2014年6月25日水曜日

梅雨の合間に



 岩手県の軽米の大麦を育てて二年。昨年の実ですけど、梅雨の合間、梅仕事の手休めに麦茶に煎ってみました。手休めと思ってもそれはそれは午後一杯立ち仕事でガスの前に居る事になって、ストーブを使っていたうちにすれば良かったと猛反省。梅仕事が、容器の繰り回しに陥ったからこういうことになった次第。
 それでも、贅沢な麦茶。食糧自給基地構想というのがあって・・・なんて遠い話かしら。
文庫番の庭畑の話です。なんの構想もないのですけれど、実りに追いつけ、植物に教えてもらえ、まずはやってみよう。大豆の裏作に麦と聞いて種を求め育ててみて、実ったらどうするか途方に暮れていた昨年。それでも寒い時期には麦芽で飴もできたし、発酵文化はまだできないけれど、今年の実りも干してあります。一粒の麦。
 面白い事に、今年の春は南部小麦の方が良く採れて、大麦は続けての場所に密撒きしたためか昨年より上手にはできなかったのです。
 母が夏に大きな薬缶に煮だして、お砂糖を少し入れたものを思い出します。夏休み前の学校から帰るとちょっとした甘味にほっとしたものでした。それはまた、連れ合いも含め、夏合宿を山の中でしていた都会の学生たちにも用意され、エアコンも扇風機も無い山の中を吹き通る涼風の味だったかもしれません。

2014年6月19日木曜日

カモス・マッディーナ

カモス・マッディーナ(醸す・真手な)

大豆の若葉が茂る頃
稲の幼苗田んぼに根がついて
大麦畑の穂が首を垂れ
舞台に役者が出揃って

あぜ道の草刈る前の晴天に
からっと風の吹き通る
渓流のせせらぎは奏でられ
遥か味噌の故郷の流れの清冽思い出し
この恵まれた大道具
天地返しをいたします

力自慢が桶を蔵から運びだし
そっと中蓋取り外し
ぷつぷつと、そこに見える呼吸穴
玄米味噌は生きている

仕込んだそれぞれ、顔合わせ
声を合わせて、手をつなぎ
いのちを繋いでゆくのです
カモス、カモス、マッデイーナ

清らにさっぱり拭き清め
教えてもらった、知恵の技
先の人は、笹の葉っぱを平らに広げ置き
自然の力で封をして、いたずら菌を抑えたの
学んだことのその深さ、言葉で伝える責任に
いつかは、その世を作りたい
自然の力に導かれ、自分の技を愛おしむ
原子力に頼らない、誰にも不満のない世の中を

シナリオ組み立て麹菌、塩切り具合も健やかに
次代に渡せられるその時を、来る寒に待ち望み
出番を待ちましょ種味噌が
今年も夏を越していく

アリストファネスが笑ってた
若妻たちよ良くお聞き
どんな魔物も打ち酔わす
テナヅチ刀自の御台所
安寧の、ささめく麹の歌声が

カモス、カモス、マッディーナ

                                               マハラバ文庫 増田・大仏・レア

2014年6月11日水曜日

入梅(雑節)


 暦の上での入梅の日になって、間もなく咲きそうです。我が家は昨年からこの浜木綿の里親。川に面したところに植えました。どれほど水が欲しかったのだろうと。
 経てきた時間。これからの時間。何を語る事ができるのでしょう。どのような集いを催すことができるでしょう。季節の折々に。
 その年によって、人の在り方も、花の咲き方も見え方が違うのだと春ならぬ梅雨時ですら思います。さつきはほとんど花のあとを片付けて、蛍を見ながら夜の一時を憩うのです。
 文庫の会社はやっと申告も納税も終えたのに、個人である文庫番に通知がきたので、誰の扶養でもないけれど所得の無いと窓口に届けてきます。これから先も自分の力で。。。生計は配偶者の家計で。この程度じゃ駄目と情けなくもなるのです。せめて役員報酬の出る売上があれば、大手を振れるのに。人の在り方。そう、この世での人の在り方は縛られるものも多いのが現実。
 連れ合いにも、余分な負担をさらに掛けることをしながら、採算事業にならぬことばかり。ただ、昨日役所の窓口に出向いて行って、今迄の状況とは違う年金生活の中での世帯であることも、再確認します。小さい目で見れば自分の先々が茫漠とします。
 社会の中を考えれば、社会保障制度ってどうなっていくのだろうと、その行方を論じているはずの場を、他人事として考えてはならないのだけれど、とネットの情報を拾ったりします。それでも、また別な見方をすべきなんだ。新しい軸を社会に立てなきゃならないんだと、くじけそうな里山畑の周りの耕されていない畑。収穫されない実りを眺めながら思うのです。シルクの里の桑の実は誰も拾わずに、すでに廃れた匂いになってきました。第一次産業の人口は文庫番の子どもの頃から考えれば激減しているのです。機械化で補えるものではなかったのじゃないか、中山間地とは。もっと早くに人の優しさを身体的に活かせる文化だった事を思い出すべきだったのです。くらしとは機械の僕ではないのです。いつの間にか払わなければならないお金の額がどこの家庭でも家計の中に出来てしまって、それが他の人を生かすために使われるはずなのに、集められた結果は、集団!。発するところが個別な身体的なものであったのなら、そこで醸し出される文化は、個々別々に益するのが順当なのに。
被爆浜木綿は文庫番に大きな目で見えることを教えてくれるのでしょう。
 
 
 

2014年6月5日木曜日

コレクション



とよとみクリーンを買いにクリーンセンターに行ったらカラーマンホールの蓋がありました。三町村合併なのでそれぞれのマンホールの蓋が置いてあったのですが、文庫番の住んでいるところは、いち早く下水道整備をして、クリーンセンターを作って家庭の生ごみと下水道汚泥からの堆肥をつくって市民に売る仕組みができています。生ごみ用の専用袋も生分解性プラスチックなので、堆肥に混ざっていても、そのまま土になるというのです。小学校4年生の社会科見学コースにもなっています。
 この堆肥ご近所さんに教えてもらっていたのですけど、センターに電話しても、なかなか通じなかったのでたまたま市役所の支所に行った時に訊いたら、直接電話してもらって、センターで待っていてもらって、詳しく説明を聞く事ができました。普段は作業をしているので、事務室の電話に出られないのだと。この下水道整備のために、前の村民全戸39万円の供出でやって村内5か所に一時処理施設があって汚泥を集めるという話に、すごいことなのだと改めてびっくり。蛍を愛でているだけの私たち。ありがたいことです。
 里山畑の方には、甲州ワインビーフの牛糞堆肥を入れてもらっています。でも猪に食べられない作物を考えるのも難度が高いものです。美味しいものは大概の生き物が好きなようです。これもまだ一工夫しなくっちゃなりません。
庭畑でも作物も草花も、根っきり虫にも悪玉天道虫にもたかられて、時間があるからと連れ合いは一日土ほじりをしています。
 庭の前の川には蛍がでてきます。沢の蛍は身を焦がすけれど、文庫番は日焼けのシーズン。部屋の中でもう一度父の文章の読み直しです。非情は成仏しない。山川草木国土悉皆成仏とは。