2020年12月31日木曜日

庚子 大晦日


 今年の大晦日、目覚めて北側の窓を開けると、月の入りの時刻であったようで、それもほとんど満月 立待ちの月。朝に見る丸い月がまだ光っているなんて、赤地に白い月の丸は花札だけど、今年の終わりの日にふさわしく、感慨深く冷えるのも忘れて写しました。
 文庫番の一年は、横浜の倉庫に預けてあった、閑居山にあった父の蔵書や自分の子供のころから親しんだ書籍の確認をし(窓から見えるのがプリンセス・ダイアモンド号でしたが)、長年の夢というか文庫が出版事業をしている目的である、父の蔵書目録への準備ができたのでした。あと数年生きていられるなら、なんとか進めたい事です。
 社会一般では世界規模での感染症が流行した年で、人々がよすがとするのが、すでに宗教も超え、政治も超え、科学などは追い付けない、ただ寄り添いとか繋がりなどという情緒的言葉で表されています。
 近代の限界があらわになったのでしょう。学校式の教育の意味、施設収容でできる介護や福祉とはどこまでなのか、医療は現実に対応できるのか。近代を肯定してきたものには不安が心を塞いでしまった年だったのではないでしょうか。
 もともとが、近代を、文明を否定していたマハラバの思想であったのですから、ここでたじろぐ必要はないのですが、現実の暮らしの中では周囲に合わせざるをえない状況もありました。
 この一年の間では、一般社会に不適応になるものの在り方をずっと考えていたとも言えます。少しわかったのは、何回も書いていますがマハラバ村というのは、自立した脳性麻痺者自らが作った、作ろうとした共同体なのです。集団生活ではなく、共同体をめざしていたという事の違いを、字面で理解できたのです。数カ月考え続けて、そのように思えたのでした。
 いまさらながら、50年前のことが理解できたということになります。この後の世の中がどのように変容できるのかもとても興味深いのです。
 しかし、きっと月の巡り、天地の間のやりとりからすれば、一刻のことなのでしょう。

 

2020年12月21日月曜日

二〇二〇年 一陽来復



 今年の冬至は、冷え込んで窓から見える八ヶ岳は朝日を浴びて薄紅に見えていました。夕月は土星と木星の接近の様子になるとか。外も家の中も冷えてはいますが、穏やかで静かな日になりました。様々な不安を考えこんだとしても、一陽来復。また日が昇るのです。
 

2020年12月11日金曜日

関わり方を問う 



 文庫番の日常は、主に台所と繋がっている和室の机のパソコンとの範囲で終わるのですけ
ど、野良の時間もある程度必要です。
 今の季節は、畑の腐葉土づくりになるかと、隣集落にある神社の大欅の落ち葉を浚いに行きます。その欅の陰で少しキノコも栽培しています。
 ヒラタケを持ち帰りながら畑の隅に落ち葉を置きます。師走の畑は葉物野菜が中心です。
隣畑の人にタアサイをもらっていたので、ヒラタケのお裾分けをしたら、また頂きました。さらに立派な大根までもらって、ゆず大根の用意をしました。
 うちの畑の人参は、イカ人参の用意です。
 落ち葉とキノコ、そして美味しい野菜へ。わらしべ長者も斯くありか。ほんの会釈程度なのに、なんだかとっても得した気分で、次の朝が待ち遠しくなります。
 村の暮らしの中で、立ち止まります。この村でも、息苦しい思いの人も居ます。そして今も町で、仕事もお金も家も失くした人が、寒い夜を過ごすのです。もしかしたら、兄も仏教界にも、山にも居られないものなのかもしれません。
 先月末は奈良に文庫番家族は出かけました。東大寺の毘盧遮那仏も、薬師寺の薬師如来も観てくることができました。鑑真和上の唐招提寺も、また明日香の地へも。
 権力が、大仏をつくる時、衆生の民は、困窮していて飢えていて救いを求めているのです。権力がつくりだすものは、千何百年残っていたとしても、同時に民の困窮も残ったままなのです。
 村の暮らしの、小さなやりとりで救われるものと思いながら、そこに馴染んで行けない人のこころの裡に灯りをともすには、どのような術があるのかと、思うのです。






 

2020年11月21日土曜日

書き足し パンとあこがれ

  昨日、自分が小学校から帰る頃?それとも長い休みの間か、観ることのできたポーラテレビ小説について書いたことの、足りなかったことのあれこれ。
 文庫番は、春に倉庫で書籍の大部分を再確認して、その目録作成に協力してくださっている島根の先生から、データーを送ってもらったことで、今自分がしているテープ起こしにも内容が関係することなども、麻婆豆腐を食べながら思っていた夜なのです。
 現在起こしているテープは、父の記録としては最晩年の語り、講義テープとなっているもの。ほぼ、同じ内容を二回に渡って連続で語っているのですが、ほぼ同じということから整合性をとりたいと、両方を起こしていく作業です。
 それは、自分が閑居山を下りてからの講義であるので、あらためて、父の思想を体系化するためには、重要と考えているものです。
 そして、その思いとは何だったのか。相馬家の様子を描いたテレビ小説は、父にとって東京府の上馬で敗戦間際まで暮らしていた頃の、祖父母の交流と重なることが多く、特に母親の実家澤山の家は都市知識人などとのかかわりもあり、勤め先だった山陽堂の逸見斧吉が、社会活動の一面もあったことなどを、それとはなく、中村屋の歴史を描くドラマを観ながら、亡命者たちの支援もしていた事にも合わせて語っていたのです。戦前の実業家たちの社会に対しての矜持を学んだのでした。
 その頃テレビがあったのは、マハラバの人たちも観ることのできる八畳の方だったのか居室とした4畳半の方だったのか、明瞭ではないのですが、4畳半にあった、書籍の小型本は春の点検で見られなかったのですが、木下尚江の本などがあったのでした。一番身近に置いてあったのであるとも思い出します。この戦前からの交流は、文庫番にとっての祖父母の居たマハラバの創成期も支えてくれていたのでした。
 そして、あれこれのその他。
 テレビを皆で観ていた、文庫番。確かに家に戻ってであるけれど、そこにいる皆というのは、共同体を一緒に構成していた人たちであるという事。一緒に学び、考え、そこの場をつくっていた人たち。それは、ドラマの中で商家の在り方の中にさらに、亡命者たちとの交流もあり、家族以外の者も一緒にいる在り方と相通ずるものであったのでした。「家」というものが、家族だけで、囲いをつくるものではない社会とも縁のある場だという在り方です。
 それを思い出しながら、瀬戸さんからの毎晩の報告アップにある生活困窮者支援の現在。もちろん、パルシステムも事業の縁側で、支援を続けています。
 孤であっては、自助も共助も公助にも触れることができません。生活支援ということばではなく、ともにある連携としての共助や公助を組み立てていく時代になったのでしょう。公助は、民の力で公を変えていくという事なのでしょう。公からもたせ掛けられるのではなく、良い仕組みをどんどん公の部分に入れていく仕事をされている報告アップなのだろうと、夜遅くあれこれ思い合わせていたのでした。
 旗を振りつづけないと!
 
 

2020年11月20日金曜日

パンとあこがれ


 麻婆豆腐のタレが、生協のカタログにあって、化学調味料不使用の新商品。二袋のうち一つを使って、お豆腐も半丁で。他の献立とも合わせてちょっと中華っぽい夕食にしました。
 新宿中村屋と言えば、カレー、そもそものインドカレー。そう思い込んでいたのですけれど、この麻婆豆腐のタレ、目の周りの汗を拭きながら、連れ合いと私は納得顔。
 新宿中村屋、行きました。都内に住んでいた時は何回も一緒にあの狭い階段を上がって、骨付きチキンの入ったスパイスの効いた味。
 子供時代に、ポーラテレビ小説で宇都宮雅代さんが主人公を演じた「パンとあこがれ」放送時間帯はお昼過ぎであったのですけれど、小学校から家に戻ると皆でテレビのある部屋で、観ていたドラマの最初だったように思います。最初というのは、その頃まで閑居山に電気が通っていなかったので、テレビも無かったのと、しばらく不在だった父も一緒にゆっくりと観ることのできる時間にもなっていた頃、ちょうどこの中村屋の相馬家を描いたドラマを観ながら、父が様々解説をしていたのでした。
 そういえば、マハラバ村について、来栖琴子さんが取材したポーラ婦人ニュースの後番組が、テレビ小説であったということで、私の手元にある幾葉かのその番組の写真のもとになるフィルムが、ポーラ関係のどこかにあるのかもしれないと、その麻婆豆腐を食べた夜に目覚めて思ったりしました。食べ物って、、、いろいろと発想を呼び起こすものですね。
 

 

2020年10月1日木曜日

新米


 いまだに、画像を取り込む問題はこのブログと折り合っていず、Gフォトから直接いれています。
 いろいろな課題があり学びの米作りだった今年の米も、新米を食べられるようになり、ひとまずは安心。水の管理の難しさ。冬の整地の重要さ。そして、収穫に向けての準備。
 今は天日干しの日にちが足りなかったこともあり、各所に配ったお米に、水分調整の不完全を必ず伝えています。それも昨年より送り先を減らしているのです。
 映画ではないですが「苦い米」。労働に見合う喜びは、簡単には得られない。これも、日曜洋画劇場で、淀川長治氏の解説で観たのだろう、父と一緒に数度観た記憶があるのです。父はシルヴァーナ・マンガーノのボディラインを地中海スタイルと、言いながらよく表現していた事も懐かしいです。
 夏の暑さと、米作りは一段落して相変わらず父の講義テープを起こすのが文庫番のお仕事。誰に頼まれたわけでもなく、何の価値があるのか、なんて思うと、それこそ実入りのないことで、投げ出したくなってしまうのですけど、ああ、自由な人だったのだ。と声を聴き、周りの人たちとの掛け合いのような進め方と、そこに傍証として引いてくる書物の見当をテープを聞きながらしていると、つくづくその場に居合わせたかったと思います。ただのおやじのエロギャグか、破戒僧の与太説教かと言ってしまえばそれでお終い。
 そうじゃない、この自由な空間が本来の寺であり、障害者とともに生きるという実践であり、知性の飛翔であり、論の跳躍の力なのだと。
 先日も兄が来て、あまりにも自説に偏った話のみをしていったのですが、この父の深い知識をともに検証できていないことが残念でなりません。半年ほど前に、兄が絶縁を告げに来たと思ったのは、野菜など迷惑だから送ってくるな。ということを伝えにわざわざ出向いてきたと考えています。





 

2020年9月8日火曜日

村の虹

 昨日は、一日雨予報だったので、いつものテープ起こしの他に短歌の作業やフェイスブックの書き込みなどで、なかなか外に出る事もできなかったのです。その中にアフガニスタンの女子学生支援になるという細密画の塗り絵の紹介もあり、気持ちは西域の彼方に。
 台風10号が過ぎたらしい夕方は、もしかしたら見えるかと思った虹がかかりました。くっきりとした紫から赤までの色が揃っています。しかも良くみるとダブルでした。 
 里山の内側から始まっているようにも見えます。どうも、村の中の上の方の集落から、下の川沿いの集落までの村の虹のようにも見えました。連れ合いにも、虹が出ているよ。と言って、すぐに通りを二軒隣の短歌の先生の住まいにまでご注進。
 92歳はいままでも何回も虹は見ているでしょうけれど、たまたまその午後にも連絡することがあったので、ポストにもメモを入れてありました。、そのことも伝えながら虹見物。雲が早く、陽射しも輝くのに雨が落ちていました。夕陽と虹の方角が解ると、今までに文庫番の見てきていた虹との位置関係が重なってきます。それこそ何重にも幼い時から、今までの虹を重ねた気分になりました。ほんの一時の鮮やかな空の演出は終わっていきました。
 そのあとの夕食の時間はNHKBSプレミアムでもうひとつのシルクロード、という1981年の懐かしい番組。今、21世紀も5分の1過ぎて、このような日中共同制作の文化番組などは作ることができるのかと、思いながら観ていると、なんとニヤ遺跡を訪問しているのは長澤和俊教授、父の書物でもよくお名前を見ていて、この番組を観ていた頃は単に学識者の一人と考えていたのです。
 それが、都内に引っ越して生協で石けんと合成洗剤の違いを学び始めた頃。熱心なタマ先輩が居て、隣区でもあったので、誘われるといろいろな学習会や実験をする時にご一緒しました。タマ先輩は、大学では下山さんの先輩よとOBの会で、長椅子の上に立って話はじめ、OB駆け出しだった自分が、とても楽しめたのも思い出。石けんの活動を数年経てから、彼女長澤瑞さんは、旦那さんが早稲田のシルクロード歴史の教授だと知ったのでした。
 たくさんの懐かしい場面が虹を伝って行き来していたような日でした。

 

2020年8月29日土曜日

空は広く


 


8月27日は、父大仏尊教の生まれてから90年。記録上ではそういう事です。東京府荏原郡上馬、その地もその頃は田舎の風景だったというのですが、私が撮っているのは山梨の中央市の空。今年の遅れていた蕎麦の種も蒔いたのですけれど、どうなるかは未知数。
 そう、どうなるかは未知数でいいではないですか。

2020年8月9日日曜日

お味噌の息吹

 
  今年の味噌のできはどうなのだろうかと、桶を覗き込み、梅雨前の天地返しは功を奏して、黴の一つもないものです。本当に初めての木桶仕込み、自家栽培の大豆。ミートチョッパーで挽いた豆。そして滅多に手に入らない玄米糀。自分としては極上の若味噌になっています。秋になって本格的に食べ始めるのも期待できます。味見は今が爽やかな柔らかさのある新生姜で、夕餉の前の一皿になりました。
 そう、この味噌は長崎の海水の天日干し塩。この木桶は福島の麹屋さんの桶。それが山梨産の大豆を仕込んでいるのです。甲州の暑い夏は味噌の熟成は進みやすいので、悩ましいのですけれどこの滋養が育てるものを考えます。
 この仕様が準ずる味噌のプロジェクトは、秋月医師の二度と繰り返せない実証を下地に、少しでも免疫力を高め、新たな被災者であった飯舘村の人たちの味噌造りを絶やさないために続けているものでした。
 本日に何をなすべきなのか、何に抗い、何に賛同するのか。ただ味噌桶を覗き込み、そこに新たないのちの香しさを確かめるのです。あの松川の仮設住宅での収穫祭にもらった言葉、お味噌がお腹の中で生きている。そう飯舘村のお母さんのお一人は言ってくれました。それは、秋月医師の本を読んでいたとはわからない、純朴な一言でありながら、お味噌の可能性を教えてくれたのでした。
 だから、私は今年味噌を仕込むことができたのです。そして、8月9日にまた味噌の息吹を聴き取ったのです。生きたい!と。

 本日は91年前に文庫番の母が生まれた日でもあります。
 

2020年8月6日木曜日

夏の幻影 


 夏の少女の包は8月6日に届いて、いろいろな動物も緑濃い中に描きこまれて、文庫番は山の中の開け放された畳に寝そべって眺めていた大法輪の中でみた、平山郁夫さんの玄奘三蔵西域行図を思い出します。
 あの開け放たれた空間はもう戻ってこないけれど、西域に行くこともないだろうけれども、ざわついていた気持ちに落ち着きを取り戻せます。
 兄と語らった内容を反芻しても、今日の自分を思っても、本当は気持ちは安らがない。兄は一方通行の、自分だけで組み立ててしまった理論を話していきました。それは父の講義テープを聞いている文庫番に、父と息子とのどれほどの隔たりを感じさせ、そしてなおかつ同じように在りたいという話にも聞こえたのです。
 文庫番は、寄る年波には抗えず、田んぼの楽しさにちょっと休みをしています。
それはそうで、仕方がない事ばかり、別に新型インフルエンザでもないし、新型…新型爆弾って、あったのですよ。
 言葉は、どう使うのか、情報はどこから来るのか落ち着いて自分は自分自身でなければならないのです。75年前であっても、現在でも言葉は難しい。
 一枚ずつ、CDに焼き直したテープを聴き取り文字に起こす作業を進めながら、父の年譜を直していって、今、落ち着いた気持ちでマハラバを生きる事を書いています。
 本当にお盆前には書き上げ、茨城に送ることができるでしょうか。

8月6日 広島原爆忌




 

2020年7月27日月曜日

大仏空 テープ2-3 トッラックNo.1から


 親鸞というものを中心にね、日本の念仏思想というか浄土教というものを中心に一つの体系みたいなものを作りたいと、まあ思っているわけだけれども、それはね、親鸞を中心にするということは良いんだけれども、まあそこらへんなのだと思うけれども、僕の発想というかな、一番基礎にあるものは、どういうふうに言えばいいのかな、土着的なもの、への志向と言ったら良い。それは、民衆の中に根強く残っている、ずっと残ってきたしこれからも残っていくだろう、日本人の持っている土着的なもの。それが念仏という形をとって今日まで来ている。そこら辺のところを纏める。というのがねらいなんだね。それは土着的なものが浄土教思想とまとまったのは、この間から書いてきている「さび」という形になるんだと思うけれども、だからどうしても日本の神話とかね、その神話ができてくる背景とかね、そういったもの。ちょっと親鸞には無関係だと思うようなもの、をやはり丹念に拾い上げていって、それをこう纏めるには整理しなければならないと思うけれど、整理の仕方でもっては方向付けられる一種の危険があるけれども、まず最初に雑然としてもいいから、ともかくやたらと採りまくってみることだと思っているんだ。
そして、そういう目で見ると一遍という人物はどうしても欠かせないと思う。一遍念佛、親鸞さんから見れば後輩にあたる人なんだけれども、これはすごく民族、みんぞくという場合はナショナル、ネイションという意味と、それからもう一つはフォークロアのフォークの方だね、両方ひっかけて民俗的だね。彼の場合は。土俗的なんだね。
大仏空 テープ2-3 トッラックNo.1抄

 長雨の続く7月26日。父の講義テープを起こしています。
この日は父と母の結婚記念日だと言われていて、私の故郷では夏祭り。祇園とかまちとか読んでいたお祭りは、今でもやっているのでしょうか。今年は長雨だし、家籠りだから、続いていてもやっていない事でしょう。
 もう、文庫番としては、いつまで父の研究の書き起こし、整合ができるのか自信はないのですが、骨子としてしたかった事を自分で語っているところがあったので、アップをしておきます。
 テープは2バージョンはあると考えているので、どのように纏めたら、語っている内容の筋道ができるか。もう少し自分に許される時間があればと思っています。


2020年7月8日水曜日

父祖の地に



 世の中はいまだ永続的な同調自粛をしなければならないのかもしれないけれど、父の命日でもある7月6日に、山梨から東京は通り抜けて茨城県に出かけたのです。怖いもの知らずの無鉄砲だなぁ。。私が行きは運転。
 田んぼの草取りで疲れた身体を休めるにもと一泊で、父祖の地を訪れる短い旅。中学生くらいの時だったでしょうか。父と兄と一緒に祖父の本籍の家に行ったのは。父は私たちをこの霞ヶ浦南端の地へ連れて行ってくれた時には、50年近く経って私が再訪することは考えていなかったと思います。兄は覚えているのでしょうか。
 祖父大佛晃雄が長男であったにも関わらず、跡目をとらなかったのは、一部流布している情報とは違い、曾祖母の家に婿と入った曾祖父と、祖父との関係であったと私が聞いてきたことの確かめでもありました。
 遠縁の叔母が、もう居ないんじゃないの。と言ってくれたように、祖父の出た家とは特定ができなかったのですが、その地の風景は私の記憶に新しく刻まれました。
 
 ちょうど梅雨前線からの雨は列島を覆い、九州では大きな被害も出ている今年。この渺渺たる湖面を思う時、祖父が生まれた年から明治を考えると、祖父が、渡良瀬の谷中の人たちに寄せた思いというのが、重なります。祖父の継いだ大佛の曽祖父の寺のあった土地でもあるところに、私は来ることができたのだと今回の旅を思いきって決めた連れ合いに感謝です。ただ、私たちが茨城を離れても40年近くなり、さまざまな記憶が薄れていて、父とともにあちこち行った事は二人の間でも覚えている内容に相違があるのです。
 今回で気持ちの上では一つ区切りとしていくことができます。歴史の中で伝わる事、伝わらないことよりも今、どう伝えるかが大切なのでしょう。宿から眺める景色の中に大きなギンヤンマが何頭も飛び交っています。強風が渦巻くように木立も大きく揺れるというのに、この大型のドラゴンフライは自由に風をあやつっているようにも見えました。空(くう)を生きている龍のようです。
 新利根川沿いを土浦方面に車を走らせるのですが、荒れて水嵩も増している土色の川に何艘もの漁をする川舟が出ています。ああ、これが霞ヶ浦湖賊の裔なのだと、祖父は褌の湿り具合で天候を読んでいた。と父が語っていた言葉が符合します。天気図やニュースだけであれば、自宅で安全を計っているかもしれないのに、川面を見て風を雲を読んで、くらしを立てている。変な自粛をしていない漁民の姿が、前の世代の生き方を継いでいるように見えました。人の生き方は営々とあるのです。
 筑波山神社にまで今回は行くことになって、東日本大震災直前に行って以来なのですが、大きく参道が変わった感じです。震災で石段がほとんど崩れたとも聞いたことがありますが、約10年ぶりです。行楽の山。憩いの山は、今は人のお参りが無いご時節。
 今年の秋の紅葉の季節には多くの人が登るでしょうか。拝殿に掲げられている御祭神と摂社を確かめます。ここにはアマテラスとともに蛭子も祀られています。一部おかしいニュースでアマテラスの子孫の誰々という言い方があるというのですが、それは蛭子もともに祖であることも言わなければなりません。
 ともに祖神は同じだというのが、神話の世界です。

2020年4月28日火曜日

その男・・・



  御多分に漏れず、外出をしないということで、籠り気味なので読書。
「愛情はふる星のごとく」上、下。私にはこの時代の諜報活動は今の時代よりもさらに謎だから、その点には興味が無かったのだけれども、手にしたあとがきに、旧茨城三区の風見章の文章があったので、母に渡してあったものなのです。
 母には、母のさまざまな思いの中で読んだことだと思うのです。あまり風見さんの事は語らなかったのでした。細田さんや池田さんは父も先生と呼んでいました。
 今頃、こういう状況で、あとがきだけでなく、内容も読んでみているのです。著者の処刑された後にご夫人から出されている書簡集ということで、息詰まるような時間が判っている中でのやりとりです。
 戦前の知性とか教養とかを改めて読む思いですが、第一級の見識を持っていたのでしょう。事件の真相については読んだからといって解るものではありません。一番感じるのは、尾崎秀実が家庭教育ということにどれほど思いを降り注いでいたのかという事です。
 その責任が父親という立場にはあるという思いがひしと伝わるのです。
 今の時代に、競争原理のレールの教育だけを子どもに与える家庭が多く、学校の休業で、ついていけなくなる、という心配をしているのとは、以前の家庭教育の重みは違っていたのです。
 せっかく、学校が休業となったのであれば、大きく歴史や社会の見方も含めて、いやな言葉だけれど子女に与えられる親がもっと居てもいいのにと願います。
 ラナンキュラスの花が咲いたのを見て、どの花もしっかり咲いていると眺めながら、花は人間の顔をどのようにみるのだろうとふと思いました。花から見たら個々人の違いなど関係なしに、「人間」なのでしょうか。
 ついでにてんでな向きで出てきたウルイの写真。文庫の庭には三株のウルイ(ギボウシ)があるのですが、この二株は今までとは違う場所に移し替えたら、新芽の出方も面白いのです。間違って鈴蘭かとどきどきしていましたが、ここまで伸びるとウルイに間違いないようです。

2020年4月7日火曜日

4月7日の空


 あの日から8年経って、本日も桜の花が麗らかに、あちこちで咲いています。母の命日。
うちの床の間には生協で買ったマグネット式の手拭を掛け飾りにするのを使い、閑居山の摩崖仏を、小林画伯に炭拓で採ってもらったものを下げました。父の一周忌にと母と相談して摺ってもらったもの。
 今でも持って居られる方もいるのでしょうか。そもそも県指定文化財だったのですけれど、こういう使用は任されていたのか今となって、不明です。
 閑居山の一部、庫裡に続いた山地を母は国からずっと借りていて、母が亡くなった次の年にその連絡が、笠間の森林管理事務所から来て、連れて行ってくれる人が居たので、状況を兄に伝えたのですが、意に関せず。そのまま私が母の気持ちを受けて借り受けているのです。もうやめようもうやめようと思いながら、8年。母の命日に合わせたように来る納付の通知は、笠間ではなくなり前橋市の関東森林管理局からになりました。
 あの年に、お母さんが大変苦労して守っていた。と話してくれた電話の向こうの係の人ももう退職されているのでしょうか。
 山は荒れ寺は廃れ、人は・・・また春を迎えるのでしょう。

2020年4月1日水曜日

新年度



 4月1日が来ました。なんだか新年度を文庫稼業も迎えていて、もう少し身を入れて、マハラバのマハラバたることを考えなければと思っています。
 3月に倉庫作業をした中に、書籍に挟み込んであった当時の資料が幾つか出てきたのですが、すでに青い芝の会のホームページや、小山氏の著作でも出ている、青い芝の会のチャリティショーの資料がありました。初代会長山北厚さんの名前での趣意書と、応えてくれた出演者・・。。
 そうだったのかコロンビアレコードの関係だったのかと、その時幼いままに、観ていた私は記憶との合致を思います。
 これら出演者を観て、まだ存命だった祖父母にも喜んでもらえる花柳社中の踊りの真似事などをしていたことも思い出します。そして山の中に、当時の人たちの歌声が溢れていたことを。ほとんど一緒に家族も、共同体も、そして青い芝の人たちも動いていた中に幼い私は、尻尾のようにくっついていたという、記憶だけだったものが、辿れたことによって朧げなものが少しクリアになる資料なのです。今回の書籍調査については、父の宗教思想についての確認作業が主眼であり、また蔵書の目録作成ができればというものですが、障害者運動との関わりも見ることができました。
 このチャリティ・ショーの会場について文庫番が母に訊いたのと、他の人が記しているのが同一されていないので、今年はじっくりと調べてみようか。など新年度らしく抱負。
 幼いながらに、出演者がチャリティに応じてくれていたという事を聞いていて、意味は大人になった今でも、本当に理解できているのか文庫番の未習熟を思います。この世代の人たちが、差別を取り払っていく同列の仲間であったのだと改めて思いたいのです。
 山北会長の文章を読むほどに、津久井やまゆり園の事件に対しての、過去からの叫びのようにも読めます。
 自分の中での幼いフールとなってはいなかったという安堵を得たものでしたので、4月1日にアップしておきます。
 あとは過去に委ねるのではなく、自分の仕事としていくこと。


追加(趣意書)
脳性小児まひ者支援チャリティ、ショーについて
                        脳性小児マヒ者福祉協会
                           青い芝の会
                           会長 山 北 厚
いかに意欲に充ちて居ても身体障害者の自立厚生は容易でありません。なかでも運動の中枢を冒され手足の動作、言語すべてに自由を欠く脳性小児マヒ者の場合は、殊に至難であります。その上 脳性の名と言語障害から、知能的にも劣って居るかの様な誤認が伴いがちなのです。
 故、白土展子さんも、この脳性小児マヒ者の一人でした。が、この度 遺作となった詩が関係各位の御好意によって歌謡界にデビューする運びになりました。私たちは同障害の友として運命の兄弟として、若くして自からの命を絶たなければならなかった故人の心がとても他人ごととは思えずこれだけの才能があったことを世に問うて、あわせて私達マヒ者と云えども優秀な能力のあることを示して、広く脳性小児マヒに対する誤認を改める資とし、あわせて脳性小児マヒ者の厚生基金獲得の一助とする為に、作品発表後援会を催すことになりました。
 なにとぞ右の真意ご明察の上、力強きご支援を賜りますよう御願い申し上げます
  
 昭和三十七年五月三十日

2020年3月28日土曜日

南風に


 蕎麦畑のはじめての裏作の麦。麦踏をして寝かせた茎の間に土入れをすると、分結を促すと教えられ、またまた私たちは人力でそういう作業をします。
 広大な畑だったら何らかの機械力が工夫されている作業だとは思いますが、自分たちの足腰と腕の力。もう少し早い時期に同じ作業をした新潟でもらった麦はもう緑の茎が立っています。南風も吹き荒れるような天候でしたから、目に埃が入らないように風に背を向けて、一歩づつ進めます。
 なんとなく、マッサンの麦の唄が浮かんできます。見知らぬ土地に来て事業をなしていく。。そんな大それたことはしません。
 これは鶏の餌用の麦が実るはず。
 そして今朝のNHKは、スカーレットの最終回。自分がどのように次女を看取ったか、家族のそれぞれの思いはなど振り返る一週間でもあったのですが、月・火は薪の作業と畑、水・木が甲州小梅の剪定枝を軽トラックに乗せて運び、畑で焼きました。金曜日は麦踏をして、強風になって戻ったのでした。今日は、すこし曇りがち、暖かい気候。人の生死の重さを考える一週間でもありました。無一物で生まれ、無一物で死んでいく条理の中に、人それぞれの不条理がどれほどあるのでしょう。今を生きているというかけがえのないこと。
 意図していなかったはずの父の遺した書籍。先日確認したのはやはり全量ではなく、記憶の中でいくつかの棚のものが、箱に入っていなかったのです。それは仕方のないこと。時間がある時に自分の記憶の書名を辿って、検索しています。限界もあることです。
 

2020年3月13日金曜日

薄緑の柔らかさに


 蕗の薹に、地球の鼓動を感じたのは2007年のきなり歳時記だったと思います。それは3月10日を悼む詩でした。それは山川草木国土悉皆成仏を柔らかく言いたい拙さでした。
 今年は、3月10日も3月11日も重く一言では表せられない辛さを感じていました。多くの人たちに、僅かでも信じるという、草木の芽吹き大地の甦りを伝えたいのに、忘れないだけではない忘れることができない様々が沸き起こってしまうのでした。
 人間のつくりだした放射能で冒された、この地上に、草木は芽吹いてくるのです。花も咲くのです。それなのに私たちは復興などという驕ったことばしか持ち合わせていない。そう、父の蔵書の中に「人間の復興」もあったのですけれど、それは何を読み取ろうとしていたのでしょう。在ったという事実しか文庫番には記せない。
 放射能というものも、戦争というものも、人間が生み出した忌まわしいものであるとしたら、今年の新型ウィルスという、力の及ばないものは同じ様に忌避すべきものなのでしょうか。
 私たちが繰り返してはならないことを、抱えながら、なお自然をいたぶっている事への警告ではないのでしょうか。
 まだ、大地の恵みを信じたい。自然というものの懐の奥行きに安心したいと思います。

2020年3月6日金曜日

倉庫作業


 文庫番は、父のしてきたことを書き纏められるのだろうか。あの時の山から運び出してもらった書籍の類がいったい何だったのか、どれくらいの量を占めるのか。
 30数年を預けっぱなしにしてあったその価値はあるのだろうか。
年度替わりの前に、4日をかけて出向いて行って、自分ではわからない判断も手伝ってもらいながら中身点検ができました。全然知的労働ではない、肉体作業であったといささかの疲れた体が言っています。

2020年2月5日水曜日

ありがとう



 世の中の不思議というべきなのか、山形の准ちゃんから来た連絡は、2月1日に金子和弘さんが喉に食べ物が詰まって亡くなったという知らせがあったというものでした。
 ご自宅にも、入院した時にも会いに行っていたので、体力の変化を嘆きながらも、あれもしたい、こうしなきゃという話を聞いていたのでした。
 最近まで、兄との関係の間に入ってくれていたこともありがたかったです。
 ちょうど、次女の友人からお供えの花が贈られてきていた我が家。祥月命日が、金子さんも亡くなった日となりました。思いを深くします。
 考えると二人とも、人を愛することを大切にしていた人たちです。自分を諦めない。そういう人たちが居る、居たということ。皆に知ってもらいたいと思い、金子さんの娘さんが書かれたご挨拶をアップしておきます。
 マハラバから生まれ出でた人たち皆のことばなのかもしれない。母の写真の前に開き置きました。「だれもが皆同じように暮らせる社会」をめざして運動を続ける人たちは続いていくのです。
 斎場で金子さんのご親族から大変お世話になりました。と言われて文庫番は大慌て、いつも自分が励ましてもらっていたことを思うのです。現在進めている新解放理論研究会も承諾してくれていて、横塚さんたちとのことももっと同じ脳性麻痺者として運動の方向性を語らったということを聞いておけばよかった。盛花には全国青い芝の会からのものもありました。良かった。
 彼らは人柄自体が、前向きで明るさをもって人生を生きてきていたのです。そうでなければ続いてこないことです。そして何より、この感謝の挨拶が、どこにも挫けるようなことばがないのです。また文庫番は励まされました。
 

  
 

2020年1月15日水曜日

マハラバの傍らで



 石蕗に綿毛ができています。マハラバ村の傍らにあった石蕗は、いつのころから願成寺の庫裏に植えられていたのでしょう。武家好みの植物は江戸時代からの末裔なのでしょうか。何を見てきたのでしょう。母が神立のアパートの庭にも移して、母が一回も花が咲く事を見なかったという、それが今山梨の文庫の庭で綿毛を飛ばし次の世代へと伝えようとしているのだなんて、一旦は何かウィルスにでもやられている株だから、燃やしてしまえと考えられていたのだというのに。
 1月になって、やまゆり園事件の裁判員裁判が始まりました。様々な情報が流れてくる中で、私の中で言葉になっていない気持ち。
 自分だけの感情でもあるから、書くことも揺れ動くのだと思うけれど、石蕗のように新しい役割を果たさなければならないのです。
 多くの人が、やまゆり園の容疑者を、有り得る。とか自分がやっていたかもしれないというのを目にし、耳にする虚恐ろしさ。その多くの人の言っている言葉が上滑りにしか聞こえないのです。
 マハラバ村であった事件は健全者(健常者とは書きません)であり、その場を脳性麻痺者の共同体に解放していた、文庫の父が、脳性麻痺者を器物で殴打したという事件です。それまでは脳性麻痺者の解放運動を拡げるともてはやしていたメディアは、何の擁護もしなかったわけです。所詮メディアの語ることはその時々の世相の求めるものなものだと承知して生きてきています。事件については当事者たちそれぞれ語らずして亡くなっているので、傍らにいたからと言って自分が審らかにする事ではないと考えるのです。
 父が服役していた間はあっという間に過ぎていき、それでもなお解放の場を求めて来てくれていた人たち。訪ねてくることをやめなかった人たち。その人たちも今は記憶が朧な年代になり、新しい事件とは別個に観ているのだと思います。
 共同体であればこそ、仲間であればこそ、力づくの場面があり、互いの主張もぶつかり合う、そういう場を社会にもっとつくっていこう。と山を下りた人たち。
 しかしながら、社会は開けていくのには時間がかかるのです。世間の風は冷たいのです。この50年間、教育の場でも、くらしの場でも、就労の場でも。最重度の障害者を、置き去りにする事を仕組みとして、施設収容を事業として増やしてはいなかったのか。人間のもつ自分自身の愚かしさ、醜さを見たくないと、その象徴として障害者を「普通」から隔ててきてはいなかったのか。そういう感情が、やまゆり園事件でまた湧いてきたわけです。突き詰めれば、自分自身の中にあるものをどう認められるのか、その葛藤は「普通」の社会に投げ返されていたのに、今は肢体、言語の障害のみならず、引き籠り、社会参加に対しての個々人のバリヤーも、さまざまな病名で障害とされている時代になってしまいました。
 人は裏切る、組織は裏切る、国家が裏切る、それは人は自分自身を裏切って生き延びようとするからだと、承知した上でなお問わなければならないのです。
 母が閑居山に北海道から嫁いできて、鍬をもって耕して、100本の大根を収穫したのよ。と言ったところは、マハラバ村のプレハブが建てられて、そして今はまた藪に戻っています。文庫はようやく、塩と糠で美味しそうな沢庵を漬けることができる冬となりました。60余年。

2020年1月1日水曜日

庚子(かのえね)


今年も時々日誌更新しますね。