2018年8月7日火曜日

立秋に


 昨夕は台風13号の先走りになるのか雷雨があって、夜の気温が少し下がって楽に感じました。
 今朝も、天気図が伝える不安はあるのですけれど、台所を優先課題として夏野菜を揚げたり規格外でともらった桃を煮詰めたり。少し温度の下がった台所に居る立秋です。文庫番の母は長く、8月7日生まれだと言っていたのが、免許証を取る時に再確認し8月9日生まれとなりました。祖父が立秋の生まれだから照子(あきこ)と名付けたといつも言っていたのに、日にちがズレてまたさら、親たちのいい加減を思ったのかもしれません。
 私の親世代は、身支度良く、潔く皆逝ってしまったけれど、お盆の時期に日本の各地で、長男の嫁やら、同居の嫁やら、娘と言う立場やら、子ども世代を迎える母たちやらは、台所で思案するころ、投げ出したくなるような毎日の調理の積み重ねが、実は家族の寄り集う喜びももたらしてくれていると奮起するのです。嫁、母、家内、自分たちを縛っているくびきは何なのかと嘆息をもって台所に立つのです。
 そうではなかった、同じ基準で社会ができていなかった、都会での勉学に送り出そうとした娘が、下駄を外されていたのだと知ったら、我が身の事として怒らなくては。
 まだ、「男に生まれてなんぼ」の世界を作っていくのですか。
むしろ、そういう逆差別をおいて踏ん反り返っているものが構成する社会の不自然さを、恥じて欲しいものです。
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 それは、別稿に書くべきかもしれないと思いながら、この日にちをどう考えるか。
今、同居、遠距離での親世代と生きている人たちは、この夏の期間に、8月の6日も9日も15日も語る機会があるのです。
 なんと貴重な時間を共有しているのでしょう。記憶もあいまいなのか、言葉が出ないのか、または感情がうまく伝わらないのか、それは聞きづらい状況かもしれないけれど、今語ってほしい、73年前を、そして続く時代をどう生きているのか。それは受け止める世代も、ともに居る今だから。親世代の介護をしながら、台所の支度をしなければならない、それは、男女にかかわらず、受け継げるものを大切にしてほしいのです。
 台所は男女にかかわらずいのちに直結する場。歴史が積み重なる場。それは、あらためて聞き取っている父の講義テープでは母性原理なのだと言う舞台でもあるのでしょう。「この社会は母性原理で成り立つのだ」と。
 今、文庫番の居る国は、母性原理を見失った社会になってからの150年余の中に、刻む日にちとして73年前の8月6日、9日、15日を持っているのです。
 
 


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