2018年7月22日日曜日

崩壊からの出発


 呼応することば達に出会っている嬉しさをどう伝えられるか、7月27日に小さな話し合いの場を用意してもらっているのだけれど、そこにどのように話題提供できるだろうか。
 横塚晃一氏の「母よ殺すな」すずさわ書店には、昨年私がたどり着いた考え方が描かれているではないか。
 『重症児殺し事件に対する我々の運動は、マハラバ村への挽歌であった。』あの時代にマハラバ村に居て、共有できることばを語れる者がもはやほとんど居なくなったことを私は残念に思っているのだけれど、相模原事件というやまゆり園での出来事について、私がなかなか論評できなかったハードルはすでに、晃ちゃんの本の中で、取り外されていたのでした。
 立場によっていろいろな見方があり、私の父の起こした障害者殴打事件を、当事者は語らずして居なくなっているのに、ただ巻き込まれていただけの家族が語ってはならないのではないか、ましてや、父が長男である兄の名前をペンネームにしたことで要らない混同が出てしまった、それぞれ別件の裁判。
 裁判ということについて、差しさわりが身内のことばから出る経験を嫌というほど見知ってきて、過去を掘り返すように、私が語ることを自分で憚った、相模原の事例だったけれど、丁寧に考えて行けば整理していくことができるのです。障害者運動というべきなのか、日本の社会形成の一時点というべきなのか、私がマハラバを語る時、それは新しい出発のためなのだと、再認識できるのです。
 各地で、自然災害の被害が出ている中、福島の味噌の作業に出向く途中の店にあった置物に、正体を隠して名乗るボランティアの欺瞞性がカオナシに見えながら、自発性をどのように表現できる言葉があるかと探っていると、少なくともこの本の120ページから123ページの中に『ボランティアに期待するもの』と章立てされてある「ぽぷら」No.6昭和49年6月 という文章は、私の中でのマハラバ挽歌として、ランプの下での夜語りの中のことば達なのです。

 私は、これらを辿りながら新たなことばを綴らなければなりません。

2018年7月16日月曜日

問いは深く


 玄関の郵便受けに、短歌に誘ってくださったご近所の先生が、昨夕封書を一通、ちょっと文通しています。なぜならば、うちから郵便局に行くにも先生の家から隣の郵便局に行くにも逆方向で無駄足になる近さなので、郵便受けを使うお便り交換。
 それは、一人暮らしを選んだ先生が先月の歌会に行く車の中で、仏教とキリスト教の違いをご質問されたからなのです。うちの墓所に曹洞宗のお墓と、母のベルナディッタ・マルガリータの墓と並んであることも、私の母がカトリックのままだった事も知っての質問でした。この通りの家々にも、戸別訪問の宗教勧誘は時折パンフレットを携え連れ立った数人がくるのです。人生の終盤に、様々な思いを抱えておられる先生からの問いは、「宗教が心の救いになるか」というものでしょうかと、そして私は寺というには寺らしくもないところで育ち、答えになるとも思われないけれども、心の救いを求める事とは別な次元で組織的にお金を集める宗教があることを、お伝えしたのです。その返信も郵便受けで。
 先生には歌の中で心を満たされるものがあると思うのです。先生の藤房を詠んだ歌は、「蝶を蜂をあまたいざなふ藤の房われもとうろり蝶のごと寄る」と発表されました。
 うちの庭の藤は撮り損ねたので、今年はじめて咲いたノウゼンカズラ。これも多くの虫が寄ります。この苗は斜向かいのおじいちゃんがくれたもの、3年目でやっと花房を付け風に揺れています。どこか、私には天上の花にも思えるものなのです。
 花も虫もまた我と同じ、自他一如の中に仏教(天台宗)もカトリックも選ばなかった私は生きています。
 生きている、この木の実をまたほじくって、一つのいのちを養って、川にポトリと落ちれば流れ往ってどこかの岸に生い茂った木になったかもしれない、そういういのちが、私の中に有難く来るのです。7月の鎮魂。兄に何か便りもしようかと。

2018年7月13日金曜日

有りました!ありました。


 屋根裏の資料を片付けていて、母の本棚から移した段ボール箱の中に、晃ちゃんの書いた「母よ殺すな」がありました。どこかにあるはずだけれどね。と亡くなった母と話していて、預けてしまった資料の方だと思って、自分では読むことを諦めていた一冊。
 今月は7月27日に「相模原事件を超えて」という語り合いの場をコンセプトワークショップ湯島で開いてもらえることになりましたが、障害者運動をされていたり、福祉事業の場に居たりする方々が、より詳しく私より青い芝の運動に関連することを知っていることもあり、自分は単なる話題提供者だといつも思っていました。古い「全国青い芝の会」などの運動の基礎資料でもあるこの本は、閑居山には重ねてあったものが、敢えて読まずともと過ごしてしまった40年以上。やはり母のところに置いてあったのでした。そして今は私の引き取ったものの中に。
 マハラバ村についても、初期の青い芝の運動についても、さらには父についても他の人の書かれたものは、私は距離をおいて受け止めてきていたのですが、自分が資料を辿るとしたら「転草」と「母よ殺すな」は読んでおかなければと考えていた片方です。
 内容については、諸所で引用もされているものですが、文庫番として探して保存しておく役割の責任が一つ果たせました。
 相模原事件を超えて・・・・これからの社会を構想するにも

2018年7月6日金曜日

今年の7月6日に


 モジズリ=ネジバナがやっと咲きました。生協の商品案内で購入したもの。なかなか土に合わないのか、4株のうちの残った一つです。今年もう一回買い足しました。それも根付いたのは一株のようです。百人一首を遊びの中で教えてくれた父の、歌詠みの声を思い出します。そのかるたは祖母の使っていたものでした。一回り百首が終わると、古い箱にきちんと収めてまた、次の日にも取り出して、それは冬休みの楽しみでした。私の手元には兄が結婚の祝いとして持たせてくれたものがあります。子供たちと正月遊びをすることができました。みちのくのしのぶもじづりたれゆえに・・・・川原の左大臣源融。父はかならず作者名も読むのでした。かるた取りを競い合うのを目的としていなかった父は、一首ごとに何かしら、その歌にまつわる話をしてくれていました。押しつけがましい蘊蓄ものではなく、歌詠みの付け足しのように、聴いて自然に耳から記憶するようないわば暮らしの中の訓育でした。この小さな愛らしい花が歌に詠まれたモジズリなのかと、山の庭に自生したのを母と見つけて思ったものです。
 山にはヤマユリもところどころに咲いて、花が香り立つと父が、母にヤマユリが咲いたことを告げるのでした。小さな喜びが香りとともにあった会話でした。
 やまゆり、今私は何を語ることができるでしょう。他の人たちに何を考えるのかも聴きたい。今月は湯島で話し合う機会をいただきました。
 今年の父の命日7月6日は短歌の勉強会の日となって、花の写真は雨が降る前のものです。ヤマユリの苗も先日川口湖方面に行った帰りに買ったのでした。