2020年4月28日火曜日

その男・・・



  御多分に漏れず、外出をしないということで、籠り気味なので読書。
「愛情はふる星のごとく」上、下。私にはこの時代の諜報活動は今の時代よりもさらに謎だから、その点には興味が無かったのだけれども、手にしたあとがきに、旧茨城三区の風見章の文章があったので、母に渡してあったものなのです。
 母には、母のさまざまな思いの中で読んだことだと思うのです。あまり風見さんの事は語らなかったのでした。細田さんや池田さんは父も先生と呼んでいました。
 今頃、こういう状況で、あとがきだけでなく、内容も読んでみているのです。著者の処刑された後にご夫人から出されている書簡集ということで、息詰まるような時間が判っている中でのやりとりです。
 戦前の知性とか教養とかを改めて読む思いですが、第一級の見識を持っていたのでしょう。事件の真相については読んだからといって解るものではありません。一番感じるのは、尾崎秀実が家庭教育ということにどれほど思いを降り注いでいたのかという事です。
 その責任が父親という立場にはあるという思いがひしと伝わるのです。
 今の時代に、競争原理のレールの教育だけを子どもに与える家庭が多く、学校の休業で、ついていけなくなる、という心配をしているのとは、以前の家庭教育の重みは違っていたのです。
 せっかく、学校が休業となったのであれば、大きく歴史や社会の見方も含めて、いやな言葉だけれど子女に与えられる親がもっと居てもいいのにと願います。
 ラナンキュラスの花が咲いたのを見て、どの花もしっかり咲いていると眺めながら、花は人間の顔をどのようにみるのだろうとふと思いました。花から見たら個々人の違いなど関係なしに、「人間」なのでしょうか。
 ついでにてんでな向きで出てきたウルイの写真。文庫の庭には三株のウルイ(ギボウシ)があるのですが、この二株は今までとは違う場所に移し替えたら、新芽の出方も面白いのです。間違って鈴蘭かとどきどきしていましたが、ここまで伸びるとウルイに間違いないようです。

2020年4月7日火曜日

4月7日の空


 あの日から8年経って、本日も桜の花が麗らかに、あちこちで咲いています。母の命日。
うちの床の間には生協で買ったマグネット式の手拭を掛け飾りにするのを使い、閑居山の摩崖仏を、小林画伯に炭拓で採ってもらったものを下げました。父の一周忌にと母と相談して摺ってもらったもの。
 今でも持って居られる方もいるのでしょうか。そもそも県指定文化財だったのですけれど、こういう使用は任されていたのか今となって、不明です。
 閑居山の一部、庫裡に続いた山地を母は国からずっと借りていて、母が亡くなった次の年にその連絡が、笠間の森林管理事務所から来て、連れて行ってくれる人が居たので、状況を兄に伝えたのですが、意に関せず。そのまま私が母の気持ちを受けて借り受けているのです。もうやめようもうやめようと思いながら、8年。母の命日に合わせたように来る納付の通知は、笠間ではなくなり前橋市の関東森林管理局からになりました。
 あの年に、お母さんが大変苦労して守っていた。と話してくれた電話の向こうの係の人ももう退職されているのでしょうか。
 山は荒れ寺は廃れ、人は・・・また春を迎えるのでしょう。

2020年4月1日水曜日

新年度



 4月1日が来ました。なんだか新年度を文庫稼業も迎えていて、もう少し身を入れて、マハラバのマハラバたることを考えなければと思っています。
 3月に倉庫作業をした中に、書籍に挟み込んであった当時の資料が幾つか出てきたのですが、すでに青い芝の会のホームページや、小山氏の著作でも出ている、青い芝の会のチャリティショーの資料がありました。初代会長山北厚さんの名前での趣意書と、応えてくれた出演者・・。。
 そうだったのかコロンビアレコードの関係だったのかと、その時幼いままに、観ていた私は記憶との合致を思います。
 これら出演者を観て、まだ存命だった祖父母にも喜んでもらえる花柳社中の踊りの真似事などをしていたことも思い出します。そして山の中に、当時の人たちの歌声が溢れていたことを。ほとんど一緒に家族も、共同体も、そして青い芝の人たちも動いていた中に幼い私は、尻尾のようにくっついていたという、記憶だけだったものが、辿れたことによって朧げなものが少しクリアになる資料なのです。今回の書籍調査については、父の宗教思想についての確認作業が主眼であり、また蔵書の目録作成ができればというものですが、障害者運動との関わりも見ることができました。
 このチャリティ・ショーの会場について文庫番が母に訊いたのと、他の人が記しているのが同一されていないので、今年はじっくりと調べてみようか。など新年度らしく抱負。
 幼いながらに、出演者がチャリティに応じてくれていたという事を聞いていて、意味は大人になった今でも、本当に理解できているのか文庫番の未習熟を思います。この世代の人たちが、差別を取り払っていく同列の仲間であったのだと改めて思いたいのです。
 山北会長の文章を読むほどに、津久井やまゆり園の事件に対しての、過去からの叫びのようにも読めます。
 自分の中での幼いフールとなってはいなかったという安堵を得たものでしたので、4月1日にアップしておきます。
 あとは過去に委ねるのではなく、自分の仕事としていくこと。


追加(趣意書)
脳性小児まひ者支援チャリティ、ショーについて
                        脳性小児マヒ者福祉協会
                           青い芝の会
                           会長 山 北 厚
いかに意欲に充ちて居ても身体障害者の自立厚生は容易でありません。なかでも運動の中枢を冒され手足の動作、言語すべてに自由を欠く脳性小児マヒ者の場合は、殊に至難であります。その上 脳性の名と言語障害から、知能的にも劣って居るかの様な誤認が伴いがちなのです。
 故、白土展子さんも、この脳性小児マヒ者の一人でした。が、この度 遺作となった詩が関係各位の御好意によって歌謡界にデビューする運びになりました。私たちは同障害の友として運命の兄弟として、若くして自からの命を絶たなければならなかった故人の心がとても他人ごととは思えずこれだけの才能があったことを世に問うて、あわせて私達マヒ者と云えども優秀な能力のあることを示して、広く脳性小児マヒに対する誤認を改める資とし、あわせて脳性小児マヒ者の厚生基金獲得の一助とする為に、作品発表後援会を催すことになりました。
 なにとぞ右の真意ご明察の上、力強きご支援を賜りますよう御願い申し上げます
  
 昭和三十七年五月三十日