2013年12月31日火曜日

静かな年越し・・・

 激動の2013年はどうやら終わっていきます。昨年は母の喪中と言うよりは、12月に入院した義父が年を越せるのかどうか、緊迫する状況での年越し歳旦祭。
 今年も喪中となって、今までとはすっかり違う大晦日。お正月はしないからと言っていながら、若い人たちも来る。場合によっては、雪の長岡から出てくるかと、10人を超える食事と布団の用意に大掃除で、この数日は過ぎたのですけれど、最少人数の訪れとなりました。12月半ばから、長岡の叔母と義母が会えるようにしたいと連れ合いも思って、場合によっては、私も雪道走行する心構えで居ましたが、まだそのチャンスはきません。大雪の長岡に来るよりはと連れ合いのいとこがこちらに来る案もあったのですが、無理はしない事になり互いに高齢の姉妹は、雪解けの春には会おうねと電話で話していました。ちょっと気落ちしました。
 今年はお節ではないのですが、同じような人寄せの料理を準備してありました。連れ合いは墨田での年番。ここぞと物入れを開けてミシンを出して古布拡げます。
 本日ずっと煮物をつくりながら、針納めに台所の足元マットやテーブルセンター。古タオルの雑巾などミシンで縫ったりしながら、机と台所の行ったり来たりだったのです。素材は古くなったタオルケットと布団カバーの布など。母のものや義父のものが、縫い直されて新しい年への用意となりました。ここの家には、引っ越しするのと同時に、親たちのものを整理していくつくり直して整えていくという状況なのです。私の担当の古布整理は、なんだかんだと大晦日までかかってしまいました。
 ましてや資料整理なぞは、年が明けてからです。
 激動・・・したはずではなかったのか。こんなに、単なる月日の流れだけで、懐かしみ、少しばかりのつくり直しで気持ちを収めていけるのだろうか。それはおいておいて元旦だから。例年だったら浮かれるのですが、今年は慎んだままで新しい年を迎えます。
 
 

2013年12月26日木曜日

神様からのプレゼント


 文庫番のクリスマスを思い出すと、枕元にあったのは寺に潜むサンタさんがいろいろと考えてくれたのであったろう本ばかりの年どしでした。
 ある年も、無かった年も。いつの間にか、自分へのプレゼントよりも、世界中の子供たちの平和を願うようになると、すっかりサンタのプレゼントはなくなりました。
 決して豊かな寺ではなく、ましてや、大勢の他の眼のある中でのプレゼントは、一人のものとはならないのでしょう。もともと本とは誰かから誰かへの伝える道具。文庫番の家では取扱いを丁寧にするように厳しく言われていたものです。父は様々な包装紙を取っておいては本にカバーとして、本を読んでいる食卓にも湿気がないように台拭きは濡らしておかず、使う都度、濡らす程度で本に湿気が移るのを嫌っていました。そのような書籍の数々をそのまま仕舞い込んでいる文庫番。自分の扱いはぞんざいだけれども、他の人の読み方は気になったりします。ああ、まだ寛容には程遠いと。
 文庫といっても、まだ閲覧開放もできないただのパソコン文庫。それでも、父母の書類をまとめなけりゃ、自分の文章も上手になりたい。。。え?株式会社でしょう。って、そう一人の在り方として社会の仕組みの中で逆説として。それすらも、兄の構え、社会に対しての個であることを思うと、人格としてどうかとは別に、実に及ばない事だと思ったりします。
 庭畑に今朝大麦の芽生えを見つけました。この秋は、義母と連れ合いと続けて入院をし、慣れない薪の準備に追われていたり、間に合わないかと里山畑は、春を待つにしても、庭畑には霜は降りたけれども撒くだけ蒔いた大麦と小麦にすっかり諦めていたのに降誕節を経た朝。芽生えているのです。
 その隣では薪割りにすっかり傷められた芝も、これからの寒さを耐えるという意思を見せていました。どのような賢者の贈り物よりも、愚者の喜びよりも力を秘めてます。
 この、芽生える力こそ神様からのプレゼントに思えた朝でした。写真は義母がリハビリディから持ち帰ったクリスマス会のプレゼント。人生にはさまざまな贈り物が。
 

2013年12月22日日曜日

年月を洗って

46年経ったと言います。そうだったのかこのベビーバス。この数日とろとろ石けんや、アルカリウォッシュやらで、繰り返し洗って、年月は流せないけれど、そこに積もった汚れが相手に不快にならない程度には落とせたかと考え、白い袋に入れて赤いリボンで結びました。(リボンは甲府駅で失くしました)46年前の春に生まれた赤ちゃんたち。そうマハラバのベビーラッシュ。自発的共同コロニーから成り立ったカップルたちには、当然のことに子供ができて、そう、その歴史。物として持っていた文庫番は、それらへの執着も手を放していこうと思うのです。
 だって、横田弘さんの葬儀で、覚君のベビーバス、私が保管しているの。と言ったら引き取ります。って答えられ。全国青い芝の会金子会長に、その引き渡しの場を創ってもらいたいと言ったら、よっしゃ。解ったよ。となったのですから。もう私の責任は、引き継いでもらえたのだと思いたい。
 マハラバ村で季節を隔てず生まれた子供たちを、湯船を使わせていたのは、文庫番の母。そのお湯を焚いたのは和尚である文庫番の父。私と同じ山の水で、私と同じ山の薪で、このベビーバスで私の母に抱かれて。
 どうして健全者が生きているのか。それは障害者を、より弱いとされる者たちを支えるために。一定の社会の枠では生きていけないものが居たら、その枠を壊す力を与えるために。
 全国青い芝の会に九州から、関西から、そしてもちろん茨城からも、集まってきて、皆が立ち会ってくれたこの引き渡し、健全者から健全者への引き渡しだけれど、障害者同士の結婚から、新たな希望が生まれていくことを、物証であり、人個人としての証明であるとして、今を生きる。
 この事が、福島の、悩んでいるこれからの生まれ出るいのちへの後押しとなるから。そして、その事を地域の、周りの社会も受け止めているという事を私のことばで言う機会をもらえたのです。文庫番冥利。
 もちろん、その汚れは簡単には落ちなかったから、天袋にしまっておいたと言っても、下の娘が使った後はほとんど放置してあっただけのものだから、プラスティック表面に着色したように色が重なってしまっていたものを、風呂場で、スポンジで洗いながら、石けんでどこまで落とせられるかを、しなければ、私自身の経てきた活動の意味もないじゃないかと、ゴシゴシの数日だったのです。石けんで洗うという事は、科学的根拠を追わなくていい。いのちの流れを、継承を断ち切らないため。決して奇形児を産まないためになんていうことばじゃないと、暮らしの中に言い続けてきて。だから今味噌も台所で熟成できる。より安全なものを求めるという事は排除には立たない。どこかで、互いを認めることで安全を保障していくのだから。と考える私の経てきた事。
 今、新たな里山に近く、芝も移したところで、毎夜、毎朝、茨城の山を思い、忘れないとは何なのかを考え、そこにある自身の執着を情けなく思っていても、そんな文庫番が、その中から、伝えられることで大きな叫びとなっていく事を、この夜に確認したのです。


 
 
今の脳性麻痺者が、障害者であるというだけでお金がでるので、家族が囲い込んでしまって、そのまま施設で満足してしまい地域で自立を目指さないと、小山さんは嘆きました。
 
 まるで、青い芝が芽生えた頃と同じようなことばであって、そしてさらに、では経済で、人の在り方が保障されるのかと。これからの社会をこれからの経済の組み立てを、もういちど、健全者は障害者をささえるためにというところから考えなければならないし、真の自己存在というのは、役職でもない立場でもない、己が何物なのかを自分で言えないものではだめだと、もう一度叫ばないと。

2013年12月11日水曜日

ほっとする時間

 先日は、まるまる一日!連れ合いが義母と一緒に車で出かけていました。もとい。連れ出していてくれました。
 今、我が家は三人の主婦が居る状況。文庫番は一人なのに、台所に目が届くのは三人もいて、家内だらけです。ここに来て「きなり歳時記2007-2008」と「山仕事讃歌」を買ってくださる人がちらほらでてきて、さらに、もっと散文を書いたらなんて言葉をもらったり。仕事もしたいし、薪割りも面白いし。
 文庫番稼業は、フル回転でくたびれが連れ合いに見えてしまったのでしょう。お鍋の蓋を開けるのも一人でいいという時間ができたので、紅玉刻んでアップルクーヘンなど焦がし焼き。一人鍋も楽しんでしまって、書類整理はあまりできないままでした。その前日にプリンターでの作業が、台所つづきの事務所なるスペースでしていると、三すくみでささくれる気持ちが出そうだったのでしょう。出ていたのでしょう。こういう新しいレシピを試したり、端布で何かができる時間が、なぜか生み出すことができないと、家の中も錆びついた感じになるのでしょう。
 朝になってお母さんも行こう。と連れ合いが拉致。いきなりの事。

 ところで、文庫番ではなく主婦として家に居る人たちの多くの人たちがとても一生懸命な事あらためて、思います。あら、、主夫さんも。
 くらしをきちんと成立させるために、朝からの一日を組み立て、そのために様々なものを調達しした上に文化をちょっとプラスして、子供にもお年寄りにも居れば夫にも気配りできる。その毎時、毎秒でどこかすり減ってしまうこともありますね。果敢にそういう自分の姿を見ながら、より良い方向を探して皆発信しているようです。
 文庫番は、本来のマハラバ文庫からの発信が、中途なままこの半年が過ぎてしまって、実りもままならない中に、冬籠りの用意になって、ちょっとエネルギー補充が必要な状態だったのですね。
 台所に居ても、気が休まらない、いつの間にかお鍋の蓋が開く音が聞こえては、パソコンの前を離れたり、庭で薪を割っていても、集中しているつもりがつまらないことに氣を取られたり。考えればどうでもいい事なのに、テリトリーをつくって囲い込んでしまっていたのでしょう。
 そしてそんなに過敏でいるのは、また別な気がかりがあっての自分だと思うのです。どうにもならないことなのかと、少しばかりの書留で送ったとしても、底はなく。そして連れ合いには伝える機会がない。では、見捨てることができるのかと。自分にこれ以上の嘘がつけるのかと。国体の秘密なんてどうでも良い。己の地獄を見極めよと!そこに安穏があると!
 

2013年12月7日土曜日

人参・かぼちゃに牛蒡だったのに

昨日の中身で表現できていないと感じ、さらに考えているのです。
生きている甲斐ということばにしながら、食べるものにだけしか関心がいかないのは、つまらないじゃないかと、言ってしまっても、自由と不自由の間。できることは限られているのは解るのです。
しらばっくれているのが、解っていて、そ知らぬふりをこっちもできるほど人間ができていないから腹が立ったり、残念な言葉を発していて情けなくなる。
 自分で落ち込んでしまうところに牛蒡は焦げていきます。一日かかって柔らかく煮ていたのに・・・・。ここでもまた寛容であるというそれが見つからない。
 国会前の様子が伝わってくるとなおさら、鍋の底に(川沿いの葦原の穴ではなく)気持ちを吐き出していて。

2013年12月6日金曜日

たら腹食べながら

 美味しいね。幸せだね。と暖かい分け合いのものを調理して食べています。文庫番の勝手で。
釣った人も、産地も分かって、こういうゆっくりとした時間を味わえて、ひとつひとつの取り合わせも嬉しいのです。頭から尻尾まで、骨の髄までです。肝心な肝も使ってしまいます。
 そして、遠近の到来物。こういう確かな関係があって、それでもこの季節に、信頼ということ、確かめられる食べ物について考えます。
 信頼はどこから生まれるのか、互いに同等ないのちだと知った時に。そうなのです。そしてその事を忘れないようにし続ける努力が解った時に。再びの信頼になるのです。誠実であること、互いに足りない事をさらけだすことができてこそです。秘密とか嘘とかをずっと持たなければならないような関係であったら、寂しいだけですね。薄っぺらな関係というか。・・・この話はここではやめにしましょう。
 互いに同等ないのちであること。私はたら腹食べられる。一方で、餓えているものが居るのかもしれません。それはとても辛いことです。もし手をとって一緒に歩めるのであったなら、その相手の在り方を丸ごと受け止めるところからです。
 高校時代にバス通学で、いつもたった一人の乗り降りのバス停の傍に、大きなネズミの死骸があって、数日曝されていて、雨でぶよぶよになったものに、どうしても吐き気のこみ上げるような感じがして、父となにかの話しで、違いについて、区別と差別からだったか、どうしても生まれてくる感情について論じたときに、例に出しました。
 そんな事はないんじゃないか。と教えられました。あくまでも主観だったと知らされたのです。それを大切な食糧とする人たちもいるのじゃないかと。その頃は、それを聞いても嫌だったのです。
 食の深さを知ってきて、自分の体験とは違う食べ方も想像力を働かせなければならないと知って。指定外なんて、想像力が足りない時に起きることばですね。めざしてきた社会は、持ち寄って、そして分かち合うことでくらしが成り立つのに、そのたしなみを置き忘れると信頼がなりたたないのです。我勝ちに囲い込んで、なかったような振る舞いをして、秘密を恐れて余計にだらしなく見えるようです。それを乗り越えるには新しいやりとりを認められる仕組みを創っていくしかないのだと、何か今自分の周りに大きな渦が回りだしたことを感じるのです。
 義父の一周忌、納骨が済んで、やっと次の段階が見えてきたのでしょう。先をつくらなければ。
 
 

2013年12月3日火曜日

届くかしら?投函済み


内閣総理大臣 安倍晋三殿

 

 拝啓

安倍晋三さま

先日衆議院で可決され、今参議院にて論議中の特定秘密保護法案の採決について、一票を持つ選挙民の一人としてお手紙いたします。

 私は、この法案の細目についても、どのような提案背景があったのかも、ほとんど知ってはおりません。うかがい知る範囲では、今後の日本社会で社会生活、また国としての外交・国防、将来計画も含まれての重要法案として国会の場で論議に乗ったのだと思います。

 それだけ、国として、国民の生活の隅々までを考えての重要な法律を制定していくご決意なのだという事でしょう。

 衆議院での採決の仕方と短かい論議未了の審議時間について、重要性を量った時に取るべき判断ではなかったのではないかと、一票の立場で疑問に思っております。

 自分の中では、小さな会議を総理する経験があったのですが、そこに関係するものにとっての重要な案件であればあるほど、審議には手順を取り、時間を持ち、論議を重ねて、採決に及ぶ段では、それぞれが、論述をおえたのちに、より良い案に練った上で総意としての賛否を採る、その責任が総理するものとして求められたのだと考えてきました。

 一国の、多くの国民の将来にわたる生活を規定する法を定めていく場での、審議未了の声も出る強行採決は、会議を行う立場だったものにとって、決して採るべき判断ではないと考えます。

 国の国会から、市井のものが総べる会議まで、倣うべき姿とはできません。

疑問のままでいることができなく、総理大臣の判断についてお手紙差し上げる事にしました。お読みいただけることを願っています。

敬具
  
                     住所・・・・・・・・
                         増田レア