2013年8月28日水曜日

父の名前

父の名は~、浄瑠璃のようでもありますが、父の名は大仏尊教(そんぎょう)僧名が戸籍上の名前となっています。得度をして改名の手続きをしてあったのです。得度前の名前が晃(あきら)、そのあきらという読みを仏教での大切な観念空に充てて、大仏空(おさらぎあきら)としたのが父の呼称。同じ空の字をひろしと読ませたのが兄の名前。

 8月27日は父の誕生日でした。

2013年8月25日日曜日

種蒔く人


山梨県立美術館、マハラバ文庫の移転前から見に行かなくっちゃと思っていたこの絵。土・日に大切な友人が来てくれて、雨になったこともあり美術館へと。
 都内の美術館とはまた別な雰囲気も興味深く、ここへはこれから数度くるのだろうと最初の本日は常設展を観ることにしました。
 連れ合いの高校時代の同級生で、実家である閑居山に最初に連れ合いと来た人で、当然義母とも話題があって話をすることができる古いお付き合いです。来客の多かった8月でしたがこの土・日は雨で暑さも収まっていましたので、近くにある日帰り温泉みたまの湯も案内し久々に炭を熾してのゆっくりとしたひと時。直前にはご近所の葬儀もあって、ばたばたはしていました。この地域では、冠婚葬祭は、何をおいてもするべきことで、会社は第一義ではないと聞いて帰ってきた連れ合いは会社時代の仕事優先との違いに思いに浸っていたようでした。そんなこともあって、人生の来し方、そして互いに初老へともなっている現在、これから。いらした友人ご夫婦との話は尽きないのです。
 おしょうさんは、何でも知っていて、照子(あきこ)さんは・・・・
 そして、マハラバ文庫はどうなるんだろうとも、カラス退治の現在になっちゃってとか。何をカラス大先生に学んでいるのか、TPPとか、フクシマを忘れないとかをもっと深く、自分への問いかけとすると、“原罪”とは何なのだろうと言うところを教えを乞うているのだろうと思うのです。
 地面を掘り返し、草を刈り、種を蒔く自分。その事は何かを負うからなのでしょうか。生まれたときから兄が居て、兄にすれば、いきなり父母との間に入ってきた者。働かずとも生きていかなければならないというものと、どこかで、世俗の嵩に追われるもの。業(ごう)とはまた異なる原罪。
 その意味を、カラス大先生ならば教えてくれているのでしょう。それなのに不肖の弟子である文庫番は理解していないのです。畑で学んでいる事の実に多い事。
 そんなこんなも、こころ許して話すことができる数少ない交わりなのでした。
 ミレーの種蒔く人が、農民の、力強さを表すとされているとも、鳥の群れを背後に書きこんでいる事で体制に抵抗する姿ともみられたとも、この展示の前にまで来て知ったこととも合わせて面白いのです。

2013年8月22日木曜日

虫すだく


 早朝、西の空に月が残っているのを後に自転車を漕ぎ出して、畑に行ってみます。もう庭も河原も秋の虫の声です。例年という比較ができないのですけれど、季節は確かに移っていくのです。
 朝の空に残っても大きな月でした。
 昨夜は、どこかで花火をしていたのか稲光なのか夜の空の光っていた一角です。甲府まで迎えに来てもらいうどんを夕食にした帰る途中の空でした。稲光なら雨が降って欲しいわね。途中の上野原過ぎまでは大雨だったのよ。と話していました。
 日中は、花衣訪問。私たちの先輩が地域でどのように活躍されているのか、無理をしないでしなやかに芯のある生き方に多くの方たちが寄っている。そこに小さなお金も生み出して動いているのでした。決して一足飛びにはできないから、やりたいことを見失わずに、やっていくのだと学びました。そして、お声かけて引き合わせていただいた、お仲間の方々。地域でいきいきと活動していくには、周りの人たちもまた活き活きとして、忌憚なく意見を交換できる関係をもっているのでした。
お野菜中心の、品数の多い昼食を用意していただき、集まった方々の人となりをお話しいただき、運動を暮らしの中で見せていく姿を知らせてもらい、そして、時間も物も粗末にしない、その場をご披露していただき、そして官邸前に行ってきたのよ。とさりげなくおっしゃるのです。そう一昨年の5月18日集会ででしたか、ご一緒した時から、お味噌のお願いもしたり、不思議ですね。やはり大切なご縁だったのだと、一緒に行った方々も思ったのでしょう。
 そしてまた話に出た、韓国交流で教えてもらった、お豆を蒔くときの教え、「空を飛ぶ鳥の分、地面の虫の分、人の分」このことばを確かめて、心満ちて戻ってきたのでした。
 だから、早朝、虫すだく中、雨の降らなかった畑に行きます。教えてもらっているのです。鳥にも虫にも。そして植物にも。茎だけになった大豆も、また葉を出し、小さな花を付け莢を持っています。
 しかし、また鳥も虫も寄ってくるのでしょう。おこぼれがあれば、取っておきましょう。




2013年8月19日月曜日

冬が来る前に


 
 そう、もう風は秋の気配でやってきます。
義弟が土日と泊りがけできたので、今まで家の事、周囲も必要に迫られての買い物だけしか出ていなかった私たちは、日曜日の午前中に甲府の周りを車で観光してみました。出発はお定まりの武田神社。躑躅ヶ崎館あとでした。そのお堀に夏もこっちで過ごしている白鳥がたった一羽だけいました。義母は何を思っていたでしょう。皆で亀がどれくらいの大きさとか鯉が見えるねとかの中に紛れた白鳥です。
 それとも北へ行かず仕舞いの白鳥はもう一羽いるのでしょうか。お掘の泥水の量も少ないようです。鬱蒼とするというイメージの社の境内の地面も干上がったようなこの夏です。先日、お盆供養に参加した集まりでは、今年は暑さと雨不足で雑草も枯れていると話が出ていたと言います。武田神社の中では能舞台で一の谷の稽古がされていました。
 長禅寺というところが中央線から見えたので行ってみたいと寄ります。武田信玄が建てた母親のお堂がある臨済宗の寺。同じ人の子として生まれ、同じ人の子の母親であり、それぞれなのです。人の幸不幸はどのような秤でもはかることはできないのだろうと考えます。連れ合いと義弟。義母。私も10歳から知っている人たち。
 一旦戻って、なんだかんだ大騒ぎしながら、お稲荷さんの昼食。静岡の抹茶羊羹の意外。
義弟が帰ったあとは、寒さに備えての薪づくりです。途中に里山の大豆の見回り。昨日連れ合いが寄った時に較べまた啄まれているのです。四六時中畑に張り付きますか。そうもいかない。
 
 日中の暑さのピークは避けての薪切り、秋にはストーブの火入れで、少し薪を買い足す分も考えていますが、できる限りは用意したいのです。もう夕方には、空が高く、汗ばみ方が盛夏とは変わりました。まもなくこの作業場にもコスモスが咲くのでしょう。一時間半ばかりの作業を終えると、成りすぎたので持って行ってという夏野菜。この夏の輝きをとどめてはおけません。

2013年8月15日木曜日

中央市与一公祭りの花火

 
 
 昨夏は義父も一緒に庭で見た花火。義母がグラウンドまで行きたいというので、ゆっくりと連れ合いが手を引きながら歩いていきます。車で来られる方々も多く駐車場も取れそうもないし、かえって面倒だからといい、歩けるでしょう。本人が行きたいと言ったので頑張っています。この体育会系母息子。ぶらぶらと後ろからついて行って、なぜか立ち見ではなく椅子を譲ってもらえました。
花火の前の踊りと歌謡大会はパス。夕食を終えてのんびりと見れたのです。夕食時にはテレビのニュースからだったでしょうか、義母と敗戦の年の8月14日と15日の大違いを話してもらいます。14日は、敗けるなんてこれっぽっちしも思っちゃいなかったんだから、それが一日明けりゃあんなことに。。その食卓のある台所は通りに面していて普段から通行は多いのですが祭り会場に向かう車がエンジン音を響かせています。お義母さん爆撃機が頭の上を飛ぶ音って知っているの。もちろん。あんなもんじゃないと手振りで外をさします。
 そう私たちの国は、今ではよその国の軍隊の爆撃機が国民の頭の上を飛んでいる国。
それはまた脳裏のどこかに置きながら、復興支援だ東北応援だという花火も上がる夜空。魂や、鎮まれ。この花火に乗せて。義母を支え家に戻りました。我が家はお墓の都合で初盆が来年に延びています。
 明けて15日。やはり早朝畑に出かけたくなってしまいます。面白い。ここまで突っつかれて、同じ生き物としてこの大豆たちがどうなるのか。しっかりと見届けたい。花火を見ながら思ったのは、自分の親と花火なぞ、打ち上げ花火なぞは観た事もない、たった一人の兄妹だった兄とも観た事もないのに、今この土地で、これからも、ここを住処として夏をすごし冬を迎え、春が巡りくる暮らしなのだと、さて秋の実りがあるのか。烏の濡れ羽色じゃなく烏の濡れ衣?畑の前の坂道を毎朝散歩やジョギングする人たちとも、この二か月で顔なじみです。却ってその人たちがショックだったでしょう。と畑の様子を慰めてくれるのです。カラスじゃなく鹿の害かもしれないよと。!ええ、でも売るわけじゃないし、一年目だから。でもショックでしょう。ええ。ショックです。
 義母たち、私の親達世代が生きのびてきた、この国。どう立ち向かってきたのだろう、その一日での落差に。人はどれだけのことを抱えて生きていくのだろう。私は母の骨箱をまだ抱えていくのだろう。それもカラス大先生にはアホーと。魂や~。
 
 
 


2013年8月12日月曜日

踵の美白

瓜は、なんと今日も暑い日でした。夕方水撒きをしていた連れ合いが、チョットと呼ぶので行ってみると西瓜が一個、実が割れているのです。しっかりとお日様の力をもらって中から割れた赤い小玉スイカになっていました。ずっと薄甘なもので我慢していた義母もこれは食べられるねと言って食べています。これが5個目。まだ10個あまりが5本くらいの蔓になっているのです。しばらくは西瓜任せに食べ頃を測りましょう。お世話になっているご近所にも差し上げられる見極めができるといいなぁ。
 今朝は蜂に刺されました。富山生まれの祖母が蜂刺されにも血止め草を揉んで当ててくれた幼いころの不思議を思い出します。湿潤な木々に守られた、池を幾重にもめぐらせた山の中でした。
今は、すっかりカラカラの川の畔。それでも、西瓜は乾いた地面からこんなに水分と甘さを吸い上げているんだと、西瓜がスイカの味である不思議を思います。同じ地面でもトマトはトマトに茄子は茄子に育つのですから、ましてや同じ瓜なのにニガウリは、苦み走って実るのです。
西瓜、胡瓜は、その皮の水分を日焼けに当てて冷やしていたのも懐かしい記憶です。青い芝の海水浴に行けば山の緑陰から出た白兎のように陽膨れができていた痛み。
 今、家の直しで残っているのは漆喰の抜けた屋根瓦の直しなのですけれど、先日見積もりに来た屋根屋さんは、この気温だと屋根の上は60℃超えているから仕事終わったら足の裏に胡瓜の擦りおろし貼り付けて冷やすんだと言ってました。
 足の裏も、大変です。そうそう、五本指ソックスの素材が変わったからなのか、忙しすぎたのか、今年の冬から文庫番の踵はカサカサ、ガサガサしたままです。え、更年期。。。
 まあいいや、肌が変わったのか、条件が変わったのか、他人様には見せられないまるで手入れのしてないお肌。なんでもいいから塗ったくっておくのよと、言われて、一晩にして閉鎖されていた化粧品工場の古いホワイトニングクリームを擦りこんでいます。西瓜がいいかな。ともかく、都内では集中豪雨でも、この盆地はお湿りにもならない状況で乾いたままです。烏が畑の大豆を啄むのも猛暑の中水分を摂っているのかと想像したりお人よしゴンベです。そうまだらなのはホワイトクリームを塗っている踵じゃなくって、雨降りの様子。バロンがのし歩くのかもしれません。

2013年8月11日日曜日

ウリウリガウリウリニキテウリウリキレズウリウリカエル

 今朝はお隣にお声掛けして庭先に伸びた小玉スイカの蔓の中から実を選んでもらいました。差し上げる分です。我が家用のも一個、さて、また早かったようです。でもこぼれ種からですし、庭・先なのですから、マルチ変わりに伸ばしてる蔓です。その並びの藤棚の支柱の間に張ったネットではゴーヤがだいぶ育ってきました。
 そういう時間を過ごして、連れ合いと車で大豆の里山畑に行ってみると!!今朝は早朝草刈りには行かなかった。。昨夕遠雷とともにカラスが騒がしかった。でも40℃。大豆の伸びていた青々とした葉っぱは、また啄まれていました。まるっきり葉っぱの無い畝もあります。二反。
 補植後に出ている芽は少し残っています。
わざわざ、連れ合いと行ったのは、昨日まではあった葉っぱの中に幾つか莢があったから。見せたかったわけです。あれ?連れ合いが主にする畑だったのでは・・・そうは言っても、私が大豆をと言いだしたのですから、それは私が草刈りも補植も、この斜面の水源は離れていますから水遣りはしません。マルチの上の茎だけに花のついた大豆の姿に、最初の年だからと連れ合いは言います。せっかくテグスで防鳥を教えてくれる便りがあった時に、一緒に来てくれなかったと愚痴りたくなりますが、どうも連れ合いも私のいう事がわけのわからない時があるようです。テグスを知らなかったそうです。
 こうなれば仕方ない。それでもここで、一年目は仕方ないと言ってくれればそれが救い。小玉スイカのお隣からお昼に食べてとピザが届きました。義母はちょっと食べました。
 さて、昨日に続いての40℃超えなのですが本日も、薪の用意をするために午後はでかけます。これは、私たちの移住前から地域の里山再生をしたいし、ストーブの燃料を確保したいとニ三軒で薪割りの仲間ができていたところにすんなりと声かけてもらって入っているのです。文庫番の家の三軒隣は郵便局なのですが、その局長さんが、窓口で、増田さんのところストーブをつけるみたいだけど薪はどうするの、と声かけてきて、え?と言う話から、土日休日の作業に加えてもらった状況ですが、出遅れている我が家は真夏のこの時期に薪仕度です。終わる頃、ニガウリは食べますかと聞かれて、ハイと応えましたら、ニガウリだけでなく、夏野菜を沢山いただきました。
 夕食には、先日新宿で食べたいくつかの料理を試します。冬瓜の擂り流しに始まってニガウリの甘酢漬け、オクラの酢味噌そしてニガウリと茗荷は天ぷらにします。茄子の素揚げ。お漬物はべつのご近所からの青瓜の糠漬け。夏野菜大作戦が済んで、台所片付けついでにニガウリ4本は刻んで干し網で物干しに干してあります。そういえば熊本に行ったレポートで干しニガウリについて書かれていたのがあった事など思い出します。胡瓜、茄子も何とかやっつけました。瓜、行ったり来たり。お金じゃない。ウリさんは福岡でのSNSの友人でしたっけ、あの時のお会いした人たちが、皆優しくそれまでのネットの中だけのお付き合いを飛び出して後悔しない人たちだったから、今も、支えになってくれているのだと、お金じゃない。。ウリウラナイデウラギラレナイ。

2013年8月7日水曜日

まばらな雨


昨日は新宿での小さい打ち合わせが重なって、夕方の雨を見ながら小一時間、空いた時間を雨の中を帰る人々をCafeの窓外に見ていました。大勢の雑踏。傘をかわすように仕事帰りの夜に向かう人々。
 同じ日の朝は、やっと出揃っていた大豆をまた烏がついばんでいる畑に居て、一人を感じ。夕方は都会の息苦しさの中でまた一人の時間を過ごし。
 里山の畑の中にいても、新宿の帰宅の人混みを眺めていても、同じ日に広島でも福島でも沖縄でも経産省前でも、もっと多くの場で平和を求める声もあるのに、繋がっているのだろうか。
自分の中では、文庫番の日常は確かに、今こそその地平を歩みだした感覚はあるのですけれど、スクラムを組めるわけでもないし、座り込んでいるわけでもない。この雨は色は無い雨なのだろうか。黒い雨ではないのだろうか。
 でも、同じ日に重ねた別々の三つの打ち合わせが、最後にお土産の味噌をもらって、一つに溶け合うのです。
 私の日常。それはまた、別な誰かの日常もいとおしむもの。暮らしの手仕事であり、台所で繋がる。そう言っていた自分は過去のものでもなく、遠い未来に居るわけでもなく、この雨の降る夜を過ごしている一人なのです。それを言える人たちの会議ばっかりだったと、お味噌が教えてくれました。
 新宿では夕立だった雨は、甲府を過ぎた誠園にも大豆畑にも僅かなお湿り程度だったようです。
 
 
 
透明な雨がまばらに降る8月6日
 

2013年8月4日日曜日

開墾の写真と呼ぶ


 
晃ちゃんと松ちゃんに見えるけれど、古い写真。

 金曜日、早朝大豆畑の草刈りとまだあきらめない補植の種まきをしながら、烏の声を聴きます。
もうすべて適わないのですから、逆に新参者の机の上しかいじらない私に、教えてくれている「カラス大先生」と考えることにしたのです。ともかく面白い。生産性は無い文庫番。出来も度外視してともかくやってみる事。隣の畑のおばちゃんが、まだ種があるんだったら蒔いてみれば。もったいないじゃん。といった言葉に救われて、農事暦も知らないからできるのです。
TPPですって。オタオタしないことにします。もちろん徹底抗戦の先頭に立っている畑だと思っています。けれども、出来高も質もカラスに学ぶばかりにします。すなわち例外なきと言われるけれど、同等に見てもらえるのか文庫番だから。

 そうすると、先日の横田さんの法要に携えた母の資料の中のこれらマハラバ村の写真がどれほど意味深いか。
 その席でも話したのですけれど、あの頃の農村は、ゆとりがあったということ。いきなり地方の一つの村のその中の集落の古寺に大勢の脳性麻痺者が集まって、自立だ解放だと論じているけれど、その社会保障をどうするのか、近在の住民たちも気になっていたはずです。どの家も、金銭的には豊かであったとは言えない農村の中で、この共同体を受け入れる度量があったこと。個々の人々をまだ私が茨城に帰ると郷里の人たちは消息を尋ねるように、一人一人の障害も人柄も、そこに像として残っているのです。
 そして、当時は、皆すなわち障害者も健全者も、身体性を共有していた、だからこそ、この写真が許されるわけで、今の高度な福祉行政と市民社会の中であったら、重度障害者虐待とも言われかねないのではという写真。
一輪車をバランスとりながら扱い、篠竹や笹に覆われた斜面をスコップで掘っている。
 でも、この一枚以外にも彼ら彼女らが、籐椅子を作っていたり編み物機での講習を受けていたり、例の鶏を飼っていたり、台所も皆で当番になって、自らの意思でその場に集まった人々。その象徴のように思えた写真です。おぼつかない社会への一歩でもあったけれど、マハラバのコロニーで、父性としての和尚さんが居て、母性としての奥さんが居て、そこからも自立を願って。
 実際の大仏(おさらぎ)の家族として、今私は、持っている写真の整理が始めることができるタイミングで少し早目ですが古びたものを出してみました。
 あの頃の、そういうまだ身体を使っての農作業が当然の時代に生かされていた・生きていた脳性麻痺者をはじめ障害者たちは、存在が社会を構成していたのだと、むしろ今の時代よりも。
人間としての存在を取り戻せるのだ!そういう実感を私は、早朝の僅かな烏からの学びで思うのです。土に触れ大気とのやりとりを体感する。きっと連綿と続く人類史の中で、排除ではなく受容を私たちは知っているはずです。豊作もあれば凶作もある。上手な畑もあれば見ちゃいれず声かけてもらえる畑もある。その中に、工夫して餓えない分かち合える文化を世界中それぞれの地域で持っていたのです。だから、オールディズの写真に見える中に意味を持たせられるのです。
 季刊福祉労働にマハラバ村時代の横田さんの写真を載せたいという事だったのです。
文庫番はこの母の資料整理を急がないと。新しい軸が見えているのだから。