2020年12月31日木曜日

庚子 大晦日


 今年の大晦日、目覚めて北側の窓を開けると、月の入りの時刻であったようで、それもほとんど満月 立待ちの月。朝に見る丸い月がまだ光っているなんて、赤地に白い月の丸は花札だけど、今年の終わりの日にふさわしく、感慨深く冷えるのも忘れて写しました。
 文庫番の一年は、横浜の倉庫に預けてあった、閑居山にあった父の蔵書や自分の子供のころから親しんだ書籍の確認をし(窓から見えるのがプリンセス・ダイアモンド号でしたが)、長年の夢というか文庫が出版事業をしている目的である、父の蔵書目録への準備ができたのでした。あと数年生きていられるなら、なんとか進めたい事です。
 社会一般では世界規模での感染症が流行した年で、人々がよすがとするのが、すでに宗教も超え、政治も超え、科学などは追い付けない、ただ寄り添いとか繋がりなどという情緒的言葉で表されています。
 近代の限界があらわになったのでしょう。学校式の教育の意味、施設収容でできる介護や福祉とはどこまでなのか、医療は現実に対応できるのか。近代を肯定してきたものには不安が心を塞いでしまった年だったのではないでしょうか。
 もともとが、近代を、文明を否定していたマハラバの思想であったのですから、ここでたじろぐ必要はないのですが、現実の暮らしの中では周囲に合わせざるをえない状況もありました。
 この一年の間では、一般社会に不適応になるものの在り方をずっと考えていたとも言えます。少しわかったのは、何回も書いていますがマハラバ村というのは、自立した脳性麻痺者自らが作った、作ろうとした共同体なのです。集団生活ではなく、共同体をめざしていたという事の違いを、字面で理解できたのです。数カ月考え続けて、そのように思えたのでした。
 いまさらながら、50年前のことが理解できたということになります。この後の世の中がどのように変容できるのかもとても興味深いのです。
 しかし、きっと月の巡り、天地の間のやりとりからすれば、一刻のことなのでしょう。

 

2020年12月21日月曜日

二〇二〇年 一陽来復



 今年の冬至は、冷え込んで窓から見える八ヶ岳は朝日を浴びて薄紅に見えていました。夕月は土星と木星の接近の様子になるとか。外も家の中も冷えてはいますが、穏やかで静かな日になりました。様々な不安を考えこんだとしても、一陽来復。また日が昇るのです。
 

2020年12月11日金曜日

関わり方を問う 



 文庫番の日常は、主に台所と繋がっている和室の机のパソコンとの範囲で終わるのですけ
ど、野良の時間もある程度必要です。
 今の季節は、畑の腐葉土づくりになるかと、隣集落にある神社の大欅の落ち葉を浚いに行きます。その欅の陰で少しキノコも栽培しています。
 ヒラタケを持ち帰りながら畑の隅に落ち葉を置きます。師走の畑は葉物野菜が中心です。
隣畑の人にタアサイをもらっていたので、ヒラタケのお裾分けをしたら、また頂きました。さらに立派な大根までもらって、ゆず大根の用意をしました。
 うちの畑の人参は、イカ人参の用意です。
 落ち葉とキノコ、そして美味しい野菜へ。わらしべ長者も斯くありか。ほんの会釈程度なのに、なんだかとっても得した気分で、次の朝が待ち遠しくなります。
 村の暮らしの中で、立ち止まります。この村でも、息苦しい思いの人も居ます。そして今も町で、仕事もお金も家も失くした人が、寒い夜を過ごすのです。もしかしたら、兄も仏教界にも、山にも居られないものなのかもしれません。
 先月末は奈良に文庫番家族は出かけました。東大寺の毘盧遮那仏も、薬師寺の薬師如来も観てくることができました。鑑真和上の唐招提寺も、また明日香の地へも。
 権力が、大仏をつくる時、衆生の民は、困窮していて飢えていて救いを求めているのです。権力がつくりだすものは、千何百年残っていたとしても、同時に民の困窮も残ったままなのです。
 村の暮らしの、小さなやりとりで救われるものと思いながら、そこに馴染んで行けない人のこころの裡に灯りをともすには、どのような術があるのかと、思うのです。