2012年2月29日水曜日

本日完成


 墨田のタワー!下のホーロー容器には、約5キロ、落合の間kosumiで21日に作った分と今朝我が家で作った分の佐須の種味噌の入った、2012年2月の仕込み味噌。上のホーロー容器には2011年12月に神奈川の株式会社共生食品橋本工場のキッチンスタジオで仕込んだ2011年1月に文庫番が作った味噌(飯舘の2010年秋大豆)を種味噌とした味噌が入っています。言うならば里子と実子のような積み重ね。どちらも、国産特別栽培大豆と国産特別栽培玄米麹と塩で仕込んであります。時々見てやり声かけをしてまたは手当もするとどちらも良い子に育つはずです。
 多くの人達の思いが繋がって来ている事を感じます。そして今、お声かけしている今週末に東京スカイツリーの真下、押上の女性センターで開催する玄米味噌づくり講習会は、最後のさいごに企画したにも拘らず、参加するよと二つ返事で、そして呼びかけもしてくれている人達。新しい「協同」は被災地支援の気持ちが繋がっていくことを実感しています。本当に皆さんありがとうございます。ちょびっとの完成の喜びです。でもこの味噌を飯舘の人達と帰村、移住に関係なく心から楽しく味わう日が来る。その日が本当の完成なのかもしれませんね。

2012年2月25日土曜日

ご近所力


 やっと、ご近所を動けると言いながら、もしかしたら大事な会議をすっぽかしながら、いわゆるビラ配り。違います。この講習会がいかに無謀で無計画で無茶苦茶なのかが書かれている説明書を、最後の泣きつきどころにお渡ししているのですけれど、これが嬉しい。梅まつりも始まった亀戸天神も通ります。昨春の亀戸天神、押上はまだ東京スカイツリーも工事途中。今年の文庫番は麹途中。
 裏道・細道で天神様を抜けようとしたら、ここはど~この細道じゃ、天神様の裏道にはこの碑があったのです。謂れは確かめていません。そのうちに解明しますが、中江兆民ってあのTN君の伝記の中江さん。それ以上はどうしましょう。この碑は板垣退助によって建てられたということまでは解ります。もとは土佐の人と思っていますが何故この様にご近所にと、驚きます。
 ちょうど、FUKUSHIMAを考えながら、肥田舜太郎氏のお話された、この国くらい人権ということを考えない国と言うことの意味を、または、一般的に使われる人権とは何かを考えながら、通ったところにこの碑だったのです。ご近所でありながら、今まで知らずにいた事を申し訳なく思いました。

2012年2月22日水曜日

あり合わせは

一昨日は、午前中は朝食の後いくつかの連絡事項を済ませて、義父母との昼食準備。大概午前中は、朝食と昼食の支度で時間が終わるのですが、午後からの外出がすぐでしたので、余計に間がありません。夢の谷風、芋っこ味噌は作ることができました。夕方帰宅しても時間は迫った夜ごはん。まだ、昼の芋っこ味噌と自分は最後にあったもの。それは・・奈良まで行って漬けた赤梅干し二年目のものと、谷津干潟保全にもなっている稀潮という千葉県産の海苔。フードリレーの予約登録米でのお茶漬け。加賀の棒茶。きゅうり糠漬け。サラサラとかきこむと、言い知れぬ満足を感じました。満腹かな。

2012年2月18日土曜日

ものづくりの詩




 近頃、慌ただしくて、すべてが同時進行になっていて、追いついていません。風土記も書かなければ。でも昨日のこの写真は区内です。MATAGIプロジェクトさんの見学会が、昨年5月にアニマルウェルフェアのゴールという学習会でお世話になった、山口産業さんでありました。島根の猪の皮、塩漬けを水で戻して、脂をこそぎ落とす作業を見させてもらいました。獣害は今高齢化・過疎化の産地どこでも課題です。そのなかからものづくりに結び付け、墨田の産業も維持していけるプロジェクト。そう言えば一昨年の冬は夢の谷で猪アイスバインを、番外編での無茶々園ではイノシシの鍋を食べました。やはり風土記にまとめましょう。決めたばかりだった、押上女性センターでの味噌作り講習会もお誘いできました。これは雨水探検隊の繋がりかもしれません。私のベランダの田んぼ。雨樋からのホースには小さなつらら。バケツには氷が張って。寒い朝でした。明日は洋上学習。そこでも水の循環は繋がるのです。

2012年2月13日月曜日

追走


 日曜日、久方ぶりに自転車で昼食に出るということです。義父母には切干大根の煮たものと麩じゃが、酢のもの、お味噌汁を用意してあります。
 しかし、どの方向にいくのかが、知らされていないのに着いて行かなければならないのです。いきなり止まったり、方角を変えたりついていくのには、難儀です。どうやら向島方向ではなく浅草方向です。めざしていたのは並木の藪のようです。雷門から並木の方向に行くと、あの風情ある蕎麦屋が見当たらないのです。
 ついこの間まで在ったじゃない!。物事の移ろいの激しさには、嘆きとも驚きともつかないものがあります。並木の藪はおでん屋になっていました。あの蕎麦笊を返した出し方。菊正宗のみのゆる燗。失くしてから惜しいと思うものです。
 仕方がないから、あの無愛想な鰻でと行ったら、日曜休み。まったく当てなく走り出すのですから、後を追うのは堪ったものではありません。行きついた庶民的と思った鰻屋。良かったです。これが、何に感激したというと、山椒なのです。捻った店号入りの薄紙に山椒が使い切り分入っています。今まで結構浅草近辺の鰻屋に入っていますけれども、山椒にこだわった在り方は、初めてなのです。山椒好きな私には感激です。そして、お漬物も柚子大根の千切りに胡麻切りを振ったものと柴漬け。連れ合いと話します。これからの在り方は、もう一度、自分でつくる事の復権じゃないのかしら。と言う事です。単なる手作り志向ではないのです。それは某百貨店業界や、某流通業界の臨界を超えた、もののやり取りではないかと思う確信です。数世代かけて、変わっていく道筋。手前味噌の時代ではなくなった?。今、手づくり味噌を呼び掛けて苦しいけれど、お漬物もそうです。この間まで各家庭の味で良かったものが、いつの間にか売り手の味、生産の味になってしまいました。食べる側の味。つくる持ち寄る考える、分かち合う仕組みに変えていくのです。誰もついてこなくても構いません。私が、それを確信しているから。

2012年2月7日火曜日

もぐらたたき


 日曜日に山梨の家に荷物を運びに行って来て、庭にやっと咲いた水仙の茎が折れて、倒れていたのを、墨田の家に持ち帰ってコップにさしました。焦点が合っていない昨夜の写真。たまたま、私たちの庭とするところに前の人が残したのでしょう。球根が幾つかあったようです。
 水仙、茨城の閑居山には、山麓に流れるように増えていた花。その切った長い茎を束ねてこの季節、母はあちこちの知人のところに、春を届けに行っていました。生業を持てない寺という場ですが、それなりに父のお付き合いの仕方をしてきたのです。
 そして長女を妊娠していた春に越前海岸を歩いた頃。もう季節の終わりに近づいて日本海に向かって咲き群れていた花。その情景が二つ、都会の室内に漂う香りの中に浮かびます。素直に私は連れ合いにありがとうと伝えます。

 さて、どうして水仙は折れていたのでしょう。二週間近くの人の居ない家です。まだ以前の人の住まいのままで、茶器程度しか持ち込んでいない建物。そし手をつけようのない庭。夏草を土に梳きこんで、片づけた、庭木の周辺に幾つもの、盛り上がった粒のそろった土。これは何だろうと訊かれますが、モグラじゃないの?としか私には推測できません。スコップで叩いておきましょうか、私の邪念のようにあちこちにまた出てくるのかしら?
 草、埋めていいのでしょうか?土掘り返していいのでしょうか?当たり前の事を、悲しく考えたくない、これから新しい庭にしていくのです。

2012年2月3日金曜日

紀州伝統工芸


池袋のメトロポリタンプラザ全国伝統的工芸センターでの紀州漆器と棕櫚が、出ていました。本日から2月15日までですが、日頃お世話になっている山本勝之助商店さんが出店されるということで見に行ってきました。昨日、文庫番は大井町で、コミュニティビジネスとしての出版・企画とその内容としての棕櫚製品を説明してきたので、対面でのホットな手応えなども、お話しすることができました。「山仕事讃歌」の中にも棕櫚製品について、少しだけ書かせてもらってますので、一緒においてくださりました。アングルは長箒を入れたらこんな感じです。そして、棕櫚の皮を剥ぐ山仕事の復活の困難さなどを教えてもらえました。