2012年12月31日月曜日

2012年大晦日に


 
 2012年末に、長女の嫁ぎ先のお母さんが送ってくれた冊子の、絵です。加賀友禅作家さんの
志田弘子さんの作品です。「きっと、きっと」ーつぶらな瞳たちへー
 
 いのちこそ そして いのちの水  その二枚をアップしてみます。

2012年12月28日金曜日

種綿プロ・・・・

 
 怪しげ。実に怪しげなもの。またこの嫁が・・・・義父に、この茶綿の中の種で、綿が栽培できるかと無理な事を訊くのです。何やらプラットフォームの朝市で、隣のつくばからの出店者から買ったとか言い出したのです。
 そう、今年の春だから、昨年の種が入っているのかしら?わわたでしょうか?
お義父さんは、昔は綿はやらなかったの?お蚕はしていたんでしょう。そう尋ねると、やったよ。と言いました。なんでもやっていたんだね。でも、この中からどうやって種外せるんでしょう。
 そういう機械があったんだよ。へえ、千歯こきみたいの?いや、じゃあ、自転車のペダル回すみたいの?いや、それじゃない、なんていうか。ふうん。
そこまでになった、雲をつかむような綿をつかむような会話は月初めでした。
 山梨には二間続きの和室があります。墨田の家は三畳に板の間とか、変形4畳半とかですので、布団の仕立て直しは、義母はしませんでした。文庫番は、布団仕立てを子供たちに見せたかった。布団皮の上に、縦横に綿を置いてくるっと返す、あの手際よさ、力加減。真綿の敷き方。
学校から帰って新しい布団ができている、ワクワク感。四隅を綴じ付けるのもまた魔法のような家庭の仕事でした。母が富良野の国の子寮で、憧れていた寮長さんは布団仕立ての名人だったとか。語りながらの仕立て作業に心躍ったのです。
住まいで駄目ならと、墨田の消団連のお姉さまたちに、リサイクル活動で女性センターのホールでやりたいと申し出ても、あんな綿埃りになる事嫌だと、取り上げられず。
 あれから幾年月、義父をけしかけて、綿やってみようかなと思ったりしたのです。そういう夢を紡いで、綿を紡いで、これからはくらしを楽しみたいと思っているのです。
 この年の瀬に、義父は管をたくさん繋いで、いのちを紡いでもらっています。
あの、機械はどんなのでしょう。どうやって種を取り出しましょう。答えが語られません。


2012年12月25日火曜日

希望の光



あなたを思い、この一年を過ごせたのです

感謝しながら、新しい日々を見ることができます

賢者たちも、野で羊を飼う人も


宮居に泊まるのではなく

大勢の旅人の、路上にも近く

馬舟の中に、希望の光がおかれます


純白の産着の柔らかさも、父母の慈しみも

あなたこそが、喜びの源

きっと歩む道は、旅人であり

冠るものには痛みがあるでしょう


でも、私はあなたを思う

そして、信頼によって、世界が満ちていく


  「きなり歳時記2007-2008」 マハラバ文庫  増田・大仏・レア

2012年12月23日日曜日

花果山の下



 近々の誰かとの会話で、どうせ個人の暮らしまで衛星でとらえられてしまう時代なのだからと、あったのです。個人の情報なんてどこかで監視されているから、今度の政権でますます不自由になる。なのですけれど、私には、絶対に揺るがない、何物にも侵されない自分を認識できるのです。
 それは、閑居山の頂上の岩坐に乗っていた少女の自分が、天にも地にも一人の存在でいることが解った頃から、今年母が亡くなって、母との対話が自分の中に落ちている。その事もあって、山の上に居たのですが、天にも地にも一人と思う事は自在に宙を飛んでみたら、結局花果山の、岩の下の猿だったように。たいそうな言葉を書きつけてきたらお釈迦様の掌の上。
 だからこそ、自分というちっぽけな存在があって良いと、長く伸びた髪の毛がいつかお猿の尻尾になるかとびくつきながら、もっと自分をさらす、くらしの言葉の強さを思うのです。
 
2012年12月23日のスカイツリー。

2012年12月22日土曜日

一陽来復

 冬至が過ぎて、もう春が来るのが間近。日差しも伸びる一月がすぐそこになりました。昨日は、一日台所で煮物。夕方の義父の面会時間を基準に家族が動いています。
 それでも、進めるべきことはすすめていく。目標からぶれていない事に、そうなのかとまた思います。義父もまた、言葉少ない会話の中で、不必要な入院の知らせは要らないというのです。気持ちのしっかりしている患者さんと、看護士さんたちにも言われますが義母や長男である連れ合いには甘えがでるようで、体位の変換を言いますが、まだ経管栄養なので、慣れない私たちは、看護士さんたちの動きを観てします。
 介護・福祉・医療の在り方と家族の実際には、よほどのコミュニケーションがないとより良い状態にはなりません。障害者の運動も、福祉や病気に関わる情報も大嫌いと否定してきた義父が、その主人公。今までの事はどこへやら、やはり自分の辛さを手助けしてほしいのですから、その意思をどう伝えられるかが、短い面会時間に集中。
 もう少しの経過観です。梅の枝の剪定をしてきた話を連れ合いがしたら、「山梨に行きたい」と言うのです。春を待つしかないです。なんとか、病院での年越しになりそうなのも我慢してもらわないとなりません。義母は、連日の見舞いで行くたびに、今更の義父のああせい、こうせいにげんなりしているのか、こっちが疲れると、病室を出る都度に言います。
 かぼちゃのいとこ煮に柚子湯。一年の息災を願うのです。
 

2012年12月13日木曜日

自分のやってきたことに価値があった

 そういう感想が、ありました。すごい事なんですよ。今の社会状況の中で、振り返ってみて一緒にしてきたこと協同の運動に価値があったと言えるのは、ただ面白かった楽しかったを超えたことばを、またもらってしまいました。
 一人ひとり個性的な方たち。こだわっている事はゆずらずに、おかしいでしょうと言える。そこから始まって、他の人はどうなのかを考える力を持っているし、どうすればいいかをしてきている。
 組合員番号の一番若かった文庫番。この人たちは今でも私の前を走っているのです。より良い葬儀の在り方までが、話の範疇になっています。くらしとは、そうですね。
 ただ、安全な食べ物をではないのです。自分たちのくらしを変えていくとは、という事をしてきたのです。
 そして、今、私たちが、自分たちのしてきた事に、価値を見出していくことが一緒につくってきた生産者・製造メーカーにとって、どれほど大切な事なのか。
 語らなければ駄目ね。でも、遠いところじゃないし、偉い人の話じゃない。身の回りの、私たちの体験を語るのが、価値。
 地域・協同・主体。スカイツリー下塾の最終講は、和気藹々。文庫番に何をさせられるのか、最初は解らなかった、これがどうなるのか今でも解らない。それでもやって良かったと思う。
 そういう事だったようです。あとは、マハラバ的お仕事にしなければなりません。
センターでも、他の地域でも。こういう場面では。そう言われました。それも、今回のまとめをどう表現できるかからですね。そして他の地域は、そこでの主体性があるのではと考えますが、事業でしょう?赤字だったんじゃないの?本当に心配までいただいています。
 そうですね。得たものの大きさが嬉しいですから。いつかは回収できるでしょう。

 先週土曜日の夜に、自分で立てなくなった義父、日曜日は堪えていたのですが、月曜日夜についに緊急入院・手術でした。予後経過は良いようです。
 近代医療に対しての疑義は持ち続け、そうではない単に、医者嫌いを通したかったのか、ぎりぎりまで、病院には行かないと言い続けていました。月曜のお昼はいつも通りに食事をして、それでも午後は容態が良くない様子に、連れ合いも義母も、離れずに介助して。大動脈瘤破裂、寸前。それを取り除いて、人工管を繋ぐ手術は火曜日の明け方4時近くまでかかって、子供孫は全員集まりました。文庫番スケジュールは当然、幾つものキャンセル。だから、この最終講は無理と思っていましたが、術後は病院が責任を持って見ている状況です。取りやめにせず。

 まだまだ様子見です。現在、何事にも決定打は出さないで、粛々と進めるべき事。日々の暮らしの流れは進んでいます。状況は常に変化するというのが物事の鉄則ですけれど、2012年の年越しもまた、昨年とはすっかり違うものです。

 それを考えても、自分のやってきた事に価値があった。と言えるのが、どれほど大切なことばだったのか、生きる、ただ生きる価値、くらしの中にあると思うのです。

2012年12月3日月曜日

青い芽・・芝にはあらず

ゼルニャトコ(麦)の芽が出ていました。キエフの子供たちの歌と舞踏、バンドューラをつま弾く
ナターシャ・グジー。チェルノブイリの子供たちの支援はあの後も続いていたはずです。
 何もして来なかったわけではないし、小さなカンパを大きな力にと参加した人もいたはず。ただ共有感、継承していく中身がありながら、芽を伸ばすには、外の風が強いこともあるようです。
 山梨の庭・・・畑?に蒔いた大麦が芽を出していました。春には青い麦の穂が並ぶでしょう。
大豆のあとには麦が適すると聞いて、ぜひにと願ったのですけれど、そのうちに、義父の語る麦飴づくりの話に、乗っています。浜岡原発に土地の大部分を売ってしまった、分家のそのまた次代の嫁が、もう食事もたいして食べない義父に無理やり、麦畑を見せるのです。春には飴をつくりましょう。
 私たちは、まだまだ新しい可能性を創っていけるではないですか。
チェルノブイリの子供たちが、抱えていた不安は、私たちの世代から、次世代へ渡してしまいました。この地球上で、放射能で汚染されていない食べ物は皆無となったのでしょう。濃度の問題で、あちこちを較べるのは、分裂にもなりかねません。世代も、地域もこころもずたずたにしていってはいけない。伊達東の仮設住宅。支援するという事。お年寄りをそこに、固定するのではない事。技の継承まではならなくとも、自尊の思いは継承していかなければならないのです。
 その時に、では自宅の年寄りの自尊の気持ちを、踏みにじりながら、自分を通してはいないだろうかとも考えます。一緒に暮らすという難しさは、どうしてもあります。農地解放後の私達のクニは所得倍増やら列島改造やら、気が付けば半数の若者が職もなく、年寄りも敬われない社会。その風潮を抗いながらも一方で是としてきた世代が庭仕事をしはじめたのです。くらしからの発言の難しさは、自分の身の回りからの発言に、普遍性を見出し、濾過し、伝えられるようにするという事。社会を進んでいるとして家の中も変えようと抗った女性たち。手段を与えたおのこ共。
 だけど、手わざの大事な部分を、身体で習得する時間を少し、持てなかった。できる事は味噌造りや飴づくり(になるか)。くらしからの発言は自分の小さな気付き。こだわり。カレールーの油!顆粒でいいわ。離型剤の無いプリン。それは貴重な個性。主体性。芽は伸びていく。
青い芝は、踏まれても踏まれても伸びていくと名づけられてきたはず。そこにこのゼルニャトコ青い麦もまた、幾粒かが地落ちて踏まれても糧となる。そういう庭畑が文庫に続いているようにしたい。
くらしからの発言。濾過し、煮詰めて、もっと多くの人の口にしやすいことばに。

すみだこまちの田んぼも、田んぼ替えでした。車で移動できる田んぼ、もう一枚も水が上がったら移します。
 そういう、悠長な路上なのに、道路渋滞に巻き込まれました。朝8時半に墨田を出ましたから、高速に乗ってしばらくしてから、大月から通行止めという事故情報。そのうちに災害となって、詳細が解ると、もし、時間がズレて笹子トンネルを通っていたらと愕然となりました。痛ましい災難。人命も失われています。お悔みする次第です。 
 麦の芽生えを確認して、稲の来年も植える容器を置いて、スタッドレスタイヤを積んで、東京に義父母と上九一色を通って山中湖に出て御殿場から東名高速で戻りました。山梨県内の山道には初雪が、ヘッドライトに照らされながら降りてきていました。
 高度経済成長で、繋がっていたもの。点検は深層までしなければなりません。何故成長を目指したのかも大計として考えてみなければならない。答えはもの言わぬ生き物たちから聞くしかないでしょう。青々と踏まれても踏まれても伸びていく力。そこにただ生きる姿があります。