2014年10月28日火曜日

公正と平等



 出かける前に靴を見たら、都会仕様ではないですね。土の残ったままでした。足元を見る。手も爪の先を見る、そういうゆとりはやっとできたかしら。
 戻ってきたら、連れ合いが車の中で一日のいろいろを語った、空豆の種やゴーヤの種。零余子、朝顔の種が囲炉裏座卓の上に並べられていました。
 少し考え事をしていたのです。お出かけは。
 公正と平等の意思を体現し平和を希求する。それは万人の願いですから一人が背負込むものでもないわけで、ただ役割として委ねられている期間、最大限に表していくことは務めてきたかしら。今はどうなのだろう文庫番。そう今も文庫番としてその事があるのだから。ああそうだ、四つの綱領の事も。事業じゃないわね。この価値は。
 そう考えると、この小さな種たちが背負っているものの大きさにまた驚きます。来年の春には継いでいき新しくなる。無造作に置かれたものたちは、公正も平等も問わない、あるがままの姿を受け入れているのです。芽の出るものもあれば、そうでないものがあってもそれが摂理であると。

2014年10月26日日曜日

生き物は


 大豆畑を何とかするということから、どう方向がいくのか、とうとう連れ合いは猟友会に入るまでになってしまいました。秋の猟期が始まるこの時期に慰霊祭をして、新人紹介ということで、出かけて行ってます。この写真は一昨日、その場所確認をした時の物。
 幾つかの産地で鶏魂碑や畜魂碑を見てきたことを思い出します。どこかで鰻魂碑も見たかも。
 実際に、たかが大豆と言っても[いえいえ畏れ多くも]庭で作るのと違い、里山畑は猪・鹿の運動場。カラス大先生も土に学べと啄むのでした。私たちの食べる分と、鳥獣たちの食べる分と、地面はすべての生き物のものだから、何を畑と言い何を宅地というのかも、人間さんの御都合なのに。(どこかで領海だ領域だと、いくさ船やら、いくさ飛行機を持ちたいものが決めていて。)
 慰霊をさせてもらい、、適正な在り方を学ぶということをせざるを得ない、ひともまた生き物。栄子さんが教えてくれた農業とは、生き物との食べっ較べだからな。競争だから。そう競争社会から逃れるために土に向かうのではないのです。生きるということを問い続けるためにあるのでしょう。
 父の言った“絶望”とは何なのか、一切を捨てるしか生きられないとしたら、それは獣とはどう違うのか、人間道を生きる。六道を彷徨う旅もあるのでしょう。ただ食べる。食べるとは何か。農とは何か。
 資料をまた括っていきます。文庫番はことばを紡ぎだすように編めるように、ほどいて巻きなおして、そういう作業なのだと、秋の日に思います。葉っぱは紅を深く、そして来春の芽を備えて。

 

2014年10月20日月曜日

凛として


 道志村道の駅どうしで買ってきて三年目、年々蕾の数は増えて来ていますが、まだ土に合って伸びやかな感じには育ちません。それでも、この肥料分の少ない土でも花を開かせました。
  竜胆の花は祖母を思います。富山の城下に生まれ、維新後の武家の商売に長女として苦労をした人だったのだと聞いていますが、さらに東京に出て祖父と結婚した世田谷での生活から疎開した茨城の山の中で、戦中戦後。ぬかるんだ山道を下駄で小石を除けながら上がり降りをして。
 檀家が居るわけでもなく、政治に、布教にと八方に出かける祖父と一緒に、貧しい山寺で耐えて。
 さて、孫娘は、祖父母にも伯母たちにも、この子が男の子であったらと言われるのは、癪に障ることで、それなら男になれるものだと言ってくれと、言いたかったのかもしれないけれど、所詮それは在りえないのだから、社会の仕組みがおかしいのじゃないかと思い続け、懐かしむ家は長男である兄が継ぐのが、最初から決まっていて、どこかで追い抜け追い越せと思っても年子であるのはたった一年の差でも追い抜けないものです。
 決して悔しくて男勝りとかになりたいわけではなく、男女同権は、何から何まで男仕事をしようなどとは思わなく、台所であたたかくぬくぬく生きていきたいから。薪伐りをしなきゃならないのは、同じだけれど、昨年の薪割斧にさらに今年は、チェーンソーもこなさなければと、日曜日のズダダダ。。自家用の25㎝から、薪伐り仲間の35㎝もちょっと使ってみました。
 問題は!押えの足なんです。肩や腕の力で持つよりも、足で固定させて、薪が撥ねないようにするのには、体重を加えるのもさることながら、いかに踏ん張れるのか。
 ここでふと思うのは、道具って男の人に都合よくできていませんか。。。骨盤の形とか普段の生活習慣で、そんなに開脚で足を踏ん張ることもないのだと、言いたい!!。これはすでに国家九条あれ、骨格上、踏ん張り方が違うから、そうでなくても不器用な足遣いで、利き足でも、利き足でない方でも、薪を踏み押えにくいのです。そんな事、連れ合いに言いたくない。。 
 女性の活用だとかは、扱いやすい道具の検討開発や、まだまだ男だったらなどの時代から残っている、しきたりの中の悪弊を除かないと、祀り上げて、実務は結局男社会の習いのままで、動かそうとするには、無理があるのではないでしょうか。一つひとつの考え方の土台を認め合うことができて、活用ではなく、当然の在り方として並び立つし、だから人としての資質そのもので、尊重されるべき人は尊重されるのです。
 祖母の様にぬかるんだ道を下駄でちょっと小石を除ける。それでいながら、凛とした生き方のできたひと。ああ、それは理想。

2014年10月16日木曜日

出るも出ないも


 秋の午後の陽だまりにある蕗の葉もそれなりに美しい。今度の冬はどのような冬になるのでしょう。今朝の富士山は初冠雪だったとニュースで言っていました。私の住んでいるところは里山が東に迫っているので、富士山は見えないところです。
 台風19号は雨を降らせ過ぎて行き、晴れると思った昨日も肌寒い雨でしたが、今日の午後はなんとか晴れ渡った感じです。
 庭の蕗は一か所に集めてもらいましたが、もう少し日陰の方でも良かったようです。これからの毎年の手入れで場所も落ち着くと思います。この庭の前の持ち主が残して行ってくれた蕗に茗荷にニラなどは土に合うようです。春には蕗の薹で出てくるでしょう。
 文庫番は、出る芽にもならず、出る杭でもなく。残された資料を編んでいくばかりです。みみっちい、親恋しさに鳴く鳥にも見えます。
 それにしても、あまりにも大事にしようと思った幾偏かの原稿を探して、一週間は気持ちが前に進んでいませんでした。探しあぐねてもとの書棚を丁寧に見たら、ちゃんとあったのを見落として家内大騒ぎをしていた訳です。ですけれども、これを探していなかったら、先日発見したものには当たらなかったのだと思うと、世の中に無駄なことはなく、さらに、その間に二次資料も確認できたのです。ただただ、父母の書いたものを編んでいくという、それで事業にもならない文庫番稼業なのに。そして世に問う意味も古びているのに。こんな枯れ葉になるのも間もないものに陽射しが当たったのを貴重な光だと。

2014年10月11日土曜日

やったね2

とうとう、資料の塵芥の山の中に煌めくものを見つけたけれど、原石。
加工に値するのか。。
 私の今までのすべてをかけて、この資料は読み込まなければならない。

2014年10月9日木曜日

やったね



 昨年の情けなさに、ヴァンタスファームのイノシシ対策もそうだけれど、パルファームの一角を使い、神奈川の津久井大豆をNPO小田原の事務局長さんから分けてもらって、見事に収穫できたのです。しっかりと大きな粒で甘味があります。
 あと二畝残してあるので、玄米麹味噌にも、次年度の種にもできるかと、野ブタ退散のまじない。
今日は、大豆畑に行った後は、連れ合いを甲府に送っていき留守番文庫番。
 この日とばかりに屋根裏のような部屋も、いつものパソコンの部屋も書類を拡げて、母の資料を整理しています。最後が冤罪事件の支援する会の代表であったので、まだまだその関連のものが出てきます。ネットワークです。少し関連性が他の活動とも入り組んでいるのでその仕分ができない。その上、血圧記録や生協のレシピの切り抜き、雑貨品のチラシも切り抜いておいて在ります。そこに北海道の深川高女の同窓会のものやら勤めていた富良野の「国の子寮」の資料もあって。秋晴れで、爽快な気候で良かったです。枝豆はざっと水洗いしたものを、娘や義弟のところに送ります。今夜は、まだこの散らかった資料の読み込みをします。
 ホームページが遅れているのがずっと気がかりではあります。どのように、食べるということが協同に結びつくのか、勝手にしようと思っているのに、お手軽なブログやSNSで時間を使ってしまいます。時間の使い方にもメリハリをつけていきたいのですが、細かいメモですら読み入ってしまいます。いつかは芽をだし実を結ぶかと。

2014年10月7日火曜日

風に乗り


 今年の秋も台風の行き過ぎた後に、夕空は美しい。
また繰り返す季節の一日になって、思い出も消えていくのだろうか。
 栗もお芋もキノコもおいしくなって、稲の穂も垂れて新米の荷ができる頃に台風が来て、過ぎていき、それを人の運不運とだけで言えないような気分を残しています。
 どの方面に、備えをすれば良いのでしょう。完璧ということはないのではないでしょうか。
 庭の先の川も水かさと勢いを増し、夜中から轟轟と流れていきました。上流から大きな石を流れは運んできて、私たちの家の直の岸に置いていきました。
 雨はさほどではなかったので、出かけられなかった自分をまた悔しく思います。
風の中に、いろいろなことばを聞いてしまうのは、自分に確信がない時でしょうか。それとも自分の在り方を確かめるためでしょうか。
 栗を煮ながら、故郷の茨城の栗さえ、楽しめなかったこの三年を思います。キノコがどうの海産物がどうの、すべて食卓で味わっています。お・い・し・いから。
 美味しいものを楽しめないなら、その事が被った苦しみかもしれない。害われた喜びだったのかもしれない。どちらにとって、生産するものにとって?食べるものにとって?。
 何故それを分けなければならないのでしょう。我が事としてともに苦しみともに被るから、楽しみも喜びもともにできるのではないですか。
 とくに肩に力を入れて応援なんてしているのではなくて、自分がするしかないことだからする。私たちの生きている時間なんて一時にしかすぎない。そして風が天をめぐり、水が石をも流し、変わらない。
 母の生きた在り方を、少しでも表したいと思いながら、引っ越しや始末で定かでなくなった多くの事に筆が進みません。毎日毎日、用もないのに電話をしていたのに、意図してない会話ばかりでしたから、他人様に伝えられるようなことばがなかなか出てきません。ただ懐かしみが戻ってきて、いづれは山の中腹にも届くだろうかと。