2012年8月25日土曜日

もう会えない

 
 背中に、王羲之の書の拓のあるTシャッツを、得意げに着ていたら、もし書道に興味があるのならと、満州鉄道に勤務されていた頃の、同僚の書いたのだけれどと春は曙の書き出しの一切が方眼紙にある墨跡を持ってこられたのでした。満鉄の試験に、書道が得意だと言った奴がいてと、たくさんのお話をしていただいたのに、ただただ、これが彼の満州鉄道の資材なのかと、方眼紙にばかり気を取られていた文庫番です。
深川源三先生が92歳でお亡くなりになって、ご指導いただいた、経営というもの、事業というもの、それを超えての、組織代表であるものの心構え。
 もっと、それ以前、「定款並びに諸規約の学習会」で、定款とは総代会で議決した組合員のものだと、協同組合の機関の姿を一言で教えていただいたことが、その後の私にとっての指標であったのです。
 指導というのは、レールを走らせることではありませんでした。まず、人があって、道ができて、鉄道なんていうのは後からのものだ、と教えていただいたのは、小金井の踏切事故が続いた頃。
 だって(いつも混ぜっ返す生徒)先生は鉄道屋さんじゃないですか。そんな楽しい会話の中に根本から逸らさない教えがあって、いつも精進されなさいと。導いてくださったのに、先月です。7月6日には、司会の設定にも悠然として、洒脱でありながら、今、協同に必要であるお考えを小話で示して、集まった全員が笑いながら、一本取られたとなったあのお元気な姿。終わった茶飲み話では皆、年を取るという事がないわね。と話していたのに、あれから二月も経っていないのに、もうお会いするのは叶わなくなりました。明日は告別式が営まれます。
 今まで、見守っていただきました。ありがとうございます。
 
 
 
 
 

2012年8月22日水曜日

家人の誰もいない朝

 同居娘はバイトに出かけました。誰も居ません。昨夜の夕食もまるっきりの一人。残り物でと思いながら、好きなものを見繕って、好きな配膳にして時間をかけて食べられる。
 久しぶりというか、自分のためにだけの食事用意。結婚して以来かもしれません。
これは、新体験。これからの姿を少しは思い描きますが、いつか、このように一人で食べる日々が来るのかもしれません。気兼ねの無い解放感。どう自分を律するのかも自分次第。
母も兄も一人で食べるのが日常だったのでしょう。孤食?その表現は当てはまるのでしょうか。
 食べるものに感謝をし、そこにあらわされるいのちを受け止め、ひとを想い。一人でいるという事。
 今朝を静かに迎え、外出前の時間。自由に使えるなんて、あれを取ってくれ、これをどこどこに入れてくれ。が無いなんて、台所流しの片づけも、お膳の上の置き方も、楽です。
 

2012年8月21日火曜日

タイムロス

 そう言ったら、身体も動かさずにパソコンの前に居ることが一番の時間潰しになるのかもしれませんが、丸二日、インターネットの接続ができなかった苛立ちと、不定休である文庫稼業は、進まないし、何よりセキュリティソフト会社の方の不具合であったので、その究明と復旧に利用者側に不都合が出るなんて、初めての事態でした。
 さしたる仕事はなかったのじゃないの?と言われても、多少の進めているものを抱えながらですから、いつも以上に、ツンケンしていたかもしれません。
 夏草退治の庭通いは、本日は文庫番は行きません。この夏は一泊を繰り返してと両親を連れて連れ合いは行きます。長女も途中乗車です。さあ、のんびりしながら、ロスの部分を片付けていきましょう。一年ぶりの義父母の留守。できること、やりたかったことが幾つかは片付けばいいのですが、何よりも気持ちを寛がせておきましょう。

 

 さて、自分の狭小な気持ちの在り方も、困ったものですけれど、社会と宗教との関わりなどを考えていました。一つには、人によっては、自分の経験・思考の範囲以上を、日常的には考えることができないのだとわかったのです。
 そういう中での宗教者という存在はあるのですけれど、現代社会での「宗教」って、世俗に近い厭らしさが感じられます。大仏の父母は、ともに信仰で結ばれていたのは確かです。ともに実践的宗教者であったと言えます。日々を仏壇に向かうというのではないし、経を唱えれば救われるというのでもない、他者との関わりの中にあらわれてくるもの、もしかしたら運動にも近い中に、それを超えた精神性を揺るがさない二人であり、共通しているものでした。
 それでいながら、互いに持っているそれぞれの信仰を尊重していたのです。マハラバを名乗る私には、格別の宗旨があるわけではないのです。ただ、あるがままでいるのです。
 表面上の形を言っても、その本質が見えないことが、現代社会の宗教を空回りさせてしまうものなのでしょう。空回りするだけでなく宗教と経済と政治を、結びつけていくことは、どこの社会のいつの歴史でもありましたし、これからも、ことばを変えてもあるでしょう。
 

 そして、宗教を隠れ蓑にしてしまった、無法についても、またそうではないと言わないとならなくなりました。そこを逃げにしてはならないのですが、それにしか、よすがが無いとしたら、その隠れ蓑であるのも、また宗教の一面なのかと、卑近なところで考える文庫番です。
 そこまでを、体系としてもあらわしていかないと、市場経済にも、政治の愚にもいたぶられている、3.11以降の光をともせないのだと思うのです。あの山の寺でランプを灯していた父母の資料を整理していかないと。

2012年8月12日日曜日

都会の実り

出穂です。今年も苗からではなく籾の直播き(それも手抜きも良いところ穂のまま)にベランダ田んぼに育てていた稲は、実りを見せてくれました。喜びです。福島の田んぼを昨日はたくさん見てきました。私のような手抜きではなく、丁寧に仕事をしている稲の揃った波がありました。ご多分に漏れず、耕作されていない田んぼもありましたが、営々とくらしの習いとしてきている作業がそこには見えました。茨城の実りを5日に見たとき以上に、切なさがその美しい稲を見ながら寄せてくるのです。ひとが続けてきた暮らし。営んできた人生。断ち切り、分断していかないためには、繋がっていくという確かな実感が必要なのです。
 味噌を一桶乗せた車は、延々としたお盆帰省の流れに入っていました。昨年は帰れなかった人たちは、それでも今年は帰って、お母ちゃんの顔をみてまた戻るんだよ。そうでした。
 その身動き取れない流れの中に嵌ってから、そのことを考えたのです。浅慮で申し訳ありません。味噌でのつながりは確かなものになっていきそうです。
 私の稲穂はこの数年はお正月飾りにしています。今年の実りは、年越しした後に、次の年のお飾りのために、ベランダから降ろした田んぼで育てる稲の種籾とします。
 朝の一瞬に、白く花開いたいのち。一粒ずつに実りの喜びをたたえています。
 食べるという事、いのちの作業です。

2012年8月9日木曜日

神明

義父母もなんとか、一緒に泊まる手はずができて、8月7日は神明の花火大会。山梨県市川大門でした。隣町の庭の夏草むしりで腰痛気味の私達二人と、義父母での泊り。来夏は本格的老々住宅になるでしょうか。 庭の茗荷と新しいお付き合いのご近所から頂く夏野菜で夕食は済ませます。お腹の底に響く、花火の打ち上げの音は、天空を覆う大花火から遅れてきますが、車の中からとはいえ、大迫力。 
 義母は、懐かしいねぇ。ありがたいもんだねぇ。涙が出てきた。と言います。若いうちはさんざん見たけれど、花火を見れるなんてというのに、家の中に居るお年寄りが、楽しむ機会はなかったのかもしれません。それを当然としてきた私には考えていなかった言葉でした。両国は二か所で上げるんだよ。どっちだろう。というのには、少し返答ができません。解っていながら、現実と少しずれた言葉になるのは、思いでの中、想いの中、現実、が行き来するんでしょう。それもまた人のさがと考えれば辻褄は合っている感想だったのでしょう。茗荷の塩揉みで、すべてを忘れるとしますか。

 私は、天空の輝きとは対照に、人というものの闇を考えます。幾らマハラバだ、文庫番だと言ってもその傍らで、置き去りにしてしまうのかという、問い。自問。この解決は一年前の夏も、きっと生れ落ちて背負っているものだと覚悟しているのです。そして、連れ合いとの暮らし。
 闇。
 また、中に入った時と嘯く傲慢。自分の卑小さを言い換える詭弁。それでいて、甘く見た世間に通らないとなると、また弁を弄する兄を、周囲で心配する人々が居ても、その闇に光があるのか。
 同じ考えを持っているのです。どこかで超俗でありたいと、自分の存在をつくり芝居がかった事をする。自分には許されるのだからという振る舞い、相似な兄妹です。
 社会には対応できない心の在り方を、聖俗、差別・被差別、親子、男女、さまざまに積み重ねて半生。 認められない、その怒りで、すべてを論拠としていくところには、大きくは、戦争であったり、未来への人類的負荷であるけれど、年子二人の間に、言い換えれば母を写す文庫番との間に闇を濃くするのです。

 8月9日 長崎原爆忌 

2012年8月6日月曜日

許すこと、忘れないこと

茨城の田んぼも稲穂が波打って、風を受けていました。この実りが正当な評価がされると良いけれど、そんな思いで見ます。会話にならない会話。理屈ではなく感情で物事を見ていくと同じ事実が、全然違って語られるものになるのだと、わかってはいる。解っているけれど、それでも話をしなければならないのでした。不毛であると知っているのです。
 私にとっては、ここの地が自分が生まれたところであること。山の中を故郷とすること。同じ親からうまれたこと。
 今回、話し合いをお膳立てした人がいるにしても、それ以上の事は当人の中にしかないのです。同じ会話として成り立たないのを承知で、夏の閑居山に行きます。どこかで、歪曲された事柄を、片方の考える事実として話していく無理。

 それは、一方におきながら、山の夏、その時間。自分の記憶となるのだとします。そして、許すことの難しさを考えた夜があり、8月6日の朝を迎えるのです。

 

2012年8月4日土曜日

今度は・・・

金曜日夕方に出かけられるのは、そうそうはないけれど、繰り合わせて、断続的に行ける時だけ、それも一言だけを繰り返して、時間になったらさっさと引き上げるので、誰とも会話もほとんどせず、その他のいわゆる集会にも個人としての、いたって自主的参加であるので、誰にもありがとうございます。なんて、言われる必要もない。敢えてあるとしたら、母の遺志でもあるのだから、自分に対しての責任。30年近く母が続けてきたことの引き継ぎ。それも、託されたわけではないから。
そして、法螺貝を吹く。たまたま、東京に住んでいるから官邸前だけど、石垣の白保の海からの法螺貝は、叫んでいる一言以上に、さまざまな連帯、本当は述べたいさまざまな考え。だけれど、必要ない、ジェリコの壁を打ち砕いたように、一人ひとりが、主体としての声を出し続けることが、打ち砕く。分断、抑圧、威圧。そういうのもありありと見せつけられるけど、愚かです。
また、あの安保の時のように、収まってしまうのかしら?いや今度は違う。

2012年8月2日木曜日

やっと、書いたけど

この数日書いているもの、出しているお便り。気合が抜けたように感じられるのです。統一性のない表現。言葉足らずに、誤解を招きそうなもの。書きたいことを充分に表現していない“恥”。
 決してオリンピックなどは観ていません。良いイメージを体育会系のものに持っていないし、さらに浮かれ大騒ぎする心理には、乗れない。国の大小があるにも関わらず国別で競うし、あきらかにスポーツがお金のかかるものになっているし、それで、まるでゲームの勝敗が相手との人間性の優劣の差のようになっていく。嫌なものじゃありませんか。
 だから、テレビの前で座っている義父母の前に関係無しに流れている時に、その騒ぎの一端は少し解るけれど、それだけの事です。
 家事と、出かける事の均衡が取れていないのでしょうか。それとも、家人の動きに合わせての、文庫番の動きに変えているからなのでしょうか。
 
 そうではない、集中してことばを練っていないのです。本当に集中して書いている時は、その周囲の小さな文にも気持ちが入るのです。これは、逆に次の高まりへの散漫さなのだと許してもらえれば、気を取り直して、しなければならないと、自分で思っている事を、自分自身の責任のためにやっていきましょう。そう考えると、あれこれの小さなミスをしていたことに却って、そんな事で落ち込んだら前に行けないと、考えられる大事な躓きだったと気付いたりできるのでした。