2013年1月9日水曜日

そのあいだ

 差別と被差別の間を見てきたように思います。自立しようとした障害者の共同コロニー。そこに居る健全者。健全者と健常者。寺という人別外の世界。村の生き方。都会からの疎開。農村で農業をしない暮らし。
 その中に表出される、原初的な感情。そこに、極高の宗教論と政治社会観を持っている親。普通教育の学校の枠では学ばなかった者たちが、何事も吸収しようというエネルギーを持っている中で、親の教えという本能的な求め。
 極貧であったはずです。それなのに、豊かに守られていたこと。山から与えられる恵みを素直に受け取って。そこから勤め人の世界に放り出てきて。今がある私。兄は、とどまり深く埋むのでしょうか。
 数年前にあった格差論議。当事者という言葉。違和感。
格差とか、当事者という表現にすると、どこかに原初のひとが抱える深い精神や感情の動きを、経済や、仕組みで言ってしまうような感覚が文庫番にはあったのです。
 どうして、愛と正義を否定すると障害者たちが考えたのか。障害者です。障碍者でもなく障がい者でもない。もはや、歴史の中の表現にしようとしている感じがしますが、だからこそ、その歴史を語るものとして、障害者運動のことばで残します。
 そう書けないものは、表層を言っているのだと感じてしまう。格差社会をどうとかと感じたのと、同じように貧民救済でいいのかという疑問。

 
 そこまで考えてきたとき、その見つめてきた「あいだ」。協同の生まれるところが見えてきたように考えられるのです。

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