2013年1月29日火曜日

異邦人

 
 上野の東京都美術館で開かれているエル・グレコ展を観る時間が取れました。先に行ったもの が一緒に行けば良かったと言っていた意味がなんとなく解る気がします。
 無原罪の御宿り。ギリシア人でありながら、スペインを代表する画家。私の中でのグレコは異邦人という生き方だと思ってましたが、今それは根無し草を言うのではなく、外来種のような言い方なのかと考えられます。
 先日の「パルとは大きな協同」という話が出たのは個人対応型無店舗事業という呼称が通じるかどうかという時でしたが、事業以前の個人とは何をさすのか論議が十分にできていない社会です。
 それは、私にとっては永遠のテーマ。苗字にあらわされるものと己。
 戸と個。それらの未整理な個人対応論議は、疲れたものです。
今、引っ越しを前にまた、制度上の手続きをいろいろと見ていると、個というのは難しい概念だとつくづく思います。だから、当時の論議の中で私は異邦人。
 
 父の描いたベニヤ板の荊冠のイエスの絵は、グレコの影響があったと聞いています。器用貧乏であった父。寺に居ながらサレジオ会の神学生。世田谷から茨城への疎開。
 その絵を山梨の家に持って行ってあります。



2013年1月25日金曜日

結果としてパルシステムの組合員に

 義父の死んだこともあって、今までの班(グループ)購入が終わって、引っ越しも含めて、いろいろな手続きをしています。いよいよ個配になりました。これで、都県をまたぐとなおさら実感するのでしょう。

 頑迷な内向きな活動頭の集まった会議で「『パル』とは大きな協同の意味だと話していました。」と教えてくれたのは尚美さんでした。今、文庫番が協同の意味を探ることができるのも、主体なき協同はないと考えられるのも、この時を経ているからだと思い出されます。
 昨日は、つくばに行って、どうこれから東日本の食の安全を考えられるのか、里山保全と除染の行きつく先を考えられるのか、本当は溜息のつきたくなるくらい、大きな課題を感じながら、関わるという自分自身を見出していたのです。新たな山仕事のテーマなのです。
地域を、時代を跨いである社会に開かれた協同を私も、呼びかけるのです。それが、先に逝った方々へのお返しになっていくとも考えられるから。
 

2013年1月21日月曜日

ある回天乗りの死

 2013年1月18日午後5時。妻と長男家族と二男が見守る中に脈拍を表示していたモニターは0となり、波線は直線を描いていました。医師の確認は午後5時13分の死亡となります。
直接には肺炎となる義父の死因ですが、昨年12月10日の大動脈瘤の手術から、誤嚥性窒息、心肺停止はすでに年越し前。そこから新年、松も取れて、初雪も都内に残る寒のうち。
 意識が戻らなくなってからの20日間は、毎日顔を見に行き、その日々の出来事を声掛けしながら、義母をはじめ皆、心の構えをし、どのタイミングで、近しい方々への連絡をするかなどはかりながら、ただ、人のいのちの在り様を、医療の中で考える時間でした。
 万が一の覚醒があったとしたら、86年の体力がそれを起こせられるか、くらしはどのようになるのかも想定はするのですけれど、幾本ものチューブに繋がれ、呼吸ですら機械的というには、あまりにも機械によって送られているだけの、身体。人の意識の在りか、魂とは。そしていのちとはを、病室という中で家族として看ながら、また考えているそれぞれ。そして、日常は進んでいく時の刻み。
 閉ざされた、固定された空間で、計器の立てる音と、送り込まれる空気を表すモニター。数字で明かされていた生存。
 静岡の浜辺の、農家の七男として生まれ、帰る道のない人間魚雷の訓練を受けながら、生き残った敗戦。東京に出て、働き子供を育て、仕事を終え。その故郷は今は原子力発電所を津波から守るため、より防波堤を高く作るところとなってます。
そういう義父の生きた時間は終わり、通夜・告別式も終了したのです。

2013年1月15日火曜日

ボーダーレス

こんな言い方、義母が同窓会に行っていた頃教えてくれたことば。女学校時代のお友達の事。大人になっての交流を、ご婦人方でして、あの人は普段は五十三継のモンペで雑巾がけや料理をしている東海道だけれど、会に出てくるときは微塵も見せないお洒落よね。そんな話でした。そういう暮らしぶりは清貧とはまた違うのでしょう、家を切り回す「良妻賢母」を目的としたのか、女学校の卒業生の評価ではごく普通の切り盛り上手の暮らし方を言っていたのです。
 女正月、小正月。成人式。どんな晴れ着もハレとケがあってのものでしたけれど、今の衣料品はインクプリントの和服もあれば、普段着にもファーが付いていたり。どこからが、晴れ着なのか普段着なのか、区別が無いということは、文化から遠いように感じられるのです。家内ではないですが、内と外。ボーダーがはっきりしていたものです。
 それは、くらしの様々な面にあった区切りが、人を思慮に導いていたのが、軽んぜられるようになったのかもしれません。いのちの重み。
 心肺停止になっても、意識が戻らなくても、人工呼吸と、経管栄養で生きていける義父。行き来のボーダーがますます曖昧になってきました。排尿が少なくなってきて、今後できる医療についての説明を聞くのです。すでに義母は、今まで生きてくることができたのだから、このまま夢見る如く高いところに行って私たちを見ていて。と面会のたび義父のベッドの横にいくと語ってくるのです。しかし、やはり割り切れるものでもない、呼吸の続く姿。
 義母と長男である連れ合いと、私。医師の説明を聞いて、回復の見込みと治療のリスクを考え、急変の場合、不必要な、これ以上の施術は要らないと義母と連れ合いは同意。義弟には病院に説明を聞きに向かう前に相談した上でした。私には判断できない境界でもありました。そのような昨日、雪の降りはじめ。義父のいのちは、降り注ぐ何かがあるのでしょうか。私達にも堪えろと天からのことばが降ってくるようでした。
 今日もまた一日を継ぎながらいます。

2013年1月11日金曜日

冬から春へ

 東日本大震災から1年と10ヶ月なのか。。。この一ヶ月間が、あまりにも緊迫して過ぎてしまったので、わかっていても、その重ね合わせにまた、いろいろな事を考えます。
 義父が倒れたのが昨年の12月10日夕刻。搬送、緊急手術が11日明け方まで。大動脈瘤剥離。
術後一旦は回復基調だったので、一日5分程度の集中治療室の面会でも会話ができていました。
でも、肺に痰が多く、栄養も、経管となっていたのですが、一般病棟に移った日の深夜。痰の誤嚥でしょう。心肺停止となったとの電話。それは暮も日にちのない28日未明。3時過ぎ。そして私たちが自宅から車で乗り付けたときにはまた、集中治療室に戻っていて、蘇生を施したにしても、脳に酸素がいかない数分があったという事で、意識が戻らない。そんな中での年越し、2013年を迎える事となったのでした。現在も、意識は戻っていません。人工呼吸器は気管への直接の管となり、少しずつ、スプーンで流動食だったのは腸への経管栄養。毎日の面会にも応えないまま、日にちは過ぎていきます。もともと、文庫番は静かな年越しをしますと宣言していたのですけれど、家族全員が、一刻一刻、息を詰めるようにして、いつ何の連絡があるかと張りつめたままの大晦日、新年の行事。連れ合いは初めての神社の年番をしなければならない。新しい出発へ向けての思いもあって、この一ヶ月の現実への対処。
 日を追って、生身の義父の魂はよもつひらさかを、彷徨ったまま。こちらに戻るようにとの声に、生体反応とも言い切れない、反応がたまさかあっても、目を開くことはなく、その向こうに何を感じているのか。そして義母、連れ合い、周りの家族。現実の日にちは過ぎていくのです。くらしの刻みは、変化なく、寒い冬だねと言いながら、季節の中、衣食住。日々は過ぎて日足は伸びて、春遠からじ。くらしといのちの刻み。
 一ヶ月が過ぎたところ。退院は私の運転の車でと言っても、通じない今日でした。

2013年1月9日水曜日

そのあいだ

 差別と被差別の間を見てきたように思います。自立しようとした障害者の共同コロニー。そこに居る健全者。健全者と健常者。寺という人別外の世界。村の生き方。都会からの疎開。農村で農業をしない暮らし。
 その中に表出される、原初的な感情。そこに、極高の宗教論と政治社会観を持っている親。普通教育の学校の枠では学ばなかった者たちが、何事も吸収しようというエネルギーを持っている中で、親の教えという本能的な求め。
 極貧であったはずです。それなのに、豊かに守られていたこと。山から与えられる恵みを素直に受け取って。そこから勤め人の世界に放り出てきて。今がある私。兄は、とどまり深く埋むのでしょうか。
 数年前にあった格差論議。当事者という言葉。違和感。
格差とか、当事者という表現にすると、どこかに原初のひとが抱える深い精神や感情の動きを、経済や、仕組みで言ってしまうような感覚が文庫番にはあったのです。
 どうして、愛と正義を否定すると障害者たちが考えたのか。障害者です。障碍者でもなく障がい者でもない。もはや、歴史の中の表現にしようとしている感じがしますが、だからこそ、その歴史を語るものとして、障害者運動のことばで残します。
 そう書けないものは、表層を言っているのだと感じてしまう。格差社会をどうとかと感じたのと、同じように貧民救済でいいのかという疑問。

 
 そこまで考えてきたとき、その見つめてきた「あいだ」。協同の生まれるところが見えてきたように考えられるのです。

2013年1月1日火曜日

2013年年明けに

 
 この2年、曇天の影響などもあって河川敷で元朝を迎えていなかったのですが、2013年は
下の娘と一緒に、速足で荒川河川敷まで行ってみました。雲の中に入り込む前の一瞬の曙光。
そしてスカイツリーに傾月。
 この町。この川。新しい夜明け。