2014年9月26日金曜日

知るや知らずや


 かぼちゃの収穫をして、今年は二個。それも一個はバターナッツ!どちらも私の掌に収まるくらいの小さなものです。ハロウィンの楽しみになります。
 そんな小さな収穫を庭からいただいて、里山の大豆も順調です。草はどんどん生えています。もうそろそろ今後をどうするのか見えるようにしなければと思っています。
今は、胡麻と棉、そして、野草の様に茂ったホーリーバジルがあります。人参と白瓜は終わりました。充分に私たちを楽しませてくれました。赤紫蘇も、種を落とさないうちに抜きました。
 でも、このかぼちゃ。庭のお嬢さんがいち早く花開いてしまったのは、あえなく消えてしまい、その後をとった二番手のものが緑の方です。
 特に縁付けようとも思っていなかった連れ合いがびっくりしたのがベージュ色のバターナッツ。最初はかぼちゃだと思っていなかったようです。昨年種を残しておいたことも知らなかったようです。どちらも冷え込みで茎も枯れてきたので、色付きはもう少しと思いますがこれ以上は大きくならないととり込んで玄関の下駄箱の上に置きました。
 そもそも元肥が無いところに植えたのでこの大きさで仕方ないです。かぼちゃは追肥ができないと後から知りました。だからこの実を採って茎を片付けてそれから、来年のためにコンポストから生ごみの半年分が熟成した堆肥を、かぼちゃのあとの掘り起こした地面に活けこんでいきます。そう義父がかぼちゃは毎年同じところに植えても大丈夫だと言っていたのは証明できるでしょうか。
 今年の収穫、そこから来年のトライが始まります。三度目の正直になるでしょうか。春にはまた秋冬の熟成させる生ごみ堆肥を庭に活けます。義父は冬の間に冷たい霜の降りた地面の下で堆肥が土づくりをしている様子も、話してくれました。
 お彼岸が過ぎれば九月も終わり、新しい年に向かいます。この期間にじっくりと考え事をしたいものです。
 お彼岸のお中日は、ちょっとばたばたと薪運びもしましたが、前夜から水に浸けてあった小豆を煮て、濾して晒して餡にして、おはぎを拵えました。そして、大豆はずんだにして、昨年栄子さんに振舞われたおはぎのようにできるかと、擂り粉木で潰してずんだだだ。亀戸の公園は遠くなりずんだだだ。小豆は晒し餡になるまで、水を替え沈殿させて、上澄みを流してという事を三度繰り返したので、朝から煮ても出来上がりは遅くなり夕方のお墓参りになりました。庭の花とおはぎを持って連れ合いと二人歩いて秋日和の夕方を、共同墓地まで5分程度。お墓の横に植えたお茶の木にも花が咲いていました。
 これからの事。先に逝った人たちは、それをどう迎えたのでしょう。そして私たちは、これからという、その時間の間に、静かに沈殿させ、上澄みを流し滋養深いものを得らることができるのでしょうか。季節は過ぎていきます。
 
 

2014年9月23日火曜日

双面水照月を観て

 歌舞伎座での初観劇は、先に菊畑があり、その後が法界坊続いてその浄瑠璃物が双面水照月でした。吉右衛門の演ずる法界坊と野分姫の二人の霊が合わさって、この世にあらわれる浄瑠璃に、結構刺激が残りあれこれを考えて、話しています。

 怨みを残して死んでこの世に出てくるなんて、死んだ側のことじゃないわよね。生きている側が怨まれていると思ってしまうから、見えてしまうのでしょう。それは、死ななくってもそうよね。現実の中でもそういう思い込みがあることが多いのじゃないかしら。
 私たちは不信心者なのでしょう。いたって現実対応でお彼岸も過ごしています。
 排外主義というのもそうではないでしょうか。どうしてあそこまで、口汚く他国の文化を貶められるのかと残念です。それはひいては自身の狭量さと劣等性を晒しているだけなのに、そうせざるを得ない何かに動かされているのでしょうか。在りうるのかどうかも不確かなことまでも、事実であるかのごとく、そして些事を厖大に言い立てる。それも、観ているとどこかおどろおどろしい感覚に捉われてしまうのが嫌です。差別も似たような構図なのかもしれないです。そこはもう少し深く考えなければならないのでここでは論とななっていません。真のリーダーとは、そのような人の心の落ち着けどころを、見せていく事ができる言葉をもっている人であってほしい。煽るのではないものです。非業の死を遂げたものを神として祀り、道端の行き倒れはその集落の者が無縁仏として葬ってきたのも、打ち捨てておけない生きている側の論理ではないでしょうか。
 私が、閑居山に居る兄の事をいつまでも気に病むのも、どこかで突き放せない自分自身を不憫にしておきたいことなのです。多分そうです。そして他人様から、身内を放っておいて悠悠自適だとか思われてはと、事業にもなりたたない文庫稼業にあくせくしているつもりなのです。
 さすがの、演技に引き込まれてあれこれ考えて、朝の冷え込みに夜明けを見ます。今日はおはぎを作って、お墓参りをしましょう。有難い親たちは私をも見守っていてくれるのですから。

2014年9月19日金曜日

目利きに会いに














予定以上の大人数だけれど














 本日は、またまたパルシステム山梨の一宮センターの企画に出かけていきました。
 登録の甲府センターの企画には日にちがとれずまだ参加もしていないのに、連れ合いに見せると、行く気になる催しが上手く開催されてます。
 シーボン昭徳さんの学習会と調理実習、試食。先日は県の男性の料理教室のOBの趣味での調理の会に、月一で申し込んだ連れ合いは、今後どうなるのでしょう。台所の主の顔をしていたい私は??
 産地からの直接の声。いかに普通の消費者を捉えるのか、連れ合いを横にみながら、初心を忘れそうな自分をたしなめます。だって、この包丁さばきを見つめる組合員さんたちは、毎日台所に立っている自信と責任をみなぎらせているのです。そのまなざしが、生産者をも見ているし、南の海の経済的水域も見ているのです。消費者は責任の主体者だと、ここには出さない囲んでいる方々の表情は物語っていました。多世代、夫婦参加、初めて魚をさばいた若い人。良い企画でした。そして美味しい時間を過ごせました。

2014年9月17日水曜日

ベルナデッタ・マルガリタ

 

 ととさまは、フランシスコ・アッシジ、かかさまはベルナデッタ・マルガリタ。。。
昭和二十七年の「キリストに倣いて」に母の洗礼名と、洗礼をいただいたヤヌワリオ神父様のお名前が書かれて、その日は九月の十七日。
  母は、すべての人への癒しの手と、信仰を守った二人の聖女の名前のままに、父と会い茨城の寺に嫁いだわけです。
 その後の母の活動を思うと、相応しいものだと思うのです。もちろん、人間としての、普通の喜怒哀楽の中で生きていたのを一番身近で知っているのですけれど、だからこそ、どうして清らかな在り方を貫く意思を、魂を持ったのかを考えます。今の文庫番の名刺は、母の見たはずの石狩平野へ沈む夕陽を昨年の春に撮った画像を貼り付けてあります。大仏照子覚書きは、きなり歳時記の連載が終わった時からぼちぼちと書きとめていたのですけれど、形にならないままです。少し気合を入れたいものだと思う日です。
 先日、東京まで出た帰りに受けたメールは訃報でした。青洞の家の高橋さんが亡くなったというものです。間が悪く、東京に引き返すわけにもいかず、客迎えもあり、葬儀にも行けず、惑う昨日でした。それは30年前に、母から、青洞の家の就学児闘争に皆行っているのよ。と言われても、あの時は近くに住んでいながら、通りの角まで行くつもりで出て行きながら、自分で無理だと引き返して、夕飯を作っていた自分が重なって、暮らしを楯にして、参加していないと嫁いだ者である事の中でもがいていた姿です。また今、なぜ動かないのか。言い訳ばかり浮かびます。さあ、今日は前に進まなくっちゃ。
 

2014年9月3日水曜日

桑畑の上に


マハラバ村全景


 8月の学習会でも資料掲載したこのプレハブ三棟と中腹の庫裏の見える閑居山の写真。三階と言われていた建物は竹藪に隠れてしまっています。
省みれば、その下に山の麓ぎりぎりまであったのは桑畑だったのです。

 8月の末から二泊三日で岩手、福島に行ってきましたが、二泊目は仮設住宅の栄子さんのところに泊まり、お蚕の話を沢山お聞きしました。今回の文庫番の旅の目的が、仮設住宅と同じ伊達市内の入り金真綿石川彦太郎商店さんの訪問にあると知って、たくさんの思い出を教えていただきました。
 一晩ゆっくりくっちゃべりたいねぇ。と味噌の天地返しの前後に言われていて、家を出ることができたついでに泊めさせてもらって話をして、そうするとどうやら真綿屋さんに寄る時間もできそうだという計画だったのですけど、思いがけずに栄子さんのいろいろを引き出しました。それこそ繭から糸を引くように、丁寧に訳の解らない私に教えてくれる糸口を見つけながら、幼時の暮らしを語ってくれたのです。それが、まだ養蚕をしていた頃の茨城の風景と繋がり、なおさら話し込んでしまいました。
 蚕の桑の葉を噛む音。蚕を育てるところの温度を保つために、冬の間に蚕さん用の炭を焼いてあって、梅雨時には囲炉裏を焚いて二階を温めていたところに、従姉妹さんと寝ていた話。藁ダに育てていた蚕。その糞は畑の肥料として戻した作業。そして親戚で赤ちゃん=オドッコが生まれて見せてもらいに行ったら、赤ちゃんの頭には真綿帽子が被せてあって、おばあさんが抱いて出てきて見せてくれたお話。(閑居山の下のあたりでは赤ちゃんは茨城弁で赤ちゃんをオドメと呼びました)
小さい蚕の食べられる桑の葉と、繭を作る頃の蚕の食べる桑の葉の違い。その音の様子を聞きながら、温めたり、餌を加減していた女の人たち。幼子を慈しむ生活は、自然からの導きにあったのでしょう。女の人たちを季節で雇うという事はその家の主婦は蚕仕事以上に忙しく、目配りができないとならなかった事。そして自分たちでも糸繰りも、染めに出して反物にすることもできたくらしが、目に浮かぶ様に語られました。合間にお味噌の話や今回の二地域での中間貯蔵施設受け入れに対しての気持ちも話してもらったのですけれど、食べ物や衣料を自分で作れるくらしがどれほど大切なのか。そこを文庫番はどのように書き留めていけるでしょう。それこそ山仕事讃歌の続きになるでしょう。次の訪問先が、予約無しだと聞いて、珍しい人もいるもんだと、送り出されました。

 この写真、山の麓ぎりぎりまで桑畑であったというのは、東向き斜面のこの閑居の地は、食用の畑作もできない土地であったことも写しています。この山腹で、私たちの口に入るように、畑を耕した若き母の苦難を思うと夏草くらいにすぐへこたれる娘は、不肖の娘です。今居る山梨県の中央市のちょうど家のあるところもシルクの里となっていますが、もう養蚕農家は一軒しかないという事です。懐かしい時代を書き表すのではなく、これからの時代をつくる、食も衣料も自分たちの手技にある社会をどう書いていく事ができるでしょう。


伊達市ホームページから
http://www.city.date.fukushima.jp/soshiki/87/144.html

入り金真綿石川彦太郎商店