2019年7月29日月曜日

学習会宿泊人数Ⅱ

8月24日(土)シルクフレンドリーでのお部屋は女性のみ相部屋になります。

2019年7月27日土曜日

学習会宿泊人数

先に案内しました、8月24日(土)、25日(日)の学習会。
マハラバ文庫での宿泊は定員となりました。

2019年7月26日金曜日

選り分けるという事 7月26日



 選り分けて、ほんの指の先で爪で拾うような白い石も、置くようにしていくとおのずから、色の違う石を外側のエリアに出すようになって、およそ8カ月。白い部分の層は少しばかり厚みが出て、まだらであったところがほぼなくなってきました。
 怖ろしい事だと、思いながらあまり途中でやめる事もせずに日々石を拾います。同じ時間をもっと有意義な事に回していれば、他の人に迷惑もかけなかったろうに、傍目にはいわゆる精神的に他と交わりにくい人の様相を呈していたのでしょう。
 しかしながら、もっとおぞましい事は、選別しないと白い石ではない庭の小粒の砂とも石ともいえないものを、拾うのです。自然石には様々な色合いがあります。大きく言えば同じ白の中に赤味を帯びたものと、碧石のようなものと、一番多い灰色に近いものが、混ざっています。玉石混淆というほど優れたものはない石ばかりの中に、それぞれの個性があるにも関わらず、自分の主観で、これは赤いからダメ、この緑っぽいのも違う、グレーは一番たちが悪いなどやってはいないかと。むしろ、それらの微妙な色交じりの小粒に言い聞かせるように、白だ白だおまえはシロなんだ。だからこっちに置くのだからと、同様な色合いのものを寄せていく行為です。
 逆に灰色というか黒に近い小粒も、黒だ黒だおまえはクロなんだと外に出して、車の轍の中に埋め込んでしまっているその自分の選別に、どこかあまりにも人工的な庭づくりになってしまっている、それなのに、朝起きて時間がある時の習慣化しているのを、自分に許しているのが、いやらしい。
 すべてのものを受け入れて、そういう父母の結婚記念日であった7月26日。

2019年7月25日木曜日

ご案内

もたもたしているうちに、明日は7月26日。
もうそろそろ、こちらも梅雨明けしますが、ご案内をお送りしていない方へも見ていただければとアップします。
 8月24日、25日にあります夏期学習会のご案内です。

2019年7月6日土曜日

35年経って



 あの7月6日は、私は次女を妊娠中で、朝の母からの電話で連れ合いも会社を休んで、土浦にあった国立病院に行ったけれど、すでに父はたった一日の入院で死んでいたのです。
 母を病室から出して、自分で、身体に繋がっていたチューブのすべてを外して。
 さて、母が遺したノートの中にあった念佛義抄文 大仏晃阿弥陀とあるあとがきは念仏のし方。小さい冊子記名からは本当に父の若かったころの文章だと思えるものです。写しを作って兄にも送りましたが、兄に送る郵便物は受け取っているのかどうか、私には返事は来ません。先日は郵便屋もご苦労な事と閑居山を知っている人にも言われました。それもまたしょうがないばかり。
 父親が、追いつけない存在である時にその息子は苦しい人生を歩むものです。つい最近の事例は私には、親を思っても、その息子を思っても、辛くオーバーラップされます。
 それにしても、大仏晃の念仏とは、かくまでありなん。
 8月の末にこの内容を読み合わせられるようにしたいと考えています。

2019年7月1日月曜日

かすみがうらにもお城がありました!





驚きです!エレベーターはもちろん見当たりませんでしたが、私たちはもともと、当てにしていないわけです。
 田んぼの草取りの合間に茨城の歩崎で開かれている「小林恒岳と霞ヶ浦」シンポジウムに行ってきました。それは、一緒に時代を過ごしてきたのだから、敢えて講演を聞かずともというわけでは無かったです。多角的に霞ヶ浦そのものを語ってもらい、その中に画伯の人生と絵画に表されたものを、参加者に説明してもらうと、逆に私などは自分自身の人生にどのように霞ヶ浦があり、小林・硲さんたちとの家族同士の交流があったのかが読み込めたのでした。
 神立の駅からは、天海さんに、里内さんの家に連れて行ってもらい、文字盤トーキングを持参し、運転は阿部さん、介助は野間さんで龍史兄ちゃんも参加。4年ぶりだったけれど、みなそれぞれに元気で会うことができました。滋賀県の琵琶湖畔生まれの里内さんがどう霞ヶ浦の歴史を聴いたのか、また後日聞いてみたいですが、「マハラバ村建設から骨格提言まで」という茨城青い芝の資料をもらいました。
 歴史博物館内では履物を替えてとなるのですが、車いすって履物じゃないし、など考えていたら、受付のところでスロープが用意されていました。雨で濡れていた車いすのタイヤもタオルで拭いてもらって介助者はスリッパになって(押しにくくないか?)フロアーに入りました。どこかの国の首相に教えておかないと。
 今回、お便りが着て、行く気になったのは、歩崎での展示・企画講演だったということで、折本さんと父が出会い、そこから「青い芝の会」が展開していったところだったということが大きな要因でした。小さいころには周辺の者として、混ざっていた私だけれど、今、記録をしていくのに、その空気に触れ、土地に立つという生身での振り返りをしなければと思っていたところに、願ってもいないお誘いだったのです。小林家が高浜にあった頃、同人誌「辺」うちの二階にある母の資料にも入っていたけれど、きちんと読み返す時間がとれていなかったものでした。展示物になっていたので、ページをめくることはできなかったのですが、閑居山と高浜と、行き来した方々のお名前が、企画の随所にあり、自分も励まされ、夏の企画を早くお知らせできればと思います。
 ようやく、龍史さんとの確認が取れたので、一歩前進。