2019年12月23日月曜日

2019年冬至




 畑の周囲に雑草除けに植えてみたワイルドストロベリーの葉が草紅葉で畑の縁取りになっていました。畑の抜き草や、庭の剪定枝を燃やして浄めていきます。
冬至、一年が経めぐって一陽来復。
 必ず時は巡ってくると宇宙の運行は告げているのかと思いたいけれども、それはまだ未解明なのだとも考え、人は人の世を生きているのです。
その一方で刹那という瞬間だけを表すことばも説いてあり、その時々に在ることのみとも、考えていたのだと、少しばかり宇宙と教えの概念を合わせて思うのです。
 そういう、不思議な巡りの中で己であるという事。思うにならない、こころを持ち、身体を持ち、生老病死 四苦八苦を具えながら今の時がある。
 自分だけが苦しくて、他のものの苦しみ痛みはなかなか思いやれない日々ばかり。
 やっと、センゴク大豆の選り分けが終わって、食用にならない大豆も4割がたあって、それを庭に撒いて、鳥の冬の間の養いにするのか、それともまだ見ぬ鶏の餌用に取っておくか、これでともかく、年越しの用意に気持ちが向いていくのです。

2019年12月18日水曜日

只管



 私たちの味噌造りは、もう9年目に入るのだと驚きです。ただひたすらに大豆を選り分けてこの数日を過ごしています。少量です。少量だから手作業でするのに大変だけれども、機械力を使う量はないから、もう一月あまり。
 雨の多い11月、カラッと晴れる日を選んでは干したけれど、夏もまた雨が多く、うまく育っているとはいえません。
 このセンゴク大豆と、もう少しアケボノ大豆を足しても、階段下に置いた味噌桶には僅かな分量になるのは分かり切っています。そうすると上手くは熟成できないし、いろいろと面倒な事は脳裏に浮かびますが、縁の繋がってきたことはこの地域でもしっかりと繋がないと。
 単純に、選り分けて分別するだけの時間があるというのは首も腰も痛くなるまで曲がってしまいますが、自分の都合だけでできる作業。誰からも支払われることの無い、自分だけの対価。だから、ひたすら、これだけを。

2019年12月8日日曜日

玄関に


 伸びきっていた櫟の枝と、南天の実を活けこんでみました。南三陸の〝しおだまり”で買った匂い袋といわきのオーガニックコットンの綿。もう匂いも薄くなっていますが、なんとなく玄関に香りのものを置きたくて長くありました。綿はもう畑の実は開かないのでしょうか。師走になって花殻のあとは固いままなのです。もう霜も降りているからこの量が今年の茶綿の全部でしょうか。雪に見立てるには茶色いのでもうそろそろ片付けてオーナメントなど懐かしみながら出そうかと思います。
 9月以降の、台風や大雨の所為だけでなく、この4年間は10月、11月は気持ちがぐらつきながら、つい4年前を振り返る期間になっているのでしたが、12月はそれでも新しい年迎えに用意をしていきます。そして1月は晴れやかであってほしいのです。
 昨夜は、アフガンで銃撃された中村哲さんの追悼番組を観て、12月8日に日が変わりました。今のこの地上で、平和とは何をさすのでしょう。私にとって平和を願うのは、どういう事になるのか、己亥の師走。あと僅かになります。

2019年11月10日日曜日

不可逆なことを


 歴史とか時間とか、もとには戻らないと一般的には言われているものです。
最新の説ではどのように時間を捉えているのでしょう。
 デジタル化した録音を聴きながら、ストップ&ゴーのやりやすさが有難いです。カセットテープの切れてしまったものは、もう私には修復できません。
 少しづつを聴き取りながら、あれから社会は良い方向になっていたのだろうか。人の生きるという事は、なんと多くの事を背負っているのかと思います。単純に不条理と言っても、それの裏腹な事、別な立場から見れば当然の理屈というのも有りなので、正否ということも断定できないものだと言うしかないのです。
 人の心の中は複雑だ、とお礼の電話の向こうから聞こえました。そのままの複雑な人の心を思いながらの数日、過去タレントの覚醒剤でも再逮捕と、秋の叙勲者を紹介するのは同じラジオからの報道でした。どうしても堕ちていく人生と、実直に道を間違えない人生と。人間復興だというのも、やはり論じたりない言葉でした。わざわざ、人の運転で立ち寄った兄は、絶縁を告げて去りました。

2019年10月19日土曜日

台風の後で

 





週末雨も上がった庭で、秋の芽生えを楽しみます。だって、中央線復旧したって、各駅で相模湖乗り換え、高尾乗り換え、、、行きつく先までは一体乗り換え幾つ。時間も連結できているのに合わせるには大変。高速バスだってそうです。不要不急の移動は・・。籠っていようと思います。
おぎのやの釜飯の釜、ご飯を炊こうとしたら水漏れしたので苗床になっています。忘れな草が芽を出しています。私を忘れないで、その声は。先日の台風でのさまざまを考えさせられます。  避難所にまで行ったのに、立ち入りを断られた人。避難所に行くこともせずに溺れて逝った路上の人。  防災って誰のため、地域って誰のため、安全って誰のため、いのちって・・。 数年前に閑居山に行った時、ブルーシートを張って暮らしていた兄はこう言いました。「いのちを大切にしなければと言うのも間違っている。」そうなのだろうと。彼は父のしたことを追いながら、彼の論理で説いているわけですから、私も肯くところがあります。その兄は、10月に我が家に顔を見せに来ると、人を通じて連絡がありましたが、来ることを取りやめました。  この秋の台風で、命を守る行動を!していた者は、他者を排除していなかったのか。敢えて、地域の輪に入りづらい日常を作っていなかったのか。私の日常は、兄が訪れられないものではなかったのか。  ここの地域の防災訓練は、8月の25日にありました。そう、マハラバ文庫の夏期学習会の当日だったのです。地区の人たちは、参加者の出入りも見ているので承知と考えていましたが、行政にある生活支援体制整備推進協議会、云々。でその後あった会議で防災って訓練に出てこない人に出てくるようにする前に、もっと歩み寄れるようにできないか。との主旨(議事録は来ないので、自分の記憶)で実際に防災訓練当日、車椅子の人も遠くからくる学習会の企画をして、身近にある用具で出入りできた。という事も話してみたのですけれど、自治会長を終えて防災担当をしているという、上から、下からと、くらしの中の情報を表現する人物から、「そういう特殊な場合は専門家に任せて、我々は我々のできる範囲で・・」という切り替えしがありました。言っていることを聞いていない。伝え方がまずかったのだろう。状況は知らないのだから仕方ない。でもおかしい。「地域とは特殊な事の集まりじゃないのですか?。」とその一言で良かった。  まだ、私にはそれを伝えられる機会もありそうだから、相手の経験はそれとして、私の考え方をもう少し言ってみようと思っているのです。  自然災害から、どのように生きていくのか。それは日常の中にあるはずだから。 「私を忘れないで」忘れな草の苗が上手く育ったら、家の道路向かいの地域の避難集合場所になっている診療所の空き地にも植えてみます。  谷田部の収穫祭で買ったシクラメンは夏越ししたようです。ついでに、セロリ、コリアンダー、フェンネルなどが、ぎっしり芽生えている香草のコーナー。

2019年10月1日火曜日

やれやれと




 半年、6月の田植えからだと約4カ月になるのでしょう。初めての米作りはようやく脱穀し籾の状態にまでなりました。5年契約の田んぼはまた来年も米作り。
除草剤不使用天日干し。生き物多数。
面白し。(語尾の変化は終止形ではなく、甲州弁=村の言葉で同意のような促しのような場合・・・・この場合は動詞に着けるそうです。)用法は間違いでした。面白いものです。いまさらながらに、地道な手作業にほど近い、小規模自家用生産。実体験の無かった田んぼの秋までも、体験できます。
 田植え、草取り、稲刈りツアーだけではない、その間、あいだにある作業の組み立てで、主食ができていく。水の抜ける石地の田んぼ、猪が周囲に潜み、スズメは木の上から見ている田んぼ。そういう中で、この土地にあった作業が工夫され、くらしは営まれ。
ネズミや虫や雑草の種がこぼれる事を考え、稲藁は庭と畑に必要な分を取って、すぐに燃やすことにしたのです。脱穀に続いた日に燃やす作業も、やはり夫婦二人で午後の時間を目いっぱい使いました。消防にはちゃんと連絡して始めました。結構な煙が立ち上るわけです。収穫に続く作業も保管の仕方も、やってみて学ぶものでした。水の守りの黒いブロック石は引き上げてきました。

2019年8月28日水曜日

89年前の午年に

 8月27日、父は生まれたのです。男女の産み分けなどなく、午年というだけで、出生数の少なくなった時代でした。
 生まれてすぐに、おばあちゃん(文庫番の曾祖母)が、見分に来るので、祖母は出産直後なのに男の子かどうかを、ちょろっと確認したそうです。
 上二人が女の子で、曾祖母は次伯母が生まれた時は「またあまっちょか」と言っていったという事で、祖母にしてみたら、三度目の正直にかけた、後継ぎっ子でした。
 曾祖母は家付き網元庄屋の跡取り娘だったので、男子の出生が使命とも考えたのではないでしょうか。
 生まれた場所は東京府荏原郡駒澤村上馬、昭和5年の事です。終戦の年ぎりぎりまで、山の手の大空襲の前までそこに住んでいたのですが、、いよいよ戦局も激しくなったことで父親の居た茨城の山の中の寺閑居山願成寺に移っていったのでした。その年の12月に尊教と改名していることが残っていますので、15歳で僧籍に入ったと考えられます。
 そのような激動にもまれた多感な時代を何を思って過ごしたのか。
晃の名前を今回マハラバ文庫にアップした「聖道 念佛義抄文」に印を残している若き日の父。その一冊を楽しくも困難の多かった結婚生活の標として、また父没後の苦しい生活の中に離さずにいた母。
 学習会を終えた庭には、母の家の周りにも咲いていた秋明菊の蕾が膨らんできました。

2019年8月26日月曜日

月日は流れ



 8月24日(土)25日(日)マハラバ文庫での学習会に茨城から里内龍史さんが参加してくれました。学習会終了後は、大仏照子=ベルナディッタ・マルガリータの墓参りをしてから、また茨城に戻りました。
 懐かしい人たちの消息もあれこれ話している中に、この間かすみがうら市で逢った時に今年持つかどうかと話していた折本さんが亡くなったとの報告もあり、そうなのかと感慨深く思ったのです。
 ごく身内だけでのご葬儀であったという事でした。
同じ戌年ということで、私は比較的一緒に居た時間の長かった彼女。もう一人の青い芝の礎石。短歌集もあらためてめくります。

2019年8月15日木曜日

本棚から




 障害者と戦争。各自どのようにあったのかはそれぞれだろうと、想像するばかりで、戦争を知らずに、自分が育っているけれど、この本は「もう一つの太平洋戦争」障害者の太平洋戦争を記録する会 仁木悦子代表 立風書房 1981年。
 やはりカバーの折り返しにある山北厚氏の「戦争が私を小さくした」。記録した意味をあとがきに書いてある仁木さんの言葉。自分にとっては幼児から読み浸っていた「水曜日のクルト」大井三重子さんが仁木悦子さんの事で、世田谷のお宅に自分の子供達を連れて行ってお話を聞いた夏からも、長い年月が経ってしまっています。
 今年の夏。どこか何事もオブラートにくるまれていて、障害者問題も、パラリンピックで活躍、社会に地域に多くの障害者がともに生きる時代になりつつあるけれど、その一方でこの国はいつも、形代を流しながら自分たちは御簾の奥で世の中を見ているような生き方もあり。
 事実はすべてうやむやで、時だけが過ぎていくのがいい事なのよ。そんな社会が当たり前で、忘れないというスローガンは何に対してだったのか。本当のことをえぐらないで、その時の時流のネーミングだったのではなかったのか。では、ちっぽけな文庫番は、何を番していくのでしょうか。・・・・・平和。

2019年8月7日水曜日

いもっち



 天候には勝てません。長い梅雨の間も心地よいと草取り続けていた初めての稲作ですが、長い梅雨でした。。。
 同病相哀れむと言えばいいのか、あなたに言われても・・と言いたい、我が家の田んぼの下の田んぼは田植えすぐから伸びにばらつきがあり危ぶんでいたのですが、水が別だからと安閑と見ていたのですが、同じようになったのが、上の写真。
 下の田んぼの人が、ああ、これはいもちだよ。うちも消毒していなかったら、お前馬鹿かと言われたよ。育苗センターに聞いてみな。どこか調子の悪い話というのは弾むのですね。今まで話していなかったのですが、互いに田んぼの様子を見に来た道路際での話は先週でした。
 土日が過ぎるのを待って、月曜朝から電話をしたり、対応したり。
そりゃあそうだ。いきなり田んぼをはじめました。上手く行きました。なんて、代々苦労している農家さんに申し訳ないから・・。そんなこと言っちゃあいけなかったのか。あまり表情には出さないけれど連れ合いも悔しいのは分かっています。
周囲は皆慣行栽培だし、中途な無農薬でしたが、ここで全て刈り払って処分するのもあるのですが、共同で耕起してくれている仲間も一緒になって、いもち病対策のS化学の薬剤散布。稲熱病の洗礼。これは踏み絵なのか。それにしても、梅雨明けしてもすっきりとしない天候です。

2019年7月29日月曜日

学習会宿泊人数Ⅱ

8月24日(土)シルクフレンドリーでのお部屋は女性のみ相部屋になります。

2019年7月27日土曜日

学習会宿泊人数

先に案内しました、8月24日(土)、25日(日)の学習会。
マハラバ文庫での宿泊は定員となりました。

2019年7月26日金曜日

選り分けるという事 7月26日



 選り分けて、ほんの指の先で爪で拾うような白い石も、置くようにしていくとおのずから、色の違う石を外側のエリアに出すようになって、およそ8カ月。白い部分の層は少しばかり厚みが出て、まだらであったところがほぼなくなってきました。
 怖ろしい事だと、思いながらあまり途中でやめる事もせずに日々石を拾います。同じ時間をもっと有意義な事に回していれば、他の人に迷惑もかけなかったろうに、傍目にはいわゆる精神的に他と交わりにくい人の様相を呈していたのでしょう。
 しかしながら、もっとおぞましい事は、選別しないと白い石ではない庭の小粒の砂とも石ともいえないものを、拾うのです。自然石には様々な色合いがあります。大きく言えば同じ白の中に赤味を帯びたものと、碧石のようなものと、一番多い灰色に近いものが、混ざっています。玉石混淆というほど優れたものはない石ばかりの中に、それぞれの個性があるにも関わらず、自分の主観で、これは赤いからダメ、この緑っぽいのも違う、グレーは一番たちが悪いなどやってはいないかと。むしろ、それらの微妙な色交じりの小粒に言い聞かせるように、白だ白だおまえはシロなんだ。だからこっちに置くのだからと、同様な色合いのものを寄せていく行為です。
 逆に灰色というか黒に近い小粒も、黒だ黒だおまえはクロなんだと外に出して、車の轍の中に埋め込んでしまっているその自分の選別に、どこかあまりにも人工的な庭づくりになってしまっている、それなのに、朝起きて時間がある時の習慣化しているのを、自分に許しているのが、いやらしい。
 すべてのものを受け入れて、そういう父母の結婚記念日であった7月26日。

2019年7月25日木曜日

ご案内

もたもたしているうちに、明日は7月26日。
もうそろそろ、こちらも梅雨明けしますが、ご案内をお送りしていない方へも見ていただければとアップします。
 8月24日、25日にあります夏期学習会のご案内です。

2019年7月6日土曜日

35年経って



 あの7月6日は、私は次女を妊娠中で、朝の母からの電話で連れ合いも会社を休んで、土浦にあった国立病院に行ったけれど、すでに父はたった一日の入院で死んでいたのです。
 母を病室から出して、自分で、身体に繋がっていたチューブのすべてを外して。
 さて、母が遺したノートの中にあった念佛義抄文 大仏晃阿弥陀とあるあとがきは念仏のし方。小さい冊子記名からは本当に父の若かったころの文章だと思えるものです。写しを作って兄にも送りましたが、兄に送る郵便物は受け取っているのかどうか、私には返事は来ません。先日は郵便屋もご苦労な事と閑居山を知っている人にも言われました。それもまたしょうがないばかり。
 父親が、追いつけない存在である時にその息子は苦しい人生を歩むものです。つい最近の事例は私には、親を思っても、その息子を思っても、辛くオーバーラップされます。
 それにしても、大仏晃の念仏とは、かくまでありなん。
 8月の末にこの内容を読み合わせられるようにしたいと考えています。

2019年7月1日月曜日

かすみがうらにもお城がありました!





驚きです!エレベーターはもちろん見当たりませんでしたが、私たちはもともと、当てにしていないわけです。
 田んぼの草取りの合間に茨城の歩崎で開かれている「小林恒岳と霞ヶ浦」シンポジウムに行ってきました。それは、一緒に時代を過ごしてきたのだから、敢えて講演を聞かずともというわけでは無かったです。多角的に霞ヶ浦そのものを語ってもらい、その中に画伯の人生と絵画に表されたものを、参加者に説明してもらうと、逆に私などは自分自身の人生にどのように霞ヶ浦があり、小林・硲さんたちとの家族同士の交流があったのかが読み込めたのでした。
 神立の駅からは、天海さんに、里内さんの家に連れて行ってもらい、文字盤トーキングを持参し、運転は阿部さん、介助は野間さんで龍史兄ちゃんも参加。4年ぶりだったけれど、みなそれぞれに元気で会うことができました。滋賀県の琵琶湖畔生まれの里内さんがどう霞ヶ浦の歴史を聴いたのか、また後日聞いてみたいですが、「マハラバ村建設から骨格提言まで」という茨城青い芝の資料をもらいました。
 歴史博物館内では履物を替えてとなるのですが、車いすって履物じゃないし、など考えていたら、受付のところでスロープが用意されていました。雨で濡れていた車いすのタイヤもタオルで拭いてもらって介助者はスリッパになって(押しにくくないか?)フロアーに入りました。どこかの国の首相に教えておかないと。
 今回、お便りが着て、行く気になったのは、歩崎での展示・企画講演だったということで、折本さんと父が出会い、そこから「青い芝の会」が展開していったところだったということが大きな要因でした。小さいころには周辺の者として、混ざっていた私だけれど、今、記録をしていくのに、その空気に触れ、土地に立つという生身での振り返りをしなければと思っていたところに、願ってもいないお誘いだったのです。小林家が高浜にあった頃、同人誌「辺」うちの二階にある母の資料にも入っていたけれど、きちんと読み返す時間がとれていなかったものでした。展示物になっていたので、ページをめくることはできなかったのですが、閑居山と高浜と、行き来した方々のお名前が、企画の随所にあり、自分も励まされ、夏の企画を早くお知らせできればと思います。
 ようやく、龍史さんとの確認が取れたので、一歩前進。

2019年6月21日金曜日

おおらかにありたい



 浜木綿は美しく庭に咲いていますが、棘々のは薊でもなく、これが蕾なのか花になっているのか私には初めてなので判然としません。もう丈は2mにもなりそうです。冷蔵庫の野菜室で根が出てたものを埋めて2年。一年目は葉っぱが思っていたよりも大きいのに驚きましたが、今年はそれに加えて高さに驚いています。花が見てみたいと思っていたのですが、我が家では不評なまま。
 ポンポンになったのは、紫玉葱の茎。だいたいが玉葱の茎ってどこ?と昨日のテレビでもありました。知らなかったです。これも2年目です。どうせ食べられないところだからと、これまた冷蔵庫の野菜室で育ってしまった芽を隅っこに埋めておいたら、今年はポンポン。しかしこの先は解りません。
 思うのに、植物には冬越しをしないと結実できないもの、一年草ではなく二年草のものが多かったという発見でした。
 以前、何かの会議で一年単位の事業計画への助成では期間に余裕がないと、審査する委員長さんが話されていたのを聞いたことがあります。それは農作物には天候で大きく左右される場合もあるというのが大きな理由でしたが、今思うとなぜ、事業年度ということで、生き物の時間を区切らなければならないのか。そもそも暦というのは誰が・・というところは父のテープの聞きかじりですから、脇に置くとしても、生き物が、その中に秘めている力は量る事ができないものだと思うのです。
 優生保護法の元に・・・そんな法律に異議を唱えてきた歴史もあります。異議申し立ては認められない社会にしては、より良い方向を示していくことはできないのです。人の歴史は長い間、自然界から学ぶことの方が多かったはずです。変異変則の生み出せる力を持っている自然に対しての畏れを持ち続けたいと思いながら、不思議な花々を眺めています。

2019年5月24日金曜日

水守り




 田んぼまで、することになったのです。我が家の田んぼの水守りに黒く塗られたブロックを置きました。なんで黒く?あの娘はいろいろなものを黒でキメていたから遺されたものも黒が多いのです。良いお米にな~れ。
 お母さんご飯美味しいね。きっとそういう声が田んぼでも聞こえる事でしょう。
そうは願っていたものの、この三日間は、田んぼに水を入れるために、持ち主さんから水の加減を聞いて、教えてもらったように連れ合いははじめたのですが、二晩経っても上手く溜まっていないと思ったら、コンクリートの畦畔なのですが、水漏れ箇所があるのです。しかも二年間の耕作放棄の間に持ち主が把握していなかったところにも穴ができていたという事で、本日は丸々穴埋め作業。
 土嚢もどきを作ってみたり踏み固めたり、季節を先取りした真夏の暑さの中を、家と田んぼの行き来も繰り返し、あれこれ資材を工夫しても石っころと土が一番いいんだと、土地の農夫は教えてくれました。
 水路の入れ口には蟹が居ました。水の調節をしているとイトトンボが二三頭、そして圃場は蛙たちの喜ぶ声。その下の川を泳いでいったのは、エラの黄色い蛇。
 木陰を作っているのは今の季節に熟した紫色になった実をつけた桑の木。
ひたすら、土方仕事でしたが、周囲にたくさんのいのちの姿

2019年5月1日水曜日


 四月の中旬に電波時計が止まってしまい、そういえば引っ越ししてきて丸6年だから・・・引っ越ししてきたのは、この土地の祭りである四月一七日。
 春祭りだったのですが、山之神さまは、とても強い女神だから・・いろいろな災いをももたらす厳しさを村の人は伝えています。改めて「異端の系譜」を読みながら、ようやくテープが揃ってきた中から、夏の企画に向けてどれを取り上げるか思考中です。
 昨日今日とお祭り騒ぎと言いながら、祭り本来の意味が革命だ、古い王は殺されて、新しい王を立てる民衆の力。そんな父の書いたものを力及ばずきちんとそろえていない文庫番。
 この20年ばかりを振るい落として、文筆に励みたいところを田んぼの準備も迫るのが春祭りでした。
 なんとか時間を生み出さなければと、懊悩する一方で、時というものは、為政者に操られるだけの事。宇宙の中で次元を跨げば始まりに戻るかもしれないところを、時計を定めるという事は他者の労働を支配していくのです。それは権力をもつ者は、他者の生存を与奪できるという、人類の愚かな歴史を受け入れるだけだから、自分のくらしの中の歳時記を綴れなければ、ならないと気持ちを改める止まった時計です。

2019年4月8日月曜日

立ち寄って


 山吹の花が咲くと、味噌搗きなんだ。と飯舘村の榮子さんは言います。よその家の植木鉢の山吹を写しました。福島市内での味噌造り交流は4月7日。今の自分の機動力だと、前泊で移動することが多いのです。途中懐かしい箇所に立ち寄ってみました。その数枚です。公園は墨田の北斎美術館のそば。
北斎美術館は私たちが引っ越ししてから建てられました。連れ合いは先輩と見てきたというのです。女性の設計であるという事も興味深く、機会があればと思っていたのですが、敷地の制約の中で、展示を活かすというのは難しいのだろうと思いながら、一泊用の荷物を預けに、階を昇り降り。
 北斎アニマルズの企画展も観て、画技だけでなく、そのイマジネーションの面白さ。洋の東西に関わらない影響を一人で楽しみました。
 浅草、や、上野の桜を見に行く時間もあったのですが、そばにあった公園あたりでぶらぶらとします。
この公園も、また別な公園も墨田区内で、こんせん牛乳のカップを手に、ミルクフェアをして、組合員が組合員を増やしてきたところ。怪しいばかりです。石けんのサンプルなんて、白いお粉の小袋でした。今の身構えて子育てしなければならない親たちに、組合員同士が声かけていくなんて想像ができるでしょうか。
 人と人の信頼、他を許容できる日常。そのような暮らしをつくっていかないと、復興支援ではない。と大見えを切るつもりはないけれど、味噌も素材が生きてこそ良い熟成になるのです。母の墓前にも庭の花を活け替えて出かけた日でした。
 

2019年3月9日土曜日

足元に


 都内に出かけて戻った翌朝庭に出ると、暮れに被せた砂を押しのけて芝が伸びています。毎年春先の大きな喜びなのです。
 先日の都内会議で大きく語られていたのは、今の市民社会の足元が揺らいでいる気がする。そういう話が先輩たちから出ていたのです。民主的に物事を決めていくことや、もっと基本的に嘘をつかない事、人を欺かない事、弱いものをいたぶらない事などがぐらぐらとしているけれど、私たちは、より良い市民社会をつくっていきたい。
 そういう半世紀を考えても、もっと前の時代を遡って考えても、どこに正しい社会の在り方があったのかと人類を思ってしまう。だけれども常に抗うものである事は、安易な合意にならないように、押しつけの正義を受け取ってしまわないように、地下の茎だけでも、踏まれてもまた生え出でてくるのです。
 それを思い出させてくれる、芝の芽は朝日に輝いていました。

 

2019年3月3日日曜日

いよいよ春



 滋賀県から、今年のカレンダーが送られてきました。一方ご近所の短歌の先生からは宮柊二の歌集を読むようにと渡されました。先日は久しぶりにユリ先生と電話でお話しをしました。
 父のテープの公開は、夏に企画できるようにと思いますが、ようやく味噌ロードが一段落。どうやらこちらの地でも味噌を語る仲間になってきました。
 相変わらず庭の小石の粒をつまみ上げ、家の前に敷き並べている日々です。会計上の年度末だというのに、にやんごん坊が蟻と語らうように、何かが見えてくればいいのですけれど、今の「青い芝の会」からは縁遠くなっていて、古い知り合いたちからの話を掘り起こし進めないとならないと考えています。

2019年2月5日火曜日

春を待ち



 昨日は立春。暦の変わる時は季節の変わる時。確かに暖かい日でした。雨も降った後で道行く人との立ち話も、気持ちよくなりましたね。という事。
 ところが家の中に戻るとその時着ていたセーターには焼け焦げが飛んでいました。そういえば、朝ストーブの熾火をおこして焚きつけた時に薪が爆(はぜ)って飛んでどこか焦げた匂いがしていたけれど、自分の服だったのだと、ちょっとゾッとします。化繊だったら怖い事です。
 そうこれは義母が編んでくれた編み返しの毛糸のセーター。もしかしたら一番最後にもらったものかもしれないです。あまり喜んだ顔をしなかった嫁だけれど、一目づつを編みながら嫁のあれこれを願ってくれていたのだと、技を引き継がなかったけれど、糸を引っ張って結べばなんとか直るかと考えます。
 お寿司も義母任せであった嫁ですが、味噌漬けの瓜の巻き寿司という新味は、これからの私の十八番になりそうで、どこかから「あんた上手になったねぇ」という声が聞こえてくるかと自分で言ってみます。むっつりと黙っている義母の息子は誉め言葉が下手すぎて、おだててやらせるということができない人らしい。恵方巻ではなく、初午稲荷でもなく、寿司飯が食べたくなるのは、義母の命日だからでしょうか。
 1月2月の我が家の先に逝ったものたちも、待ち望んでいた春を私に置いて行ってくれたのです。セーターも洗う暖かさがすぐそこまで来ているのです。

 

2019年2月1日金曜日

髪を切る



 2月1日になって、また夜明けの空を見ます。ほら今日は2月1日になったよ。あの朝、確かに意識はあったはず。2月になったらお家に帰ると年末から言っていたのだから。最期に喜んだ顔をしたのを私はみることができたように思うのです。
 ずっと病室で、貴女の帰る家はどこだろう。と思っていたけれど、月の世界でしょうか。育った家でしょうか。親の居るところでしょうか。自分で独立して戸籍も移す手続きまでしたところでしょうか。
 今日、私はまた少し髪を切りました。もうとっくに喪は明けたというのに、いつも姿を探している。でもすぐそばに居て、そしていづれは皆行くそういう世界で、今の私を、またいつも通りに応援してくれていると思うのです。


2019年1月20日日曜日

風邪気味で



 北茨城五浦で開かれている小林恒岳遺作展に行くことができて、硲さんともお会いできて、家に戻りました。風邪っぽくなければ、もう少しお話ししていたかった懐かしい日々を。
 そう、初期のマハラバ村の人たちとの交流を、父大仏あきらとの交流を大事にしてくれた恒吉(恒岳)さん硲さんご夫妻。よっちゃんの本の装丁は画伯、跋文は硲さんがしののめ叢書から出されている「海の鳴る日」。本棚から出してみます。
 遺作展の会場で理解できた恒岳さんの生々流転その考えと創作。そこに少しなりともマハラバの交流は描かれていたのかもと、会場を出た後で思います。本当に混沌として皆で議論し、皆で飲み明かし、皆が生き方を求めていた、その端っこから見ていることができた文庫番に今も、硲さんは励ましのことばをくださいます。
 会場に展示されている懐かしい茨城県南の水、土、光。そして中央道を戻る車で見る残照は、山梨の険しく白くなった山々を浮かび上がらせていたのです。
 家に戻ると、また力を得ることのできる葉書が届いていました。

2019年1月3日木曜日

金星、月、水星



 天空に描かれる美しい配列を見たのは、正月三日早朝。6時過ぎ。
月を読むことは古来限られたものであったことを父の講義は伝えています。そして足萎えのものが、居るという必然も。そういう地上のあれこれを置いておき、人間の営みに較べれば悠久のあゆみを天空に見たいものです。今年 なんと表す地球の年回りなのか 己亥。
 ものみな凍てつくこの地で六年を数え、石の上の水は厚く氷り、地中と大気との水のやりとりを歌い初めていければと思います。
 文庫番は、個人ページのみっともない重なりをなんとかほどこうと、年末年始に取り組んでいるのですけれど、1ページづつが迷路のようになっています。簡単なソフトで始めたはずなのに、どんどんWindowsが変わって、ソフトの会社も変わっているのです。最初には無かったスマホ対応もちょっと気持ちの中にあって、追いつけない。
 肝心なのはそうそう、文章化?電子化。公開の方法です。協力者の承諾を待っている三が日。