2013年9月29日日曜日

秋の甦り


 早朝畑へ通う道のハナミズキの実は色づいています。
まもなく葉も染まって落ちていくでしょう。夏の暑さが過ぎて、また一斉に雑草が伸びてきています。春の芽ばえとは別な意味での甦りを感じるのです。もしかしたら、いのちの連続 そういうことばかもしれないです。
 昨日は、いろいろな会議、学習会があると言われていましたが、文庫番はでかけません。連れ合いが市の男女共同参画推進の一環の男性の料理教室に出かけて行ったのです。お・る・す・ば・ん!です。
 反TPPも福島の学習も、里山の再生も、奥の細道もどれも、鶏肉のトマト煮と生姜ご飯に勝らなかったわけです。義母の昼食を用意しながら、私は庭の小石と語らったり、胡麻についている魂消るような芋虫を摘まんで河原に投げたりしていました。
 なんだか指先がかさかさっと感じます。季節が変わったのですね。商品案内ではしばらく出ていなかったフットケアクリームがあったので買いました。日焼け止めと並べて置いて、踵の美白の逆になりそうです。頬にフットクリームを擦りこまないように気を付けないとなりません。
 庭の瓜たちも、秋バージョン。末成りの西瓜も収穫し、かぼちゃは、元が太くなったのを見つけて採りました。苦瓜は冷えてきた川沿いの藤の下にまだぶら下がっています。
 男女共同参画ね・・参加じゃなくて参画と言っていたまだ活動の最初の頃。連れ合いはすんなりと参画というところから始めていきます。この人は、猪だったかしら?猟友会についてもいろいろと聞いているようです。庭木の剪定講座に、料理教室、何か付け加わるのでしょうか。
 里山畑も、たまたま伝手は私だっただけで、連れ合いが、どこか借りるなど言っていたのをとどめたのが一昨年だったのに、早朝畑は今のところ私の、一日の身体を整える体操代わりになっています。草刈りから石を除く作業になってきたら、畑の傾斜が気になり始めました。夏の日照りの中でも谷に向かった部分は湿り気のあったところ。道からの傾斜と坂の向きと二方向の傾斜をどう考えるのか。カラスに聞いています。


2013年9月27日金曜日

文庫の上に

 
9月25日17時30分
 
 外に出てごらん。と庭に遅くまで居た連れ合いから声をかけられ、三人で見てみます。
この一日は、朝からあちらこちらに架かったたというお話が伝わってきました。夕方の東の空に虹が、西の空には夕焼けが残った庭で、こういう鮮やかで完全な形のも珍しいという事で、思いっきり崖っぷちに退いて屋根に跨ぐような虹を写してみました。
 その間にも鮮やかさは刻々薄くなって、消えていきましたが、ちょっといい画に撮れました。
地域のくらしの中に、協同はあるのだから。この下で石を拾い、草を取り、そういう毎日に架かるのです。いわきから、山梨の虹も見てみたいと。ああ、いわきの友よ。忘れてはいないのです。お味噌のお蔵に感激したことも。
 ここで、この屋根の下で、飯舘のさすの種を宿した味噌はツブツブと熟成を続けています。天空の約束を地上で追いかけるように。
 しかし、、、、瓦の漆喰が落ちてきて、屋根は葺き替えをすることになりました。雨樋も直さなければならないという事です。
 その上、黒瓦は鉛も含有しているのがあるし、銅の雨樋は緑青を吹くから雨水利用はできないと瓦屋さんに言われて、ちょっとショックな文庫番です。物事はやってみようとして、突き当たる現実があります。
 虹を掴む男。。ダニー・ケイの映画も古い記憶になってしまいます。
 


2013年9月17日火曜日

台風一過


 実りの秋の季節にやってきた台風18号。北上したらさっさと出て行ったようです。その被害はどれほどだったのでしょう。昨日、午前中には雨戸を閉め切った中で、あの暑い日照りの夏を過ごした山梨の最初の秋は台風直撃なのかと、自然のもたらすものの大きさを考えます。死亡者、行方不明者、全壊、半壊、道路寸断、増水、冠水など見ると、目の前の川が襲ってこないのが不思議な事でした。夕方には一転して、素晴らしい夕焼けも見せてくれました。義母も連れ合いも庭に出て西の空を見て、もう二度と見ることのない、この一瞬の夕雲。台風はその雲も連れ去ってしまって、夜明け前の星空にさらなる大きな物語を読み解きながら、畑の様子を見に行きます。三角ホーを使いながら思うのはやはり今まで見てきた、そして今食べている食材の各地産地の様子。それもよぎって。なお庭畑に戻るのです。
 小さなくらし、その中のさらに小さな小石を拾って、アップにすると解らなくなりますが、砂利の細かいもの、篩の目からも落ちてしまっていたものが、雨で剥きだしにになってきているのです。これを、もう少し細かい目の篩にかければ良いだけのことを、先日の大雨以来気が向くと庭に出て、径3~5ミリ程度の石を指先で摘まみ、手の平に集めては、車を置いてある方の地面に移しているのです。これがまた楽しい。細かい指先の作業は嫌いじゃないし、ほらこんなにやったのよと見せる、誰もやらない事が私にはできる。そう言いたいのかと思いながら、ここは花果山だと、一個の小石の下を考えるのです。その小石が私の上にあるのです。
 得意げな自分を表現しながら、それもまたあざとく感じる自分。それでもなお伝えたいと。そして、カラス大先生に学びながら、自分の中に兄を考え、他者を感じる時に、自他一如ということばはやっと、うっすらと見えるのです。一人じゃ力にならないと?では群れたら力なのかとも・・。
 爽やかな秋晴れになって、東京からの消息にも、また身の回りの者たちの状況にも、すでに子供たちは独立し、いづれはこの庭に私たちのどちらかが一人で立つ時もそうは遠くなく。いろいろ考えると、やたら肩ひじ張って、個人の身分保障の形を考えてきたけれど、小石と対話していると、対峙すべきは国ではないかもしれない。カラス大先生もそう言っているのかもしれない。
 今までの活動は、暮らしの中に集結していて、今の在り方ですべてある。
 自覚するというそのことばは、父のテープから聞こえてきたのでしょうか。

2013年9月15日日曜日

台風途上


 今日は朝市には出ない事になって、父の講義録テープを聴いたりして一日過ぎているのですが、あまり机の前にばかりいるのもいけないので、庭畑の様子も見に立ちます。
 まだ、台風18号は南の海上に居るばかり余波の雨は降ったりやんだりで、ぽっかりと暑さがもどったりする落ち着かないお天気です。陽に照らされた地面に何やら不穏なものが落ちていて、この頃また夜いたずらしている近所の猫の落とし物ではと見ると、やわらかそうです。綿を植えた下です。花の蕾と実とが、あまり区別がつかないので、いつ割れるんだろうねと言っていた茶綿は、雨と陽射しで実を落とす時季の到来を知ったようです。できちゃいました。
 早いものですね。そして、植えた分から全部の実が収穫されたらと嫌な予感もしますが、綿と胡麻は、優等生の様です。あまり手をかけていないのに、見栄えはともかく結果を出しています。
 文庫番は全然結果が出せません。朝市はいいのです、コミュニケーションの第一歩ですから。もっと今の居住でもできるようにしたいところです。
 畑も、いろいろな生き物との共生共栄で、それはむしろ身体を動かす動機です。家の掃除は連れ合いの方が向いている事は暗黙の了解になっています。
 机に向かっているのは、一応仕事の姿勢ですが、ここに来て、自分の預かっていたテープ11巻に加えて同量くらいの父の講義テープがあることがわかりました。ヘッドホンで聞いていると重なる内容、いままでインターネットで上げてある文章とも、同様な内容もありますが、活き活きとした語り。父の講義は学校での教室形式ではありません。マハラバ村塾と言っていた、茅葺の庫裡の擦れた古畳に座したり寝転がったりする幾人かの脳性麻痺者と語り合い辞書を引き、板書をするチョークの後まで、庭で、隣の部屋で遊び泣いている子供の声までも記録されているテープです。
 これをどう活かせるのか。いったいいつになるのか、そもそもの出版も定款に書いた目的がこれなのですから、新解放理論研究会。そんなことを考えているうちに聞きかえしたテープがプッツンと切れてしまいました。まだデジタル化してない文庫番。吝嗇ほど情けないことはないです。
 もう老眼になって、指先はキーボード叩きに疲れているのにこのカセットテープは治せるのでしょうか。綿を繰るなんて、。。。したいです。


2013年9月13日金曜日

ここから見えるのは

やはり9月には考えてしまう。13日の金曜日!違います。2001年の9月11日と9月10日の二つの日。
 どちらかだけがあったのではなく、一日違いのこの二つの日がくっきりと記憶に刻まれていて、考えるほどその二つの日の意味はパラレルに続いています。もしかしたら交差しているのかもしれない。日本国内でのBSE発生とニューヨークのツインタワー航空機追突事件。どちらもテレビの映像で見ていて、その意味が遠い事なのか、自分のくらしにそのまま突っ込んで来ようとしているのか。
切ないくらい、気持ちがちぎれるくらいに見ていたのでした。
 電話の向こうで連れ合いも見入っているのが伝わって、同時。別な場所なのに、同じ画面を見ながら、くらしを裂くような、二日続けての報道画面。伝えると言う力についても考えさせられました。
 いかに理解していないのか、この出来事は画面からの報道よりももっと知らなければならない事はあるけれど、まずは起こったことを観させられて。もっと演繹して考えられる力が欲しかった。
 
 その後の年月の中に、BSEに関連していかにたくさんのことがあったのか。あの時の食い入るような少しでも、情報が欲しいという気持ちからは、何をもって30か月齢などになるのでしょう。
 そして、やはり暴力的に、記憶に擦りこまれる世界貿易センタービルの崩壊。そこに突っ込むという航空機の異様さにアフガン侵攻が続いていき、イラク派兵、サブプライム破綻、リーマンショック。
 この二つの二日の間に起った別々な事でありながら、どちらもグローバルという事の中にある自分のくらしを意識したものでした。

 さて、そういう9月の記憶です。これらも忘れてはいけないことですが、今、毎日地面から石を拾って投げての時間に、これからを考えます。確かに自分を取り巻く空気ごと社会は押し流されて、TPP開国だ、税率だ、東京五輪だ、見えなくしていく放射能報道なのか。秘密保全法は、また相互監視の隣組を生み出すのではないか、など思っても、石を拾いつづけ、何も生み出さない行為を面白く思うとそこに居る「我」が見えるのです。そして、そのことによってこの空気と対峙しているように思われるのです。その我というのは、ぼやけて境目のないものになっていきます。幾数千年もどこかの誰かが地面の石を移動させていたのだと、その僅かな時間が今なのだと思ったとき自他一如。
今できることをし続けています。

 この地面はなかなか、ものを生み出すには労力を必要とします。雑草ですら枯れる夏の日照り、表土を取り去る冬の風。そして石くれだらけ。だから桑くらいしか育たないのですが、換金できる繭でこの村は栄えた時期があったのでしょう。甲州の絹は横浜から世界へと出されていっていたのです。今は繊維も変わってしまって、産物は果樹とトウモロコシになっています。そう、有為転変は世の常です。名残りの街灯が庭の真ん前にあります。
 

2013年9月11日水曜日

いよいよ正体現れる

 


 
  連れ合いが、東京に出ている間に、義母は、あんた車でどこかに連れて行って。ということになって余計なのが居なくて、自分の考えで運転できていいねと言ってくれます。良く見ているんですよ、自分の息子の性格も、嫁の気性も解っているから半分呆れながら、諦めながら普段は後部座席にいるのです。嫁姑でルンルンドライブなのですが、まだ自由走行が少なかったのでまずは知っているところへ、大豆畑の惨状を見せに連れて行きました。私のお借りしているのがヴァンタスファームですが、山梨のパルファームのすぐ傍ですから、ちょうどこんせん君の軽幌車があったので、畑の経過や今後を滝さんと話しました。きっとイノシシだよ。カラスはこうは食べないから。そう言われればそうです。以前この畑の横の畑で皆で作った大豆も一晩でやられていた。そうだったですね。
来年は、何らかの防御をして小さい範囲で・・。
 
 
 さて、そういう段階はあったのですが、昨夕、庭の秋の用意も進んできて、先日蒔いた蕎麦も見ようと連れてきた連れ合いは、発見したのです。この足跡を野ブタ!猪ですね。フジサクラポークの豚舎も近いけれど、しかし、大豆が好物なのかと、豆を食べるのは鳥だと思っていた文庫番は、事実を積み上げる連れ合いの思考方法が、これまた発見。どうして周りの畑の大豆は食べられないのか。。。?いろいろ話しましたが、相手が解ったらその対処。という事になります。
 義母の介護保険認定の申請に今朝、役所へ行ってきて、ついでにイノシシ防除をどうするか相談してきたのです。今から猟期になるので猟友会に連絡して畑に箱でも置くようにします。またその時は連絡しますとなりました。
 これは、致し方ない事なのでしょうね。。耕作放棄地に近いところに住む野豚。そうそうこれで、墨田のものづくりとも繋がる流れができるでしょうか。もしや印傳の高級バッグに化けたら。捕らぬ何とかが頭をよぎるのです。

2013年9月9日月曜日

東京で・・・


 ガリガリ君ソーダばっかり冷凍庫に入って、これは立花のお祭りの子供への振る舞いのもの。もっとたくさん、この家の冷凍庫にも。7日8日は、長女の住まいの・・もとの地元のお祭りで、年番の役が残っている連れ合いが一日先に行ってましたが、私は義母と山梨の家のすぐ前の停留所からバスに乗って、自家用車でいくのとはえらく遠回りな路線で甲府駅まで出て、甲府から亀戸まで、そしてこの家の前まではタクシーで移動して、ほぼドアtoドアの行き来で一泊。連れ合いより一足先に帰宅するという行程でした。
 子供の絶対数が少ないから、準備手伝いの人達も、なじみの通りを歩いて子供の山車にばったり遭った義母と私にも、ガリガリ君は振る舞われ、冷凍庫へ。
 神輿を見ても山車を見ても、担ぎ手のすくない事。7年後、担ぎ手は居るかしら・・あら違う話題。
地元、今回思ったよりも短時間単純移動ができたので、義母は帰り際には家に向かってまた来るね!と言って出ました。・・・・連れて動く嫁にすれば、え!と言いたいのですが、悪い事でもないかと考えたり。山梨のマハラバ事務所続きで一部屋になっている台所では、互いの動作を窺って息を詰めて、相手の出方で自分の行動を決めていく無言の時間が延々と続くより、気が晴れるでしょう。部屋がオープンでもなかなか気持ちはオープンにはならない間柄ですから。
 それにしても義母の子育ての頃、私の子育ての頃、現在。高度経済成長期、バブル崩壊前後、東日本大震災後。この町内のお祭りの様子を考えてもいろいろとあるわけです。自分の移動の範囲についても合わせて考えるのです。
 東京でパラリンピックが開かれ、青い芝の会は招待されてスタジアムで観戦。私の記憶にそのスタジアムで、横田弘、よっちゃんを小突いて、スタジアムの席から落としそうになったように覚えているのです。茨城から行ったのかどうか辿って確認したいところです。あの頃の、社会に障害者が出ていく、そういう勢いと、戦後復興を成し遂げたと世界にアピールした東京、オリンピック。パラリンピック。それの一端として障害者団体の招待。
 その時この工場の町東吾嬬は、多くの地方から出てきていた労働力を受け入れ、その人たちも町の一員として祭りを盛り上げ、それぞれの町内で睦に入り。。。経済振興というものの中に巻き込まれながら社会は、情報に乗って変容させられてきていたのです。
 結果、町工場は少なくなり、地域の経済は衰退気味になり、町の中は空洞化が押し寄せ3Kは、地方から出てきた人の手からアジア近隣の人の手にとなり、障害を持つもの、福祉の対称のものは、施設にまた管理されるような仕組みが増えて、主体的行動はネット上で電磁上ではすでに地球的な監視の網があるのでしょう。
 
 東日本大震災後、しなければならないのは景気というまやかしの高揚ではないはずだということを、町の中にも地方にも子供が少なくなっているのは、ひとが生きている実感を失くしてしまっているこの市場原理を変えるにはどうするのかへの対処をしなければならないのに。
 回りくどくなってしまうけれど、自己の存在感を渇望して、汗臭いような、人と人の見合いで力関係がうごめくような感覚があって、お祭りもそうだったはずなのが、いつの間にか、薄められて、手が届かないようなものになって、誰かがやってくれているから、素晴らしい事なんだ、それが、みんなで一致することになるんだ、大きなお祭り騒ぎの事。と。それも地球の反対側でよく解らない委員なる人たちの投票で決められたことが、本当に自分たちのくらしを良い方向にできるなんて考えられるのでしょうか。
 存在感、それは、スポーツでしか達成できないものでもないでしよう。あの頃、自分の家が、大勢の脳性麻痺者やら報道関係者、よくわからない奉仕の人たちが寄り来った中で、はっきりしない自我が、横田弘の背中を押しさせた、そんな忘れたい記憶。
 存在感とか、達成感とか、生きる目的は、一人ひとりの中にこそあるのに、どうして、大きくお金が動くことで証明されると思ってしまうのでしょう。
 みんなで一致して、、。最初からそんなものに乗り合わせたくない。それは一人の意思はどこだかわからない事を賛美することなのではないかしら。それなのに、個々人は見世物のように競わせる、闘う事を尚武する。
 誰とも競わない、誰のことも落とさない、そういう人間になりたいなという贖罪の意識は、あのスタジアムの記憶の頃から付き纏っています。なかなかなれないものです。
 ふと、そんな事を以前の町内お祭りの最中に考えたりする今日でしたが、立花の町内をうろうろとすれば、そこは私も子育て時期を過ごした場所。総武線で新宿に戻って山梨へ向かえば両国、秋葉原、御茶ノ水、飯田橋、四ツ谷、新宿。そして連れ合いの職場への日本橋、東京、銀座、有楽町、ずいぶん夜も待ち合わせしたあたり、そこも一日で過ぎて庭畑の家に。そうなのです。一つの時期は私の中では卒業しているのです。隣で車窓から町を見ている東京生まれの義母は一体何を考えているのだろうかと、思うのです。そして7年後。

2013年9月5日木曜日

庭畑という考え方

 
秋蒔き在来種
 
 
 お連れ合いさんは何をしているの。。庭に居ます。文庫番はパソコンの前。
お百姓さんではないお互いに不器用な者。あと一ヶ月もすれば、結婚してから37年。知り合ってからは45年経ったのですね。今頃こうやって、種蒔く人になるなんて、草取る人になるなんて。昨日、甲府に行って買ってきた種袋を見ながら思います。(自然食品有機村で)
 文庫番はまた朝市参加を画策しながら、あちこち予定を入れていますが、まずは連れ合い優先の予定です。連れ合いは秋になって行政主催の料理教室に申し込んでいるではありませんか。そして庭木の手入れ教室も県立高校の社会人授業であると申し込んでいます。
 ここに来て、前と同じ仕事が続けられる?と何回も尋ねられて、そうね、もともと形の無い文庫番だから何とかなるの。と言っていたのです。連れ添っての年月は、自分たちのしたかったこととしてこういう形で実っているのです。在来種の秋蒔きなんて見つけられたのですし。
 相手がしたいということがあって、何も異存なくこの土地に移ってきたのですから、焦らずに少しずつ。大丈夫なんとかなります。
 文庫のお仕事、このところ、やっと父の最後の講義録のテープも聴いています。
 やっとなのです。東京に居る間は何かとバタバタしていたので時間が取れなかったのですが、今はある程度は時間に融通が利きます。そして、ホームページマハラバ文庫の新解放理論研究会で、父の文章として残っていたものをアップしてきたことで、講義録というテープを聴き取る力ができてきたのです。「明日へ帰る」の取材経験も良かった。だから難しい教理の言葉を確かめられるのと全体の流れを掴むということができました。あとは打ち込みです。 ついでに義母の楽しみも何か考えられるゆとりができると良いのです。
 何と言っても事務所は台所直結。ここは文庫番のテリトリーだねと友人から言われたという事は、そこに多くを包摂できる力を持たないとならないのでしょう。今は義母と連れ合いと、それぞれの主体性を活かして暮らしたいものです。
 でも、庭畑なのです。
 庭は畑じゃないという事に、昨年夏気が付きました。二年かけて夏・秋と草取りを庭でして、義父にしてみれば、何故草を取るのかという不思議さがあったのです。畑は、草が生えていていいんだと。義父は言ってました。うっちゃっておけば枯れて肥料になるんだから。そうなのですか。草が作物の大敵だと思っていたのですが、草は放っておけば肥料になるというのが義父世代の考えだったと解った時に、何故庭は、草取りをするのかと考えるのです。生産性というのとは別の世界、造りものなのですね。寺男の仕事と言えば、庭を清めることなのです。幼い記憶は竹箒と熊手の扱いを祖父から言われていたことです。草も葉も無いのが寺の庭であるのです。庭はどこの家でもそうでしょうね。石と砂。有機質を還すところではないのです。枯山水と言わずとも、生産のためではない場を暮らしの身近に置いてあったのです。さらに今年の夏考えたのは、山(寺)と庭の違いです。一昨年の夏、閑居山でみた圧倒的な自然の力、人間が手を入れてどうこうではないのです。それを覆い尽くす時間と生命が山には在って、その中に一人が対峙するという事。寺には寺号と山号があります。国土地理院の地図上の山ではない寺の山が表すものとは、もう少し学ばなければならないようです。そこに在るもの。そういう観念だとは思うのです。家庭。家と庭。そして出家。堂々めぐりですね。
 でも庭畑なのです。
 裏庭の一部が家庭菜園。そういうのがよくあるわけです。どちらにしても、私達夫婦は農業者ではないのです。畑ともつかない庭に連れ合いはいます。この人もストイックなタイプ。今までの四か月、ひたすら草取り、石の配置。そして家の掃除で過ぎてきています。里山の大豆畑は、ヴァンタスファームが、味噌の里親プロジェクトに共鳴して貸してくださっているものです。連れ合いは、あくまでもその助太刀。そこにもいく時は寡黙にやるだけのことをして、あとは私の判断と体力になるのです。この袋の種は庭畑では余るようです。文庫番は、まもなくテープ起こしを始めるつもりなのですが。