2013年4月29日月曜日

肉体労働の心地よさ??気分悪い!

何か埋まっている。
朝から、びっくりするようなものを掘り当てました。
うま味調味料。合成洗剤各種。確かにむやみに水には流さなかったようです。これら45ℓ袋いっぱいに。
午後からは瓦礫処理ですか。
 
お宝石おたから石もまだでてきます。そうは簡単に美味しいものが採れる畑なんてできるわきゃない。しかし、美味しいものへの道は遠そうです。。
夕方には、深さ腰まで、半径スコップ回るくらい掘ったのは私でした。お年頃だから、もう私たちは年なんだからというのが合言葉になりそうです。

2013年4月27日土曜日

会して

 会して議せず、議して決せず、決して行わず、行ってその責をとらず。
これだったかしら。大先輩から教えていただいた意味のない会議。
 会議も疲れますね。結論のでない課題の解決しない会議には徒労感が残ります。
 連れ合いとは、さして会話もせず、もちろん結論などないままに物事が進み、互いに好きな行動をするのを、補完だと思えるのですから、責任は共有。長い年月は、それを許すのです。むしろ、この頃、下手にことばに出すと、聞き間違いやら思い込みやら。でも、何とかやっていけます。
 何の生産性もない日々は楽しい。いえ、文庫の新規事業は砂利販売!?そんなことを思いたいくらいに庭畑にしようという場所から、お宝石が出てきます。ほらあなたのおたから石よ。と。連れ合いに渡します。
 昨日は、それぞれが別な作業を黙々としていたのですが、今日は共同作業。。。まだ家の中が、引っ越し箱に手を付けることができないので、日向ワーク。義母は墨田で育てていた稲の芽ばえを毎日観察するという日向ワーク。庭畑の土起こしと篩分けをして、道路側の駐車スペースに細かい砂利を運ぶのは私でしたが、今日は連れ合いと変わりばんこでしています。引っ越し10日目め。
 おたから石は、何カラット。いえいえ砂利トラ二台は入っていたようです。それだけではなく、何と夏に重機で掘り出してもらった排水パイプの延長が、私が麦を育てていた下にはありました。
 これも、二人がかりで掘り出して、川に臨む崖に柵代わりになるかと持っていきます。義母は埋蔵金でも出てきたら面白いねと言いますが、ここ掘れワンワンはいないので、我が家の作業は、いつまでたっても市場経済に結びつきません。
 

2013年4月19日金曜日

スーパーウーマン

あんた!まだ泳げたんだよ!と義母が言ったのは、先日まだ手直し途中の家の近くの立ち寄り湯で。その現場は、さすがに連れ合いは見ていません。女湯が空いていたのです。このひとは。。。。
 佃の大川で地域のおじさんたちが水練場を作ってくれて私は泳ぎを覚えたんだから。前畑ガンバレはラジオに耳くっつけて聴いたんだ。というのですけど、今の義母を他人が見たらお風呂でおぼれている老女?いえいえ、さすがに綺麗なフォームです。骨折後だんだん不自由になる歩行よりスムーズに見えます。
 その数時間前に、近所を歩いてくると言って出かけて、庭仕事をしていた私たちは遅い帰りに少し慌てて、探したのですけど。そしらぬ顔で迎えに来てくれて良かった。。
でした。まだ、例の洗濯機が届いていません。朝起きて食事が終わったら、さてと、と言ってごしごしと、自分の下着は手洗いで済ませてしまいました。怠けちゃ入れないと、私も自分の洗濯は手で洗う事にしました。これがなかなか気分の良い作業。
 シャドウワークという言い方って何なのでしょう。洗濯板を日向に干して。私たちは日向ワークをしていると思うのです。布団干して、洗濯手絞りでも干して、洗濯板干して、草取り、種まき。なんの生産性もないお仕事ばかり。働く主婦という言い方。何を指すのでしょう。外で貨幣換算できる賃金労働を働くなんてスーパーキャリアに思っちゃ、この楽しい人生は、単に日向臭い懐かしみだけになるけれど、文庫番稼業ならば、この義母のようにまだできる事を自分で少しずつ。それでいいです。あ、!。法人の登記手続きも、ああああ。

 まだまだできあがらない台所とトイレ

2013年4月18日木曜日

憮然として

 出立の感慨も何のその、朝から娘、息子の用事はあったのでしょうか。朝食は基本的に煮炊きしないものにしました。引っ越し屋さんが作業をする中を後に残るもののチェックやら、注意事項を互いに話し、粗大ごみとして出すことになった箪笥類に長年の愛着を思い、それでも粗大ごみシールを貼って、持って行ってもらいます。動かした後の埃を掃き集めているとなぜか桜が一ひら発見。不思議と思っていると、息子があのモデムは後で取り外しに来るんじゃなかったのと尋ねます。モデムの取り外ししなくていいと私が先にした説明の後、すべて外すなどという指示をしたのは連れ合いの様です。それは、後日業者が撤去に来る予定、もう最後に箱に入れて引っ越しやのトラックは出ています。それを迅速に受け取るにはどうするか、そんなドタバタに、取り紛れあっけなく私達は、母と義父、二つの骨箱とともに引っ越しをします。
 転居は、まだ改修の済んでいない状態の台所と続きの事務所予定の部屋。二階の居室もトイレだけでない手の入れる造作になりました。それが全部できていません。義母の体力を信じ、ともかく山の神神社の祭礼に日が良いねとした、引っ越し。
 荷ほどきとこちらでの回線の開通で半日を終えてしまい、本日18日転入届を出しました。
三人で、歩いて行けるところに市役所の支所があります。私は連れ合いの転出にくっついてくる感じです。世帯という括りになっているのです。これはこれで納得するしかない。そうすると、その他手続きで別々な部分を済ませていくのは、それぞれの判断。義母は別世帯での転居登録。そして、また反対方向にある郵便局にも住所変更の手続き。その合間に大工さんへのお茶。まだ台所は使えません。最初の配送有り。残った家に予約登録の商品が届いたとの連絡。あれ?

2013年4月11日木曜日

江東センターの皆さまへ


立花4丁目 増田レア

 

 江東センターの皆さま、長い間お世話になりました。この地での利用は本日の配送で最後となりました。

 千石センター、立花センター、旧江東センター、江東センターと利用させていただき、千石センターでは、組合員活動の様々な仕分をしていると、センター職員さんの別積み、今とは比べものにならない別積みの量でした。野菜は蝋引きの段ボールでまだ配達されていた頃です。運転手より前に野菜の鮮度というトラックでの配達でした。

 その横で、難民支援の衣料品を箱詰めしていて、私たちは事業の箱は使えないので、近所にあった八百屋さんから箱を分けてもらい、なんか報われない。と思ったりしたものです。 同じように、連日通いながら互いの同じような作業に活動も事業も混然一体で、生協の在りようを創っていたのでしょう。専従と呼ばれたヒロミさんやヨロズさん、組合員でも思い出されるすでに逝かれた先輩方が、いつもセンターの事も店舗の事も考えそして話し、私を育ててくれました。佐原の玉子も懐かしい事です。常温でトレー置きで20日は大丈夫。大小混ぜて偏らないように自分の分だけ大きい玉子取ってはダメよ。と教えられ協同を学んだのでした。職員バンドの夢の島アースディ盛り上げもありましたね。

2階の破れたソファーでいつまでも石けんに香料は必要なのかという話をしていたのも、白いお粉を小袋に詰める怪しい作業も笑いながらしていました。

 立花センターは、まさに私のフィールドにあって、行政での雨水の取り組みもした頃です。PTAにも関わった中学校の道を隔てたところだったので、どちらもついでに行き来でき、課題も都合よく消化させていただいていました。中学校の親子活動に、石けんで知ったトンボのヤゴ救出をプールでしたり、50周年事業があった時には紙皿をつくる台紙にこんせん牛乳のパックと、裏白のOCR用紙をもらったり、家が近い利点はありました。大変だったのは地域の組合員活動で取り組んでいたボックス野菜の催しの荷受けを立花でして、私が自転車で運ぶという前夜に雪が降った時でした。センターまでの道は日陰で雪が残り、バランスを崩しやすい野菜箱を自転車で引っ張ったのでした。明治通りはすぐ雪がなくなっていて西大島へは届けられたのです。職員の皆さんの野菜の曳き売りとは別な意味で面白く思い出されます。今週の注文になる墨田の皮革産業についても立花センターの職員学習がありました。また、バイオディーゼルフュールにも実験がありました。地域とセンターは密接でした。当時は石けんの取り組みの赤ちゃんへの石けんプレゼントは今の様に業務ではなく、組合員の取り組みでしたので、ここのセンターで袋詰めもしコース別に職員さんにお願いしなければならないから、曜日とコースで別けるという事に、システムと組合員のくらしが見えたものです。センター祭りも、行政での消費生活者展も互いの学びの場であったと思い出します。

旧の江東センターも、自転車で行きました。バス乗り継ぐより楽でした。夢の島にある第五福竜丸のエンジンも自転車で見に行ったものです。年末のリユース・リサイクルものの回収に間に合わなかった時にも持っていったりして却って迷惑かなと思ったりでした。

年末は大掃除を済ませて正月用素材の配達が来ると、ものすごく充実した気分でした。

この頃も留守がちな私に替わって、家では義父が班内仕分をしてくれて助かったものです。組合員、役員の活動での留守になるので、なるべく配送の方にも全体像が伝わればと、配送日には1枚下手くそな字でしたが、当日の会議・活動内容を書置きしていました。

委託会社の方々の、素晴らしさにも助けられたことが多くあります。声掛けして下さることで、自分のくらしから考えられる事がたくさん出てきて活動にも活かせたと思います。

現在の江東センターは地鎮祭の時からお世話になって、隣の緑道公園も桜の散った今でしょうか。古いセンターから考えれば格段の設備と陣容になっています。カラーも統一されてます。今までの子育て時代、活動時代、高齢世帯を支える配送に感謝をしています。

センターの中には基幹物流さんからの運び込まれてから早朝仕分、配送、そして営業さん。懐かしい電話事務さんは、今はまたお会いできる機会があると思っています。地域の中に組合員のくらしがある、その事を繋ぐ大切な方々のお蔭で、一人の組合員として長く続けることができました。多くのセンター職員の皆さまに感謝申し上げます。

本日で最後の利用。そう言いながら、都県は変わっても同じパルシステムを利用できる範囲での引っ越し。そうそう引っ越しもまた生協の引っ越し屋さんにお願いしてしまいました。今後は新しい先で、それこそ培ってきた思いを少しだけ実行できるように、土に親しみ丁寧にくらしていきます。やはりともに創る。です。

今までの同じ住所で若い世代が残りますので、どうぞ声掛けしてやってください。

2013年4月8日月曜日

花を飾り

3月末から4月初め。年度の変わり目に、大騒ぎで引っ越し作業をしている最中に、北海道の母の縁のところを訪ねる事が出来ました。
 生まれたという岩見沢は電車の通過だけでしたが、育った町深川、父母の出会いの地富良野、縁の人々。実際に見て、話しをするという事。一周忌を前にそのきっかけをつくってもらった札幌の催しは時間のはざまにお邪魔してみましたが、単なるきっかけかもしれないですが大切な後押しです。
 不思議な生涯。まだ、引っ越しに取り紛れて、整理してないのですが、桜の終わる東京から同じ季節にまだ吹雪に迎えられ雪深い道を歩き、母の故郷を体感したことを記すことができます。様々な事が遅れていたり、雑になっている4月初めです。ですが、自分を見失わずにいる大切さがその旅行の中にあったと感じています。4月7日は、飯舘の味噌を受け継いだ味噌の再仕込みとなり、夜、子供が集まってくれて、そして叔母から届いた花も飾り過ごしました。