2019年8月28日水曜日

89年前の午年に

 8月27日、父は生まれたのです。男女の産み分けなどなく、午年というだけで、出生数の少なくなった時代でした。
 生まれてすぐに、おばあちゃん(文庫番の曾祖母)が、見分に来るので、祖母は出産直後なのに男の子かどうかを、ちょろっと確認したそうです。
 上二人が女の子で、曾祖母は次伯母が生まれた時は「またあまっちょか」と言っていったという事で、祖母にしてみたら、三度目の正直にかけた、後継ぎっ子でした。
 曾祖母は家付き網元庄屋の跡取り娘だったので、男子の出生が使命とも考えたのではないでしょうか。
 生まれた場所は東京府荏原郡駒澤村上馬、昭和5年の事です。終戦の年ぎりぎりまで、山の手の大空襲の前までそこに住んでいたのですが、、いよいよ戦局も激しくなったことで父親の居た茨城の山の中の寺閑居山願成寺に移っていったのでした。その年の12月に尊教と改名していることが残っていますので、15歳で僧籍に入ったと考えられます。
 そのような激動にもまれた多感な時代を何を思って過ごしたのか。
晃の名前を今回マハラバ文庫にアップした「聖道 念佛義抄文」に印を残している若き日の父。その一冊を楽しくも困難の多かった結婚生活の標として、また父没後の苦しい生活の中に離さずにいた母。
 学習会を終えた庭には、母の家の周りにも咲いていた秋明菊の蕾が膨らんできました。

2019年8月26日月曜日

月日は流れ



 8月24日(土)25日(日)マハラバ文庫での学習会に茨城から里内龍史さんが参加してくれました。学習会終了後は、大仏照子=ベルナディッタ・マルガリータの墓参りをしてから、また茨城に戻りました。
 懐かしい人たちの消息もあれこれ話している中に、この間かすみがうら市で逢った時に今年持つかどうかと話していた折本さんが亡くなったとの報告もあり、そうなのかと感慨深く思ったのです。
 ごく身内だけでのご葬儀であったという事でした。
同じ戌年ということで、私は比較的一緒に居た時間の長かった彼女。もう一人の青い芝の礎石。短歌集もあらためてめくります。

2019年8月15日木曜日

本棚から




 障害者と戦争。各自どのようにあったのかはそれぞれだろうと、想像するばかりで、戦争を知らずに、自分が育っているけれど、この本は「もう一つの太平洋戦争」障害者の太平洋戦争を記録する会 仁木悦子代表 立風書房 1981年。
 やはりカバーの折り返しにある山北厚氏の「戦争が私を小さくした」。記録した意味をあとがきに書いてある仁木さんの言葉。自分にとっては幼児から読み浸っていた「水曜日のクルト」大井三重子さんが仁木悦子さんの事で、世田谷のお宅に自分の子供達を連れて行ってお話を聞いた夏からも、長い年月が経ってしまっています。
 今年の夏。どこか何事もオブラートにくるまれていて、障害者問題も、パラリンピックで活躍、社会に地域に多くの障害者がともに生きる時代になりつつあるけれど、その一方でこの国はいつも、形代を流しながら自分たちは御簾の奥で世の中を見ているような生き方もあり。
 事実はすべてうやむやで、時だけが過ぎていくのがいい事なのよ。そんな社会が当たり前で、忘れないというスローガンは何に対してだったのか。本当のことをえぐらないで、その時の時流のネーミングだったのではなかったのか。では、ちっぽけな文庫番は、何を番していくのでしょうか。・・・・・平和。

2019年8月7日水曜日

いもっち



 天候には勝てません。長い梅雨の間も心地よいと草取り続けていた初めての稲作ですが、長い梅雨でした。。。
 同病相哀れむと言えばいいのか、あなたに言われても・・と言いたい、我が家の田んぼの下の田んぼは田植えすぐから伸びにばらつきがあり危ぶんでいたのですが、水が別だからと安閑と見ていたのですが、同じようになったのが、上の写真。
 下の田んぼの人が、ああ、これはいもちだよ。うちも消毒していなかったら、お前馬鹿かと言われたよ。育苗センターに聞いてみな。どこか調子の悪い話というのは弾むのですね。今まで話していなかったのですが、互いに田んぼの様子を見に来た道路際での話は先週でした。
 土日が過ぎるのを待って、月曜朝から電話をしたり、対応したり。
そりゃあそうだ。いきなり田んぼをはじめました。上手く行きました。なんて、代々苦労している農家さんに申し訳ないから・・。そんなこと言っちゃあいけなかったのか。あまり表情には出さないけれど連れ合いも悔しいのは分かっています。
周囲は皆慣行栽培だし、中途な無農薬でしたが、ここで全て刈り払って処分するのもあるのですが、共同で耕起してくれている仲間も一緒になって、いもち病対策のS化学の薬剤散布。稲熱病の洗礼。これは踏み絵なのか。それにしても、梅雨明けしてもすっきりとしない天候です。