2013年3月29日金曜日

里山再生と食の安全を考える会にて


木の子のうた  原木椎茸会議に寄せて (二〇一三年三月二九日)

 

 ほら、まぼろしの味

 そう言って出されたものは、秋の山登りで採った

 煤茸の炊き込みご飯

 煤茸 香茸 猪鼻珍しい

 二〇一〇年の秋の恵みの御福分け

 これが、私たちが食べてきたもの、福島の飯舘のもてなしは

 もう二度とは採れないんだよ

 母さん方の、切ない笑顔に隠されて

 それは木の子の誉です

 

 木の子いったい何を考え、育ってる

 木の子、木の親の背中を見て育つ

 黙って見ているその姿

表っ面は、剥がされて、芯に残った生き方も

 先々、健やでいるだろか

 親は親として精いっぱい、水と大地と対話して

 清涼な、大気の蘇生を託されて 

 木の子よ伸びてけ、思いのたけ

 

 斜面に足を滑らせて、朽ち葉の匂いに

 冷や汗、脂汗にじませ、踏ん張って

 続けて来ている山仕事

 確かな(あかし)があるならば

 多くのものに分けてやれ

 知恵なら、多くの仲間と語らって、寄せ合う中に

 ひょっこりと、己が姿で出てくるぞ

 木の子、木の親、声合わせ

 

 呼びかけます

始原の木々の父祖である

白亜、ジュラ、カンブリアと地質時代を遡り

大いなる、生命(いのち)の樹である御方に

相対の、岩なる大地の鉱物の

この惑星の同胞と、語ったことばは甦り

苦難はともに乗り越えて

願いを繋いで子子孫孫

母さん方の、笑顔が明るく晴れるのは

まぼろしにはしない、木の子の誓い        
                          
                                                                                                                                                                             

                                    マハラバ文庫 増田・大仏・レア

2013年3月25日月曜日

不忍池で


 今年の桜をここで観ると、またお江戸と距離を取り難くなります。今日は、子育て時代の、同じ幼稚園に通ったお母さん友達との雨の上野公園、不忍池。引っ越し前に、懐かしいお話をしました。池の面には雨の紋があり蓮茎の群生に続きます。ぐるっと桜並木は公園の中の花見の場所取りをしてあるところより、人が若干少なく、お互いに写真を撮ることもできます。子育ての時なら動物園は入るのですけれど、おばさん三人は、今はゆっくり観ることのできる花も雨も、自分の目で楽しめます。
 家族の事、年齢という事、暮らしの様々、子供によって取り持たれる地域の縁。今はそれぞれが別のところに住むのですけれど、共通する話題。下町風情のお蕎麦屋で五十肩と言ったら、まだ若いわね。と。 ちょっとお姉さんに言われます。面白い。
 人生は故郷を語り、子供を語り、衣食住。同じ時代を過ぎているこころ易さに、名残り惜しい時間でした。場を移してのティータイムはそのまま夕方仕度の時間にもなりますが、気遣う事も、それぞれの家で待つ人のご飯だけになっています。

2013年3月23日土曜日

現段階で

 いよいよ、実行段階なのですが話し合っていても微妙なところは現場判断。そういえば辻褄があうのかもしれませんけど、振り回されています。
基本的にダイニングに続いた押し入れを抜いて・・でももともとの持ち主の設計も、それなりにリフォーム段階で時代や、好みをうかがい知ることになり、活かせることと勘案しなければならないことがあります。中古物件を購入しそこに合わせて住んでいくにしても、都県を変えるのでなかなか進んでいませんでした。
ここを通しにする為には、入れてあった母の資料を、また動かさなければなりませんし、今後はコンパクトにしてここでも断捨離です。一年の喪を経ることでこころの整理ができることが、物の整理にもなると思うのですが、場所を占める物はなかなか減りません。そしてこころを占める部分は、どうなのでしょう。楽しい会話を多く残すようにしたいと思っています。
結局、私も含めた老人世帯だけでの引っ越しとなるのです。
さて、前の持ち主の食器戸棚は、壁一面にあります。良ければ使ってという事です。そうすると、今の住まいにあるのは、数年前のリフォームでの注文だった食器戸棚ですから、それなりになじんでいるのにです。さらに、前の持ち主のサイドボードをわざわざ引き取ってきました。その際に、建てた時の大工さんを紹介してもらってあって、工事が始まったのですが、地元の様々な関係業者さんがご近所に居るのです。有り難い反面、丸見えの気もします。
丸見えと言えば、戸棚に影の映っている人物が、義母と私にいやに力説して、私たち二人が顔を見合わせ大笑いしたのは、男性用のお便所小部屋は要らないじゃないのということへの反撃です。知らないだろうけれど立ってすると・・・・。そんなの知る訳ないじゃない。もう爺様も居ないしね。と女二人は思うのですが、もともとの家の造りにあるのには訳があったと納得。雑巾沢山縫ってあるから、各自お掃除しなくっちゃね。と収まります。
予算の関係があるので、当座のリフォームで引っ越しし、幾度かに分ける部分改装です。今の住まいは、中途半端な準備で物がごった返しています。

2013年3月18日月曜日

呻吟

まことに、苦しいのですよ。ついつい、これは書かなければ。この事を、新しいことばに表さなければ、いえ、私が新しい詩を書きます。って言っちゃった。。。
あれ以来、頭から離れていないのに、なにやかやに追われています。もちろん、味噌も仕込みました。出かける先への電話もしています。
苦手な人集めも、ほどほどです。
連れ合いと義母との、移動準備も進んできています。
 それなのに、浮かんでいる言葉を継ぎ合せて、流れをつくって韻を響かせる。
すらすらっとできる時もあれば、温めておいたものが花開くような時もあるのに、この難しさ。
期限は迫ってきます。徒に他人様の言葉を読んだりしてはなりません。くらしのことばは誰でもが使うもの、どこかで出てくる本歌取り。それだからこそ、一過性。
それでも、しっかりと母体を捉えて、新しい発芽を促すような、そんな一篇が生まれたら。
そして、多くの人を励ますことができたなら・・・。それが文庫番のお仕事です。お蔵の中は文字ばかり。

2013年3月13日水曜日

ノバホールにて

つくばノバホールでの神田香織講談公演 主催 脱原発ネットワーク茨城に行ってきました。午後からですので、お昼を済ませてマハラバ文庫の幟を持って。。。コンパクトなものですが。
昼の部、福島からの報告・立体講談はだしのゲン。夜の部 福島からの報告・立体講談チェルノブイリの祈り。そこにたまたまのご縁で知ることのあったお母さんたちの活動のご紹介をすることにしたのです。エントランスロビーでのチラシ置きに、英訳本の展示。少しばかりのマハラバ文庫の書籍販売。
 50肩ですからね。先日の伊達東の公民館で人参エゴマ味噌和えのお皿を取り落しそうになったのはこの肩が。。ですが、展示用のはだしのゲンは10冊揃い、そして足代くらいを販売したい我が社の本も。ガラガラと引っ張っていきます。東武線もつくばエクスプレスも便利なものですね。エレベーター使用にすると楽ちんでした。バリアフリーを実感。
ノバホールは駅からの利が良いです。ここは一昨年の3月13日に常磐線も途中で止まり、バスや常総線を乗り継いで着いた駅です。あのときの異空間から、日常の風景になったのかと、それともあれ以来空間のひずみがあるままなのかと思ったりしながら中に入ろうとすると、坂本さんがいました。良かった。今回のお願いをしたのはネットワーク500のお便りが来たことからです。ロビーには他団体さんも多くでているのに、割り込み場所を使わせてもらいます。実行委員長さんに挨拶しただけで良いのかしら。こういう催しものの受付の様子は主体的な関わりはしばらくしてなかったです。実行委員会形式での開催。取りまとめ、手配、諸連絡、そして当日運営という大変さなのに、置かせてもらってありがたい事です。そして、懐かしい人たちに会えます。良かった, お元気だった。そういう人たちが、また微かな商売の助けもしてくれます。
こころを支えてもらえる。お互いにとなればいいなと、あちこちで集めてあった霞ヶ浦の署名をお渡しします。そのうちにマハラバ文庫のホームページにリンクしますか。霞ヶ浦の天然ウナギと美味しい蓮根を安心して食べたいのですから。
 そのあたりの準備も済んで、開演前の入場者に、チラシを説明してお渡しします。演目がはだしのゲンですから、反響は良いです。皆さん、良くご存じです。脱原発関連の資料が多くあるテーブルの中なので、そちらもお渡しできるようにしたいですが、若干現金箱がありますので、場を離れ難い文庫番。ロビーにも中の講演の音は流れてきます。胸に迫る思いはあるのに、この場でゆったりと落ち着いているのは、ここが、居ても良いよと私に言う場だから。
その一言を、その感覚を欲している人たちが大勢居る。神田さんの伝えたい事、福島からの報告。そして、この地球上に多くの居場所を求めている人が居る事。
わたしは、運動の中に生まれ育ったのだと、あまりにもなじんでいる事を感じます。間違っても株式会社代表なのですけれど・・・・。あらら、味噌の里親プロジェクトのチラシも、出展者同士のやりとりで渡してしまいます。これで、売り上げ確保はできるのかマハラバ商売。そうだよ閑居山に関わった人が儲けようなんて思うわけないだろ。昔馴染みのいう事がその通り。
夜の部では、ホールの中の座席にも着いて、チェルノブイリの祈り。一部お聞きして、またロビーへ、終演後、片付けしながら、実行委員会の記念写真の中にまで入ってしまいます。良いのかしら?

お母さんたちが、この漫画ゲンという男の子を世界に紹介したいと思ったというそのご紹介。
「『はだしのゲン』をひろめる会」では各国語訳のための活動をしています。書籍申込み受け付けだけでなく会員登録も受け付けています。
はだしのゲンをひろめる会

2013年3月11日月曜日

悉皆

昨日は、煙霧という気象状況だったとやらです。東北道を飯坂ICに向かうマイクロバスの中で見た、舞い上がる砂埃の行進はそうだったのですね。真昼の禍々しさ。三月十日の大風も3.11の得体のしれない原発事故の影響も、その中に投影されるような思いで見ていました。68年前と2年前。
知らない68年前ですが、その朝を毎年義母と語ってきていました。でもその太平洋戦争を生き抜いた世代が、語れなくなっていくのです。
阿武隈川を渡るあたりから、風は強さを増して、バスも横揺れが激しくなっていきました。そして、伊達東の仮設住宅隣の公民館に天ぷらバス(天ぷら油の廃食油リサイクルバス)で着いて、そこではふんわりとした暖かい空気が出迎えてくれるのです。公民館の調理場から漂ってくる、懐かしい焚きたてご飯に、お汁の匂い。バスの中から、もうガラス越しに広間に用意されていたお漬物が見えるのです。ご飯にお味噌汁、漬物くらいなら、たっくさん拵えて待っているから。ああ、そのことば通り。なんて清浄さを感じるのでしょう。エゴマ味噌和えの香りに。
 これらの食卓をともに食べる。共食です。ともに創り、ともに食べる。そこに集う事。それだけで良かったのです。そして、そのことをどう続けていくことができるか。
以前に似たようなレポートを書いたことがありました。「私が作った食べ物なんだから。安心して食べられるの。」その一言が、どのようなトレーサビリティよりも安心を保障できるのだと。あれは遠い夢になるのでしょうか。そんなことはない。お母さんたちが大勢集まって、せっせと準備してくれる。そこにある安らぎ。までぃな暮らし。
味噌で受け継げるのです。伝えていくのです。数世代先までの継続で。
2013年3月11日。墨田区内、今までの年月で関わりの深かった方々にまた、味噌仕込みのご案内を配っていると2時46分を迎えます。
一昨年は、明けた朝に、これらの道路は横道にも車が多く、まだ所在の解らなかった母の居た茨城に向かうには常磐線は不通となって・・・・・。ああ、それもまた遠い夢。今を生きる私
先ほど手渡したり、ポストに入れたチラシで、参加してくれるでしょうか。
明日は、つくばに行って、少しばかりの本と、そしてご案内をしてきます。それははだしのゲンの英訳本の事。マハラバ商売はどうなっているのでしょう。昨日も背中に背負って行きながら出せなかった。またそうなのです。いつも、そうです。でもそれでも良い。亡くなる前の頃の電話で母と話したのはあんたいつから、そんなにものを売らなければならない人間になったの。その言葉。
思いもよらず、だって、、と抗弁したのですが、どこかで、そうなのよね。本当に必要なのは、ものを売る事じゃないのでしょう。とうっすらと思いながらだったのです。
昨日、最後に栄子さんは復興じゃなくて。と言いました。以前と同じまやかしを発展だとはしない、発展・・・。人を押しのけてある幸福を成功としてはならないと。そのための、味噌仕込みにしていくのです。
煙霧の後、は拭き清めて、チラシ配りからもどって箪笥の整理も窓を開けしました。だんだんものを減らしているのです。衣類の汚れも落として丁寧に使いたいです。悉皆屋。そういう言葉は今はあまり聞かなくなりました。洗い清め、染みを抜き。新しくなるのです。

2013年3月2日土曜日

誠園

 誠実に土に親しみ、そして・・。義父の法事を済ませました。子供たちもおそらく初めての心経を唱えて。義父は誠園良徹となって新しい庭畑に一緒に行くのです。
そこには、マハラバの芝も周りに植えられて、踏まれても踏まれても、青く芽生えてくるのです。そして根を延ばし、水を吸い上げ。また大気と大地とのめぐりの中に、蒸散させていきます。12月、1月、2月と霜柱が立っていて、確かに霜柱評論家も任じていた文庫番は、サックサクの水の糸状態に踊るように踏み込んで、いつの間にか日向ではぬかるむ重さにも、これからの年月を覚悟しながら、この庭に一時置きしたにしても、適地適作を探りながらの面白さへの試みをするのです。それは凍ってしまったレモンの木も、水仙の球根も、耐えられるのかどうかを義父と母が残したものの魂ともして。流れのそばに集える場所を創っていくのです。なんと願いに当てはまる名前を戴けたのでしょう。
 12月、1月、2月。この二年は、自分も肥やしとなる覚悟をしてでしたが、それ以上に、先に逝くものたちは、文庫番の肥やしであったのでした。これらをもっと熟成させることが大切なのでしょう。いよいよ、準備に取り掛かると、連れ合いは言います。
  誠実であるということ