2018年12月31日月曜日

2018年大晦日



 はじめて、ささかみのお正月飾りを買ったのですけれど、年末のカタログに続けざまに出ていて、タイミングが難しかったと感じています。短歌の先生も同じカタログ利用の90歳一人暮らし。近所の短歌の集まりがあればなんとか互いを補って、ともあれ年越しを迎えます。家前の白い小砂利はこの秋の作品。一粒づつを集めおいて白く見えますが、色とは絶対的なものではなく、相対的なものなのだとぶつぶつ言いながら庭に居た日々なのです。裏に回るとここは一体どこだろう、この吊るしものは何だろうと。
 いろいろとあった今年もいってしまいます。それは時空をまたげば、何も変わっていないという気付きであればとも思うのです。

2018年12月18日火曜日

依然として



 依然として、繰り返して古い録音を聴いています。なかなか文字として起こしていないのが歯がゆい年末。味噌の甕を用意してあります。今度の寒仕込みではどれくらいを仕込むのか。
 本当は木桶にしたかったけれども、機会を逸したような年であったと思います。
取り敢えず、暑い夏を甲府盆地でどう超すのか。短歌の先生の夏の歌は「盆地沸騰」そうでしょう。私は脳内沸騰したような2018年の夏でした。もう一歩で熱中症になったような気がしてました。当然味噌の熟成も進みすぎるので、早めに冷蔵庫に移したり、または合わせ味噌を試みたりでしたが、今は落ち着いていろいろと楽しんでします。
 そういう味噌会議が昨夜はあって、いよいよ榮子さん芳子さんも飯舘村に戻るということに、この8年間の味噌仕込みを思います。
出かけていた間も煮込めるようにと、天板の上は鍋だらけ。スチーマーの縁は白くカルシウムらしい結石。自然エネルギーの利用も体力が伴わないと長く続かないのだから、人手は得られないこれからの暮らしで、このテープの公開をどうするのかの余力を文庫番は持たなければならないのです。佳境ともいえる歎異抄の読み解きに、ネットで見つけた、大仏尊教を、浄土真宗の僧と書いてある間違いに、一刻も早く、父は何かの宗派、宗旨によっていたものではないということを明らかにしていかなければと思うのです。依然として理解もできないうちにことばを書き綴りそうな自分を情けなくも思うのです。どれほど、父はこの講義を楽しんでいたのか、それを聴いている、竜史君、准ちゃん、良平さん。。皆の幸せそうな雰囲気を、どう表せばいいのだろう。



2018年12月13日木曜日

八郷の便りは


 八郷の硲さんから、朗読会の報告とともに送られてきたのは、本日より始まる小林恒岳追悼展の案内。そしてパルシステム茨城 栃木のニュース報道。
 父母の代からのお付き合い。横田弘氏の詩集の表紙もお願いした小林画伯の追悼展は茨城県天心記念五浦美術館で本日12月13日からの開催です。あんこう鍋も美味しい時期。
 会期中に一回は行きたいと考えています。そして硲さんは、ちょうど2年前のかすみがうら市での講演会のご縁で、パルシステム茨城 栃木へ加入したという事を大変喜んでくれています。私にとっても、思わぬ縁の繋がりが嬉しい。昨年植えた母の水仙も咲き始めています。どこも分断されていないと思えるめでたさで、2018年の師走は過ごせそうです。
 私たちは新しく「分断」という綻びを、綺麗にほどいて仕立て直せる。

2018年12月5日水曜日

黙々と



 黙々と夫婦が蟹をつつく、北陸路をはるばると来た蟹だから、身の一つも落とさないように、会話の少ない夫婦がいつにも増して黙って食卓に向かうのです。
 そして甲羅やハサミの殻はスープの素として、再度利用して。
だまっているけれど、この一年の採れたものを振り返り、採れなかったものの原因を考え、決して互いの責任にしてはいけないものです。責任のなすり合いの始まりは夫婦の事でしょうか。対話が・・・対話も、会話も相手もともにあって成り立つものですね。
 10年ほど前に買ったデジカメに曇りが映って、サービスセンターに出したのですが、もう8年前に製造をやめたそうです。部品の一部分に不具合があります。次にそこが使えない時は部品がないです。という事。そうやってデジカメもスマホなどにとって代わっていくのですね。クラウドもいいかもしれないけれど、雲の上からどこか監視されているような気がするのです。
 この蟹はブツブツも言いませんでした。ただ出来栄えに満足できる暮れのやりとり。
そう、お歳暮を見繕いに甲府に行ったら、なんと沖縄のシークワーサゼリー。娘と約束しながらなかなか行くことのできない沖縄にも、また蟹もいる事でしょう。

2018年11月26日月曜日

11月26日パネラー


 経過を言えば、引っ越し翌年の秋に、地域のふれあいサロンなる、高齢の方の集まりが、歩いて行ける公民館で始まった時に、声かけられてまだ早いと思いながら、出られるときには参加していたら、サロンで上映会をした事例も含めて参加者の立場の話をしたら、と本日はパネラー。
 山梨県中央市生活支援体制推進協議会シンポジウム。
 講演は健康科学大学 看護学部の望月教授。他の方々は、立ち上げの事とか、維持継続の事。私はサロンの中見や、参加して得られる喜びについて話題提供です。実母、義父母と続けて亡くなったところに誘われて、庭先のお声かけに一歩地域に踏み出すという話です。面白かったのは会費無しで運営しているリバーの地区ではパルシステム山梨さんからの助成をもらって・・と言う発表に、知らなかった。。こんなに身近に具体的に助成金。
 地域で暮らし続ける。誰にとっても大切な事です。6月の上映会は「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」でした。

2018年11月6日火曜日

白菊咲く


 文化の日と呼ばれる、11月3日はその前日からわさわさと大掃除のような、正月のような、拭き浄めて新しい暦の巡り還るのを迎える事で少し賑やかな家でしたが、庭の白菊が咲きました。これが私の文化勲章。墨田の家の門の前のプランターに挿してあった一枝が、山梨の庭でも開いてくれている。この年数してきたことを振り返ることができる、そして、これからを考えることができるのです。
 父の遺した講義こそが、文化とは何なのか、文明とは何なのかを語っていると聴いていると、突然語りの中に、空の意味が出て来たり、してみたい事が述べられていたりする部分があって、その人のわが父であることを離れても、人間の思想を語る興味深い一人の人物であることが、また、聴こえています。
 私のしてきたこと、子どもを育ててきた中にも、少しでも反映されていたのでしょうか。数日を一緒に過ごし、これから先を考えます。
 そして、また食べ物にまつわる言葉を新たに知り、そのような身体的なところから、発生することのはは、限定された、土地とちでの風土や作業に根差すものであることを考えます。私たちの食べるものが、空気や大地や水と同じように精神を養い育てるものである。アイディンティティイを形作るものなのだと、言葉はアイディンティティだ!と言った人に励まされたことを思い出します。
 父のテープ、文章をまとめるという一つの段階を経たうえで、文庫番がこれからをどうしていくのかが、統合されてきたように思うのです。

2018年10月24日水曜日

実踏に




 11月の企画の実踏は、前泊。これもまた家を留守にして足を延ばすことになるので、思い切って神立まで行ったのは10月19日。
 茨城青い芝はどうなったのだろうと、夕方の駅前を右往左往。新しく駅舎は変わっているのにどんど焼きの屋台が残っているのには、母の生きていた頃の神立への行き来を思い出し黄昏ました。
 行きつくべき先には、行きつけたのかどうか自分でも不明なままです。後日、兄が怪我をして手術をしたという話を聞きましたが、この日は知らずに。すでに退院した様子。本人からの知らせる意志も無いというのも、仕方がないのかと思います。
 思いっきり夕食にはならないものしかない売店の食事で一夜を明かして椎茸視察。これは詳しくは企画が終了後になるのでしょう。それでも、陽気は暖かく、家を離れての空の下は解放感や企画への浮き立つ気分があります。きっと楽しめます。
 自宅へ戻ると、20日の次女の誕生日に合わせての花が届いていました。

2018年9月23日日曜日

飛び立って


 このところ、庭のサツキの葉がルリチュウレンジの幼虫の食害にあっているので、父の講義テープを聴きとる合間の時間があるとピンセットでつまんで捕殺しています。不動産屋が売りに出す前?元の持ち主の手入れの頃には、消毒!していたのでしょう。移住して最初の春には気にならなかったところに、今発生する虫は、あまり消毒もしない我が庭でいかに共存できるかが考えられるといいのですが、残されていた庭木は庭木として手入れされていたのですから、それなりに、人為的なものなので、残しておこうと思えば、何かしらの作業を用します。毒のある毛虫とかだったら、まったく困ります。
 そういう枝に、蛹がついていて秋の朝、アゲハが羽化していました。あまり蝶々に詳しくないので、種類の名前は解りませんが、別な幼虫は捕殺しながら、羽化していくアゲハに見とれている自分がおかしくもあります。
 まだまだ、見送った人たちへの思いに捉われている自分が、自分の仕舞い方も考える、そんな年齢になるのです。羽化の神秘を、先人たちも眺めていたのでしょう。秋分の日、彼岸を思う日です。
 

2018年8月27日月曜日

テープを起こしながら



 父の講義テープは、1983年のものが先に電子化して、起こしている途中なのですが、その他に大雑把に2バージョンありそうです。まだ全容がわからないので、どこまで文字とするか、マハラバ文庫の事業規模に見合うのか、手作業で進めています。
 1930年の8月27日に生まれて1984年の7月6日までの一生であったのですから、晩年のものです。これが聴いていて面白い。西暦とか元号とかを、どう考えるかという改元についても話しているのですが、ちょうど今年、今の元号のうちになどと大騒ぎしている人たちに聞かせたい中身です。そう、音声で聞いていると、語り口、親しみやすさ、すぐそこに傍証の引き出しを持っている知の集積。だいたいは、インターネット上に討議資料として出していることと重なっていますし、それは解放理論研究会の中でも述べられているのです。インターネット上の解放理論研究資料が、画面操作の未熟な頃だったので、枠が重なっていることを直さないとならないと、改めて見直して知りました。あの頃は兎も角アップすること、どうして父の理論が生み出されたのかを公開していくことに追われていたので、またの作業です。
 この1983年の講義は閑居山の中ですが、テープを録音していたのは母か、その頃通っていた石岡の写真家の男性かなのです。少しずつ確証としてきたことなども、臨場感とともに聞き取っています。ダブルであるので、母がダビングして確実に何度も何度も聴き直している事だと思います。それは眠られない夜でもあったのでしょう。
 今の山はどうなっているのでしょう。笹を刈り込んでいるのは文庫番の庭です。小さな部分でも、根が入り込んでしまって切り株は切っ先を尖らせて危険です。父の死んだあとテープがありながら、母には母の生きるたつきを作らなければならなかったし、期待した一冊は、どうも思うようではなく、さらには母に父の遺稿をまとめることを憚る思いがあったのでしょう。それが何であったのか漠然と考えるのは兄の道を邪魔しないようにと居たためではないかと、今は何も訊ねることはできないので推量します。どちらかが、根の下に潜り込んで、元を枯らしてしまう。そういうことをしたくはなかったのだろうと思うのです。
 人が、個として生きていかざるを得ない世の中で、なおさら自立を求めあった遺された者たちは、互いに上手く伸びる事が出来なかったのですが、笹竹は、はびこっているのが2018年です。人が、個として生きていかざるを得ない、そうなのです。父の言う事は、その生きるという事が差別の根源だと帰結する筋道の理論なのです。そしてそのことを自覚するのだと。
 かぼちゃがまた採れました。分け合うにも難しい事が出るほどほどのお付き合い。明治の開国は、第二次世界大戦後の高度経済成長、市場経済への流れは、ほどほどにお付き合いできた農村をそして都市をも壊しています。今、庭の笹を刈り込みながら、または茨城の山の中を思いながら、この世界に生きる道を見つけるのが困難であることを思い知るのです。
 生きる事に必死で、、、その言葉は、他人を蹴落とすしかないという事を意味します。お釈迦様の時代でもそうであったとしても、そうではない人らしい在り方を選ばないと、ただ、講義テープを起こす作業をしながら、政治について何か言うでもない、今は自分の主張も行動には結びつかない文庫番は、父のいう絶望を、また掘り起こすのです。
 

2018年8月7日火曜日

立秋に


 昨夕は台風13号の先走りになるのか雷雨があって、夜の気温が少し下がって楽に感じました。
 今朝も、天気図が伝える不安はあるのですけれど、台所を優先課題として夏野菜を揚げたり規格外でともらった桃を煮詰めたり。少し温度の下がった台所に居る立秋です。文庫番の母は長く、8月7日生まれだと言っていたのが、免許証を取る時に再確認し8月9日生まれとなりました。祖父が立秋の生まれだから照子(あきこ)と名付けたといつも言っていたのに、日にちがズレてまたさら、親たちのいい加減を思ったのかもしれません。
 私の親世代は、身支度良く、潔く皆逝ってしまったけれど、お盆の時期に日本の各地で、長男の嫁やら、同居の嫁やら、娘と言う立場やら、子ども世代を迎える母たちやらは、台所で思案するころ、投げ出したくなるような毎日の調理の積み重ねが、実は家族の寄り集う喜びももたらしてくれていると奮起するのです。嫁、母、家内、自分たちを縛っているくびきは何なのかと嘆息をもって台所に立つのです。
 そうではなかった、同じ基準で社会ができていなかった、都会での勉学に送り出そうとした娘が、下駄を外されていたのだと知ったら、我が身の事として怒らなくては。
 まだ、「男に生まれてなんぼ」の世界を作っていくのですか。
むしろ、そういう逆差別をおいて踏ん反り返っているものが構成する社会の不自然さを、恥じて欲しいものです。
・・・・・・
 それは、別稿に書くべきかもしれないと思いながら、この日にちをどう考えるか。
今、同居、遠距離での親世代と生きている人たちは、この夏の期間に、8月の6日も9日も15日も語る機会があるのです。
 なんと貴重な時間を共有しているのでしょう。記憶もあいまいなのか、言葉が出ないのか、または感情がうまく伝わらないのか、それは聞きづらい状況かもしれないけれど、今語ってほしい、73年前を、そして続く時代をどう生きているのか。それは受け止める世代も、ともに居る今だから。親世代の介護をしながら、台所の支度をしなければならない、それは、男女にかかわらず、受け継げるものを大切にしてほしいのです。
 台所は男女にかかわらずいのちに直結する場。歴史が積み重なる場。それは、あらためて聞き取っている父の講義テープでは母性原理なのだと言う舞台でもあるのでしょう。「この社会は母性原理で成り立つのだ」と。
 今、文庫番の居る国は、母性原理を見失った社会になってからの150年余の中に、刻む日にちとして73年前の8月6日、9日、15日を持っているのです。
 
 


2018年8月5日日曜日

地域の中に


 ペチュニアは切り花にしても、綺麗だという事を、昨日短歌の勉強というお茶のみのついでの話に聞いて、今朝庭から家の中にも。
 お付き合いではじめているつもりの短歌だから、なかなか上手くは詠めなくて、自分の言いたいことを、相手は思った通りに伝わるとは限らないと、少ない語彙をあれこれ思案します。だから、お茶のみと称しても他の人の意見を聞くのは、一首を仕上げるのにとても役立つのです。そしてこぼれ話は宝物のように、しまって置ければ、いつかは輝く言葉になってと励まされます。もちろん真面目に月例会の歌を詠み合わせしています。
 歌は手元を離れたら読者のもの。先生はそう言いますが苦闘。自分の言いたいことさえろくに詠めていません。
 地域の中に、なかなか喋ることのできないお兄さん(中年)が居ます。思春期のどこかで、気持ちが沸騰して、他の人とのコミュニケーションを取らなくなったとも聞いていますが、お母さんも片足が不自由。この半月姿がみえなくなっています。ある朝電動自転車ででかけたまま行方が分からないと最初は危機管理の防災無線は流していましたが、まだ発見はされていないという事です。
 地域の中で、このお兄さんの他にもやはり言葉を交わすことの少ない人がいます。地域に住むという事の難しさは、移住してきた者は、当然にしても、世代を重ねても、異質なもの、大多数に溶け込むことのない住み方があります。そういう様々を包含して地域はあるのです。これを簡単にコミュニティという言い方にしてはつまらないけれど、人間存在の根の部分なのでしょう。ことさらに荒立てて追い出すことはしないけれど、助力もしない。淡々と、生きていく場。 難しくもある反面優しさとも思えるのです。誰も調整できる訳ではない個々人の生き方を、放しおいてあるのが、地域の奥行なのかもしれません。
 この、猛暑の中を行方知れずになって、どうした事でしょう。お母さんもやるせないだろうに、そういうお茶のみの噂話ではあるけれど、組にも入っていないその家の存在も地域の一員としてみているのです。
 朝、庭に出て草花の世話をしていると、自転車で行き来していた姿がまたみえるようになるでしょうか。
 

2018年7月22日日曜日

崩壊からの出発


 呼応することば達に出会っている嬉しさをどう伝えられるか、7月27日に小さな話し合いの場を用意してもらっているのだけれど、そこにどのように話題提供できるだろうか。
 横塚晃一氏の「母よ殺すな」すずさわ書店には、昨年私がたどり着いた考え方が描かれているではないか。
 『重症児殺し事件に対する我々の運動は、マハラバ村への挽歌であった。』あの時代にマハラバ村に居て、共有できることばを語れる者がもはやほとんど居なくなったことを私は残念に思っているのだけれど、相模原事件というやまゆり園での出来事について、私がなかなか論評できなかったハードルはすでに、晃ちゃんの本の中で、取り外されていたのでした。
 立場によっていろいろな見方があり、私の父の起こした障害者殴打事件を、当事者は語らずして居なくなっているのに、ただ巻き込まれていただけの家族が語ってはならないのではないか、ましてや、父が長男である兄の名前をペンネームにしたことで要らない混同が出てしまった、それぞれ別件の裁判。
 裁判ということについて、差しさわりが身内のことばから出る経験を嫌というほど見知ってきて、過去を掘り返すように、私が語ることを自分で憚った、相模原の事例だったけれど、丁寧に考えて行けば整理していくことができるのです。障害者運動というべきなのか、日本の社会形成の一時点というべきなのか、私がマハラバを語る時、それは新しい出発のためなのだと、再認識できるのです。
 各地で、自然災害の被害が出ている中、福島の味噌の作業に出向く途中の店にあった置物に、正体を隠して名乗るボランティアの欺瞞性がカオナシに見えながら、自発性をどのように表現できる言葉があるかと探っていると、少なくともこの本の120ページから123ページの中に『ボランティアに期待するもの』と章立てされてある「ぽぷら」No.6昭和49年6月 という文章は、私の中でのマハラバ挽歌として、ランプの下での夜語りの中のことば達なのです。

 私は、これらを辿りながら新たなことばを綴らなければなりません。

2018年7月16日月曜日

問いは深く


 玄関の郵便受けに、短歌に誘ってくださったご近所の先生が、昨夕封書を一通、ちょっと文通しています。なぜならば、うちから郵便局に行くにも先生の家から隣の郵便局に行くにも逆方向で無駄足になる近さなので、郵便受けを使うお便り交換。
 それは、一人暮らしを選んだ先生が先月の歌会に行く車の中で、仏教とキリスト教の違いをご質問されたからなのです。うちの墓所に曹洞宗のお墓と、母のベルナディッタ・マルガリータの墓と並んであることも、私の母がカトリックのままだった事も知っての質問でした。この通りの家々にも、戸別訪問の宗教勧誘は時折パンフレットを携え連れ立った数人がくるのです。人生の終盤に、様々な思いを抱えておられる先生からの問いは、「宗教が心の救いになるか」というものでしょうかと、そして私は寺というには寺らしくもないところで育ち、答えになるとも思われないけれども、心の救いを求める事とは別な次元で組織的にお金を集める宗教があることを、お伝えしたのです。その返信も郵便受けで。
 先生には歌の中で心を満たされるものがあると思うのです。先生の藤房を詠んだ歌は、「蝶を蜂をあまたいざなふ藤の房われもとうろり蝶のごと寄る」と発表されました。
 うちの庭の藤は撮り損ねたので、今年はじめて咲いたノウゼンカズラ。これも多くの虫が寄ります。この苗は斜向かいのおじいちゃんがくれたもの、3年目でやっと花房を付け風に揺れています。どこか、私には天上の花にも思えるものなのです。
 花も虫もまた我と同じ、自他一如の中に仏教(天台宗)もカトリックも選ばなかった私は生きています。
 生きている、この木の実をまたほじくって、一つのいのちを養って、川にポトリと落ちれば流れ往ってどこかの岸に生い茂った木になったかもしれない、そういういのちが、私の中に有難く来るのです。7月の鎮魂。兄に何か便りもしようかと。

2018年7月13日金曜日

有りました!ありました。


 屋根裏の資料を片付けていて、母の本棚から移した段ボール箱の中に、晃ちゃんの書いた「母よ殺すな」がありました。どこかにあるはずだけれどね。と亡くなった母と話していて、預けてしまった資料の方だと思って、自分では読むことを諦めていた一冊。
 今月は7月27日に「相模原事件を超えて」という語り合いの場をコンセプトワークショップ湯島で開いてもらえることになりましたが、障害者運動をされていたり、福祉事業の場に居たりする方々が、より詳しく私より青い芝の運動に関連することを知っていることもあり、自分は単なる話題提供者だといつも思っていました。古い「全国青い芝の会」などの運動の基礎資料でもあるこの本は、閑居山には重ねてあったものが、敢えて読まずともと過ごしてしまった40年以上。やはり母のところに置いてあったのでした。そして今は私の引き取ったものの中に。
 マハラバ村についても、初期の青い芝の運動についても、さらには父についても他の人の書かれたものは、私は距離をおいて受け止めてきていたのですが、自分が資料を辿るとしたら「転草」と「母よ殺すな」は読んでおかなければと考えていた片方です。
 内容については、諸所で引用もされているものですが、文庫番として探して保存しておく役割の責任が一つ果たせました。
 相模原事件を超えて・・・・これからの社会を構想するにも

2018年7月6日金曜日

今年の7月6日に


 モジズリ=ネジバナがやっと咲きました。生協の商品案内で購入したもの。なかなか土に合わないのか、4株のうちの残った一つです。今年もう一回買い足しました。それも根付いたのは一株のようです。百人一首を遊びの中で教えてくれた父の、歌詠みの声を思い出します。そのかるたは祖母の使っていたものでした。一回り百首が終わると、古い箱にきちんと収めてまた、次の日にも取り出して、それは冬休みの楽しみでした。私の手元には兄が結婚の祝いとして持たせてくれたものがあります。子供たちと正月遊びをすることができました。みちのくのしのぶもじづりたれゆえに・・・・川原の左大臣源融。父はかならず作者名も読むのでした。かるた取りを競い合うのを目的としていなかった父は、一首ごとに何かしら、その歌にまつわる話をしてくれていました。押しつけがましい蘊蓄ものではなく、歌詠みの付け足しのように、聴いて自然に耳から記憶するようないわば暮らしの中の訓育でした。この小さな愛らしい花が歌に詠まれたモジズリなのかと、山の庭に自生したのを母と見つけて思ったものです。
 山にはヤマユリもところどころに咲いて、花が香り立つと父が、母にヤマユリが咲いたことを告げるのでした。小さな喜びが香りとともにあった会話でした。
 やまゆり、今私は何を語ることができるでしょう。他の人たちに何を考えるのかも聴きたい。今月は湯島で話し合う機会をいただきました。
 今年の父の命日7月6日は短歌の勉強会の日となって、花の写真は雨が降る前のものです。ヤマユリの苗も先日川口湖方面に行った帰りに買ったのでした。
 

2018年6月6日水曜日

双虹


 小林恒岳遺作展案内が来て、その日にちは6月2日から6月6日まで、千代田で、かすみがうら市の四万騎農園の蔵でされると書かれているのに、行けない。
 行かなければと思いながら、身体は飯舘に、そして山梨に。
 事前に硲さんからあった連絡ではもう一度、開かれるという事だったけれど、私にはこの蔵にこそ行きたい思いがあったけれど、もう一度を調整したいと思うのです。
 地平に立って二重の虹を仰ぎ見る、その気持ちのままに。

2018年4月12日木曜日

デジタル化第一歩


 父の講義テープ音声をデジタル化はじめました。と言っても外注。そして、これだけを文字打ちしていっても、どうなるかという事になります。今までの資料は紙ベース。活字になっていたものでした。推敲も重ねられた、鏨で彫金を形作るような、一つ一つの言葉に角度と力の配分があった文章になっていたのです。
 講義テープをそのまま起こしても、人となりを知らない人には、べらんめえの東京弁に茨城のイントネーションの上、相手に応じながら、ダジャレも得意としていた語り口で、差別からの解放を説くのに、差別用語というものが幾らでも出てくる。部分だけを抜き出せばいくらでも、誤って流布されることが考えられるもの。そして既に50年半世紀を経ている中では、新しい解釈で、社会に通用している事例や、現在では反証されている考え方も引きながら話しているものです。そう考えるのですが文庫番も身近に居ない時期のもので、全容はこれから聴くことになります。またこの母がスペアを用意していたものが、オリジナルなもののスペアなのかどうかも、もう少し時間をかけていかないと、手内職のような仕事では、解き明かせないのです。やることの厖大さに、ここまで来ながら道の遠さを思います。やはり、アナログな作業です。
 自分一人の思い込みかもしれない、父の思想を整理していくことを事大にしているのかもしれない。それでも、他の事はさておいて今求められているはずだと、今の時代にこそ必要とされていることばなのだと、するのです。

2018年4月8日日曜日

水仙

 4月7日の朝は、6時前から目が覚めて、その日の朝を思います。兄に手紙を書かなければ、母の亡くなった日の事を。そう思いながら遅れ遅れになる連絡事項を片付けていると、いつも兄妹という間柄をぬるま湯のように、甘えていて筆が執れません。
 誰にも、看取られることをせずに、その覚悟で逝ったはずの母を、兄に伝えたとしても、これからの私たちの最終章が描けるものでもなく、いつかは人も死んでいくというそれだけが定めであることの再確認です。
 ギリシア神話の水辺に映った自分を見つめた青年のように、自分の姿を知っていくというのは人生の学びであるのでしょう。自尊心を大切にしながら、自己陶酔に陥らないようにたしなめる事の難しさ。自分で自然に習得できる者もいれば、諭しの中で理解が可能となる者、自己肯定ではなく、劣等感だけになっては虚しい姿をみるものもいるのです。
 八郷の硲さんから贈られてきた水仙だけでなく、元々あったものに、買い足した日本水仙、先日いただいた水仙、短歌の先生からのもあれば山野草の好きな斜め向かいのおじいちゃんからもらったティトティタ。いろいろな水仙が咲くようになりました。それぞれでいいのです。咲く時期もバラバラでいいのです。その都度にお供えします。

 


2018年3月21日水曜日

原本が届いて


 父の遺したイラスト図。弥陀の四十八誓願図。ここに鳩の木を使いレタリックで南無阿弥陀佛とした自筆のもの。滋賀県から私の手元にと送ってくれたものです。
 この図を大切にしてきた人たちの思いを受け止めるには私は非力だなと感じています。
一羽一羽のまなこに映っているのは、今までの、そして今の、これからのすべての事でしょう。オリジナルな唯一な四十八誓願図に、父が受け止めていた他者の苦しみ、悲しみ、非力、凡愚、煩悩などを、そしてそれがまた、父自身の苦しみ、悲しみ、非力、凡愚、煩悩などを覚っていつつ描いたのだと思うのです。仏画であるともいえるけれど、一般の寺に収まっていたような図ではないものを、裏打ちし額に入れて大切に扱ってくれていた人たちがいる。どれだけの、その思いを私ごときが、文庫番だといいながら、ろくに整理もできていない日々、そしてこれからの自分のわずかな時間で整理できるのでしょう。
 御開帳していくには、どうしたらよいのか、自問。
 

2018年3月13日火曜日

甘夏




 ちょうど、資料の掘り出しをしていた日に、配送で3個の甘夏が届いて、ママレードにしようと考えています。
 農薬を使わずに甘夏を育てるのは、水俣の生産者の祈りのようにも思えます。水俣反農連さんの95年のメッセージ。真ん中に杉本栄子さんの文章。文庫番が子育て中、自分の育った山で母が作っていた夏みかんのママレードを子どもたちにも食べさせたくて、2㌔箱で買っていた頃、中に入っていた紙が資料の中にあるのです。自分が山に居た頃石牟礼道子さんの「苦海浄土」を読んでも、障害者の人たちと暮らしている状況で、もとの働ける身体に戻してくれ!という意味のことばにはやはり距離を感じてしまい、それでいいのだろうか。本当にそういうことばだったのだろうか。その意味は。と長くしこりを残したままだったのが、杉本さんの文章に出会って、「生きんがために」そのことばで、共感できたのでした。自身が水俣病で冒されていたからこそ、無農薬のミカンでないといかんのだと。・・・。ここに熊本弁のままで書かれている深さ。そして、小欄に書かれているそれぞれの生産者の言葉。阪神大震災へのお見舞いの気持ち、購入している消費者への励まし。それを読んでいくと、ああ、誰しもが生きていくという事がいとおしい。写真の中のどの方だろうと一枚の紙を見ながら、ママレードを作っていたこと。
 今年も、3.11の味噌仕込みをして、台所から繋がる。一方的な支援ではなく、教えられることの交流を続け、それは、水俣と台所で繋がっていたこと、教えられたこととまた反復します。
 マハラバ文庫の「きなり歳時記」の中では、もとの働ける身体にという事の本歌取りで、働ける身体を損なった男は・・・と敗戦記念日の短文に使わさせてもらっています。それは反農連の一枚のチラシのことばで、こなれることができ書くことができたのでした。

2018年2月23日金曜日

今年は、咲くのか



 先日は、来客もあるということで玄関に立ち雛の額を出しました。そこに長く活けてあるのは、庭の河津桜を無造作に剪定した枝。約10日ばかり挿してあったらつぼみが膨らんできました。この2年まったくと言っていいほど花を見る事ができませんでした。
 うちには春が来ない。そんな年もあって花は咲かなかったのでしょう。それとも、庭の主は食いしん坊で、そうヒヨドリたちが花びらを食べているようにも思えるのです。
一回覚えてしまうと、年が変わってもまたやってくるようです。
 樹勢も悪くなってきているようだったので、枝をばっさりと冬の間に剪定して薬剤を塗布してありました。庭の川に向かったところに植えてあったものですから、脚立に上がったら心配で、下で押さえていたのです。落とした枝を家に持ち込んで無手勝流の花入れです。
 そう無手勝流。来客に話したのは、父の話。でも自分でも普段考えていなかった問いかけに戸惑いながら答えました。子供という立場は、親をどこまで客観的に語れるのでしょう。難しいことです。今年は花が咲くでしょうか。片付けたら茨城の皆に便りを書かないと。今年の冬も寒かったと。

2018年1月31日水曜日

一月は行く



  話の始まりは、そもそもは墨田で開いた学習会での、大潟村との交流の馬場目川上流にブナの植林をしに・・・・行くことにしたことから、遠路を寺下号でM&A企画を心配して、運転をかって出てくれたのは金城さんだったことからです。車中での話の中で、おやつといったら干し芋で、カチカチになって白く粉を吹いたのを焙って食べても甘くなって美味しいよね。そんな話ででかけた時のことからでした。その時には大潟村で芹のたっぷり入っただまこ鍋。
 それが茨城を愛する会で、ひたちなかに行き、北茨城に行き、あんこう鍋も楽しむ冬の企画になって。それから、数度冬のさなかの土日にあちこちを訪れてあんこう鍋。
 東日本大震災の年まで続けてみたのでした。そこの中身が「山仕事讃歌」に書かれていて、地域に対する愛着を考え、地域振興の行く先を考えると、そこに住む者の誇りであり、自分たちの価値を知ることだと結べたのは、茨城の同郷の中での話からだったようにも思っていたのでした。その金城さんが亡くなってお通夜の前にお顔だけおがまさせてもらって、山梨に戻って、その地での自分のこれからを考えるのでした。そして茨城を。

 この冬も、また春になる前に見送る人がいて、1月は行ってしまうのです。この2年間、特に思うことは、私たちの文化の中に写真というものが現れる前、遺影というものは無かったのだと、似姿を残すのではなく、人は何を手掛かりとして逝った人を偲んでいたのでしょう。一時も忘れることなく、生活の折々に思い出が蘇り、在りし面影が浮かぶのです。そうすると、現実の姿の意味と記録と記憶と、どれほどの差違があってなのか、お釈迦様の手のひらの上の時間もよもつひらさかも。電子上のことでないのは確かです。気をしっかり持ちたいものです。