2015年12月25日金曜日

世界中で


 何の諍いも争いもない、そういう日を私は願っています。

頂いたカードを飾り


 あなたを思い、この一年を過ごせたのです
 感謝しながら、新しい日々を見ることができます
 賢者たちも、野で羊を飼う人も

 宮居に泊まるのではなく
 大勢の旅人の路上にも近く
 馬舟の中に、希望の光がおかれます

 純白の産着の柔らかさも、父母の慈しみも
 あなたこそが、喜びの源
 きっと歩む道は、旅人であり
 冠るものには痛みがあるでしょう

 でも、私はあなたを思う
 そして、信頼によって、世界が満ちていく


                                きなり歳時記2007-2008 再掲
                                     マハラバ文庫 増田・大仏・レア

2015年12月22日火曜日

冬至2015年


 今年の冬至。入日の時間は少しだけ伸びて来て、一陽来復。
そんなに冷え込んだ日ではなかったので、大掃除の前準備とも言えるさまざまをしました。その実は、年末にしておこうと思っていた在庫確認。
 それなりに、減っています!と大きく言いたいところですが、ぼちぼち以下の様子。新刊は一ヶ月半を過ぎ、やっと落ち着いた感じになっていますが、文庫番が私的都合で営業の時間をほとんど取れてないので、読んだ方が、またお奨め下さらない限りは売れないと言うさま。朝市の束子箒ははけて行ってるのに。
 一年。また陽が伸びて、すべてのいのちが時を得て。その中に強弱があるのでしょうか。
暖かかった日中に、やっと胡麻を莢から落としました。これから篩ってゴミを風に飛ばします。
美味しく食べると言うのは、選別をしていくことなのでしょうか。どのようなものにもそれなりの役割があるはずだと、そっと置いておくことができればいいのにと、でも食いしん坊だから、選り分け異物を取り除きます。異物と言っても、莢や葉っぱなのだから胡麻は胡麻。
 共同コロニーとは、自発的共同体とはどういうものを言っていたのでしょう。これからのこの国でまた現れるのでしょうか。優劣ではなく、それぞれの個性だから、お互いに納得できるといいのに。
難しいことなのでしょう。男女を問わず自分にない能力を持ったものとは、そこに比較して自分を観てしまうのが軋轢のもとなだと、知っているのに、感情というものは克服できにくい。そういう個々が集まって、生活をともにしていく難しさ。市場主義だけがこの世の競争原理ではない、人の不条理。愚かさを笑えない。
 新しい、先の見えるというのは何なのか。味噌を小分けしながら一番思っていた事でもあるのです。若い者にも、老いた者にも、すんなりと互いを認めることができればと。
 これからの終の住家を考えるにしても、文化を伝えるにしても。     文章未了


2015年12月16日水曜日

葉書にて


 母の本を出して、一ヶ月余り。慌ただしい中にいろいろなことばを頂いています。
どれにも、文庫番の気付かなかった内容を感じ、それぞれに受け止めてもらえたことを感謝するばかりなのです。その中に、札幌の病院から名取さんからの葉書もありました。なんと有難いこと。
 ご賛同をお願いした方々は母との交流があった人達だったのですが、その中でも、大仏照子の生涯とともに居た名取さんから、もう一度、書き足すべきエピソードを、綴って送ってもらえたので、父を語る際には、抜かしてはならないものだと、どこか、浮遊していた刷り上がり後の自分に叱咤をいただきました。

2015年11月11日水曜日

新刊のご案内!


 自分の親のことなど他人さまには読み難いものを。
書きながらもそう思っていたものだったのですが、文庫番は一冊の本として出しました。
どうしてなのかは、書かれています。冊数も少なく、力ない小社の販売ですがご興味をいただければ幸いです。
「無縁の地平にー大仏照子の生涯ー」2000円プラス税(2160円)マハラバ文庫 10月20日発


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2015年10月29日木曜日

有難くて


 文庫番が、母の記録を書いているという知らせに、出版の折には送料もかかるだろうから、使って欲しいと一冊のファイルが贈られてきて、お互いの供養になればと有難く思うのです。
 あの、掘りごたつに温まりながら不自由な指先で一枚ずつの切手を整理していた姿。言葉が不自由であったけれども、鋭い感性と知性があって、そのもどかしさの中に、コレクションを続けていて、あれから40年は経つのでしょう。彼も亡くなり、そのご遺族さんからのお申し出。
 もったいなくて、これらを使ってしまっていいのだろうかと思うけれど、母の記録というのは実は、一人の生き方ではなく、繋がっている大勢の人達の生きてきた証。
 今回の本の中には、母の手紙や文章も多く入れてみました。そして父の手紙も。
あの頃を。文庫番も知らない月日を、母を、私たちを支えてくれていた大勢の人達。教えると言うのは実は教えられているのだと、父は言っていたのです。彼達の人生も断片として見えてくる本になっていれば、このお志しに報いたことになるのでしょう。
 

2015年10月23日金曜日

色校正が来ました


間もなく

 4月に一旦脱稿した文章なのですが、やっと本校了。出来上がりまでに時間がかかっています。
いろいろな問合せを重ねて梅雨に入り、返事を待って、やっと動き出し遅れに遅れたものですが、その後の校正で、出るわ出るわ文庫番の誤字脱字。
 再校、三校と重ねましたが、夢にも出ます。母の面影ではなく印字の列。その中に思い当たる誤字が浮かび上がってくる夢だなんて、試験前に一夜漬けの教科書の文字列の夢を見た時みたいでした。それでもあの頃は体力も気力もありました。
東京などと山梨との行き来の日にちの中に、赤ペンを入れていきましたが、まだまだ不安。
でも、本づくりは面白い仕事だと進めながら今回も思います。
 読みやすいい字体に趣のある色を選んでもらっています。
 長春色というのも初めて知りました。刷り上がりが楽しみです。
株式会社とは名ばかりの、家内労働で(社長兼務)、発送していく作業が間もなく始まるのでしょう。この数日の風邪気味も追いやって、体調整えていかないと。
 

2015年10月7日水曜日

感謝に満ちる秋


 この楓も種を付けていたのですね。いづれ飛んで行くのでしょう。明々後日の資料を作成しながら、穏やかに床に就きました。目覚めの気持ちの良い朝です。
 明けのカラスが鳴き交わし、村のお寺の6時点鐘が聞こえてきました。
そうなのです。いつも自分では大変だ、荷が重い、もうできない。そう思うような時にいつも支えてくれた人が居た。忘れてはいけないことなのだと思うのです。今ある事は過去を積み重ねて、それが資料作成の中に現れてきました。その時々は、精一杯に取り組んできたことが、不充分かと、未熟な考えだと思いながらも進んできていたことがなければ、ふり返る事もできないのです。
 畑で驚くほどの収穫物に、自分たちの足りない労働力や技術の下手さも感じるのですけれど、始めることが必ず終わりも見えてくる。ただひたすらに同じ単純作業を繰り返して、半日が過ぎたりするのですけれど、そこに喜びを見いだせるのです。
 十年を無駄にすることのない講演内容にしたいと、仕上げます。

2015年9月17日木曜日

こころの中のバネ

 

 風が流れるように 緑木がざわめくように 歌声よ、翼拡げて空の高みに響け  ひざまずかぬ心の歌を ひざまずかぬ心の歌を、燃え盛る炎と歌え
明日は我らのもの、幸せは我らのもの 
 今日 じゃなく、明日なんだけれど 超えるのは今日よ うひの奥山を今日超えるわけよ、あしたじゃ駄目なんだ、昨日でもないんだ。今日なんだ、今日ただいま超えるんだ うひの奥山を そうすればあさきゆめみし ゑひもせず こうきちゃうんだ。

 現在の社会が醜い、徹底的に醜ければみにくいほどそれがこころのバネになるんだ。それが闘争力なんだ!


 まさに、本日。母の文章に合わせて取り掛かっている父の講義の録音テープを問うのです。
60年安保の国会前から戻った父が、母に障害者運動をさせてくれと請う、その場面があるのです。
 それからの運動の歴史は無ではない。その証を綴ったのです。そして今父のことばも意味を為す。文庫番は過去を懐かしんでいるのではないのです。今の人たちと語っているのだと。
 マハラバが絶望の思想だというのは、そこからが、始まるのだからです。旗を揚げるのです。

2015年9月5日土曜日

蚕影さん


  シルクの里に越してきたのだけれど、ここでも、もう養蚕はされていない。
これは繭玉もかたどった蚕影山神社の碑が豊富郷土資料館に移転されたもの。この8月末に遷座式が行われたのだというので見に行って来ました。
豊富郷土資料館の中は、養蚕と絹の歴史、そして郷土の歴史がぎっしり。隠れた文化遺産。

 蚕影さんがもとはつくばにあった蚕影神社の分祀だったことも、とても親近感が増したのです。
金色姫の伝説もどこかで伝わっているのでしょう。
でも、もう養蚕をする人は豊富にはいなくなってしまいました。私たちが薪伐りをしていた山宮の方だったのでした。
昨夏までの二年間、下の畑には毎日のように来ていたのに入館するのは初めての郷土資料館では、技術継承としてのお蚕を育てています。
 郷土資料館、各地で見る機会があり、どこでもとても学びの多いものでした。実物保存というものが、身体的な記憶、記録なのでしょう。文献だけの記録を読み辿るのとは違って、身体的な同一性をそこにある民俗資料に感じます。そう思うのは、いわゆる旧世代になっていたのですね。まもなく資料館入り文庫番!?。
 しかし、農村とは、衣食住の基地です。
そうだったのです。誰ですかEコープの食糧基地構想などを思い出すのは。
 食とエネルギーの安全保障については、長く、文庫番も課題としていたのですが、「お百姓」という在り方に、暮らしの技があった事を、今更ながらに思うのでした。
TPPが潰そうとするもの。そうなのでしょうか、自分たちから手放して行ったのでしょうか。豊富はお蚕から果樹となり、そのために、農薬使用をして養蚕が難しくなったと言われます。明治の開国を支えた生糸産業は、その後の化学繊維に追いやられ、家の中の仕事は、見えなくなり。
文庫の通りは、30年ほど前までは、年に9期もあった蚕の時期には、仕出し、小料理、豆腐、製麺などのお店が成り立っていたところ。今は跡継ぎも居ないしもたやになって。
 各地で、民俗資料になっているもの。それは、私たちの身体的な記憶であると同時に、精神と、経済を語っているのです。
 展示を見ていると、年配の女性たちが、これもやった、糸も掛けた。お蚕も飼った。懐かしいねとお話しながら時間を過ごしていました。まだ、いらっしゃる、実際にいじる事が出来る人が、それなのに途絶えてしまうのでしょう。農とは、食だけで見るのではないということに行きついた山仕事讃歌。そこから引き出せるものは、絹糸のように長くしなやかに綴る事ができるでしょうか。
 

2015年8月27日木曜日

今を生きると言う事


 父の画いたキリストの桂冠図。板にそのまま描かれて枠も手作りで。
1930年の8月27日生まれの父は、生きていれば85歳になっているはずなのです。
53歳で、終わったのですから老残というのは、想像できないけれど、若き日にこの絵を描きながら、閑居山願成寺の住職で終わった生涯。
 今、生きていたら、と思う事は多々あるのですけれど、屋根裏で、新聞紙に包んだままのこの絵を、出してみて、父の言った一刻一刻即往生の意味を考えます。
 父と母の物語の中で、語られている時間の観念は、まだ、すべては学習できていません。
ただ、よく言っていた人間のしていることは、宇宙の果てからみたらほんの一瞬のことなんだよ。と。それなのに、人の世は、惑いの大きいこと、嘆きに満ちている事。
 精一杯、今を生きるということ。それだけでいい。

2015年8月20日木曜日

書棚に向かい

 

どういう経緯で今の文庫の書棚にあるのかは、詳しくは判らない「闇夜は長かった」という中国詩の一冊をこの八月に読みます。もともと、文庫番の父は、仏教史を幅広く考えていたこともあり、NHKの中国語講座やハングル講座も良く見ていました。語源的に宗教史全体を考えていたのです。この棚には父の講義のテープも置かれています。それは人類の精神的歴史の流れです。私には父の語ったことを、すべてを表現できるだけの学習が足りていない。茨城の日中友好協会、朝鮮総連、韓国民団の人達とも交流がありました。この本が今の文庫にあるのは神立の母の手元にあったものでしょう。友常さんの訳詩も素晴らしく、漢詩の韻が、底に響くことばは、私の中に滔々とした流れのように、入ってこようとします。それなのに、読んでいて苦しいのです。踏みにじられたものの思いが、重く冷たく打ち込まれるように幾編も訳されています。
 副題は、抗日愛国自由詩選。緑川英子という大月出身の女性の詩も入っています。これらの詩を書いた人たちの思いをどう母が受け止めていたのかは聞き洩らしてしまいました。ですけれど、母の事だから、それこそ眠れない夜には、綴られている痛みへの共感をもって頁を捲った一冊だったのではないかと思います。抗う人々への共感は、国を超えて時代を超えてあるのです。単に痛みを思いやるだけではならなかったのです。母の年代の人々が、体験した戦争。その行った先、侵略した先の民衆の叫び。やはり一人の人間として、どうお詫びすべきであるかと、考えていたのだと思います。詫びるとは卑屈になることじゃないし、誇りを失うことではない。新しい理解と出発はそこからはじまるのです。幾世代でもその出発を体験できるはずです。
 むしろきちんと謝罪できない人格は、相手に受け入れられないものです。
 どうも、この半世紀ほど、その謝ることと、赦すということがくらしの中でも素養として教えられなくなっていたのだと思います。嘘はつかない。弱いものはいじめない。泣かない。それだけの教えで躾けられた世紀は遠くなっていきます。それなのに、機械を駆使して、世界とつながる国際化は、様々な切り口で、高等教育の府に置かれ、幼児からの英語教育が計画されていきます。おかしな愛国心が道徳で教えられようとしています。人が人を大切に出来るということ、それが第一になければならないのにです。
 意味ないなぁ。教育って、管理されるものではないのです。赦し赦されのたしなみじゃないのかと考えます。赦しとは厳しいものです。自分に対しての痛みがかならずあるのです。そうでなければ踏みつけられたものの痛みは分からないままになってしまいます。
 それを、一生ではなく世代を超えても、他者を排除しないで、互いの痛みを思いやり、赦しの厳しさを理解していく。教育は人の根幹です。そうであるのに、国家のためのものになってしまっています。
 どれほどの、文物を交換し、歴史はあるのか。人類はともに歩んで行く道を見いださなければならない、後戻りはできないのだからとくらしの場で思うのです。
 さあ、法螺貝を取り出して、私も自由詩をまた書かなくっちゃ。

2015年8月15日土曜日

弥陀の四十八願

 父が平和を願って書いた48羽の鳩のイラストとレタリング。
今、あらためて文庫番の願いにもしたいと思っています。2015年8月15日


2015年8月9日日曜日

区切り


 一つの自分の区切りとしたい八月。談話ではないけれど、短い原稿を仕上げてちょっとゆっくりした気持ちで、この日を迎えました。
 写真は、先日の茅ヶ崎海岸の朝に撮った海辺の二羽の猛禽がとまる重機。
どのような、会話がこの二羽の鳥の間に交わされていたのでしょう。
 私の母が生まれた日。その両親の間ではどのような会話が86年前にあったのでしょう。その北海道の空をどのような鳥が飛んでいたのでしょう。母の実母との記憶は私にはありません。北海道のおばあちゃんと呼んでいたのは母の義母の事。そのような家族を遡り書き留めたと四月の命日には思ったのですが、やっと本となる目処もついてきました。
 個人の成り立ち、自立。そのようなことばが空回りしないためには、ことばを共有できるようにしていくのが、難しいとは、いつも思います。
  読み手との共同作業。これからに続けばいいのだと、少し筆の力の足りない事を申し訳ないままに、区切りの日。そして、長崎原爆忌。
 

2015年7月25日土曜日

造花に思う


 東京に出る用事が続き、都内で夜遊び。六本木・麻布・目黒、深夜でも早朝でもお食事できるお店があるんだよ。と連れて行ってもらうと、その道筋に見かける女の子?たちは娘よりも若い世代。
 長く垂らした髪は色を染めて、細い身体を締め付けるような僅かな衣服に包み、薄物をひらひらさせています。ああいう子はお店に行っても自分ではお金を払わないのよ。と教えられます。
そして路傍に、そういう子たちに、光る視線を向けているのは、筋肉を誇るような褐色の肌の異国の顔立ちの男たち。
 その間を抜けて、入ったお店の壁には桜が飾られていました。さくらの国の文化なんて、いつも異国とのやりとりを続けながら、造られてきているのでしょう。吉原には、桜の樹を伐って活けた一夜の仇花だったと読んだことがありました。
 同じ夜に、官邸前に行く事もできたかもしれない時間。造花の桜を見ながら、歴史を遡りふけります。この道筋の若い男女は、国籍も定かではありません。お金は、どこに生まれだすのか、この華やいだ不夜城のヒルズの下で、一人ひとりの事情を抱えているのでしょう。集団的・・も安全の保障も関係ないその夜のひさぎ。
 それが、人類史の一角に在るのが現実。そうやって続いているのでしょうか。確かに「和食」を食べながら、パルっ子は、化学調味料の味を残念がります。都会でなければ生きていけないと、自分の故郷を探しているのです。
 実家の親は田舎暮らしを楽しむとして、どこに行きつけばいいのか、未来は。
 

2015年7月20日月曜日

梅雨が明け



 とても暑い都内を歩き回って、シノブの吊下がった庭に戻りました。昨年、道の斜向かいのお爺ちゃんにもらったものです。今年はあと三個の材料を貰ってまん丸いものを吊り下げてありますが、このように多くの葉は出ていません。
 梅雨明けしたので、またせっせと水をやらなければなりません。
 梅雨のお便りで出した文庫番のお願いに、懐かしい方々が、お返事を下さっています。毎日、有難さに泣きます。
 そのお便りにまだまだ自分の知らなかった事をみつけては、また胸が詰まります。
もう一頑張りしなければならないです。
 自社出版と言ったって、小数点以下の零細会社。それも、自分のしたいことだけを事業とするという我儘さなのに。今の若い世代にも伝えたいから。なんにも無いところでも、始められると言う事。人が人を信じ、そして裏切りがあって、そして、それも含めて、伝えられる事。
 混沌の中から形ができてくる。その通りだった。あり得ないことじゃない。誰かがしなければならないことだったら、自らがするというしかない。
 そういう姿を目の当たりに見てきた人たちの、今更ながらの励ましが、響きます。
自分にはできないと思わない、どうやったらできるのかを考え、考え抜いて、やっていく事。
都市を見ていた、町を見ていた事を、村から見られるようになって、意味が分かったこともあります。くらしという深さ。この吊りシノブが、青々と夏を越して欲しい。
 

2015年7月16日木曜日

虹の立つところ


 
 この道の向こうには、虹の立つところがあるように見えます。雨樋の職人さんが早く上がったので、夕方の畑に行こうとしたら、空の低いところに虹があったのです。
 いつまでも追いかけていく夢だから、旗印にできる。
 この虹の沸き立つところに、母が居る。そして父も居るはずです。
 畑から見える山の方に向かって、この国のゆくえが平和であることを、世界が平和であることを願います。文庫番は、ことばを綴ってきました。そしてお便りをして、どれほど励まされた事でしょう。
 一通ずつ、その人を思い浮かべながら、短い文章を書き足しました。
 あの頃を、今の時代に問うしかないのです。社会の中にモデルがあったわけではない。誰が一番になる訳でもない。もちろんお金で動く運動ではない。身を寄せながら、語り合いながら、その先が見えていたのです。



 2015年7月6日
                           株式会社 マハラバ文庫
                           代表取締役 増田レア

各位

                            
 仮題「大仏照子(あきこ)=無縁の地平に出版販売基金のお願いについて

 気象の不安定な梅雨が、近年は当たり前になってきました。皆さまにおかれましてはご健勝のことと拝察しお慶び申し上げます。
この度、2012年4月7日に没した、故大仏照子(あきこ)の生涯を俯瞰して、その行動と思いの真髄を一冊の本とします。
 関係される皆さまのお手元にお渡しができ、また、より多くの方に知っていただくために出版・販売に関してのご協力をいただきたく基金を立ち上げることとしました。
 北海道での生い立ちから、富良野での洗礼、電気も水道もない茨城の山寺へ嫁いでからの障害をもつ仲間との共同生活、山寺を離れてのちの平和と人権を守るための活動を続けた一生を、現時点で確認できた資料と故人からの聞き書きをもとにあらわしました。
 文章としては身内の綴った拙いものです。しかし、これまで語られてこなかった面を多く出せたのではと考えています。
今回の、出版・販売についての充分な資金がありませんが、この本を出していく事は、多くの方の縁で結ばれていた大仏照子の生き方を、また皆さまに理解していただき、後世に伝える一助とする機会と考えています。

2015年秋の出版を予定しています。
装丁本  230頁 2,000円前後 を現在考えています。
ご協力いただいた方にはお送りいたします。

 基金につきましては一口2,500円をお願いしたく思います。
   個人二口から
   団体五口から

お問い合わせ先
  • マハラバ文庫
  • 2015年7月13日月曜日

    身の程を知る



     取手の家に、一番上の子が生まれた時に三人で持って来てくれた体重計。あの時の二人はもういない、ぼくちゃんとやすぼん。
     あれから、何年も我が家のいろいろな重みを測ってくれている、いまだに現役。きちんと0を示していてくれます。
    それなのに、その年数を活かすことが出来ていない文庫番。
     まだまだ、こなしきれない言葉の世界に居るようです。ぼくちゃんのことも、やすぼんのことも、典ちゃんは?あの時代をどう書けばいいのか。そうは言いながら一段落としたいところなのです。もろもろの作業。梅雨の湿気のせいかと思ったプリンターの不調もあるけれど、それよりも踏み切れないお願いごとの数々を投函する重さ。それも、だいたい終って、始めれば終わりに近づくという事。この二ヶ月は、自分の寄って立つところの不確かさを乗り越えてきたのかもしれないです。
     幸せを感じると、言われることが、自分の幸せだったんだと、やっとわかって。
     自分に可能な事なんか何もなくて、他の人に手助けしてもらわなければできない事。情けないくらい恥ずかしい。誇らしくもない事情。それらも、曝け出して、0だから、測る事ができるのだから。
     

    2015年7月6日月曜日

    念仏

     念仏には無義をもて義とす―歎異抄の十―

    人間を救うもの それは理性ではない ただひたすらに行動すること。おのれの理性(はからい)で行動するのではない 理性では解決しない呪いが、憎悪が行動させる
    それだけが自己を裏切らない 唯一の道だ

      それをこそ、真の念仏と云うのだ


    本日は、父大仏尊教の命日 
    私は、逡巡のままに一日を過ごしていたように思います。すでに地平に立っているのに。
     親を切り売りして生きていくしかない。そう思うのに。

    2015年6月29日月曜日

    実践編 山仕事讃歌




     今月は、山梨に引っ越してから行きたかったところに、行く機会ができています。
    上野原の中川さんのところを再訪しました。
     薪仲間の人たちが、炭窯を造りたいという、男ロマンをああだこうだと言って、山梨県内で炭窯作っていた話をしたのと、懸案であった、在来種の蕎麦種も欲しいと言うことなのです。
     上野原の中川さんの家までは東京方面に中央高速使って行っても1時間半。
    さて2枚の写真の説明は炭でも、蕎麦でもないものばかり。
     「やた」東京の西の方でも言うそうですが、野菜の支柱。実際に家の前の胡瓜に使ってあったのは竹ですが、小枝の出ているものです。寒い間に集めて置いて、藤蔓で束ねておいて在りました。
     朝の「野菜の時間」を観てから出かけたので、解りやすかったですが、今では、資材店で売っている螺旋支柱なのです。枝に伸び上っていく植物が絡まって、小蔓も支えられる、そのための用意を冬の樹勢の静かな時期にしておくという、暮らしと季節の知恵。プラスチック資材じゃないものです。藤蔓、、同行の人たちは、麻紐でとか言ってましたが、これを教えて貰った事の幸運。
     そして、土地の高低を活かした、味噌蔵。中の温度の一定したこれぞ味噌蔵。直したばかりと言うことで清潔な中も観させてもらいました。私の仕込んだ味噌菌も残っているかしら。
     さて、私の関心とは別に、炭窯造りはどうなるのでしょう。こういう事に話が繋がっていくとは考えもせず、あの本を書いていたのだと、その成り行きがまだ続く事に驚きます。

    2015年6月27日土曜日

    束の間に


     時間が無いないと言いながら、渋谷に出たついでに、ボッティチェリ展を覗いてきて、話題になっている大きな壁画の受胎告知の図ではなく、この個人蔵の受胎告知の丸い額に収まったものに感慨深く見入って来ました。子供の頃に、基礎的な名画物語として読んでいた河津千代さんの解説の少年少女教養文庫聖書名画ものがたり新約編に入っているボッティチェルリの受胎告知に良く似た構図だったのです。
     このBunkamuraで28日まで開催されている企画展はボッティチェリとルネサンス、副題としてフィレンツェの富と美という題になっています。
     文化芸術と富は一体なのだろうか。というのが、その会場で考えていた事です。そして富の源泉はメディチ家のもとは薬種、そして海運交易の中から生まれてきたもの。・・・・なぜ今、渋谷で、この数年で、明らかに町づくりから変容していくところで開催されているのか。蒸し暑い街路を歩きながら、普段の川風を受ける庭にいるのとは異なる美を考えたのでした。
    できれば、短時間でそういう景観や、文化の変容を考えるのではなく、人類史の長さで考えたいものだと、一緒に歩いた娘と話しながらでした。
     
     

    2015年6月23日火曜日

    栗花落


     夏至になれば、これからは日が短くなります。一年の半分が過ぎました。栗花落。
    残りの半年、仕上げることができるのか、今手紙を毎日数件書いて、返事をまっています。
    母の生涯を綴ったものは、さまざまな人の縁であったので、随所注意が必要な書き物が遺されているのです。単純に書き写しはしたけれど、相手先へのお尋ねなどは個別にしていかないとならないし、万全を思っても、手記というのを事実としたときに、それを第三者が別な意味で使い、そのまま流布していくことが多々あります。
     今迄に、マハラバについて、閑居山について書かれているものへの、私は触れたくない思い。
    どうして、事実をここまで変えていくのかと、落胆するばかりなのです。
    逆に、自分で文章として表したときには、そこに書かれている人達や事柄が、事実となっていく責任。まずは、それぞれのお断りをしておこうと思いながら、4月末から、いろいろな状況変化に対応しながら、手紙をぽつりぽつりと書いているのです。 連休から毎週のようにお客さまを迎え、草取りにも追われながらです。気付けばもう夏至だったと、「ついり」も過ぎて文字通り小さな栗の実がなっています。この実が大きくなる頃にはと封筒に切手を貼ります。

    2015年6月20日土曜日

    食は地域にあるのだと・・・

                            浅川伯教・巧記念資料館の味噌甕
    あさひや農場の小蕪のスープ

     ちょうど、泊まりにきた寺下さんたちと、我が家から足を延ばして、一日目に北杜市高根町の浅川伯教・巧記念資料館と二日目にあさひや農場へ行って来ました。
     浅川兄弟の資料館は、山梨での家を探し始めた頃から行きたかったところでしたが、近くまで行っても寄る事が出来なかったのを、寺下さんが韓国の友人を伴ってきてくれましたので、立ち寄りポイントの提案をしじっくり見てきました。
     戦前の半島での林業普及にあたって、若くして亡くなった巧ですが、兄とともに朝鮮文化への深い理解が、祖父の訓育の流れも含めて解りました。帯水の文化は世代を超えて審美に繋がるのです。この数年浅川家のような家庭での訓育素養の途絶が排他的な社会も招いている要素も多分に在ると考えます。人として育つ過程において文化への目を開きくらしの審美を共有することは、排他にはなりようがありません。
     これからの世代も違いを知り、他者を認められる生き方を選んでほしいものだと思います。そして林業・薪炭業は窯業と近いところにあることを思い出しました。
     資料館の出入り口近くに置かれたのは白磁ではない、この大甕。なんと味噌・醤油用だというので、撮りました。
     二日目は、久々振りに隣県長野の佐久穂まで行ってあさひや農場を訪問。
    有機多品目の経営栽培をしているところを見てきました。韓国からの客人は有機農家さん。いつの間にか私達四人も蕪畑で黙々と草取り間引きを小一時間。圃場をあれこれ見るよりも、草取りが一番の学び。この季節に迷惑を省みず訪問したわけですからね。我が四畝の畑も草取りは他人事じゃないのですが、ちゃっかり引き菜の小蕪をたくさん持ち帰り、いろいろ食べる楽しみに。
     小さいので皮むきは一手間ですけれど、この蕪の香りを楽しみながら別の友人からもらった手作りベーコンを足して、スープ煮。この加工の段階が、産地でできるといいのにとつくづく思うのです。

    2015年6月8日月曜日

    ほ、ほ、ほたる


     ホタル観賞の夕べが行われました。小さな川沿いに1㌔弱川の両岸を行って橋を渡って戻る小一時間。
     今までに何か所かで、ホタルを観る夕べがありましたけれど、現在住む地域で蛍の里づくりの会まであるとは、繋がりを深く感じます。そして、ここも堆肥を地域内循環させていこうとしています。
     集合前には、蛙の声にも耳を傾けます。一段高いカジカガエルも聞き分けられたでしょうか。
    4秒間隔のホタルの灯りが水の流れに沿って、目線の下を高低飛んでいます。草に留まったままの光がメスだということです。参加した子供たちの手の平の中に居るのはオスのホタル。
     カワニナの放流をしたり、河川敷きの草刈をしたり、水質検査も継続していると言う事です。ここに居る蛍は地元ホタル。放流した観光目当ての物ではないですよ。だそうです。
     暫くぶりの自然観察会に、墨田の荒川河川敷にヒヌマイトトンボの観察会に行った頃を思い出します。
     水を大切にしていきたい。そういう活動を住んでいるところでしていくこと。
    次の日に防災訓練が行われ、はずみで参加して配られた水。
    知らなかったですが、ここの市の名前入りです。
    山梨ですからね。富士山でもなく南アルプスでもない、水
     こっちのみ~ずは。。

    2015年6月5日金曜日

    梅雨になる


     今日も、良い雨降りになって、まだ水の足りなかった大地が潤っています。
    私の、大切な「水曜日のクルト」この中のある水たまりの一生という児童文学を読んで育っていたから、水をテーマとして、石けんも使い、くらしを語る事ができるのです。
     そして、三回忌となったよっちゃんの写っている「障害者殺しの思想」。今問う事はどれほど大きいことなのか、ただ懐かしいと読むのではなく、今に問いかけている、これからを創るために。
     大井三重子さんのパートナーの二日市さんたちと、横田さんたちとの関係。横塚さん。
    今、軽々に言葉としての『障害者』を語らないようになってきています。それは社会が成熟し差別がなくなる障壁からの自由が得られている(バリアフリー?)と考えられれば良いのですが、言い換えれば良いものではない、言葉で定義するから差別が生まれるというものではないと、差別を生みだす自分を問うべきだと、闘ってきたはずなのです。徹底的な告発の姿とは。体制批判を遥かに超えていかなければならないのです。そこを、見つめるために。

    2015年5月30日土曜日

    ナンテン


     南天の蕾が膨らんできました。冬の間、氷に縁どられても真っ赤な葉っぱで、彩りの少なかった庭を彩っていた木にこんなに白い蕾が沢山。そして花が開いて、赤い実が成って、土に落ちて、新しい芽生えを持って来る。
     人生の困難を、転じてくれるというこの木を、多くの庭で愛でているのですね。
    それだけ、人はそれぞれの困難に立ち向かって、乗り越えて、幸運に転じていこうと願っているのでしょう。
     その困難の多寡も、深浅も、言えないものです。人はそれぞれの受け止めなければならないことがあって、なのでしょう。
     私のこの一ヶ月、そしてこれから、人生最大の危機ではと思いながらしっかりと受け止めていこうと蕾を見ながら思うのです。凍結注意

    2015年5月26日火曜日

    お奨めセット


     僕のお顔も洗わなくっちゃ。久々に智恵子さんや美和子さんが遊びに来るかもしれない。
    あの頃は(〇十年前)センターとは言わず支所だったけど、倉庫に在ったサンプルで委員会のメンバーでお奨めセットを作ったり、中に入れる文章を書いたり、直接メーカーに問い合わせをしたり、毎日が石けんまみれ、白いお粉を詰めて・・・いたんだ。職員でもないのにみんな熱心だったよ。
     どうしたら伝えられるか、毎日毎日楽しかった。自分なりの工夫でともかくやってみたから。
     これはね。三代目?パルっ子が新規加入でいただいたんだそうだけど、ボディソープのミニボトルも入っているし、あの頃の手づくり感を受け継いでいるのも感じるしいいんじゃないかな。
     色々利用してほしい。まずは子供の喜ぶ縫いぐるみをふわっと洗う講習会なんかいいかもね。
     

    2015年5月22日金曜日

    二つの旅で



     先週は、南三陸&石巻被災地応援ツアーと葛巻の植樹祭と立て続けに出ていました。気持ちは東京に残しながらも、決まった旅でした。

     この美しい海が、海が嫌いになって、と。。。でも、4年目になって、幾人もの口から、あの時助けることができなかった、その状況が語られるようになっていました。人は極限でも、助けたいという思いがあるのだけれど、なすすべのない苦しみ悲しみを抱えるのだと言う事。人類の記憶にそれは堆積して、祈りになったり、助け合いという呼びかけになっていたりしているのだという気づきがありました。支援というのは一方的ではないはずといつも思っているのは、その記憶が現れるからなのかもしれない。
     目の前で苦しむ人が居て、たとえ、親子兄弟でも助けられないという場合があって、それは、その場に居合わせない遠くだったとしても、その自責を抱えるから、自らの痛みでもあり今できる事を探すのだと言う事ではないでしょうか。
     人は、人の苦しみを助けたいと思い、その事が万人で可能な社会を創っていければと願うはずなのです。それなのに、諍いや争いを繰り返してきている権力。人の願いとは別な力なのだと言う事です。
     葛巻の、薪の学校の下には、冷涼な気候の中での水田、棚田を守っている女性が居ました。葛巻でも米の作れるところは少ないはずです。うちの田んぼは蛇穴や鼠穴ができてしまうので、と棚田の一番下の畔から、水を張る前に、土塗りをして数えて15枚の田んぼを丁寧に整えて、田植えになるという。人の暮らしと生き物の在り方と、季節の巡りの中での作業をしていました。
     この畔をつくる作業もできない多くの地域を思うと、ただ懐かしい風景だというだけではない大切さを考えます。
     人の暮らしと、自然の力と、折り合いをつけながら、日々は続いていくのです。
     

    2015年5月5日火曜日

    対の物


     端午の節句にはと、数日兜飾りの後ろに鐘馗様の軸物を下げました。
    桃の節句の立雛の額と同じ小林恒岳画伯に画いていただいたもの。
    長男が生まれた初節句に、父が揃えておいてくれたものです。
    どうも、画伯も、和尚の顔にも似ていると言ったとか、渡される時に言われましたが、髭面になっての父が居るのかもしれません。
     母の生涯のあらましを書いた今、書き足りなかったところ、調べたりなかったところが続々でてきてしまっています。最終までに入れ込むかどうか。
     全体に考えれば、父の短かった生涯をあらためて書くべきなのだと解ったのです。起しあぐねているテープを書き留めるのを、どのようにすればいいか、その技巧として、あくまでも文庫番の知っている像を綴っていく事が肝要なのだと、そうでないと、母の生涯だけを浮かび上がらせても意味がない事なのだと、考えられます。
     あらたな一冊を始めなければなりませんね。
    父の姿を厳めしい大きな声の和尚と言われるだけから、世の中の邪からの守護の姿になるように。

    2015年4月22日水曜日

    木賊



     木賊って読むことできますか?トクサ。先日立ち寄った土湯温泉こけし祭りのお片付けぎりぎりに見る事が出来た早坂さんのブースは足踏み轆轤(ろくろ)があって、そして道具として何気に置いてあったのが、木賊の束ともっと細い束。さあ、束子(たわし)も売る文庫番は長らくトクサで木地を磨く事を知りたかったのです。
     実家で竃(かまど)でご飯を炊いてお櫃(ひつ)に移して、台所から食事の場へ運んでご飯になったのですけど、そのお櫃の銅(あかがね)の箍(たが)を磨くのに、本当はトクサの束が良いのよ。と母には教わっていました。実物を見ることができました。
     こけしの仕上げに、このトクサとそして稲の苗の束を使うのだそうです。稲藁(いなわら)の束じゃないのですよ。稲の苗の束!珪酸分が植物の表面にあるのを利用すると聞いていました。
    知ってはいてもなかなか実物に遭遇(そうぐう)する機会がないことってありますね。
    とても嬉しかった数分の立ち寄りでした。そうです。足踏み轆轤でつくられたものでしょうか、優しい表情のこけし雛。電力だけに頼らない、仕事を語り合っているお顔です。
     福島県での味噌仕込みは皆、優しいお顔であったのでした。

    今日はアースディ、葉書を出しました。


    2015年4月17日金曜日

    今年も麦は実り


     引っ越ししてきて二年経って。
    引っ越し前に大豆を植えた庭に、大豆と麦はいい回転ができると聞いて、麦の種をいただいて植えてみて、麦の実りはこんなに力付けられます。
     決して、ウィスキーをつくる訳じゃないけれど、この伸びやかさに気持ちが空に向かって。
    麦が地に落ちて、また芽生えて行くように、富良野の国の子寮の記念誌は「一粒の麦地に落ちて」
    それもこれも、何も私は事業にも信仰にも打ち込んでいないけれど、ただ春のこの勢いを、自分にもとり込めます。そういえば、茨城では通学途中の麦畑は、畝の間を赤いランドセルで駆け抜けて来て。墨田に居た時は春の荒川河川敷に行って、葦の芽生えに力を貰っていたのでした。
     
    引っ越しして二年。
    山梨のここに私は居る。
     今日は、在所の山の神神社の祭礼で、ご近所さんからお寿司を御裾分けいただいて、山椒も煮てみたり。
     小石拾いはこの数日続いていて、冬の霜柱でぬかるんだ道路に向かった庭へ足していきます。川原近くで石を拾っている自分に「地蔵和讃」を思いだし、一つ積んでは母の為、二つ積んでは父の為、三つ積んでは故郷の同胞我が身と廻向して、南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。
     まったく、ごちゃまぜでここに生きて行くのです。

    2015年4月7日火曜日

    花の名前は母に聞き


     北海道にも鈴蘭が沢山咲いていたところがあってね、春になるとそれは綺麗で香りがしてきて。
    山梨の庭にも咲いているのですよ。下向きで純白の花が、今朝開いていました。
    お茶と、お香を供えて、庭に出て見に行ったのです。
     もうこの庭のは、もとからのものも母の所からのも、混ざって育って分からなくなっています。
    やっと、母の純白な在り方を追いかけて、そうじゃないのよ。とたしなめられた思いがします。
    実の親の姿を知らない人も多いのだから、いつまでも、母と言う存在を独り占めしていないで、人間としての存在を損なわないためにどうあるべきなのかを、語りはじめなさい。
     
     花の名前は母に聞き、星の名前は父に聞いて育つと言う、そういう時間が書けたのなら。
    昨夕は、富良野の国の子寮の名取さんとも電話することができました。
    何もないところから、始められるのだということを、もっと多くの人と一緒にしなければ。
     本日、ちいさなあっこの物語は、形をはっきりとすることができました。あとは、年表・脚注などになります。いつか北海道にこの物語が戻るようにと。

    2015年4月5日日曜日

    夢小路



     覗いてみたいなと思っていた甲府駅の北口にある、モール。お客様迎えの前にぶらついてみて、楽しみました。今は具体的に買いたいものがなかったのですが、こういうぶらつく時間を表現するなら夢小路ですね。でもその横の広場で、開催されていたフリーマーケットでどんぐり牧場さんの卵を買いました。この三日間は甲府市内の信玄公祭り。お客様は甲冑武者行列と桜の様子が観たかったということだったのです。現代・近代・そして武者の時代。同じ場で繰り広げられます。
     ご復活の今朝は、紅茶で彩った・・・はずの茹で玉子。なかなか母が作ってくれたもののようにできませんでしたが、二人で向い合せて、食べています。
    なんとかあと三日で今書いているものを、納得できる形にしたいと思うのですが、その後の忙しい予定が目白押しにやってきます。相変わらず、畑だ庭だという連れ合いの、その日にああしよう、こうしようはいきなりの予定で、当然私も一緒の事を組んできます。
     遅れているおくれていると、気持ちが焦る作文なのに、息抜きに庭に出るとそのまま半日。身体を使えば、それなりに気持ちも持っていかれています。そうなんですよね。気持ち、心持ち。持ち運びするもののようです。これを欧米的に訳せるのかしら?
     だから、互いの時間割を融通して、より良い一日を過ごしたい復活祭です。

    2015年3月24日火曜日

    休み時間



     この前の土曜日の薪作業の一休み。この鉞は仲間の物ですが絵になるのでパチリ。三軒分の薪作業をします。里山整備竹林保全も一緒になるので、連れ合いは土日は大忙しの冬でした。手が必要な時には私も参加。
      この一休みの時間は、道路を隔てたお宮で、一年間の地域の新しい氏子を迎え入れる儀式があったので、大きい音を止めています。
     地域に赤ちゃんが生まれない年でも、春の始まりの頃にある式ということで、四方張りの斎竹に神官が祝詞をあげているのですが、大学を出たばかりの女性の神官で、おじいちゃんの跡を継いで地元の神社を守るとか。白装束で神々しく見えます。
     地域の人達には、孫・娘のような、祝詞をあげて貰うのもはじめての嬉しい事で、新しい氏子でなく新しい禰宜のお祝いのような宴席もその後に隣のお宮の中であったようです。
     おかげさまで、再開した私たちの薪作業も清らかに??進みました。

    2015年3月19日木曜日

    石のつぶやき



     昨日は、もっとゆっくり生きていこうと思い定めました。あれもできていない。これもしなくちゃ。毎日がそんな感じだと、自分の過大な期待に打ちひしがれてしまいます。
     また春が来て桜が咲いて。開花宣言で書いたのは三年前の春。
    大丈夫、少しずつやっていけば、必ず前に進めるから。あなたの心が穏やかであることが一番大切なのよ。と。花は教えてくれます。
     ずっとカラス大先生に訊ねていた事に石がつぶやきました。
    相変わらず、私は石を選り分ける事が面白い。どうして、石との対話ができるのか。とても不思議だったけれど黙して語らぬこの石が呟く声が聞こえてくるような気がします。
     花果山の下に居たのでしょうか?罪深き己自身が石を打てるかと捨てたのでしょうか。いろいろ耳を傾けていて、やっと聞こえてきました。
     この何もならない、非効率な事をもっと楽しむのが本義だと。マハラバの本義とは効率を追い求めないことなのだと。
    やっと、石を選り分けている自分と、資料の中のことばが一致したのです。

    2015年3月11日水曜日

    悲しみを慈しみ


     山川草木国土悉皆成仏。そのことばを得てから、落ち着いたというはずの感情。
    この4年間を、思い返しています。
     これは、地震で崩れた資料の写真ではなく、母の手帳や書きとめてあるものを、いかにまとめられる術が私にないかの証。
     でも、クライマックス。もう一息である感触がここに出てきました。毎日資料を読み返しまた自分の文章を直し。かき混ぜます。
     自社ですからね。人から見て駄文でも、出版していく意気はあります。
    ただ、母が山を下りてからの活動の深さに、私ごときは書く筆があたらないのです。
    幾ら書いても削っても、あの一途な生き方を表していない。それだけ自分の汚さ、拙さに打ちひしがれる追い込みです。
     そして、兄すら見捨ててのうのうと、食べるものを食べきれない生活をしながら自分はいるのかと。あれもこれも、日々掻き混ぜてしまっています。味噌に塩麹、醪にあたたかくなって糠味噌に。そして、連れ合いは??・・・・・案外我が道を行く。

     だから、私は味噌の様子を眺めます。栄子さんに手紙を書かなくっちゃと。本日は3月11日/2015年。

    2015年3月9日月曜日

    次世代を思う


     庭を均しながら、連作を避けて苺の植え替えをして空いたところに芝生を移植しました。
    この庭のもともとの芝生も昨年で3倍くらいになり、母の居た庭先から移した芝生も定着したようなので、庭の雑草防止にもなるかと拡げています。
     どんなに踏まれても青い芝は伸びていく。そんなことばを言いながら。
    今、土いじりから食べ物づくりがどこまでできるのか。マハラバの在った頃の農村経済を考えると、現在のこの地に住んで見える農業の姿が、次世代にまで残るのか。そこも考えます。
    今日は農業を柱とした観光基本計画の委員会に参加。たんなる観光について知る事の出来る機会と参加したのですが、農業を残していきたいという明確な柱があると解り面白いです。新移住の者ですし、農業なんてわからないけれど、すべての生き物の一員として食べるという事は、ずっと続けているから、その目線での発言はできそう。
     いろいろな産地で、消費者とのしっかりした結びつきで次世代・後継者が育っていくことをお願いしてきたのですが、食べる側の次世代継承もできるか。昨日、独立した下の娘はパルシステムを選ぶようです。
     青い芝の場合。親が脳性麻痺者であっても、子供は健全者である事が多いのですが、運動としての継承は、子供へは伝えられないという側面が出てきます。そこをどのように見るのか文庫番。
    音信不通にまたなった兄は生活保護の受給を受けるているという連絡が役所からありました。それは、それで、運動の成果でもあると、自分を納得させます。
     うちからへ援助はできないという連れ合いの筋道だった説明に同意するしかありません。

    2015年3月1日日曜日

    額二つ



     雛人形そのものは、娘たちのところにあるのに、初節句の頃に実家から贈られた額と、伯母が作ってくれて伯父が自転車でその頃住んでいた取手の家に運んできてくれた押絵雛。
     二つの額を玄関と床の間に出して三月がはじまります。
     お内裏様の並び方の右左。まあ、どちらがどちらでも良いかな。とこの二枚を見ながら思います。物事の正しい、正しくないで、ことさらに言い立てても解釈の違いでどちらもありという事もこの世の中にはあるものだから。
     問われた時に由来は話ができるようにしておけばいいかなと考えています。
     どちらも大切に長く伝える事が出来ると嬉しいのです。小林恒岳画伯ご夫妻は、父母の友人で、私にも親しみのある方。取手の伯母は、何くれとなく、姪である私の成長を気を配ってくれていた伯母。もう90歳を数えるはず。
     どちらも茨城に健在でいてくれるとなお嬉しい今年の節句です。

     

    2015年2月26日木曜日

    まだ、開かない


     風信子(ヒヤシンス)雨になった一日でした。夕方の曇り空の下の写真です。うちの庭はご近所のおじいちゃんが分けて下さる植物で彩られています。山野草もあれば園芸花も。
    あっという間に、うちの義母に続いて、斜向かいのおばあちゃんも亡くなったのですから、この球根はまだ、昨年の春に貰ったものだったのですね。今日もまた芽が出て来てしまったからと、幾種類かの球根を分けてもらいました。今年の春の花になるでしょう。
     雪にはならなかった日でした。あの年の春も雪が多かった。そう今日は2月26日。
    若い人たちは、世界中で生き急いでいるように言われます。そして切ない。
    この数年で、社会が劣化したように思ってはいけないのです。まだまだ私たちが伝えられる種はあると!確信しています。いつの時代にも。
     もう、老い支度の身は、その若さの憤りをきちんと受け止められないのでしょうか。
    同じ苦しみの中にくらしは在っても、解決への向け方が違うとしたら、もっと賢者らしい答えを示していきたい。話しても解らない奴は解らない。それでは、それこそお話にならないでしょう。
     間もなく、暖かい日差しの中で蕾が花になります。待っていく力を蓄えています。

    2015年2月23日月曜日

    縦横



     庭の畑にしていたところにも、新しい土が盛られています。これから均して春蒔きのものをあれこれします。川の向こうのハウスは雪害にも耐えられる細かい骨組みになって再建されています。他人事ながらほっとします。藤棚はそのうちにキウイ棚になるのでしょう。
    今は支柱ばかりが目立ちます。脚立に登って何が見えるのでしょう。
    物事が垂直に見える?それとも水平に?どっちが正しいという事があるのかしら。そこに立つ点の問題でしょうね。
     土を均していくと言うことは、地面に平らにしていきます。
    地面を平らに地表を均していくと、果てしなく水平に、または地平に沿って、このまま伸ばしていくと言うことは、よくよく極めれば、それは球体に沿っていくのですから、地球の裏側に回っていって真下にもなることです。
     言葉遊びでしょうか。垂直思考だけの人、水平な目線の人。脚立のどの高さに登っても、その人自身の大きさでしかないのではと思えるのです。
     お得な事に、造園屋さんからもらったこの新しい土の中に、自然薯が入っていたので有難くいただいて食べました。石ころや、根っこが在れば曲がっても自ら然らしむ。

    2015年2月17日火曜日

    いのちの尊厳



     もっと、食べるという事、いのちに謙虚でありたいと願うのです。今日は雪降りだから、思い出して胡桃餅を作ってみました。藪川で買った胡桃を擂って味付けして、焼いたお餅に絡めて食べる。そんな三時を連れ合いと二人。
     一粒の木の実も、また命であり。
     冷蔵庫に入っているのは、昨日持ち帰って来て、処理した鹿肉。チャーシュウになるでしょうか。豚肉と同じレシピで作ってみます。鹿肉カツもやってみます。
     寺に生まれたものが!!と言いながら、水洗いし部位別に切り分け。そうは言ってもいただき物。連れ合いはまだまだ数撃ちゃ・・の数にもなっていないので、同行の先輩方からの分け前なのですが、毛付き蹄付きであると、いかにもワイルド。スプラッターの現場が台所にも出現します。
     一番苦手な場面なのに、どこかで落ち着いて、きちんと手早く処理しないと、調理に向かない。どう食べきるかを考えて黙々と20㌔近くを捌いていかないとなりません。あなたも男の料理教室に行っていて良かったわね。人任せじゃないので助かるわ。。
     仕留めてすぐに認可されている人が第一次の処理をしてくれたのですが、薄皮や筋を外しながら、朝まで生きていた命が、形を変えてここにあるという重さを考えます。どれほど、人に優しくと言い、生き物を大切にと言っても、いざ殺生が日常にあるという事。味噌を造る大豆を育てるという事からどう転変していくのか。生のいのちに触れ、いただいて生かされるしかない事を思います。そしてどうすれば、誰も餓えない社会が来るのかもこの凄惨にも思える台所でいつも考えるのです。
    生半可なええ恰好している、食の楽しみとか安全などから解決が導かれるのでしょうか。野生獣を食することのリスクもいろいろ頭をよぎります。それでも、生死一如。自他一如。