日曜日

一陽来復2016


 地上に陽の注ぐ時間の短い、そういう日が過ぎていき、次の日からは新しい太陽が生まれてくる。春の再生を祝福される。
 それでも、一年が過ぎると言う事は往ってしまったものは、山の向こうに、会いに行かなければならなくなったのです。
 本日の、さまざまな人の投稿で、電通過労死自殺の女性のお母さんの思いを読みました。なんて哀しい一年を、そしてこれからを送るのでしょう。娘を亡くした嘆きに浸っている自分を思っても、この事件のお母さんは、さらにさらに突然に娘という存在を、それも互いに支え合って来た娘さんを亡くされて、自分から選んだ死だなんてとても思えない追い込まれた状況を、現代社会を告発しているのです。朝起きたら夢であって欲しい。
  この、癒えない哀しみ。私も、気を取り直さなければと、看取りに充分付き添っていた昨年の今日を思い、月日を戻るようになる自分を、奮い立たせなければとまた思います。
 今日、12月25日。それは、世界に幸せと平和をもたらす約束された日に。

2016年12月22日木曜日

竹循環プロジェクト



  竹の循環プロジェクトを、障害者地域生活支援に組み込んでいる、NPOおおぞらさんの取り組みが今の自分にすっと納得できて、そして、理事長をされている秦さんが今年の7月に相模原であった事件に対して、出されたコメントを読みながら、牛久に立ち寄って来ました。
 古くからのお付き合いでありながら、茨城の生まれの私でありながら、牛久の地に行ったのは初めての事。いろいろな事を思いながらの訪問でした。
長い年月を茨城の地で、障害者がともに地域で暮らして生きていけるように地道な活動を続けてこられて、若き日の秦さん御夫妻は度々閑居山に来て、竹の生い茂る山腹の道を上がって父と母と話していたのも、思いだされます。
 あの頃から、社会はどれほど許容性が増してきたのでしょう。「障害を克服して」「健全者社会の中で」という方向だけだったのではないでしょうか。大部分の人が、努力しても報われることが無いと思うような社会になった時、よりハンディのあるものに刺のある言葉や、排除しようという力が向けられていく。そして、施設が開放型にはできない事が多くあるままで、地域の中に障害者の姿が見えなくなってきて。地域とはさまざまな人がいて、おおらかに、包含される感情も精神も歴史も多様にあることが、文化を育むのに、一面ののっぺりした均質なものであることが求められる時代へと、進んでしまった結果の今年の事件であったのです。
社会の許容性は狭まれてはいけない。それは、誰しもの生きる意味を狭めることになってしまうから。そうはならないために誰しもの持っていることを少しずつ寄せ合うプロジェクト。しなやかな思いを再確認しました。
 

2016年12月11日日曜日

日和見です



















 ひよってるんですよ。切り干し大根をしっかり干すには、前に2日、干し始めてから最低3日は欲しいので、その上家の影にならないように、あちこちに移動させて風も下から通るようにして。
 お陽様追いかけて、日を過ごしてまだ数日かかりますね。
 この世に生まれて、もう来た道の方が、往く道よりも長くなって、自分の言ってきた事、やってきた事に変節があったのか、それとも一本道だったのか。寄り道、近道。いろいろしたけれど、お陽様はいつも一緒に来てくれています。
 故郷での読書会は、思いがけずに自分も作中に入ったかのような、懐かしい方々との再会の場でした。父や母の生き方に全然追いつけないままに、その生き方を問いかえす事だけを投げかけて、自分はいったいどんな生き方なのかとまた思います。ただただ懐かしいだけでは、駄目。ただただ暖かい思い出を語るだけでは駄目。じゃあ、今をどう生きるのか。言い切れたのでしょうか。
 そうでなくとも、自分の性格について、言い当てる事の出来た日でした。「無頓着」。そう親が実刑に服していても、全然気にせずに、伸びやかな思い出しかなく、兄とはそれぞれの暮らしと割り切るしかない自分は無頓着。
 当事者って誰?そう言うことによって、自分は余所見でいたのではないだろうか。その意気地の弱さが、時に右顧左眄している己を知っているのです。
 反体制も体制も、どちらも側も大差ない。そう言う理屈を見知って育ってしまった、という横柄さでしょう。
 東日本大震災以降、これ以上の原子力利用を人類はしてはならないと、地球という母星が叫んだのだと、人間の手に原子力を置いてはいけないと、せめて、この国の者は考えるはずだから、権力をもつものも虐げられている者も、どこかで、その合意の持ち方を、つくっていけると考えたけれども、この5年と9ヶ月は、そういう道を見つけられていないようです。1%と99%の話ももう聞かなくなってきています。むしろ排他的、武力的な物事に従う決め方を正しいと言う。そればかりが目について。
 お陽様のエネルギーがこれほど大根干してくれる。それを忘れてはいけないでしょう。

2016年11月24日木曜日

風邪にも負けず


 夏の雑草にも、秋の大雨にも、そして風邪にも負けず
そんなことできやしないという人がいても
猪や鹿に食べられても
・・・・・・・

 この数日、茨城との行き来を挟んで、手作業で脱穀していた大豆
選り分け終わっているのが2.2K。まだゴミが残っているのが2.5K。
約1dl、コップ一杯を上野原の中川さんにもらって来た白いセンゴク。
大豆をつくり始めて6年。
毎年、家族の事情もあって、思う様でなかったのですが
山梨で5回目になる今年の秋は、味噌にまで辿りつけそうです。
 どれほど多くの人に助けられ、種を分けてもらい、どれほど多くの人にご心配をかけていたのか。
 そう、村の中のくらしの、微妙な遠慮。そういう事を思いながら、着いていたテレビはTPP審議の国会中継。
 でも、くらしは政治に委ねない。自分の生きていると言う事。常に問い続けると言う事。
故郷に行って、やっと自分で腑に落ちた事。そして、兄に出した手紙はまだ戻ってきてしまった。。


2016年11月21日月曜日

生存権





 こんなことが、巡って来るとは、閑居山を下り、取手に移る時には思いもよらなかった故郷での読書講演会。
茨城青い芝の里内さんから花束を渡され、かすみがうら読書会連合会の花篭を抱え、会場を出て懇親の場が用意されていた四万騎農園に向かう車の中で,、皆さん喜んでいたと開催を企画した硲さんは言ってくださいました。
 語りたい事の多さと、集まる方々のそれぞれに、何を主題として話してよいのか、故郷での講演などとはくすぐったいものです。会場の前にも後ろにも同級生が、そして作品中にも出てくる恩師はじめ様々な人の顔が見えて、プロフィール紹介をしてくれたのは兄の同級生の図書館長さんです。
 まったく、前夜まで用意していた粗筋など頭から消えて、半世紀以上前の雨の明け方に父がゴム長を履いて迎えに行った産婆(助産師)さんがどこそこに住んでいてなどという村内でしか解らないような話をしてしまいました。結局「無縁の地平に-大仏(おさらぎ)照子(あきこ)の生涯-」を語る中身は、村の暮らし、町の暮らし、そして山寺の在り方。開拓者の生活も、戦災孤児の孤児院での寮母としての勤めも、障害者運動も、冤罪被害者支援運動もしていたにしても、その生涯は、その時、その時を生きていたと言う事。多くの人に助けられて在ったということ。村の人たちにとって、閑居山が、自立した障害者の集まる、住民票を移して脳性麻痺者の独立した生活の場となった事は、地域の中に障害者を受け入れたことを、もっと誇りに思ってもらいたいと、私からの村へのお願いになりました。茨城県の教育委員会で昨年、何某が「生まれる前・・・・」云々を言ったのは残念極まりない。このかすみがうら市、千代田であったら、そのような発言は有り得ないはずだと。
 母の葬儀の時に、村の人たちは、マハラバ村の人たちを「障害者」ではなく、一人ひとりの名前とその障害として、個人の人格として語ったことを私は実証しました。村内の事として、その在り方も逆説的には「一人前」としての確認なのでした。
 今、話せることは、歴史と地利の上の必然から興った障害者運動の地であった事。そして大仏の家。読書会で補ってくれた方々は、私の祖父の代からのお付き合いなのでした。
 あの頃は、農村にも人の仕事を身体的にとらえることができるゆとりがあった中での共感と遠慮。都会との対比。地方都市に町としての風格が在った頃。そういう感覚を会場では結びついて考え、今こそ、施設に管理されたものではない、障害者福祉を、そして牢獄に囚われたままのものへの支援を言えると言う事。
60名を超えての参加は、企画者の想定をはるかに超えたのでした。重い内容であったにも関わらず皆さん満足してお帰りでしたよ。と言われて、多少風邪を言い訳にしようと思っていた文庫番はほっとしたのです。
 母父の友人であった硲さんの恋瀬山荘には、閑居山にあった水仙がもう咲いていました。

2016年11月3日木曜日

真白に花開き


 蕾は薄紅色なのに、11月3日に咲いている菊は白菊です。墨田の家の前に置いてあったプランターに誰かが挿して行ったと、義父がにこりともせずに言っていた菊ですが、プランターのままに引っ越してきて、この庭に根付いて増えています。
 もう一種類も、墨田に居た最後の正月に、どこからか手折られてきたらしい黄菊。それも、山梨が合っているのでしょう。香り良く咲いています。
 あとは、母が育てていた寒菊の色があると、冬もさびしくないでしょう。いいや私はやはり食用菊がいいかな。。白い菊は、高潔という花言葉に似合っているように思います。

2016年10月21日金曜日

大仏照子(あきこ)の墓


 昨日は、長女長男も来て、母の納骨を簡素ながら済ませました。亡くなった次女の誕生日でもあり、いつまでも、所在?のないままにできなかったお骨を土に還るべく納めたのです。

2016年10月1日土曜日

2016年8月29日月曜日

のびやかな歌声で


 オホーツクの舟歌を父が歌い上げていたのは、知床旅情の第二次ブームの頃だったでしょうか。お前らこんなの知っているかというふうなのですよ。は~まなしの咲く頃。そして一くさり、森繁のシベリアを話していたのです。ハナマスの花を、母の生まれの北海道を唄うように、その不器用な表現を知りつつ、母娘の会話は何気ない日常の事を語っていたのでした。おも~いだ~しておくれ お れたちのことを~〽。
 
父の誕生日、そして昨年の次女の手術日にあたる今年の27日28日.は、遠出でした。
 この二三日はエポックとなるのです。
 昨年の骨髄移植手術の日、その後の定着を待つ日頃は回復の道を見ることしか考えようが無かったのでした。

父の事も書き残したい、でもそれとは別な旋律を奏でているのが、文庫番にはこころの裡に聞こえてきているのです。そして、今いるところから見る秋の空に。


2016年8月15日月曜日

己の地獄

 さまざまに、今日は、大勢な人が他界との交信をする日なのでしょう。8月15日。
我が家では新盆でもあったのですけれど、その集まりはまた文庫番の母の骨をどうするかという話でもありました。マハラバの母。
 そして、父の別府での受洗の日であったこと。当時何を思いこの日となったのか。今の私には解らないのです。
 やはり、敗戦の日なのよと母が、思案した上で言ったこと、常日頃、父はそういう名付けには、拘らないふうをしていたこと。
 盂蘭盆会。お盆休みには、県立施設から戻って来ていた人たちが、閑居山に連れて来られていた夏休み。その食事代がマハラバの経済を潤していたのも事実。その中に私達兄妹は居た訳です。
 娘が昨秋、病んだままに退院していた時期に、兄は土浦駅での托鉢、小競り合いでの暴力行為で収監。再犯となった経緯などが伝わってきました。病院との行き来の日々が続いていた中に母の生涯を書いた「無縁の地平に」まで出していた私は、知る由も無かったし、伝え聞けば兄からは当然私のところへはもう、知らせるつもりは無かっただろうと言う気持ち。その言い分が通るのかどうか、閻魔様ではない者には判じられないことです。
 飢餓も貧困も、五陰盛苦の地獄のさまも、合わせ鏡で、自分を写します。人生の成り行きでの今と昔。そして、なんの保証もない先の姿を考えます。どうしても、今の貧困問題への取り組みへの参加はできていないのです。社会運動にはならない自分が感じられるのです。身の内の問題であり、それを切り捨てて生きる自分の在り方しか見えない日常の中の事になるのです。
 己の地獄を見極めよと、父の言葉になっている。その己とはなにであったのか。
人の在り方は一面からだけでは語る事ができないから、加害の意味も含めて、侵略戦争をはじめていったことも事実として、敗戦の意味に含めて、と7月のはじめに話したら、7月26日に相模原で起きた事件は、重度障害者には生きている価値がないという、それだけで、施設内の人を殺傷していくという思考。彼は、以前はその施設の職員として働いていたこともあったというのでした。
 一つには、あのマハラバ村から、親たちは施設コロニーを選んで行ったことからも、障害者福祉の、いや、今見えている高齢者福祉のあり方も施設収容型を福祉行政としてきた社会であったこと。社会の中で、地域の中で、そして家族の中で、重度障害者の自立と生存を、閉じ込めている中に雇用の場としての施設が増え続けてきたのが日本社会であったのです。
 市場経済の中での優勝劣敗の序列、行きつく先は富国強兵の劣者排除の思想。しかし不条理は、介護する側にもままならずあるという人間。その解決は自分たちで掴み取るしかないから叫べと。社会に対して自分の存在していることを問えと。その社会とは。外が内であり、内が外である、自分自身に対して叫べという。社会を糾弾する時に、それは己が姿であるのだと。
 障害者とともに暮らすということは、その中で、序列は生みださなかったのか。なぜ、父の傷害事件は起こったのか。
 そういうぐるぐるした思考の中で、選んだ「個]とは何かという文庫番の長い課題。名乗るということでと抗って来た、その苗字ですら、兄は、何の相談もなしに、私のこだわりを飛び越えてその苗字を名乗るものを決めていたというのだけれど、それは兄の事情です。
 合わせ鏡のように、加害と被害は照らし合って、像を結ぼうとしているけれど、僅かな角度で見える姿が全然、別なものになっていく。観えるというのは、あくまでも主観の世界にすぎないのだから。
 相模原の事件の犯人は、その差別の意識は、優生思想というものは、「あちら側」にだけあるのではなく、己が内にあるものだと、震撼するのです。
 私たちはちっぽけな人生の中で、加害も被害も抱え込んで生きているのです。一人で抱え込んでは押し潰されてしまうから、伝え教えられて救われるのです。伝教。
 私は、この慰霊の日である他の世界と交信する日に、この一月あまりの間に、重ね合わさった事柄を振り返り考えます。

2016年7月30日土曜日

抜いた後に



 うずら豆が大風で倒れてその後の雨続きに莢も泥まみれになって、心配していたけれど梅雨明けした日の午後に、豆を採りました。この中から良いものを選り分けて、冬のストーブの上で煮るのを楽しみにします。山梨に来て大雪の後、最初に行った西山温泉への途中で売っていたうずら豆の数粒を取り除けて、煮豆一回くらいの収穫でしたけれど、今年の一畝からは笊一杯。
 選り分けると言えば、今年は全然トマトが上手くいってなかったのです。買った苗はどうも調子よくないと抜いたはずなのに、その草だらけになった後に、脇芽なのでしょうか残った根のヒコバエなのか、また一本生えていました。それだけで、数日嫌な知らせに気持ちが塞いでいたのが、まだまだ頑張れると、思えたのです。庭には、昨年のこぼれ種からなのか、ミニトマトらしい苗も三本も生えています。思いがけないものは買った苗より丈夫そうなのです。
 小さな喜び、それだけでうれしいものです。


2016年7月26日火曜日

叫ぶしか


 
 この50年、どう変わってきたのか。今マハラバの声は届くのか。
今日の殺伐としたニュースに、きっとさまざまな論評が出回るのでしょう。
 まずは、障害者自身が、自らが殺される、否定されるいのちである事を告発していかないとならないのです。
生存とは、自らの叫びなのだと。再度。いつまでも斗っていかなければ。
 収容施設型福祉、施設介護を福祉政策としてこなかったか。安住していなかったのか。施設に入って安心。それは大きな間違い。優しい家族が居るから。それも言い切れない。社会をありがたいものだと、楽観して来なかったのか。
 障害者の事だけを言っているのではないです。健全者と言われる側も同様じゃないですか。
 自分たちの生きる権利とは、自らを晒し、その姿をどうしようもない在り方を観えるようにして、自覚したところから掴み取っていくしかない。
 

2016年7月13日水曜日

クレマチス



 クレマチスと百合を飾ってと、あったので植えてみた苗が、今やっと咲いています。白花のは少し種類が違って4月頃にはたくさん咲いたのに、それ以上のびなくて、このマッチ棒の軸みたいだったものは、気を持たせていながら、遅くなって伸びて、思ったよりもたくさんの花が咲きました。
 東京に居れば新暦のお盆なのですが、今は旧暦で、地域の組のやり方を外さない様にしながら、季節行事が回って行きます。
 茨城の山に咲いていた山百合や、檜扇。今年も無住の庭に咲いているのでしょうか。
 

2016年7月6日水曜日

7月6日になって


 先ほど茨城森林管理署からの電話があり、まさに今日なんだと偶然ではあったけれど感慨深く思ったのです。また、閑居山の一隅を借りることになっています。
 この先がどうなるかも解らないあの山を借り続け、生き死にも解らなくなった兄からの連絡を待ち続ける意味などないかもしれない。何の供養なのだろうかと。
 生きてきた証。(写真は次女の修学旅行のしおり)そんなものに執着してはならないと、父が考えていたとして、全然父の持っていた知識にも、思想の地点にも到達できない不肖の文庫番は、ただただその書いたものを、世に問うだけです。
 母の生涯について、足りないなりに俯瞰する本として、出しながら、それは父の資料を纏める里程だとしたのに、遥かに父の思想は高みにあったようで、数人から、和尚の本は大変だと言われています。沖縄にも父は行った事があると、それも西表に行ったのだと母が教えてくれたことがあったけれど、それを辿るにはどうするか。それは何を目的としていたのか。歳月は過ぎていきます。

2016年6月19日日曜日

素通りで



 土浦での同窓会に二泊で出向いたのに、このエレベーターの話を知人とするのにも寄らず、時間をもてあまし、町を歩いても、学園都市からの足も中途半端な駅前は、市役所が場所を使い、商業の賑わいは、みな東京へと流れているのを感じるのです。地方市街の21世紀の様に、この国の現実を考えたのです。それは五月の半ば過ぎ。
 遅れての文庫番日誌。五月晴れの故郷行。早苗田の夕暮れ、実っていく麦の穂。山道へと入って行く先は、それは一つ向こうの山でした。秋の読書会の顔合わせもでき一安心。懐かしい両親の友人御夫妻はお元気でした。石岡の駅前での待ち合わせにもびっくり。昔日とはこの事なのかと周りを見回したのです。
 同窓会もそれぞれの近況に相槌をうつ、皆熟女。
翌日に、旧友の墓参があるのでもう一泊。空いた時間に隣駅の神立にも行く事ができたはず、もう少し時間を使えば・・兄の現在も解ったはず。いや解らないはず。
 昨年末に、送った里芋やらの小包は、石岡局からの問い合わせを重ねて、山梨に戻ってきていました。五月には、次の準備に芽を出しています。昨年の秋冬、今年の春。どうしようもない、自分の身動きに、兄の消息が解らない。閑居山に行ったけれど、誰も居ないみたいと、数人から聞かされたのでした。だからと言って、私には病む子を置いては行かないとしたのに、五月になっても、やはり志筑を素通りしての故郷行としました。

2016年5月9日月曜日

結返ししたい




 素敵なことば、素敵なご縁、素敵な気持ち。優しい思いに包まれる今日でした。
頂き物ばかりと、以前だったら落ち込むところ。今は、精一杯気持ちに応えようと思えるようになっています。
 新しい経済だなんて肩肘張っていたのは、脱ぎ捨てて、くらしの中にあった思い。
結返し上手にはまだまだなれないけれど、できることからですね。
 

2016年4月29日金曜日

母子草断章



  近頃、選択的雑草の配置をしている文庫番の庭。 
 マハラバ文庫にあった装い箱の表紙写真が2009年の間は母子草にしてありました。
それは、母が胸部大動脈瘤乖離の発作があったにもかかわらず、一人暮らしを続けていた頃に、母の元に通った時の路傍の花。
 ハハコグサ。御形。ホウコグサ。
 昨年の今日だったでしょうか。車で都内に出た戻り、中央高速を連れ合いが運転する中で受けた携帯電話は、私ったら、悪性リンパ腫だっったんだって、ステージ4だけれど、お医者さんは悲観することはないって・・・・。。。何それ、、悪性リンパ腫って。。そういう声に連れ合いがハンドルを強く握りなおしたのに、後でゆっくり聞くからねと。その後の不安。インターネットで情報を調べまくっても、続けて母、義父、義母を亡くした私達には、ステージ4である事の重さがのしかかっていました。義母は大腸癌でステージ4だった。それをすべて、子供達も共有してきた家族。
 当然、次女も承知していたステージ4。宣告。
 私には3人の子供が居ます。居ました。そう今も、居る。一人ここには居ないけれど、永遠の中に居るのです。
 下町の家の横にもあったこの草の名前を教えたら、へえそういう名前があるんだと言ったのはどの子だったでしょう。
 遥か遠い日に、学習教材に書かれていた母と子の別れ別れの涙のあとから咲いた花だと言うお話もしていた記憶。




2016年4月25日月曜日

バイオガス利用、と 木質ペレットサイロ




 九州地方での地震に、まさかこのような災害がまた来るとは、と皆気持ちも落ち着かない日にちでしたが、東京ぱるとも会で続けている被災地応援ツアーは、継続してみていく事も考え南三陸町の東日本大震災からの、立ち上がりを見てきました。
 いろいろなところを繋いでいますが、今回はデジカメのメモリーを忘れて内蔵メモリーで残した新しい訪問先。 二つの写真は、別な場所です。
 南三陸町の生ごみなどを処理してバイオガスと液肥利用を循環させていく町の委託施設。BIO。
 下の写真は、南三陸町病院の木質ペレットタンクです。
より、循環型の社会システムを作っていくと言う事、お題目の“復興”ではなく市民参加で行えるものでした。南三陸病院は以前の志津川病院の被災後の新生の姿で、木の温もりの実際がありました。
 これらを含めて続けてみてきたところに、具体的な明日を感じる旅となり、あらたに起こる災害にも対処していく参考もたくさんいただけました。


2016年4月17日日曜日

三年経ちました


 明日からは、4年目の大鳥居暮らし。庭にノムラカエデが赤く芽吹いて、庭前の川にはツバメが飛んできた夕方。
 朝から山神社の祭礼の花火が上がって、雨の午前中は、甲府緑化祭に行って、それぞれの好みの草花を庭に増やしました。
 三角ネット支柱には生協で購入した早咲きクレマチス。まだ伸びていませんが、今年の新顔。
 河津桜の根元には百合の類が集まっています。
穏やかな、夕暮れは陽に映えて。

2016年4月14日木曜日

石けんは、面白い


 水の循環を考えて、石けんを使う生活になったけれど、その裏付けが欲しいと思う頃から、どれほど学習会に参加してきたことでしょう。
 その都度つど、奥川さんは頼もしい講師であり、解らないことが有った時の問い合わせ先であったり、くらしの疑問を化学式で答えてくれました。
 揺るがないものがあって、人物の面白さも懐かしく思いだした一宴が開かれた事に感謝。
パルシステムのこだわり。

2016年4月8日金曜日

花泥棒


 花の名前は母に聞き、そうです。母の命日も過ぎ、昨年の今頃を思い出しています。
母の生涯を綴った原稿が一応終わり、できれば、父の書類をまとめ。。そんな思いもあった昨年。
同じ月のうちに何事も見えないような、春は通り過ぎてしまった昨年。
 昨年蒔いたこの花は、今年増えています。種をひっそり植物から分けて貰い増やしていく。そんな優しい花泥棒の新聞切り抜きを母からもらったのは、どれほど前でしょう。
母の一人暮らしだった家の周りにも咲いて、次女と行った時もあったかしら。いつも帰りは私よりも母の家に長く居て、互いに補い合っていた母と孫娘。そういう関係だった二人とも今は居ないのです。
 母の命日にはお花をお供えしてと、知人から送られてきたお金はお店の切り花を買い、床の間に次女への花に合わせて飾りました。そして母のお骨は、山梨のこの地に収めようと、その墓守にもなっていくことになります。母には、栽培された切り花よりも、ひっそり増えていく野の花が合うのでしょう。
 いろいろな呼び名のあるこの花を、この季節に一人で見ています。なんだか空っぽな文庫番。

2016年4月5日火曜日

キャベツの内外


 キャベツは3㌔はさすがになかったです。規格内です。大きいのに勢いで背中のリュックに入れてしまったので、両手に着替えと財布が入ったカバンを持つスタイルは、あまり麗しくなかったけれど、頭の中ではこのキャベツを剥いて味噌をつけて食べても美味いよ。と言われたリフレインが鳴り響いて帰路になった味噌仕込み。
 参加者とは数えない、仮設住宅を取り巻く大勢の人たちが、いろいろな気持ちを寄せてくれて、差し入れもあって、台所のお米方も来てくれお蒸かしもできました。どのように感謝を伝えましょう。
 そして、次世代への食文化。結返しのお話に感動します。なんと豊かなこころが繋がっていくのでしょう。
「おもてなし」・・・この頃、行政の観光用語になっていますが、ご亭主のおもてなしに対応する「お客振り」は置き去りになっていないでしょうか。主客で一つの場が演出されるというたしなみが互いを構成する食とくらしがあった事をどこかで言いたい。
 支援する、支援されると言うのが一方通行のことではない。置き去りにされてしまった受け手のこころが空しくて。主権者のこころを置き去りにしたことが遠因となっている原子力政策だったのだと思っています。あらためて政策の責任は問い続けなければならないのです。わすれないというのは、どうすれば赦せるのかを問い続けると言う事。自分が主体であるという確認。
 近世代の学びは、暮らしの中のこころを教え育てる力が、そがれているとしたら、たかが味噌かもしれないけれど、微生物が教えてくれることばを聴くようにしたいものです。見事ではないですか「結返し」。

2016年3月27日日曜日

光に彩られ


 たくさんのランタンは台湾の旧正月に行った時のもの、金属のシャンデリアはトルコに行って送ってきたもの。なんて珍しい趣味なのだと思っていたのでした。
こんなものが、たくさん集まって、そしてバイトしていた頃の仲間からもアジアンランプ。
 生まれて来て、一番最初に口にした言葉は夜空を見上げて「ほし きれい」。
万が一のエンディング・ノートには戒名も要らない、密葬で良い。散骨してほしいとあって、すべては叶えられないかもしれない。そんな願いは知らず、菩提寺の住職がつけた戒名には清淳光彩信女。引っ越してきた家で数回会っても言葉は交わしたことはないけれど、自立心が強く精一杯生きたと49日法要でも住職は話されたました。
もしかしたら、敦加もこの名前を喜んでいるのかもしれません。
 しばらく、弔問もあると言うことなので、まだ飾っておきます。
これからも、私たちと一緒に私たちの生きている間は、居るのでしょう。親を亡くすのとは違って、生まれ出た子を先に亡くすのは、生身ではないこれからをともに過ごすと思う復活祭。

 実際の話、さまざまな手続きを済ませながら、現実社会が生きるということがどれほど金銭で量られることなのか気持ちが空しくなりそうです。でも、この光を追い求めた娘が与えてくれたものは、消えることはなく、私や家族のこれからを照らしてくれると願っています。

2016年2月9日火曜日

火を灯し


 本日で、再入院から3か月なのにすでに敦加は、この世になく
先に旅立って、いつかまた私達と会える日が来るのでしょう

 悪性リンパ腫、EBウィルス関連血球貪食症候群、難病にも指定されていない未知の病に
苦しく辛い日々であったはずなのに、彼女は自分より他を気遣って
 遠い往復になる私を夜には、戻る事を承知して
どれほど心細かったのでしょう
 原因不明と言われるたびに、自己の揺らぎに陥っていたのではと思います
繰り返して襲う高熱に、身体は蝕まれ、意識は遊離していくのに
耐えていたのです

 まだ、仕事も覚えたて、これから社会が拡がるのに
遣りたかった夢に近づいてきたところで
30歳の一年は、うすうす病を感じ取って
31歳の祝いは僅か20日の退院でしかなく
こんなに若くて、可能性に満ちているのに
 悔しいと、口惜しがり、涙をこぼしていた枕に
気休めの、治ったらいろいろできるとしか言えなかった

入院は合わせれば9ヶ月
姉娘も家族とも、父親も兄も
どんどん進行していく容態に
ひたすら毎日の予定を変えていき
枕元に、声かけて
それでも運命は引き離してしまった

何処かのころからか、励ますよりも慰める言葉を探して
その酷さに、自分を騙しながら
いつかは治ってほしい
細くなっていく食事にもおののいて
僅かに含ませた水ですら
血の混じった痰となりむせこんで
真夜中の吸引を苦しがる、その娘を慰めて
呼吸を整え、息を伸ばし
子どもを産めない体になったけど、いつか身よりなき子のグラン・マに
文明の交雑する島で、財団でも作って多くの子供と暮らしたい
そんな夢を、語りました


いまわの際、綺麗な息をすっと止めて逝ったのです


その、子をなくした媼の老いさらぼえるぞ哀れなる  
彼女の夢を少しだけ、春の光彩の中、誰かに伝えていきたいと
一緒に旅する約束の南の島へと唱えます

2016年1月13日水曜日

三平汁を


 暮に贈ってもらった新巻鮭は、その塩味だけでの三平汁をつくりました。冷凍してあった大根、芽の出そうなじゃが芋、おすすめの白菜。そして昆布。旨味と野菜の滋養と、ほろっと崩れるまで柔らかくなった粗。
 その、素朴な取り合わせ、コトコト薪ストーブの上で煮込んでおけば、少し帰宅が遅くなっても安心です。酒粕や、味噌の味で食べるところもあるのかもしれませんが、私は母が拵えていた少し石油ストーブの匂いも懐かしい大鍋の味に近づきたいのです。
 新巻鮭はしっかりと塩があったので、夫婦二人の私達には、加減が難しい。塩の足りない文庫番がピリッとしそうなものでした。
 山の中で、何人もの口へ入ったのは、幾らでも増やすことのできる魔法の鍋だったのだとまた思います。アガペーそれは饗食。冬の山道を学校から戻ると、温もりのあった屋根の下。自分でスプーンを持てる者も、その口元へ入れてあげる者も、共に食べていたそういう味を、今の社会でも、誰でもが、満ち足りて眠りに着ける。そういう湯気の魔法が漂っていたように思います。
 なんという贅沢に、私達二人では、このしっかりした塩味を何日で平らげるのでしょう。