2011年3月29日火曜日

情報差

 義母が入院してから変わったのは、いろいろとあるのですが、それはもう高齢親との同居にともなう暮らしの変化としています。義父があまり整頓などができなくなったのではなく、どうやら男族というのは、女性が傍に居てこそピシッとする種族なのかと考えるようにしています。入院中の義母にそれを言い付けに行くのが、嫁の勤めなのだと、あら探しをしているので目につくのかもしれません。いろいろな身の周りの始末が緩くなっているようで、嫁・孫娘は手足の一部で心は妻とあるのだと考えると羨ましくもあるのです。
 義父は今日のニュースは見るに堪えないのでしょう。プルトニウムが検出されているというのを詳しく見たいのに、正午のニュースは大江戸捜査網になっています。午前中にも時代劇を観ているのです。ちい散歩もかかしませんが、義母とあれこれ言いながらでないので、私にその街の思いでを話してくれます。しかし、私もニュース好きの野次馬根性、パソコンからのニュースを読みますが、長年、ニュースはテレビからと習慣になってしまっているようです。
 義母は病院のベッド際のテレビを観ません。テレビカードを買ってきましょう、と聞いても、いらないのだそうです。テレビは見なくてもいろいろ考え事があるから却って良い。と言います。・・・本は?と読書好きだったひとなので訊いてみますが、それもいらないというのです。しっかり考える時間があるという事の方が、今受け売りの、こころ塞ぐ報道のあるものより、良いのかもしれません。
 家にいる娘と時間差で病院に行くと、これもまた、病院での説明や、治療段階がどんどん変わっていきますので、なるべく情報を合わせるようにしないと、今後の退院後の段取りなどが混乱しそうです。近いうちに義父、連れ合いなどとも話合わないとならないと考えています。
 昨日、電話した母は、今は洗濯物も布団も室内干しにしていると言っています。飲料水も購入予定だと言いますが、あまり、神経質に一人で考えるのも良くない事ですが、電話だけの会話では、なんの役にもたたないのです。話しているこちらにも、日々変わる情報を、きちんと伝える能力はないのですから。お年寄たちも心が惑うのですが、伝えての私も不確かであるのが申し分けない事です。

2011年3月28日月曜日

西も東も解らない


菜の花や 月は東に 日は西に  この一句が私の人生を迷わせたのだろうと思い当たるのです。
与謝蕪村 国語の授業の次に理科の時間でもあったのでしょうか。小学校のある時点で、月は東に日は西に沈むのだと思いこんでいた時期がありました。天空の真ん中で、行き違いになる運命を菜の花が見ている句。
 こういう解釈もする子はいるかもしれません。今回の地震で、5メートル地盤が東に動いたと聞いた時に、そうだろう、そうだろうやはり“東洋は一つ”なのだと思ったりしたのですが、東とは太平洋側の事でしょうか。すっかり西も東も解らないのは、小学校の頃(恥ずかしい話かなり成長するまで)と変わりがありません。この大きな大地の力。多くのいのちを飲み込んだ津波。それらの力に畏敬の念をいだき、その悲しみを包みこんで生きていかなければならない、悲しみを慈しみながら、人生の芯として残された生者はいま居るのです。 西も東も解らない、けれど、生きている。慈悲。

2011年3月26日土曜日

同時多発的状況なのか

 一夫婦にそれぞれの両親が居れば、ましてや、一人二人の兄弟しかいない世代同士が夫婦となっていれば、双方の親の高齢期というのは同時にやってくるものです。
 そして、親の姉妹兄弟は、まだ大人数だったと言う事は、おじ、おばなどもやはりほぼ同様に年をとって来ているのですね。この一週間は義母の入院にともなう諸々で、自分も含めたいろいろな人の年の取り方を考えています。その事が、避難所に映し出されるお年寄達の状況とも重なってしまって、振り払えません。
 おじいちゃんは、寂しそうです。5日間に長岡から二往復で出てきていた義母の妹にも、結構我がままを言います。いきなり、嫁である文庫番には、言いづらい事も長い付き合いであるこの人には言えるのでしょうけれど、義叔母さんも結構ぐったりと帰って行きました。
 マスクをして、怖々と東京の水を飲みながら、テレビからの報道の横で義父に相槌を打ったり、たしなめたりしてくれて、助かったのですが、義叔母さんも年をとったのだなと、感じる事もありました。無理もない、あんたも、年取ったねと、逆に言われています。

 そういう中。今の自分に何ができるのか。より辛いであろうこの地震・津波・放射能禍に被災している人に対しての、さまざまな支援活動を観ながら、自分の無力さに、がっかりするのも、また、現役を離れている人々なのかもしれません。組織を動かす力も、自分の身体を動かす力も薄くなってきているのですけれど、それだけにこころを動かし、動揺した思いを、あれができたはず、これも可能性はあるかと、惑っているのです。
 無理をすれば義母のように強風に吹かれて自ら怪我をします。

2011年3月24日木曜日

魔法の幕

わたりむつこ作のはなはなみんみの物語が、私が図書委員で預かった最初の物語。三部作。それを子供たちに読み聞かせることから、はじまった事が、生協が売るものの幅広さを知ることだったかもしれません。
 小人大戦争で使ったいかり草、大地のゆらぎを止めるためには、何かを犠牲にしないとならないのだろうかという葛藤、閉ざされた人工の安全な世界というのは、衰退の生活だったという、それらが、はなはなとみんみという双子の兄妹の生まれる前の世代が起こした誤った戦争の結果だったけれど、旅をつづけ仲間をみつけ、新しい希望の生活を得ていく物語でした。
 これから子育てをする人達に読んでほしいと、奨められて楽しく読み聞かせたもの。
 ぜひ、もう一度読み直したい。そして多くのこれからの人にも奨めてみたい物語です。
 本日も余震が続いています。このゆらぎ。列島が東に寄っていったというのですが、それをまた戻そうという微調整なのでしょうか。ゆらいでいるのは、もしかしたら、大地ではなく自分の心の中だけなのでしょうか。

2011年3月23日水曜日

福分け


 今、こころを伝えるという事だけでも、とても難しくなっているようです。日増しに流言飛語の類と、真実に裏打ちされたことばとの区別がつかなくなっている状況なのだと感じます。
 そういうところに本物が届きました。お裾分けだと言う事です。種子島の黒糖。それも特定できる畑、技、人々からのものです。これはきっと、もっと大勢の人に、この喜びを分けて欲しいということだと、考えます。そう、確かなものを収穫し食べられるものを作りだせる幸福。もとは、一粒の種、一株の芽。
 苦しい思いでいる人々に届けたいです。そして、この黒糖に添えられていた冊子にある漂流船の島の人々を思い出すのです。入り人の島。古へより、海流に乗って人が行き来し、赤米の保存されている島は、いつの時代でもおおらかに人々を災難から救助し受け入れているのでした。
 数日、被災地、避難所ではこんなこともあるという、悲しい事態が知らされます。虚々実々、人の感情が、極限に在る中で、情報は作られるのだと思うのです。その大部分が、今までより良い社会を創りたいと願った事を数段階引き戻すような、心無いと言って良いかどうか、誰もが、人間の本性は自分が生き延びる事だよね。そのためには、あきらかに差異を見つけ出して、排除していく事だよね。と考え始めているようなことです。ですが、だからこそ、それは、事実ではない伝聞なのだと考えたいと思うのです。
 今試されている本物力は、人がひとを信頼できる、自分が(家族が)大事だと思うのと、せめて同じように他のいのちも大切なものだと考えられる力だと言う事。食べるものが、世界の大消費地東京に来るのには、どれほどの手が必要とされているのでしょう。そして、その国内産地には、多くの研修生受け入れがあったのか、被災者の中に居る外国籍の人々の多さを考えます。
 情報は作られるのです。一国だけが、窮状を救いに来ている訳ではありません。今回、最初から海外メディアで知らされている内容も知ると、義父も憤っている同じニュースしか流さないテレビの偏向を感じます。
 少しの福分けの中に、実にこころの豊かな本物があると味わえれば、水も葉物野菜も、大切な一粒のいのちです。

2011年3月22日火曜日

回復に向けて

 やっと、対処手術が終わったところです。母の居る茨城から戻って半日、不気味な風の強く吹く中、レイモンド・ブリッグズの“風が吹くとき”を観た記憶を思いだしながら用を済ませ出かけていた間に、義母が幹線道路の横断中に転倒。骨折。たまたま休日で在宅していた連れ合いが電話を受けて中央分離帯で救急車を待つ事5分。病院に行っているところに戻った私に、義父が告げる行き先は、テレビに映っている地震被災者の避難先の名前。はて?どうしたものかと、お義父さん〇〇じゃないと確認し、連れ合いと入れ違いに病院に行ったのです。 急にぽっかりと義母が家に居ない。義父は同じ報道ばかりで、言っている意味がわからないと、テレビを前に座っています。そっちも心配しながら、担当医に今後を聞いたり、介護保険認定の申請をしたり、でこの数日が過ぎています。近いところの病院への往復などなど、している空には、月が赤く上るのを観、その反対側にある東京スカイツリー、各家庭への電波を受ける機器の需要は仕組まれている不必要な消費ではないのかなど考え、降り落ちる大気も雨水も、恵みと感じられない春を嘆きました。雨水利用東京国際会議の時に、雨水宣言というのをしているのです。二度と黒い雨は降らさないという宣言でした。文庫資料のどこかにあったかな。探してみましょう。
 そんな事を考えても、身動きできないですね。いったい今の自分にできることがあるのだろうかと考えます。本日、義母の大腿頸骨を金具で止める手術は終わりました。明日からはリハビリだそうです。退院時には介護認定もできているようになると良いです。母にはやっと、後からの連絡になるけれどと伝えました。まずは、身近な人々に少しでも微笑むことができるようにしたい。不肖の娘・鬼嫁の自己改造です。

2011年3月21日月曜日

自己決定できる消費者でいたい

 いつも、そう考えているつもりですが、時々、大したことのない自己などを振り回してもみっともないと考えたりします。
 でも、消費者(人)とは不思議な心理を持っているのです。国民の一人として、原発事故の対応をしている電力会社や自衛隊の英雄的行動を称賛する一方で、暫定規制値を超えた放射性物質の検出された野菜や牛乳はいらないというのです。
 というかそのことを受け各県が生産者に出荷自粛を要請しているのだという報道です。食の安全を国に求めてきているのですから、その発揮は当然として受け止めないとならないのでしょう。けれど生産県であったところが、今回の被災地でもあるということ。特に茨城県などは1999年にもあったJCO事故の際にも農産物が消費者に受け入れられない状況であったにもかかわらず、生業として踏みとどまった多くの生産者がいるのです。それなのに、私たちは、“買い支え”という美辞は伝えられないのです。我が身が第一になるからこそ、自身を顧みずに、災害救助や原発事故に立ち向かっている人々を称えるのです。
 特殊訓練を受けている人と同じような決意で、自分に出来ることが、僅かにでも農産物を消費することだと思っても、流通されていません。独自ルートを開通させるにはまだ物流が整備されていない中での我がままになってしまうのでしょう。買い支え以前に、今、避難しているひとたちへの、個々の状況に対応できる、水や食事を届けなければなりませんね。
 気持ちを表すしかできないのでしょう。食の安全ということの、深く広い概念が自分の中に無かったと思い至ります。このような、暮らしの中に張り巡らされている、さまざまなネットワーク全体を通貫できる、食の安全を助け合いとともに考えていたつもりですが、浅く、狭かったのだと今は思います。
 これからの、私たちの社会には、ほとんどの人が放射性物質を取り込んでいるという想定での、医療制度・介護制度、それにともなった経済の理念を持たなければならなくなったのです。過去も被爆国であった日本。今回、一国の一地域の原子力発電所が天災を受け、そこから発生する事態で他国への拡散放射能を発しているのも、過剰なエネルギーを享受していた、都市生活であったと考えると、これからはもう少し生活全般を変えないとならないかと思っています。
 そう考えると、今できる事は、ここに暮らす自分が、何を考える日常を送っているのかを発信することだとみっともない、自己との向き合いになります。

2011年3月19日土曜日

今月今夜のこの月を


僕の涙で曇らせよう。2011年3月19日はスーパーフルムーン。この反対側には東京スカイツリーの見える我が家のベランダ。満月と、世界一になったタワー。そのどちらもが、悲しく見える夜です。

2011年3月18日金曜日

新しい秩序の世紀に

TPPはどうしたのか、政権を軟弱と言っていたのはどうしたのか、そう言う事のレベルではなかったのでしょう。自然の力は。そして制御しきれないものを持っていた人間。
 遥か神世紀、オリンポスの炉から隠し持ってきた火でしょうか。兎が尻尾に着けて持ってきた火でしょうか。
 大気も水も大地もつい一週間前とは違っているのだけれど、今日の私のベランダには春のつぼみが膨らんでいます。新芽の柔らかさもいとけない。大事に育てていきたいのです。
 もしかしたら、弱体したかじ取りよりも、組織だって凛々しく立ち向かう姿に賞賛は集まるのでしょう。本当に感謝してもしすぎる事はないのです。自分を空しゅうしても、民を助ける職務なのか、人道なのか。一歩間違えると前世紀の闇と争いの引き金にも似てしまいます。
 それはやはり、人道なのでしょう。ヒューマンです。そこには計りようのない、愛と協同があるのではないかと思うのです。それ恕かと。
 買占めていたり、同じ事かもしれません、他人のものを掠めたり。そうではない在り方をみています。自己の分を与えられるのは、今までの自分があったことへの感謝として、お返しできるように、多くの人が思っているのです。金銭で云えば義援金となります。無償の行為での支援が続々と集められています。行為とすれば自己犠牲や助け合いになるかもしれません。そして、もっと育てていきたい、今多くの人が、他の人の存在への共感を持っていると言う事。今、情報手段の発達は、良し悪しあっても、多くのメッセージを運んでいます。そして個人のものだけとしない、ともに悲しんでいる思い。なくなった生命へ向けての悼み。これからへの願い。
 国を超えて、その気持ちが伝わってきています。本日金融面での協調介入があったと言う事を、金の亡者たちの、利己的な手段とは思わないでいたいのです。むしろ、もうどこかに富が偏在したり、運のよしあしだけで人生が定められていくのではない平等を、新しい世界の秩序を、私たちは模索しはじめているのです。小さな日常の喜び、悲しみ、怒り、安らぎの延長に、育てていきたい芽生えです。
 

2011年3月17日木曜日

日常のなかに

 小さな喜び、悲しみ、怒り、安らぎがあって、それだけではないいろいろな感情を綴って、「きなり歳時記」はあったのです。それはもともと一人ひとりは違っていていいのだと、そこにしか協同の保障はないのだからと言える事だったのです。
 くらしを綴る。

 あの時、何が起こったのか。天災であったと。しかし人災にも思える。
すべてが変わってしまって、一人の喜び、悲しみ、怒り、安らぎをことばにしていいのだろうかと、また縮こまってしまうのです。ほっと取り戻す微笑みも、少しの諧謔も、暮らしの中で見出して伝えることすら、痛ましくなってしまうのです。
 義父母と母の高齢化、そして自分たちのリタイア後のくらしに起こるいずれはという日々。それすらも、書いていくことが躊躇われていた一年。それなりに、食べるという事からまた始められるかとして、新しい場も広げていくつもりでした。
 書きながら、自分で傷を持っていく。他を挿しているのではと、棘を逆立てているハリネズミのようにこれ以上近づきたくない、近寄りたくないという。それこそが、今書かなければならない事なのだから。
 一人ひとりは違うのだという、それすらも、一瞬に、皆が体験した共有の大きさに飲み込まれそうです。
 どこを観ても同じことについての報道ばかり。それの影で小さな日常。一人のことばが、消されてはいけないのだから。それこそが、親世代が経てきた恐ろしい時代だったのだと教えられ、日常の中にある、この私は、ことばを探していかなければならないと思うのです。
 それでも、あの時、何が起こったのか。天災であったと。しかし人災かとも書くべきだし、あの時ではない、今を、そしてこれからを書く文庫番でなければならないと思うのです。
 茨城の母は、地域の中に生きる決意で、まだあなたの世話にはならないと、帰されました。そして、“風が吹くとき”義母は転んで骨折しました。義母の入院を母には伝えられない。母が風邪気味の様子を入院中の義母には伝えられない。そんな日常。

2011年3月12日土曜日

協同を考える

昨日は、誰しもが体験したことの無い天地の鳴動。大津波、大火。まだまだ今でも揺れはやってきています。
茨城方面とは連絡ができていません。常磐線は利根川を渡れないようです。

 最初の揺れ以降、身近の小さな声かけから、出来る事を皆手探りでしています。発生当初は、近代ビルの中で携帯もパソコンもありながら、知りたい家族の安否はとれない時を過ごしました。
 小さな、声かけ、緊急時対処から、きっと被害の様子がわかるにつれ、さまざまな助け合いが必要になるのです。
 各国からの援助も受け入れると言う事です。報道されている被災地の様子には胸を塞がれるような思いです
 昨日の様子からは、国内の各所、微細な部分での影響も、さまざまな面に及んでいるのでしょう。これからの社会の建て直しには、経済という面からは大きく力を要することだと考えられるのです。
 今は、率直に援助を受ける時なのかと思うのです。人道、博愛と言う事は常に災害に呼び起こされたと思います。磐梯山には日本赤十字の創立のきっかけとなった噴火の時の碑がありました。関東大震災の時、そして阪神淡路大震災の時、多くの善意がありました。
 援助を受け入れることはまた、ひととしての約束です。いつかまた、自分も他を助けられるという。
 自立したこころで、これからの災害救助と復興に向かわないとならないと、まだ落ち着かない情報の中ですけれど、思うのです。

2011年3月11日金曜日

東京国際フォーラム





本日は、東京国際フォーラムで本場の本物の研修会。知り合いも多く来ると言う事でオブザーバー参加。
本場の本物認定業者が一堂に会する初めての企画。
その途中に、大揺れ。壁材の埃、床に落ち。天井からは配管ずれたのか、水漏れが何か所か。
よって、一旦散会となりました。全国の農産物の応援、そんな気概も、この大地震の被災された方々への応援もしなければ。

2011年3月8日火曜日

立て万国の農民よ、たて万国の労働者よ!


お茶の水から、経団連会館前までのキャンドル・デモには、おきたまの人からだったのでしょうか。手作りの手持ちのキャンドル風除け付きをもらって歩きました。これを、今机の上に置いています。そのデモを一緒に歩いた、ささかみの石塚さんのお誘いで、星寛治さんと山下惣一さんのお話を石塚さんがコーディネートするという集まりに、行ってみたいと沸々と思いがあって、土曜日には日帰り往復でささかみのふれあい会館にも行ってしまいました。今、そんなに私にも時間は無い。茨城の母のところに行くべきだったのではとか、義父母の食事はとか思うのですけれど、今のこの国で、大地からの恵みをもらっているものとして、この国が、何を選んできたのか、そして今から選ぶ事を、私はどう考えればいいのか。断固阻止!そう断言を壇上に聞き、会場の頷きを確かめて帰ったのです。それは、「米は実りて」で語られた内容でもあり、「山仕事讃歌」の中でも語られているのです。
 一人ふたりの大臣のすげ替えで、この話は終わってしまうとは、思えないのです。私たちは属国ではない!ゆすり、ごまかしとしか他国を見ていないところの主導に何故、唯々諾々とするのか!