2014年7月26日土曜日

どなた?


 里山畑の草刈は気になるのですけど、たとえ臥せっていても大豆に水は遣らなくちゃと、ヴァンタスファームから少し下のパルファームに蒔いた大豆のところに毎日水を撒きに行ってました。
ただただ、寝ているだけの数日。年齢身体の動かせる範囲と、やみくもな土いじり。したい事とできる事のバランスだな。とか思っているのです。
 資料作りもそうです。暑い屋根裏で新たな資料を見いだすつど、先に作ったものに足したいと思っても、これもまた上手く活かすのが難しく、バランスかな・・
 そういいながら不甲斐ない文庫番。大豆畑に行って見ると訪問者があった様子です。
ここならイノシシは来ないだろうという事で蒔いたのでちょっとびっくりしましたが、確かに小型で爪先も割れてはいない。大豆が芽生えてきて様子見に来たのはどなたでしょう。

2014年7月18日金曜日

ナンジャモンジャの木



 資料づくりが、一段落して、今の状況ではこれが最善ではないかというファイルができました。
それを見計らったのではないでしょうが、きゅうりといんげんを持ってきたおじいちゃんが、県内巡りを誘ってくれました。以前から、あったお誘いですが、同行してくれる山の植物に詳しい方が忙しく、急な日程でした。
 きゅうりの塩麹漬けとこれまたもらったトウモロコシを茹でたのを詰めて、おにぎりは誘ったおじいちゃんがコンビニで用意してくれて半日コースで甲斐の国中巡りでした。
 ナンジャモンジャの木というのがあるのです。
鶯宿峠から下がったところにあるもので、やはり周りの他の木とは違う雰囲気ありあり。
県指定天然記念物で、牧野富太郎博士が両面檜と名付けたものでした。
 葉っぱの両面が表でもあるように、見える。ちょうど資料づくりを終えた私は、従来のマハラバの思想が父の考えによってできていると、多くに語られてはいるのですが、母の思想の系譜もともに響きあっていることが、解るのです。そして二人とも行動によって思想を表してきたので、父の方が表に見えているのは仕方ないとも思います。
 マハラバ村の時代、それは強烈な自己をどう表現するかであったのだから、静かな底流としてあったものは、見え辛いのです。
 その時代を時間内で語るには、流れを整理して、掘り起こした部分しか話せないので、今やっと実物史料を繰ることができる文庫番は時間をかけてマハラバの底流を辿っていこうと改めて思うのです。
 夫婦でともにしてきた事は、どちらかが裏で、どちらかが表ではなく、ともに在ったということなのだと。
 

2014年7月16日水曜日

物語


 マハラバの会計簿。もしかしたら現代の映像で出て来ていたノートでしょうか。誰も利することのない共同体で、生活というものはあったのです。今頃、屋根裏のような部屋での資料整理は写真だけでなく、さまざまな記録を掘り出すことになりました。
 それは他の人から見たら、単なる時代の資料にすぎないのだけれど、私には生々しく、自分の家庭を解放していった事実。
 どう語るのか。歴史の証言としたら、それは、口から出た瞬間に創作になっていく。個人の体験であればあるほどなおさら、主観的になっていくのが歴史。50年前を語るとしたら幼かった私(ちょっと言ってみたい)が、大人の論議から外れて、ただ、その生活の中に居たという事。
 そして、アルバムや会計簿以外の資料がまた、意味を帯びて出てはくるけれど、それを確かに遡って状況を証明していくには私は力不足であることを、まざと思うのです。
 せめて母が生きているうちにもう少し突き合わせて聞く事ができていれば、せめて、事情を覚えていて信頼できる語りをしている人がもっと身近であれば。それでもなお、私は私の物語をしなければならないのです。覚悟。
 この帳簿がマハラバ文庫経理に役立つかなんて考えると、電気も水道もない共同体といっても、ランプの光は?湧水を貯めたタンクやパイプは?でも陽が昇り、雨が降る、それは水光熱費じゃあらわされないし、山の薪で賄ったお風呂。
 祖父の代に拡げた寺の内容は父の代にはすべてを運動のためにと使って、それでも浄財で生きていけると皆に言い、身を持って募っていくという役割だった父母。それは信仰と言う研ぎ澄まされたものとはまた別な世俗のことばを持たなければならなかったのです。
 生活保護獲得の闘い。他人事ではない、お金では換算しないという事は、運動とは信仰とは。屋根裏の古びた資料を読み解きながら、私の鼻づまり(慢性副鼻腔炎ではなかった!)はさらに埃りを嗅いでいるのです。新資料も出てくるので、文庫番なりに整合していくには時間が必要です。

 

2014年7月9日水曜日

さまざまな不思議の中に


 
 ホーリバジルも花が開いて、小さな虫が寄ってきて受粉をしていきます。聖なるバジルだそうです。お茶にする予定ですが、やっと今年はその量が採れそうです。札幌から種でいただいて、墨田のベランダで発芽させて、山梨の庭に移して、また種を採って、そして、今年は三ヵ所に分けて植えてみて、やっと満足できる本数になりました。高貴な香りがします。このバジルはお茶にしても身体の浄めになるようです。
 夏草が刈られている下の川原には、このところ姿を見せていなかった鴨夫婦がまた来ています。雛は孵さなかったようです。
 さまざまな出会いがあります。残せるものと消えていくものがあって、時間は静かに過ぎていく。殺生は嫌だと思いながら、大豆を育てるにはイノシシ退治をしなければならないと、連れ合いは狩猟をする人になります。思いもよらない事です。立ち寄った書店にあった現代農業を買えば、自然に読んでいます。会社勤めの頃であれば薦めても内容が興味を惹かなかったのかもしれないです。まったく、こういうところでこういう人生を迎える事になるなんて。。
 そして、二人になってしまったくらしに、僅かな作物を得たいと食べられる分だけを作っていても、日々がワンダーランド。上手く育てばと願うものは、難しいし。うちでもできた!と言うものは有難い事にご近所からも、押し寄せてくるのです。その中で、保存食の知恵もちょっと足して。
 種採りできるものは、また来年に向けてみましょう。このバジルも、あれも、これも、考えると種から分けてもらったものです。もし、種の不思議を考える数年がなかったら、味噌だって種で繋ごうなどとは思わなかったでしょう。
 里山畑のほうれん草からはイガイガの種を採る事ができました。ほうれん草にも雄株と雌株があるなんて種を採ろうと思わなかったら知らない事です。食べ物、どのようにできるか、継承されているのかも解らなかったのです。食べることができた量よりも、虫にやられずに残った種がある事を喜んでいます。でもそれはまた来年も虫たちとの食べ比べをするという事。
 豊作でも凶作でも、どのように次代への分けることのできる種として残すことができるのか。人間という種は。。
 それ山川草木国土悉皆成仏。その時に在る意義が少しわかってきました。資料整理はまた思想の種をいかに保管し、次代への継承の道を創っていくのかです。
 母の資料をもとに富良野とのやりとりもできました。

2014年7月6日日曜日

7月6日に

 書留封筒は届いたのだろうか。父が逝ってから30年。昨日の夕方打ち合わせはマハラバ村=人とひとの共同性を語るについての下打ち合わせ。
 いよいよ、手をつけなければならない文庫番の本業として、二階の窓の無い資料と在庫、その他の小部屋に籠って、箱を開けて古文書(ふるぶんしょう)を読んでいました。
 埃の匂いと、蒸し暑さの半日。母の骨箱の前にマリア像を供え、あの日を思い出していました。
その前の週にだったか、知り合いの葬儀を務めた父が、電話の向こうで、お腹が痛いと話したのを聞いて、男が痛いとか辛いと言うのは死ぬ時だ。と日頃言っていた父が、口にした事に、知人の葬儀で父と会っていた連れ合いに何か変わったところはなかったのか訊いても、身重であった私を気遣ってか、別に。という返事であったのが、7月6日の朝、母からの電話はお父さんが昨夜入院したの。と言うものであった時には、もう連絡すべき伯母叔父たちの住所録を携えて、丁度出勤前の連れ合いには休みを取ってもらいすぐに茨城に向かう事にしたのでした。
 あれから、30年。
今年の山の中にも一匹だけの蛍は光っているのでしょうか。最後にまた一隅を照らすかの如く、あの夜その年の最初の一匹だけの蛍は、母と私の見ていた庭の池に飛んできたのでした。
 兄が、翌日に比叡山から戻って、臈輩の方々と段取るまでに、ああ、多くの弔問の人々に対処した母が、長かった髪を葬儀の朝には美容室に行き、棺に入れた事。次々に思い出される今夜です。
 文庫番のもとに残されている資料。祖父の代の戦争前後の勧進帳。そこに書かれているもう私には知らない方々。そして母の遺したたくさんの活動記録。
 それらの中に、極僅かのマハラバ村の頃の資料。障害者解放運動は、障害者自身のものであるから、それらではなく、あくまでも庫裏方のもの。そして母の洗礼の時の書物。その二つを本日は確認できたのです。
 訳の解らない、由緒などありすぎるけれど、それらを外れた代々の住職。そして異教の母。
何が遺すべきであり、価値があるのか、番をするしかないと、また箱を閉じてみました。
 文庫番が、マハラバ村について語る日まで、約一ヶ月。

2014年7月5日土曜日

何をどこから













 梅に続いて、茄子だ、胡瓜だ、トマトだと台所でてんてこ舞いをしていると、先日里山畑を観た方から、嬉しい大豆が届きました。7月に播種できるという近県のものです。試してくださいという事です。10月には枝豆で食べられるかしら。 その話をして、ここの区画ならばイノシシも来ないのでできるかもしれないからやってみたらと、パルファームの一画を使おうと話しがなって、家に戻ったら、柿畑を更地にするからと、ご近所の方が伐採した柿の木をダンプで庭に積み下ろしていきました。これは、長さを揃えて、割れるものは割って積んでおく作業をしないとなりません。庭の畑も、区画が空いていて、次の作業をしようというところ。はなごろもで貰ったささげも花が咲いて。大豆を蒔く前の畑起こしもしなければなりません。
 その日その日に追われています。資料の整理をしたいのですが、気を向ける暇もなく庭だ畑だとやることが出てきます。間に、あっちこっち出かける用事があります。あと一ヶ月の間に、少しまとめて、構想していた作品の骨子ともなる資料整理にするつもりなのです。どこまでできるか何ができるか、気づいたら7月になっています。