2016年11月24日木曜日

風邪にも負けず


 夏の雑草にも、秋の大雨にも、そして風邪にも負けず
そんなことできやしないという人がいても
猪や鹿に食べられても
・・・・・・・

 この数日、茨城との行き来を挟んで、手作業で脱穀していた大豆
選り分け終わっているのが2.2K。まだゴミが残っているのが2.5K。
約1dl、コップ一杯を上野原の中川さんにもらって来た白いセンゴク。
大豆をつくり始めて6年。
毎年、家族の事情もあって、思う様でなかったのですが
山梨で5回目になる今年の秋は、味噌にまで辿りつけそうです。
 どれほど多くの人に助けられ、種を分けてもらい、どれほど多くの人にご心配をかけていたのか。
 そう、村の中のくらしの、微妙な遠慮。そういう事を思いながら、着いていたテレビはTPP審議の国会中継。
 でも、くらしは政治に委ねない。自分の生きていると言う事。常に問い続けると言う事。
故郷に行って、やっと自分で腑に落ちた事。そして、兄に出した手紙はまだ戻ってきてしまった。。


2016年11月21日月曜日

生存権





 こんなことが、巡って来るとは、閑居山を下り、取手に移る時には思いもよらなかった故郷での読書講演会。
茨城青い芝の里内さんから花束を渡され、かすみがうら読書会連合会の花篭を抱え、会場を出て懇親の場が用意されていた四万騎農園に向かう車の中で,、皆さん喜んでいたと開催を企画した硲さんは言ってくださいました。
 語りたい事の多さと、集まる方々のそれぞれに、何を主題として話してよいのか、故郷での講演などとはくすぐったいものです。会場の前にも後ろにも同級生が、そして作品中にも出てくる恩師はじめ様々な人の顔が見えて、プロフィール紹介をしてくれたのは兄の同級生の図書館長さんです。
 まったく、前夜まで用意していた粗筋など頭から消えて、半世紀以上前の雨の明け方に父がゴム長を履いて迎えに行った産婆(助産師)さんがどこそこに住んでいてなどという村内でしか解らないような話をしてしまいました。結局「無縁の地平に-大仏(おさらぎ)照子(あきこ)の生涯-」を語る中身は、村の暮らし、町の暮らし、そして山寺の在り方。開拓者の生活も、戦災孤児の孤児院での寮母としての勤めも、障害者運動も、冤罪被害者支援運動もしていたにしても、その生涯は、その時、その時を生きていたと言う事。多くの人に助けられて在ったということ。村の人たちにとって、閑居山が、自立した障害者の集まる、住民票を移して脳性麻痺者の独立した生活の場となった事は、地域の中に障害者を受け入れたことを、もっと誇りに思ってもらいたいと、私からの村へのお願いになりました。茨城県の教育委員会で昨年、何某が「生まれる前・・・・」云々を言ったのは残念極まりない。このかすみがうら市、千代田であったら、そのような発言は有り得ないはずだと。
 母の葬儀の時に、村の人たちは、マハラバ村の人たちを「障害者」ではなく、一人ひとりの名前とその障害として、個人の人格として語ったことを私は実証しました。村内の事として、その在り方も逆説的には「一人前」としての確認なのでした。
 今、話せることは、歴史と地利の上の必然から興った障害者運動の地であった事。そして大仏の家。読書会で補ってくれた方々は、私の祖父の代からのお付き合いなのでした。
 あの頃は、農村にも人の仕事を身体的にとらえることができるゆとりがあった中での共感と遠慮。都会との対比。地方都市に町としての風格が在った頃。そういう感覚を会場では結びついて考え、今こそ、施設に管理されたものではない、障害者福祉を、そして牢獄に囚われたままのものへの支援を言えると言う事。
60名を超えての参加は、企画者の想定をはるかに超えたのでした。重い内容であったにも関わらず皆さん満足してお帰りでしたよ。と言われて、多少風邪を言い訳にしようと思っていた文庫番はほっとしたのです。
 母父の友人であった硲さんの恋瀬山荘には、閑居山にあった水仙がもう咲いていました。

2016年11月3日木曜日

真白に花開き


 蕾は薄紅色なのに、11月3日に咲いている菊は白菊です。墨田の家の前に置いてあったプランターに誰かが挿して行ったと、義父がにこりともせずに言っていた菊ですが、プランターのままに引っ越してきて、この庭に根付いて増えています。
 もう一種類も、墨田に居た最後の正月に、どこからか手折られてきたらしい黄菊。それも、山梨が合っているのでしょう。香り良く咲いています。
 あとは、母が育てていた寒菊の色があると、冬もさびしくないでしょう。いいや私はやはり食用菊がいいかな。。白い菊は、高潔という花言葉に似合っているように思います。