2014年12月30日火曜日

お飾りは無し!?


 今年も、清沈した感覚で大晦日を迎えます。連れ合いには年番仲間から春には山梨に行くと電話がありました。私は元日の来客予定の若い家族のお迎え準備。年が明ければ喪も明けるのですけれど、追いかけるように年忌明けの法事の準備がやってきます。来年は正月花も鏡餅も供えられるかもしれないです。これは薪伐りのついでの竹林整備のものを並べてあるだけです。手前のは酒器になるかしら。
 次のお正月。無事に迎えたいです。もう身体も心も無理はできないと解った年末です。まだこの年齢になって初めての驚きや、悲しみや憤りが、積もって小さな不調があらわになって、そうなれば、気になる診療機関の休日。ご近所のご不幸もあって、この一年を拭い去っての年明けは、身体も心も、すっきりとしたいです。
 弱音を吐けば、親たちに恥ずかしい。そう、私が親たちを見てきたところは、あらすじまでは描けました。その後が、一番母を描かなければならないのだと考えています。が、一旦。筆を止め、2014年から2015年への移行を過ごします。
 お飾りは必要なのよと、下町の御姐さんに励まされた日々も懐かしい。神輿に鳳が乗らなくっちゃ私たちは担げないは、だったかしら。今は、私がそのことばで励まさなくっちゃ。

2014年12月25日木曜日

マニュアル


 マニュアル取れないの。え!!
どうなのでしょう。やっとの運転をオートマでしているのに、何という事を言い出すのでしょう。
物事はそんなに簡単にすっぱりとはできないものですよ。
 薪割りは二年目を迎え、作業自体は、全体量の見通しができるようになったので、楽になりました。慣れということでしょうか。刃物の扱いに慣れは怖いですね。先日買った名入りの二挺。
 手斧の方が鉞より怖いと言われるのですが、焚き付け用の青竹作業の補助にはとても使いやすいのです。両手を使う丸型の竹割にははまらない太いものなど、私に任せて!
 竹林は11月か2月に刈るのがいいとかで、伐ってあったものを共同作業場で割って束ねる竹取の翁、媼の会話です。
 やっぱり軽トラックは必要だよね。中古でいいんだ。だって私たちは農業は・・あと5畝かな、一反はどうかと。え!!!
 セカンドカーは私用の小回りの利く小ぎれいなのが・・・。。軽トラックだって、今はマニュアル少ないのに、出物はマニュアルだからって、新しい免許って取れるの?。
 そもそも、何事もマニュアルがって、あのナッツ姫みたいじゃないですか。規約・定款順守の在り方の通じない会話。

2014年12月22日月曜日

キリコ展


 土曜日は、子供達と汐留で開かれているキリコ展を観に行きました。美術の教科書に出ていたキリコ。独特な素材と鋭角的な対象。影の存在。興味を惹かれていましたし、生前の父の評価も高い画家だったのです。
 絵画なのだというのが、何よりの印象です。どこか、教科書の中,、テレビの画像の中にあるグラフィック的な印象があったのですが、一点ずつの肉筆性に、人間性を感じたのです。
繰り返し取り上げられる主題、形而上的室内、それは何をさしているのか。やまとことばに直した場合どうなるかとか、しばし日常を離れた時間でした。
dépaysement(デペイズマン)異空間に現れる物の配置。この手法はシュールレアリズム絵画だけじゃやあないなと、今書きあぐねている文章にも引き付けて、考えています。
土砂降りになってしまいましたが、大騒ぎだったと後で聞いた東京駅には向かわず、浅草に行って藪川の蕎麦のお祝いの食事でした。
 

2014年12月17日水曜日

礼文の海から


 荒巻鮭が届きました。近頃は荒縄で顎から吊るされているのではなく調理も保存もしやすいようにおろしてパックされているのだと、感心します。二人暮らしでも何とかします。
 礼文で獲れたと書かれていました。北海道の大雪の様子があちこちから届く日。あの厳しい北海道の雪に、高齢のあの人、縁者はどうしているだろうと、鮭を見ながらも今書き綴っているものを反芻します。それは北海道生まれの母の事。
 私には、母のように、人のためになるという生き方ができないのです。この贅沢な味も本当に食べるものが無い者とも分かち合おうともしない。閑居山で母が石油ストーブの上で拵えてくれていた三平汁。小学校からの帰りに山の下から、嗅ぎ分けていたあの頃。大勢の障害者や関わる人達、どの人数になっても、口を満たしていたあの鍋を、つくる事も出来ず、ひたすら自分を肥やしていくだけなのかと、感謝するまえに不甲斐なさを言いそうです。母を慕う人達にどれほど今の私が助けられているのか、改めて思うのです。どうお返しができるのか。
 お母さんのように人のために生きて下さい。というのはプレッシャー。ただただ、ああ食べたこう食べたと書き散らし、喰い散らし、涙散らし。
 自分の暮らしを綴るのは、暮らしというものは個に基づくものだから、全体でどうこうしろという考えじゃあないからだと、何遍でも称えるのですけれど、その考えだけじゃあ、御託を述べるだけ。
 まかり間違えば、羨ましがらせるようとしてと言われて、あまりにも書き手と読み手では意識が違うものだと情報の限界に落ち込んでしまったこともありました。
 かといって、茶化すしかない、極貧とも言う中にいまだに兄は居て。(多分)切られた縁にも、納得もせず、書く事で繋がるかとパソコンに向かえばエピキュリアン話にしかならず、文章は進まず、やっと茨城の山にまで母が来たところ。私が生まれたところ。
 
 

2014年12月7日日曜日

マハラバ三昧


 朝起きると庭の落ち葉は霜がついて、陽があたるとチリチリになって、それを繰り返しては崩れて土に還るのです。
 陽が昇る前の庭に出て霜柱探検だけでなく、このようなものも見つけることができました。
ちょうど、何かのやりとりで何故紅葉はあんなに美しく彩られるのでしょう。という問いもありました。
散ってゆく覚悟かと思っていますが、地面に落ちてからの大地と大気の間の水のめぐりに、少しの間居るのですね。
 資料を写しながら、今、いろいろと仕掛けられることがあっても焦らないようにしようと、強く思います。もちろん、この作業が遅れて始まったことに、間に合わなかったのかとも思っているのですけれど、いつかは、大きな流れの中で意味を成すのだろうと、30年以上前の往還を、面白く、マントラ、タントラ、サマーディなど言い出しそうです。
 これは、何にとって意味があるかと思っても、あくまでも文庫番にしかない仕事なのでしょう。
それでもいい。

2014年12月4日木曜日

村の工場!


 檜原村には、郷土芸能祭があるんだ、工場の上の酒屋さんに貼ってあったポスターに思います。毎年の村の人たちの楽しみがあるのを、同じ東京に住んでいた時は知らなかったことです。そうは言っても、武蔵五日市の駅からバスで小一時間。
まさに秘境、山村の中に井上食品さんの蒟蒻工場、畑、冷凍庫、洗い場があって村の人たちも働いていました。
バスで上がってくる途中には生木の匂いのしそうな製材所がありました。林業が成り立っているのですね。蒟蒻の木枠もバッタ式の練り機の蓋も、村の檜を、腕のいい村の職人さんが造ってくれるという話です。見ても新しい清潔な感じの木枠です。その保温性。ステンレスではでない部分へのこだわりを、村の中の様々な温もりが集まって来て私たちの食品製造を支えているのです。
 生芋を茹でて摩り下ろして、それを、練ってカルシウムを混ぜて、練って練って型に入れて、冷やしてパック、湯気と水に満ちている工場内を見ながら、この豊富な秋川の地の水が育てている味を、どう守れるのか、伝えられるのか考えます。
 最初の商品展示会が錦糸町と品川であった時以来、行きたかった井上食品さんの訪問は、結局マハラバ文庫の企画になってしまいました。長い年月がこの生いも蒟蒻の美味しさになじんでいます。
 山仕事讃歌の隠れた座回しは軽米の椎茸原木会議や檜原村の隣?上野原の中川さんの雑穀を見に連れて行ってくれた小川さんなのですが、わさび田を見た折だったでしょうか、檜原村にも行けるのでは?という気軽な考えで一回企画したのに、日程がとれなかったのでした。今回小川さんは福島の飯舘村の除染に行っているので、文庫番が、組んでみました。企画としての読みが浅くて参加者の方々、受け入れ先にとっては、申し訳ない事だったのではと反省点も幾つも。
 未熟なままに暴走している企画もする会社です。結果、美味しい味を知るだけかもしれません。
ここの地域は、じゃが芋や蒟蒻芋のような芋に適した土地だからと、振舞ってもらった煮物。適地の味というのは、どのような調味料にも勝るのですね。
 

 檜原村も、人口は半分になって、井上さんの通った小学校も統廃合で一つになっているそうです。働いている方々も、若い人はもちろん、村のおばあちゃんおじいちゃんも。この間、そこの道をウリン坊が二匹連れ立って歩いていたよ。熊もいるよと言います。むやみに工場を拡げても雇用は大変ですね。私が長く食べている味を守りたいと思ったら、・・課題はどっさり。
 そして、バス・電車を乗り継いで甲府の町に戻ると夜です。車で駅から私の村に!戻ります。
駅前・地方都市の役割が、変わってきていることに、どう転換の姿が作れるのか。日本の各地を助手席で語ります。その晩の居酒屋で出た食べ物は、業務用仕入れのどこでも同じような食品でした。課題はどっさり。

2014年12月2日火曜日


 この表紙のとれてしまった一冊が、遺されていて、その意味が中に父の文字で書き込まれていた歎異抄の引用とともに、一時代の閑居山マハラバ村を、私に伝えます。
 それを、伝えている手紙のやりとりを文字起こししながら、人生とは正義だけではないと、また思うのです。この、作業は、してはいけないのではないか。と。
 それでも、纏めておかないとならないと思いながら、非才非力な文庫番です。

2014年11月28日金曜日

五里霧中


 三台先の車はカーブを曲がると靄の中にと消えていき、笛吹川を左手に見ている車の前方座席で、本当は川から上っている朝靄の濃さを撮りたかったのですけど、それらしいのは上手く撮れていないので前向きに。カーブの道路に沿って左側が笛吹川です。昨日の朝、笛吹ラインから平和通りを通って甲府駅に送ってもらう途中です。
 少し余裕を持って家を出るのと、曜日や時間で道を選びます。やっと朝の甲府発に乗れる時刻表と出かける段取りが結びついてきました。それでも、昨朝も企画担当者ですから、あとから駆け付けるという無様はしたくないけれど、全体にノロノロ走行。そりゃあそうですね。視界の利かないこと。川中島の合戦をふと思うのは甲斐の国に住んでいるからなのだと、解ります。
 一回は雨の朝に通学通勤の多い道を通って、結局相手先に待ってもらう事があったのを思い出します。都内であったならば、路線を変えてなんとか言い訳できる時もあったのですけれど、そうはいかないド緊張ですから、運転してくれている連れ合いもいつも、私以上に時間を気にしてアクセル踏みます。迎えの時も、なるべくロスタイムは入れないのです。そのうちにこの関係にも慣れやらさらなる方法やらが出るのでしょう。今の所、駅近くの終日駐車をしないで日帰りでの行き来を考えています。
 やっとの思いで、南大沢セットセンター見学をこなしました。事務局はじめ皆さんに助けられてです。追いかけるように、春の南三陸・石巻応援ツアーが振られてきました。
 間には味噌仕込みもあるし、ちょっと確認を詰めなければならない事項も文庫番に増えています。何とか、すべてが今の住い近くでできる事だといいのですけれど。やはり先行きは五里霧中。

2014年11月23日日曜日

洗って干して


 まるで農家の庭先みたいになったね。と薪作業から戻った連れ合いが言います。
連れ合いは山に薪作業に、私は(川ではないです!)流しで胡麻洗いに。
大豆の代わりに白胡麻はこんなに採れました。
昨年の何倍でしょう。さて一冬手選別した昨年の胡麻。今年は箕の大きいのをいただいたので、第一歩の篩と箕で払うのは楽にできたのですが、それから先の作業が、量に見合った智慧が増えていないので、前回と同じ水選別をしようとしても思うように比重が活かせません。
量とは、作業なのだとしみじみ理解。手づくりでできる事とそれを超えた量についてどう考えられるのか、農家ではないですから、自家消費。もっと言えば自分の食べる分をさも事大に騒いでいます。もらった種から実って増えた胡麻化しの術。
 昨日朝のテレビはなにやらいい夫婦の日とか、騒ぎ立て、また何やらの宣伝のために日ができたのかと、言っていた連れ合いが、お昼か夜は外で食べようかというので、もしや、いい夫婦のプレゼントでもと期待はしても、持ち帰ったのはお手本夫婦の物。
それはそれとして、以前の仕事から、百貨店の方が何かと動き回りの判断しやすい連れ合いと、先週と今週と地域一番店に行ってみたのです。 どのフロアーもギフトセンターも、三連休初日の土曜日なのに閑散としています。並ぶ必要もなくお会計でした。
 二、三日前の朝のテレビで福井の百貨店さんが、外商ではなく、地域貢献みたいに、お年寄りのご自宅に出向いて注文受けていたのを見たは、と来る途中の車の中での会話だったのですが、一歩店内に入って、地域貢献になっちゃってるね。と連れ合いは言いました。先週は平日の昼間のうちに、県庁あたりから歩いてみて、地方核(この字か!)都市の役割の荒廃をどうすればいいのかと、自分たちのこれからの暮らしを考え合わせ、なんとかならないかと思います。
 外に出て夕食をとろうとしても、繁華街と呼ぶには、少しさびしい。ちょっと気持ちの浮き立つ外食を、新宿、渋谷をイメージしてはならないのでした。冬のギフトシーズンの商店街が三連休初日の土曜日から、シャッターになって。と話しても。じゃあ、文庫がお店を出したからって。。。
 ここで、いろいろと世の中の何にお金がかかるのかを考えてみます。自分で食べる分と、歩ける範囲のものは物々交換。土地で採れないものを得る時や少し遠いところに送る物流は掛かります。医療と教育とよく言われるけれど、薬とマッチポンプの検診とか、競争を学ぶ教育とかを公的のみにされても困るし。解散したといっても政治の向く先はどうしても、その範囲にではないかと思えてしまいます。政治の汚れも洗って干して選り分けたいものです。
 庭先や里山畑で作業をしていると、地域の人たちは良く見ているのです。そして何かの折にちょっとだけ教えてくれます。それを素直に学んで、育つ。それも良いけれど、競争でない生き方を教えるアカデミックが体系としてあればよいのでしょう。本来のお寺の機能なのですけれどね。
 スカイツリー下塾の学びは、自分たちがやってきたことは間違いないのねという発言に勇気づけられる、自分たちの学びだったと考えています。
 現在の学制が、明治以降のものだから、税金で建てられるのが前提で、それにお金がかかって、税金が必要で、地域の防災や開発も、信玄堤にしたって棒道にしたって、軍事絡みなのは、どこの地域でも同じ。修験の道が実は隠密道でもあったのだし。
 もっと原初の共同体だったらどうなのかといつも思うのです。それには、もう少し仕組みを改めるかして、今の集中・分散の歪みと荒みを選り分ける作業をしないとならないのです。社会がめざすものを描きなおすということを。
 
 

2014年11月18日火曜日

葉書き



 柿の葉の色を描いたのは、自然の絵描きさん。大豆の収穫作業は野生の猪。
 金・土・日と、つくばの里山の再生と食の安全を考える会の企画に参加、渋谷での知り合いのパーティ、築地での安穏朝市と、つくばエクスプレスや、スカイツリーのような、またはターミナルステーションの人工の光と速度の中を行き来しました。
 まだ、その中に長女夫婦の住いもあり、渋谷からすぐのところには長男も居て、やはり東京で育った子供が皆残っているところも、足を止める時間もあると嬉しい。それでも、今の住いに戻ると、里山に向かい、家々の並びの間を通る時に志筑の小池からの坂をあがる記憶がいつも湧き上がるのです。懐かしさを重ねて、山梨の家に戻り、翌朝かかった電話に里山畑に行ってみれば、出かける前にはあったはずの大豆が収穫済。味噌用種用と考えていたのに残念です。
 大鳥居で大豆を作り始めて三年。庭の中ならなんとか実るけれど、そんなの大豆の一年の消費量のどれくらいでしょう。一家族の分くらいまかなえるという暮らし。私の育った時代にはと考えると、その頃の農村がどれほど、暮らしの基盤を備えていたのかが解ります。だからこそ、成り立ったマハラバ村であり、障害者解放運動の揺籃であったと考えられるのです。人間とは、何であるのか。そういう問いが身体的に土から離れることなく、ありながら、都会との行き来が可能であった。
 富良野にしても、志筑にしても、そして今居るこの地でも、兄の居る閑居山の今でも。何もないというのは、それはすべてあるという事なのだと。
 都会の生活の中で、浮遊しそうな心と暮らしをしているとしたら、繋がっているのだよとこの葉っぱを風に飛ばしたい。何もないところからはじまるのだと。

2014年11月8日土曜日

富良野から


 了承を得ておいた方が良いとお手紙した返事が届きました。一粒の麦地に落ちて。そう毎朝麦の唄を聞くと、この冊子の中の父母の姿を考えます。すでに50年を経たセピアの中。
 その出会いを、私へのお便りに書き起こして下さった名取志津さん、母は金井さんとも呼んでいました。その事も大切な記憶。
 ここまで来ると、オムニバスのようになっていく、私の文章で時制をどう定められるのか、またきなり歳時記を描いていた頃のように、いったりきたりの時間の幕間を私らしく楽しまなければならないのです。あくまでも文庫番自身の責任なのだから。
 それにしても、それこそひとりよがりで、私信を公開はできないと思うので、一つ一つの確認の時間が筆を進めるよりも厖大な作業量になっています。それらの事務的なことが苦手だから、あくまでも代表然としているのに。
 この貧乏会社がそれでもやっていけるのは、符牒が読み解けてきたからなのでしょう。資金も無し、事業計画にもならない遅々とした経営の学び。そこにあらためて、事業ではなかったマハラバの思想を書き重ねられる読み解きができました。

2014年11月5日水曜日

まだ早い・・


 麦踏にはまだ早いのに、毎朝猫の足跡が増えています。
ここは川に近い区画の落花生を抜いたあとですが、土を篩って小石を除いて、大麦を蒔いたところなのに。、お隣の家からの境なしの部分、河川敷とも言えるところなのです。地続きの庭の丸石の囲みの中には、いろいろな葉物野菜が防虫ネットに覆われて芽を伸ばしています。
 里山畑の胡麻も刈り取ってきているので、脱穀しなければならないのです。夏の間に処理でききれなかった大麦・小麦も蒔き時になってきました。自分の所での種だから、発芽するかどうか解りませんが、種取りを続けていくには、まず育てなくちゃ。でもそうすると残りをどうすればいいのかと。
また飴づくり、もしくは炊き込むかしら小麦はうどんにしかできないけれど。その前に粉にしたい。
 石臼が欲しいと言ったら、そういう余計な事を考える前にやることがあるだろ。。と。ハイ。
 猫の手も借りたいくらいな手作業での麦の処理。庭の中の石の置き所も整ってきたけれど、時間がこんなに早く過ぎるなんて、忙(せわ)しないのは人間だから。
 どの輩(やから)は猫らしい侵入者は己の時間を弁えているようで、なかなか現場で立ち会えません。逢えたならばその野良の生き方と話し合いたいのですけれど。ここまで労力かけているのだから、ここは、私たちの地面だと考えてくださいな。
 でも、猫含め動物たちに言われたことないですからね。ここからが、貴方の地面ですよなんて。同じ大地の上を共有しているし、同じ川面を楽しんでいるし。そういえるとこまで開き直れることができると良いのですけれど。自他一如。
 もう少し近くに手作業でやりきれる畑が在ったら。そんな夢のようなことを考えています。小豆とニンニクをどこに植えましょう。小麦は早かったかもしれないけれど、胡瓜を片付けた後に蒔いてみました。この秋に増えたゲンノショウコとサフランは根付いたようです。福寿草もいただいたのです。梅の落ち葉に埋もれています。冬遅くには輝かしい陽だまりに咲くでしょうか。
 少し、一段落したような気持ちです。薪も今週は焚くばかり。仲間の方々は本格的な脱穀日和だったようです。物々交換経済も、手造り礼賛もできる範囲に無理のないようにしなければと、昨年秋の、病院通いを思い出します。ケヤキの紅葉の中を車を走らせながら母にも充分な事ができなかった娘だったけれど、義父母には充分できたのだろうかとも思ったのです。
 そして、今。その分は、これからの生き方としたいです。ただ生きていく。私がここで生きていくという。めざせ経済的自立。家制度からの脱却。連れ合いとの互いの領分。そんなことはまやかしの言葉。
 自立とは結局なんなのでしょう。新聞もとらなくなって、インターネットの中は、自分の修行ではあるけれど、双方向という囲い込みは気に入らないし。それよりも、猫と語らう術や、鳥の話が聞き分けられたら、難しい自立についての答が教えてもらえると思うのです。

2014年10月28日火曜日

公正と平等



 出かける前に靴を見たら、都会仕様ではないですね。土の残ったままでした。足元を見る。手も爪の先を見る、そういうゆとりはやっとできたかしら。
 戻ってきたら、連れ合いが車の中で一日のいろいろを語った、空豆の種やゴーヤの種。零余子、朝顔の種が囲炉裏座卓の上に並べられていました。
 少し考え事をしていたのです。お出かけは。
 公正と平等の意思を体現し平和を希求する。それは万人の願いですから一人が背負込むものでもないわけで、ただ役割として委ねられている期間、最大限に表していくことは務めてきたかしら。今はどうなのだろう文庫番。そう今も文庫番としてその事があるのだから。ああそうだ、四つの綱領の事も。事業じゃないわね。この価値は。
 そう考えると、この小さな種たちが背負っているものの大きさにまた驚きます。来年の春には継いでいき新しくなる。無造作に置かれたものたちは、公正も平等も問わない、あるがままの姿を受け入れているのです。芽の出るものもあれば、そうでないものがあってもそれが摂理であると。

2014年10月26日日曜日

生き物は


 大豆畑を何とかするということから、どう方向がいくのか、とうとう連れ合いは猟友会に入るまでになってしまいました。秋の猟期が始まるこの時期に慰霊祭をして、新人紹介ということで、出かけて行ってます。この写真は一昨日、その場所確認をした時の物。
 幾つかの産地で鶏魂碑や畜魂碑を見てきたことを思い出します。どこかで鰻魂碑も見たかも。
 実際に、たかが大豆と言っても[いえいえ畏れ多くも]庭で作るのと違い、里山畑は猪・鹿の運動場。カラス大先生も土に学べと啄むのでした。私たちの食べる分と、鳥獣たちの食べる分と、地面はすべての生き物のものだから、何を畑と言い何を宅地というのかも、人間さんの御都合なのに。(どこかで領海だ領域だと、いくさ船やら、いくさ飛行機を持ちたいものが決めていて。)
 慰霊をさせてもらい、、適正な在り方を学ぶということをせざるを得ない、ひともまた生き物。栄子さんが教えてくれた農業とは、生き物との食べっ較べだからな。競争だから。そう競争社会から逃れるために土に向かうのではないのです。生きるということを問い続けるためにあるのでしょう。
 父の言った“絶望”とは何なのか、一切を捨てるしか生きられないとしたら、それは獣とはどう違うのか、人間道を生きる。六道を彷徨う旅もあるのでしょう。ただ食べる。食べるとは何か。農とは何か。
 資料をまた括っていきます。文庫番はことばを紡ぎだすように編めるように、ほどいて巻きなおして、そういう作業なのだと、秋の日に思います。葉っぱは紅を深く、そして来春の芽を備えて。

 

2014年10月20日月曜日

凛として


 道志村道の駅どうしで買ってきて三年目、年々蕾の数は増えて来ていますが、まだ土に合って伸びやかな感じには育ちません。それでも、この肥料分の少ない土でも花を開かせました。
  竜胆の花は祖母を思います。富山の城下に生まれ、維新後の武家の商売に長女として苦労をした人だったのだと聞いていますが、さらに東京に出て祖父と結婚した世田谷での生活から疎開した茨城の山の中で、戦中戦後。ぬかるんだ山道を下駄で小石を除けながら上がり降りをして。
 檀家が居るわけでもなく、政治に、布教にと八方に出かける祖父と一緒に、貧しい山寺で耐えて。
 さて、孫娘は、祖父母にも伯母たちにも、この子が男の子であったらと言われるのは、癪に障ることで、それなら男になれるものだと言ってくれと、言いたかったのかもしれないけれど、所詮それは在りえないのだから、社会の仕組みがおかしいのじゃないかと思い続け、懐かしむ家は長男である兄が継ぐのが、最初から決まっていて、どこかで追い抜け追い越せと思っても年子であるのはたった一年の差でも追い抜けないものです。
 決して悔しくて男勝りとかになりたいわけではなく、男女同権は、何から何まで男仕事をしようなどとは思わなく、台所であたたかくぬくぬく生きていきたいから。薪伐りをしなきゃならないのは、同じだけれど、昨年の薪割斧にさらに今年は、チェーンソーもこなさなければと、日曜日のズダダダ。。自家用の25㎝から、薪伐り仲間の35㎝もちょっと使ってみました。
 問題は!押えの足なんです。肩や腕の力で持つよりも、足で固定させて、薪が撥ねないようにするのには、体重を加えるのもさることながら、いかに踏ん張れるのか。
 ここでふと思うのは、道具って男の人に都合よくできていませんか。。。骨盤の形とか普段の生活習慣で、そんなに開脚で足を踏ん張ることもないのだと、言いたい!!。これはすでに国家九条あれ、骨格上、踏ん張り方が違うから、そうでなくても不器用な足遣いで、利き足でも、利き足でない方でも、薪を踏み押えにくいのです。そんな事、連れ合いに言いたくない。。 
 女性の活用だとかは、扱いやすい道具の検討開発や、まだまだ男だったらなどの時代から残っている、しきたりの中の悪弊を除かないと、祀り上げて、実務は結局男社会の習いのままで、動かそうとするには、無理があるのではないでしょうか。一つひとつの考え方の土台を認め合うことができて、活用ではなく、当然の在り方として並び立つし、だから人としての資質そのもので、尊重されるべき人は尊重されるのです。
 祖母の様にぬかるんだ道を下駄でちょっと小石を除ける。それでいながら、凛とした生き方のできたひと。ああ、それは理想。

2014年10月16日木曜日

出るも出ないも


 秋の午後の陽だまりにある蕗の葉もそれなりに美しい。今度の冬はどのような冬になるのでしょう。今朝の富士山は初冠雪だったとニュースで言っていました。私の住んでいるところは里山が東に迫っているので、富士山は見えないところです。
 台風19号は雨を降らせ過ぎて行き、晴れると思った昨日も肌寒い雨でしたが、今日の午後はなんとか晴れ渡った感じです。
 庭の蕗は一か所に集めてもらいましたが、もう少し日陰の方でも良かったようです。これからの毎年の手入れで場所も落ち着くと思います。この庭の前の持ち主が残して行ってくれた蕗に茗荷にニラなどは土に合うようです。春には蕗の薹で出てくるでしょう。
 文庫番は、出る芽にもならず、出る杭でもなく。残された資料を編んでいくばかりです。みみっちい、親恋しさに鳴く鳥にも見えます。
 それにしても、あまりにも大事にしようと思った幾偏かの原稿を探して、一週間は気持ちが前に進んでいませんでした。探しあぐねてもとの書棚を丁寧に見たら、ちゃんとあったのを見落として家内大騒ぎをしていた訳です。ですけれども、これを探していなかったら、先日発見したものには当たらなかったのだと思うと、世の中に無駄なことはなく、さらに、その間に二次資料も確認できたのです。ただただ、父母の書いたものを編んでいくという、それで事業にもならない文庫番稼業なのに。そして世に問う意味も古びているのに。こんな枯れ葉になるのも間もないものに陽射しが当たったのを貴重な光だと。

2014年10月11日土曜日

やったね2

とうとう、資料の塵芥の山の中に煌めくものを見つけたけれど、原石。
加工に値するのか。。
 私の今までのすべてをかけて、この資料は読み込まなければならない。

2014年10月9日木曜日

やったね



 昨年の情けなさに、ヴァンタスファームのイノシシ対策もそうだけれど、パルファームの一角を使い、神奈川の津久井大豆をNPO小田原の事務局長さんから分けてもらって、見事に収穫できたのです。しっかりと大きな粒で甘味があります。
 あと二畝残してあるので、玄米麹味噌にも、次年度の種にもできるかと、野ブタ退散のまじない。
今日は、大豆畑に行った後は、連れ合いを甲府に送っていき留守番文庫番。
 この日とばかりに屋根裏のような部屋も、いつものパソコンの部屋も書類を拡げて、母の資料を整理しています。最後が冤罪事件の支援する会の代表であったので、まだまだその関連のものが出てきます。ネットワークです。少し関連性が他の活動とも入り組んでいるのでその仕分ができない。その上、血圧記録や生協のレシピの切り抜き、雑貨品のチラシも切り抜いておいて在ります。そこに北海道の深川高女の同窓会のものやら勤めていた富良野の「国の子寮」の資料もあって。秋晴れで、爽快な気候で良かったです。枝豆はざっと水洗いしたものを、娘や義弟のところに送ります。今夜は、まだこの散らかった資料の読み込みをします。
 ホームページが遅れているのがずっと気がかりではあります。どのように、食べるということが協同に結びつくのか、勝手にしようと思っているのに、お手軽なブログやSNSで時間を使ってしまいます。時間の使い方にもメリハリをつけていきたいのですが、細かいメモですら読み入ってしまいます。いつかは芽をだし実を結ぶかと。

2014年10月7日火曜日

風に乗り


 今年の秋も台風の行き過ぎた後に、夕空は美しい。
また繰り返す季節の一日になって、思い出も消えていくのだろうか。
 栗もお芋もキノコもおいしくなって、稲の穂も垂れて新米の荷ができる頃に台風が来て、過ぎていき、それを人の運不運とだけで言えないような気分を残しています。
 どの方面に、備えをすれば良いのでしょう。完璧ということはないのではないでしょうか。
 庭の先の川も水かさと勢いを増し、夜中から轟轟と流れていきました。上流から大きな石を流れは運んできて、私たちの家の直の岸に置いていきました。
 雨はさほどではなかったので、出かけられなかった自分をまた悔しく思います。
風の中に、いろいろなことばを聞いてしまうのは、自分に確信がない時でしょうか。それとも自分の在り方を確かめるためでしょうか。
 栗を煮ながら、故郷の茨城の栗さえ、楽しめなかったこの三年を思います。キノコがどうの海産物がどうの、すべて食卓で味わっています。お・い・し・いから。
 美味しいものを楽しめないなら、その事が被った苦しみかもしれない。害われた喜びだったのかもしれない。どちらにとって、生産するものにとって?食べるものにとって?。
 何故それを分けなければならないのでしょう。我が事としてともに苦しみともに被るから、楽しみも喜びもともにできるのではないですか。
 とくに肩に力を入れて応援なんてしているのではなくて、自分がするしかないことだからする。私たちの生きている時間なんて一時にしかすぎない。そして風が天をめぐり、水が石をも流し、変わらない。
 母の生きた在り方を、少しでも表したいと思いながら、引っ越しや始末で定かでなくなった多くの事に筆が進みません。毎日毎日、用もないのに電話をしていたのに、意図してない会話ばかりでしたから、他人様に伝えられるようなことばがなかなか出てきません。ただ懐かしみが戻ってきて、いづれは山の中腹にも届くだろうかと。

2014年9月26日金曜日

知るや知らずや


 かぼちゃの収穫をして、今年は二個。それも一個はバターナッツ!どちらも私の掌に収まるくらいの小さなものです。ハロウィンの楽しみになります。
 そんな小さな収穫を庭からいただいて、里山の大豆も順調です。草はどんどん生えています。もうそろそろ今後をどうするのか見えるようにしなければと思っています。
今は、胡麻と棉、そして、野草の様に茂ったホーリーバジルがあります。人参と白瓜は終わりました。充分に私たちを楽しませてくれました。赤紫蘇も、種を落とさないうちに抜きました。
 でも、このかぼちゃ。庭のお嬢さんがいち早く花開いてしまったのは、あえなく消えてしまい、その後をとった二番手のものが緑の方です。
 特に縁付けようとも思っていなかった連れ合いがびっくりしたのがベージュ色のバターナッツ。最初はかぼちゃだと思っていなかったようです。昨年種を残しておいたことも知らなかったようです。どちらも冷え込みで茎も枯れてきたので、色付きはもう少しと思いますがこれ以上は大きくならないととり込んで玄関の下駄箱の上に置きました。
 そもそも元肥が無いところに植えたのでこの大きさで仕方ないです。かぼちゃは追肥ができないと後から知りました。だからこの実を採って茎を片付けてそれから、来年のためにコンポストから生ごみの半年分が熟成した堆肥を、かぼちゃのあとの掘り起こした地面に活けこんでいきます。そう義父がかぼちゃは毎年同じところに植えても大丈夫だと言っていたのは証明できるでしょうか。
 今年の収穫、そこから来年のトライが始まります。三度目の正直になるでしょうか。春にはまた秋冬の熟成させる生ごみ堆肥を庭に活けます。義父は冬の間に冷たい霜の降りた地面の下で堆肥が土づくりをしている様子も、話してくれました。
 お彼岸が過ぎれば九月も終わり、新しい年に向かいます。この期間にじっくりと考え事をしたいものです。
 お彼岸のお中日は、ちょっとばたばたと薪運びもしましたが、前夜から水に浸けてあった小豆を煮て、濾して晒して餡にして、おはぎを拵えました。そして、大豆はずんだにして、昨年栄子さんに振舞われたおはぎのようにできるかと、擂り粉木で潰してずんだだだ。亀戸の公園は遠くなりずんだだだ。小豆は晒し餡になるまで、水を替え沈殿させて、上澄みを流してという事を三度繰り返したので、朝から煮ても出来上がりは遅くなり夕方のお墓参りになりました。庭の花とおはぎを持って連れ合いと二人歩いて秋日和の夕方を、共同墓地まで5分程度。お墓の横に植えたお茶の木にも花が咲いていました。
 これからの事。先に逝った人たちは、それをどう迎えたのでしょう。そして私たちは、これからという、その時間の間に、静かに沈殿させ、上澄みを流し滋養深いものを得らることができるのでしょうか。季節は過ぎていきます。
 
 

2014年9月23日火曜日

双面水照月を観て

 歌舞伎座での初観劇は、先に菊畑があり、その後が法界坊続いてその浄瑠璃物が双面水照月でした。吉右衛門の演ずる法界坊と野分姫の二人の霊が合わさって、この世にあらわれる浄瑠璃に、結構刺激が残りあれこれを考えて、話しています。

 怨みを残して死んでこの世に出てくるなんて、死んだ側のことじゃないわよね。生きている側が怨まれていると思ってしまうから、見えてしまうのでしょう。それは、死ななくってもそうよね。現実の中でもそういう思い込みがあることが多いのじゃないかしら。
 私たちは不信心者なのでしょう。いたって現実対応でお彼岸も過ごしています。
 排外主義というのもそうではないでしょうか。どうしてあそこまで、口汚く他国の文化を貶められるのかと残念です。それはひいては自身の狭量さと劣等性を晒しているだけなのに、そうせざるを得ない何かに動かされているのでしょうか。在りうるのかどうかも不確かなことまでも、事実であるかのごとく、そして些事を厖大に言い立てる。それも、観ているとどこかおどろおどろしい感覚に捉われてしまうのが嫌です。差別も似たような構図なのかもしれないです。そこはもう少し深く考えなければならないのでここでは論とななっていません。真のリーダーとは、そのような人の心の落ち着けどころを、見せていく事ができる言葉をもっている人であってほしい。煽るのではないものです。非業の死を遂げたものを神として祀り、道端の行き倒れはその集落の者が無縁仏として葬ってきたのも、打ち捨てておけない生きている側の論理ではないでしょうか。
 私が、閑居山に居る兄の事をいつまでも気に病むのも、どこかで突き放せない自分自身を不憫にしておきたいことなのです。多分そうです。そして他人様から、身内を放っておいて悠悠自適だとか思われてはと、事業にもなりたたない文庫稼業にあくせくしているつもりなのです。
 さすがの、演技に引き込まれてあれこれ考えて、朝の冷え込みに夜明けを見ます。今日はおはぎを作って、お墓参りをしましょう。有難い親たちは私をも見守っていてくれるのですから。

2014年9月19日金曜日

目利きに会いに














予定以上の大人数だけれど














 本日は、またまたパルシステム山梨の一宮センターの企画に出かけていきました。
 登録の甲府センターの企画には日にちがとれずまだ参加もしていないのに、連れ合いに見せると、行く気になる催しが上手く開催されてます。
 シーボン昭徳さんの学習会と調理実習、試食。先日は県の男性の料理教室のOBの趣味での調理の会に、月一で申し込んだ連れ合いは、今後どうなるのでしょう。台所の主の顔をしていたい私は??
 産地からの直接の声。いかに普通の消費者を捉えるのか、連れ合いを横にみながら、初心を忘れそうな自分をたしなめます。だって、この包丁さばきを見つめる組合員さんたちは、毎日台所に立っている自信と責任をみなぎらせているのです。そのまなざしが、生産者をも見ているし、南の海の経済的水域も見ているのです。消費者は責任の主体者だと、ここには出さない囲んでいる方々の表情は物語っていました。多世代、夫婦参加、初めて魚をさばいた若い人。良い企画でした。そして美味しい時間を過ごせました。

2014年9月17日水曜日

ベルナデッタ・マルガリタ

 

 ととさまは、フランシスコ・アッシジ、かかさまはベルナデッタ・マルガリタ。。。
昭和二十七年の「キリストに倣いて」に母の洗礼名と、洗礼をいただいたヤヌワリオ神父様のお名前が書かれて、その日は九月の十七日。
  母は、すべての人への癒しの手と、信仰を守った二人の聖女の名前のままに、父と会い茨城の寺に嫁いだわけです。
 その後の母の活動を思うと、相応しいものだと思うのです。もちろん、人間としての、普通の喜怒哀楽の中で生きていたのを一番身近で知っているのですけれど、だからこそ、どうして清らかな在り方を貫く意思を、魂を持ったのかを考えます。今の文庫番の名刺は、母の見たはずの石狩平野へ沈む夕陽を昨年の春に撮った画像を貼り付けてあります。大仏照子覚書きは、きなり歳時記の連載が終わった時からぼちぼちと書きとめていたのですけれど、形にならないままです。少し気合を入れたいものだと思う日です。
 先日、東京まで出た帰りに受けたメールは訃報でした。青洞の家の高橋さんが亡くなったというものです。間が悪く、東京に引き返すわけにもいかず、客迎えもあり、葬儀にも行けず、惑う昨日でした。それは30年前に、母から、青洞の家の就学児闘争に皆行っているのよ。と言われても、あの時は近くに住んでいながら、通りの角まで行くつもりで出て行きながら、自分で無理だと引き返して、夕飯を作っていた自分が重なって、暮らしを楯にして、参加していないと嫁いだ者である事の中でもがいていた姿です。また今、なぜ動かないのか。言い訳ばかり浮かびます。さあ、今日は前に進まなくっちゃ。
 

2014年9月3日水曜日

桑畑の上に


マハラバ村全景


 8月の学習会でも資料掲載したこのプレハブ三棟と中腹の庫裏の見える閑居山の写真。三階と言われていた建物は竹藪に隠れてしまっています。
省みれば、その下に山の麓ぎりぎりまであったのは桑畑だったのです。

 8月の末から二泊三日で岩手、福島に行ってきましたが、二泊目は仮設住宅の栄子さんのところに泊まり、お蚕の話を沢山お聞きしました。今回の文庫番の旅の目的が、仮設住宅と同じ伊達市内の入り金真綿石川彦太郎商店さんの訪問にあると知って、たくさんの思い出を教えていただきました。
 一晩ゆっくりくっちゃべりたいねぇ。と味噌の天地返しの前後に言われていて、家を出ることができたついでに泊めさせてもらって話をして、そうするとどうやら真綿屋さんに寄る時間もできそうだという計画だったのですけど、思いがけずに栄子さんのいろいろを引き出しました。それこそ繭から糸を引くように、丁寧に訳の解らない私に教えてくれる糸口を見つけながら、幼時の暮らしを語ってくれたのです。それが、まだ養蚕をしていた頃の茨城の風景と繋がり、なおさら話し込んでしまいました。
 蚕の桑の葉を噛む音。蚕を育てるところの温度を保つために、冬の間に蚕さん用の炭を焼いてあって、梅雨時には囲炉裏を焚いて二階を温めていたところに、従姉妹さんと寝ていた話。藁ダに育てていた蚕。その糞は畑の肥料として戻した作業。そして親戚で赤ちゃん=オドッコが生まれて見せてもらいに行ったら、赤ちゃんの頭には真綿帽子が被せてあって、おばあさんが抱いて出てきて見せてくれたお話。(閑居山の下のあたりでは赤ちゃんは茨城弁で赤ちゃんをオドメと呼びました)
小さい蚕の食べられる桑の葉と、繭を作る頃の蚕の食べる桑の葉の違い。その音の様子を聞きながら、温めたり、餌を加減していた女の人たち。幼子を慈しむ生活は、自然からの導きにあったのでしょう。女の人たちを季節で雇うという事はその家の主婦は蚕仕事以上に忙しく、目配りができないとならなかった事。そして自分たちでも糸繰りも、染めに出して反物にすることもできたくらしが、目に浮かぶ様に語られました。合間にお味噌の話や今回の二地域での中間貯蔵施設受け入れに対しての気持ちも話してもらったのですけれど、食べ物や衣料を自分で作れるくらしがどれほど大切なのか。そこを文庫番はどのように書き留めていけるでしょう。それこそ山仕事讃歌の続きになるでしょう。次の訪問先が、予約無しだと聞いて、珍しい人もいるもんだと、送り出されました。

 この写真、山の麓ぎりぎりまで桑畑であったというのは、東向き斜面のこの閑居の地は、食用の畑作もできない土地であったことも写しています。この山腹で、私たちの口に入るように、畑を耕した若き母の苦難を思うと夏草くらいにすぐへこたれる娘は、不肖の娘です。今居る山梨県の中央市のちょうど家のあるところもシルクの里となっていますが、もう養蚕農家は一軒しかないという事です。懐かしい時代を書き表すのではなく、これからの時代をつくる、食も衣料も自分たちの手技にある社会をどう書いていく事ができるでしょう。


伊達市ホームページから
http://www.city.date.fukushima.jp/soshiki/87/144.html

入り金真綿石川彦太郎商店


2014年8月28日木曜日

二色式部


 
 ほとんど、同じところに植えてあるけれど、やはり二株だから、ムラサキシキブとシロシキブが同時に花が咲き、実を付けても色は違います。どうしてこうなったのか。どこで拾った種を蒔いたのかも判然としなかった、墨田のベランダの植木鉢から移植した今の庭の式部たち。
 微やかな、深意に満ちた会話をしているようにも見えます。
 以前にも書いたかもしれないです。文才の出てこない植え主は、彼女たちの会話も聞いてみたいし、早朝畑のカラス大先生の教えも学びたいと欲張っています。
 昨日は、文庫番の父、大仏尊教=晃(空)の生まれた日でした。父もまた、まとまった本とすることはなかったのですけれど、いろいろな他人が語り、表している父の姿。何が正しいとも正しくないとも言わず、距離を置いてきています。そう距離を置くしかない。
 では、兄と私と同じように父母を語る事ができるかと考えると、その間には色の違いがあるのだろうと思います。資料を保管しながら話を語りながら、それでも宗教者としての在り方を語る事ができたらもっと父の姿が明確になるのに、それはくらしを語るだけの文庫番には到達できない部分だろうと控えておきます。
 人別外に生まれ。そうでしょう。寺が人別帳を持っているという事の意味は、寺に生まれるということは人別外であるという事ではないでしょうか。遥か子供のころから、聖職と呼ばれる教師と、他人の身体にあたる医師と、そして人の生涯を書き留める寺の者は、他人の業を背負うものだと考えていました。他人の業を背負うとは、鬼を心のうちに住まわせること。このところ、市民運動ってやはり馴染まないなぁと思うのです。結婚して20歳を過ぎ市民だなんていうびっくりした立場になった時に自分は棄民だろうと考えていたのです。そのように表明したいと。市民運動ってこそばゆいというか、何かさかしらな方々のもので、その日をどう生きるかなどという在り方とは違うのじゃないかと感じたのです。都市に紛れて、連れ合いの稼ぎで食べて、地域で生活ができて、それじゃない。そうじゃないというもどかしさを、いつも胸の内に感じていて、それなのにくらしに根差したことばばかりを紡いできて。見えているその間。あわいに埋めてあるもの。
 埋めておきましょう。いづれ元の色が出るのでしょう。 それでいいのだと思っています。
 

2014年8月17日日曜日

秋色になって


 義母の新盆も終わり、この地の寺に先祖代々の位牌を納めて、今年のお盆は終わりました。
三年続けての迎え火、送り火。送り火を焚いた庭の草の実は、すでに秋の色になっています。
里山畑は台風11号が近づいたあたりから早朝草刈をしていなかったので、まるで耕作放棄。
嘆かわしい。大豆はまあまあの発芽。予定していた蕎麦の実もあるのに、手が回らないという状況。
 マハラバの年表に手が付けられて、そして母の支援していた冤罪事件の多くの資料の行先がしかるべきところへと決まって、資料棚(元の住人の食器棚)の中も少しゆとりができそうです。
 もう少し、集中してマハラバを語る事ができる検証を進められるでしょう。母が多くの活動をしてきた筋道も読み解かなければなりません。その事が父の思想との整合性をもって世に問うことは、今の状況でも少しも後退させることはできないのだと考えています。だから、しがない土いじりも薪運びも、その実践であり、在り方なのだと自分なりに思うのです。
 味噌の熟成も進んできました。まだ台所刀自とはなれない文庫番。秋の学びもしなければなりません。先祖代々、ひとつの地域で行き来していれば密度は濃くなっています。父母の先祖は自分の身体に受け継いで、あらたしきものになるのでしょうか。秋はまた冬を誘い、新年へと続く日なのです。

2014年8月15日金曜日

虹のロゴ


 ロゴを作ってみました!とSNSの友人から送られてきました。自分では発想できないポップな感じ。虹のイメージもあるし、しばらくこれにします。
 本日創業日。そして父大仏晃がフランシスコ・アッシジの洗礼名を頂いた日。

2014年8月11日月曜日

お盆前に


 台風が来て、蒸し暑さを残していきました。お盆用意を午前中に買い出しに行って、そのまま里山畑の台風後の様子を見に行きました。白瓜はごろごろと成っていました。藤棚変じた苦瓜棚のゴーヤも成り時で、瓜だらけの台所。
 倒れたきゅうりの支えも直して、そこには馬用のきゅうりがまだぶら下がっています。茄子も手ごろなのが残してあります。茄子は人数分より本数が多いので、茄子メニュー連続です。
 さて、、瓜子姫でもいるでしょうか。桃もたっぷり食べた後に瓜が採れて、まるで昔話の流れのままに家の前の川があるようです。
 流れは何を運んでいるのでしょう。昨日はまた、合流に向けて激しい勢いの泥水が押し寄せていていつもとは違う川面でした。ズックの片方とか、漬物桶の蓋とか、何も物語を起しそうにはないのですけれど流れ来て、流れ去っていきました。昨秋の台風の時には義母と見た川です。そして赤い夕焼け。
 なんと一日、一瞬が人の生きている間の尊い事なのか。その中から人に伝えられることばが生み出せるとしたら、それがことばを育て文を成りものとする喜びになるのでしょう。
 無事に、8月9日の「マハラバに居て」(マハラバ村に居て替題)の講師を終えました。企画してくださった、コムケアの佐藤さん、櫻井さん、参加と言う形で応援してくださった皆さんに、感謝する気持ちをここに表しておきます。母の誕生日に、そして長崎原爆忌の日に、教会での黙祷からはじめるマハラバの話。それは、東日本大震災以降の社会に問うものであってほしいと話させてもらいました。現代文明を否定する。その在り方を問い始めてからどれほどの時間があったのでしょう。無明の中に光を灯すことができていたのでしょうか。無明のままに今はあるのでしょうか。そんなことはない。集まった人たちが、不条理に対して叫ぶという事を失くしてはならないと少しでも思えたら、それは万灯会となっていくのでしょう。

まだまだ、灯りを点ける、そのことばを発していかなければ。

2014年8月7日木曜日

星祭りのお誘い



 いろいろ、ご近所のお助けで暮らしています。それでもお互い様を気を付けながら。引っ越し前後から誘われていた夏の星祭りは明日の夜から三日あるそうです。お天気は持つでしょうか。
 私には夜空は撮れないから、干し祭り。
冬の薪は乾燥中。でも共同で作業をしているところが新しい住宅の建つ予定が決まったという事で、我が家の分を早く移動させなくっちゃならないと、連日薪運びの往復。プレマシーに積み込んで、運んでまたおろして積み上げる。太目の枝のままのものは割る作業もしながら、この酷暑に。。でも昨夏に比較すると気温は低いから、疲れを貯めないように全体の調整です。
 ようやく、これから文庫の資料整理の道筋になる年表の元ができました。今回頼まれたお話の資料作成なのですけれど、基礎的な年代の整合が自分の体験に沿ってできたので、長年の懸案に対して取り組みやすくなります。その資料作成といきなりはじまった薪運び。そして補植をしても旱天に芽のでない大豆の様子見や里山畑の草刈りもばてない程度に組み合わせ。私だけじゃないです。連れ合いは意地っ張りに疲れを見せないから、声掛けて休ませないと。
 そして、台所の楽しみもあれこれして日が暮れて。瓜の類もいろいろ採れてきました。味噌の献立も幾つか入れると、なんだか秘蔵の味噌も使い切ってしまって、今年仕込みの味噌の口開けまで持つのでしょうか。毎食微調整です。秋の一番味噌はパル山梨オリジナルだった麦味噌セット。あと半月。そんな事を思案しながら、干しているのはこれが四日目になるデラウェア3房分。まだ粒の形はあるけれど、皮に皺が寄ってきています。あと半日このお天気ならば初めての干し葡萄は成功かもしれないです。干しゴーヤは二日ですでに出来上がり近いのが不思議。あとから干したのにと、悔しいので、葡萄の網は物干し下からトマトの棚へ移動させます。…薄曇り。
今回の資料作成で筋道が少しできたので、屋根裏や資料棚に入れっぱなしの文章類も虫干ししないとなりません。
 今夜は花火大会。雨も降ってほしいし。星は観たいし。

2014年7月26日土曜日

どなた?


 里山畑の草刈は気になるのですけど、たとえ臥せっていても大豆に水は遣らなくちゃと、ヴァンタスファームから少し下のパルファームに蒔いた大豆のところに毎日水を撒きに行ってました。
ただただ、寝ているだけの数日。年齢身体の動かせる範囲と、やみくもな土いじり。したい事とできる事のバランスだな。とか思っているのです。
 資料作りもそうです。暑い屋根裏で新たな資料を見いだすつど、先に作ったものに足したいと思っても、これもまた上手く活かすのが難しく、バランスかな・・
 そういいながら不甲斐ない文庫番。大豆畑に行って見ると訪問者があった様子です。
ここならイノシシは来ないだろうという事で蒔いたのでちょっとびっくりしましたが、確かに小型で爪先も割れてはいない。大豆が芽生えてきて様子見に来たのはどなたでしょう。

2014年7月18日金曜日

ナンジャモンジャの木



 資料づくりが、一段落して、今の状況ではこれが最善ではないかというファイルができました。
それを見計らったのではないでしょうが、きゅうりといんげんを持ってきたおじいちゃんが、県内巡りを誘ってくれました。以前から、あったお誘いですが、同行してくれる山の植物に詳しい方が忙しく、急な日程でした。
 きゅうりの塩麹漬けとこれまたもらったトウモロコシを茹でたのを詰めて、おにぎりは誘ったおじいちゃんがコンビニで用意してくれて半日コースで甲斐の国中巡りでした。
 ナンジャモンジャの木というのがあるのです。
鶯宿峠から下がったところにあるもので、やはり周りの他の木とは違う雰囲気ありあり。
県指定天然記念物で、牧野富太郎博士が両面檜と名付けたものでした。
 葉っぱの両面が表でもあるように、見える。ちょうど資料づくりを終えた私は、従来のマハラバの思想が父の考えによってできていると、多くに語られてはいるのですが、母の思想の系譜もともに響きあっていることが、解るのです。そして二人とも行動によって思想を表してきたので、父の方が表に見えているのは仕方ないとも思います。
 マハラバ村の時代、それは強烈な自己をどう表現するかであったのだから、静かな底流としてあったものは、見え辛いのです。
 その時代を時間内で語るには、流れを整理して、掘り起こした部分しか話せないので、今やっと実物史料を繰ることができる文庫番は時間をかけてマハラバの底流を辿っていこうと改めて思うのです。
 夫婦でともにしてきた事は、どちらかが裏で、どちらかが表ではなく、ともに在ったということなのだと。
 

2014年7月16日水曜日

物語


 マハラバの会計簿。もしかしたら現代の映像で出て来ていたノートでしょうか。誰も利することのない共同体で、生活というものはあったのです。今頃、屋根裏のような部屋での資料整理は写真だけでなく、さまざまな記録を掘り出すことになりました。
 それは他の人から見たら、単なる時代の資料にすぎないのだけれど、私には生々しく、自分の家庭を解放していった事実。
 どう語るのか。歴史の証言としたら、それは、口から出た瞬間に創作になっていく。個人の体験であればあるほどなおさら、主観的になっていくのが歴史。50年前を語るとしたら幼かった私(ちょっと言ってみたい)が、大人の論議から外れて、ただ、その生活の中に居たという事。
 そして、アルバムや会計簿以外の資料がまた、意味を帯びて出てはくるけれど、それを確かに遡って状況を証明していくには私は力不足であることを、まざと思うのです。
 せめて母が生きているうちにもう少し突き合わせて聞く事ができていれば、せめて、事情を覚えていて信頼できる語りをしている人がもっと身近であれば。それでもなお、私は私の物語をしなければならないのです。覚悟。
 この帳簿がマハラバ文庫経理に役立つかなんて考えると、電気も水道もない共同体といっても、ランプの光は?湧水を貯めたタンクやパイプは?でも陽が昇り、雨が降る、それは水光熱費じゃあらわされないし、山の薪で賄ったお風呂。
 祖父の代に拡げた寺の内容は父の代にはすべてを運動のためにと使って、それでも浄財で生きていけると皆に言い、身を持って募っていくという役割だった父母。それは信仰と言う研ぎ澄まされたものとはまた別な世俗のことばを持たなければならなかったのです。
 生活保護獲得の闘い。他人事ではない、お金では換算しないという事は、運動とは信仰とは。屋根裏の古びた資料を読み解きながら、私の鼻づまり(慢性副鼻腔炎ではなかった!)はさらに埃りを嗅いでいるのです。新資料も出てくるので、文庫番なりに整合していくには時間が必要です。

 

2014年7月9日水曜日

さまざまな不思議の中に


 
 ホーリバジルも花が開いて、小さな虫が寄ってきて受粉をしていきます。聖なるバジルだそうです。お茶にする予定ですが、やっと今年はその量が採れそうです。札幌から種でいただいて、墨田のベランダで発芽させて、山梨の庭に移して、また種を採って、そして、今年は三ヵ所に分けて植えてみて、やっと満足できる本数になりました。高貴な香りがします。このバジルはお茶にしても身体の浄めになるようです。
 夏草が刈られている下の川原には、このところ姿を見せていなかった鴨夫婦がまた来ています。雛は孵さなかったようです。
 さまざまな出会いがあります。残せるものと消えていくものがあって、時間は静かに過ぎていく。殺生は嫌だと思いながら、大豆を育てるにはイノシシ退治をしなければならないと、連れ合いは狩猟をする人になります。思いもよらない事です。立ち寄った書店にあった現代農業を買えば、自然に読んでいます。会社勤めの頃であれば薦めても内容が興味を惹かなかったのかもしれないです。まったく、こういうところでこういう人生を迎える事になるなんて。。
 そして、二人になってしまったくらしに、僅かな作物を得たいと食べられる分だけを作っていても、日々がワンダーランド。上手く育てばと願うものは、難しいし。うちでもできた!と言うものは有難い事にご近所からも、押し寄せてくるのです。その中で、保存食の知恵もちょっと足して。
 種採りできるものは、また来年に向けてみましょう。このバジルも、あれも、これも、考えると種から分けてもらったものです。もし、種の不思議を考える数年がなかったら、味噌だって種で繋ごうなどとは思わなかったでしょう。
 里山畑のほうれん草からはイガイガの種を採る事ができました。ほうれん草にも雄株と雌株があるなんて種を採ろうと思わなかったら知らない事です。食べ物、どのようにできるか、継承されているのかも解らなかったのです。食べることができた量よりも、虫にやられずに残った種がある事を喜んでいます。でもそれはまた来年も虫たちとの食べ比べをするという事。
 豊作でも凶作でも、どのように次代への分けることのできる種として残すことができるのか。人間という種は。。
 それ山川草木国土悉皆成仏。その時に在る意義が少しわかってきました。資料整理はまた思想の種をいかに保管し、次代への継承の道を創っていくのかです。
 母の資料をもとに富良野とのやりとりもできました。

2014年7月6日日曜日

7月6日に

 書留封筒は届いたのだろうか。父が逝ってから30年。昨日の夕方打ち合わせはマハラバ村=人とひとの共同性を語るについての下打ち合わせ。
 いよいよ、手をつけなければならない文庫番の本業として、二階の窓の無い資料と在庫、その他の小部屋に籠って、箱を開けて古文書(ふるぶんしょう)を読んでいました。
 埃の匂いと、蒸し暑さの半日。母の骨箱の前にマリア像を供え、あの日を思い出していました。
その前の週にだったか、知り合いの葬儀を務めた父が、電話の向こうで、お腹が痛いと話したのを聞いて、男が痛いとか辛いと言うのは死ぬ時だ。と日頃言っていた父が、口にした事に、知人の葬儀で父と会っていた連れ合いに何か変わったところはなかったのか訊いても、身重であった私を気遣ってか、別に。という返事であったのが、7月6日の朝、母からの電話はお父さんが昨夜入院したの。と言うものであった時には、もう連絡すべき伯母叔父たちの住所録を携えて、丁度出勤前の連れ合いには休みを取ってもらいすぐに茨城に向かう事にしたのでした。
 あれから、30年。
今年の山の中にも一匹だけの蛍は光っているのでしょうか。最後にまた一隅を照らすかの如く、あの夜その年の最初の一匹だけの蛍は、母と私の見ていた庭の池に飛んできたのでした。
 兄が、翌日に比叡山から戻って、臈輩の方々と段取るまでに、ああ、多くの弔問の人々に対処した母が、長かった髪を葬儀の朝には美容室に行き、棺に入れた事。次々に思い出される今夜です。
 文庫番のもとに残されている資料。祖父の代の戦争前後の勧進帳。そこに書かれているもう私には知らない方々。そして母の遺したたくさんの活動記録。
 それらの中に、極僅かのマハラバ村の頃の資料。障害者解放運動は、障害者自身のものであるから、それらではなく、あくまでも庫裏方のもの。そして母の洗礼の時の書物。その二つを本日は確認できたのです。
 訳の解らない、由緒などありすぎるけれど、それらを外れた代々の住職。そして異教の母。
何が遺すべきであり、価値があるのか、番をするしかないと、また箱を閉じてみました。
 文庫番が、マハラバ村について語る日まで、約一ヶ月。

2014年7月5日土曜日

何をどこから













 梅に続いて、茄子だ、胡瓜だ、トマトだと台所でてんてこ舞いをしていると、先日里山畑を観た方から、嬉しい大豆が届きました。7月に播種できるという近県のものです。試してくださいという事です。10月には枝豆で食べられるかしら。 その話をして、ここの区画ならばイノシシも来ないのでできるかもしれないからやってみたらと、パルファームの一画を使おうと話しがなって、家に戻ったら、柿畑を更地にするからと、ご近所の方が伐採した柿の木をダンプで庭に積み下ろしていきました。これは、長さを揃えて、割れるものは割って積んでおく作業をしないとなりません。庭の畑も、区画が空いていて、次の作業をしようというところ。はなごろもで貰ったささげも花が咲いて。大豆を蒔く前の畑起こしもしなければなりません。
 その日その日に追われています。資料の整理をしたいのですが、気を向ける暇もなく庭だ畑だとやることが出てきます。間に、あっちこっち出かける用事があります。あと一ヶ月の間に、少しまとめて、構想していた作品の骨子ともなる資料整理にするつもりなのです。どこまでできるか何ができるか、気づいたら7月になっています。

 


2014年6月25日水曜日

梅雨の合間に



 岩手県の軽米の大麦を育てて二年。昨年の実ですけど、梅雨の合間、梅仕事の手休めに麦茶に煎ってみました。手休めと思ってもそれはそれは午後一杯立ち仕事でガスの前に居る事になって、ストーブを使っていたうちにすれば良かったと猛反省。梅仕事が、容器の繰り回しに陥ったからこういうことになった次第。
 それでも、贅沢な麦茶。食糧自給基地構想というのがあって・・・なんて遠い話かしら。
文庫番の庭畑の話です。なんの構想もないのですけれど、実りに追いつけ、植物に教えてもらえ、まずはやってみよう。大豆の裏作に麦と聞いて種を求め育ててみて、実ったらどうするか途方に暮れていた昨年。それでも寒い時期には麦芽で飴もできたし、発酵文化はまだできないけれど、今年の実りも干してあります。一粒の麦。
 面白い事に、今年の春は南部小麦の方が良く採れて、大麦は続けての場所に密撒きしたためか昨年より上手にはできなかったのです。
 母が夏に大きな薬缶に煮だして、お砂糖を少し入れたものを思い出します。夏休み前の学校から帰るとちょっとした甘味にほっとしたものでした。それはまた、連れ合いも含め、夏合宿を山の中でしていた都会の学生たちにも用意され、エアコンも扇風機も無い山の中を吹き通る涼風の味だったかもしれません。

2014年6月19日木曜日

カモス・マッディーナ

カモス・マッディーナ(醸す・真手な)

大豆の若葉が茂る頃
稲の幼苗田んぼに根がついて
大麦畑の穂が首を垂れ
舞台に役者が出揃って

あぜ道の草刈る前の晴天に
からっと風の吹き通る
渓流のせせらぎは奏でられ
遥か味噌の故郷の流れの清冽思い出し
この恵まれた大道具
天地返しをいたします

力自慢が桶を蔵から運びだし
そっと中蓋取り外し
ぷつぷつと、そこに見える呼吸穴
玄米味噌は生きている

仕込んだそれぞれ、顔合わせ
声を合わせて、手をつなぎ
いのちを繋いでゆくのです
カモス、カモス、マッデイーナ

清らにさっぱり拭き清め
教えてもらった、知恵の技
先の人は、笹の葉っぱを平らに広げ置き
自然の力で封をして、いたずら菌を抑えたの
学んだことのその深さ、言葉で伝える責任に
いつかは、その世を作りたい
自然の力に導かれ、自分の技を愛おしむ
原子力に頼らない、誰にも不満のない世の中を

シナリオ組み立て麹菌、塩切り具合も健やかに
次代に渡せられるその時を、来る寒に待ち望み
出番を待ちましょ種味噌が
今年も夏を越していく

アリストファネスが笑ってた
若妻たちよ良くお聞き
どんな魔物も打ち酔わす
テナヅチ刀自の御台所
安寧の、ささめく麹の歌声が

カモス、カモス、マッディーナ

                                               マハラバ文庫 増田・大仏・レア

2014年6月11日水曜日

入梅(雑節)


 暦の上での入梅の日になって、間もなく咲きそうです。我が家は昨年からこの浜木綿の里親。川に面したところに植えました。どれほど水が欲しかったのだろうと。
 経てきた時間。これからの時間。何を語る事ができるのでしょう。どのような集いを催すことができるでしょう。季節の折々に。
 その年によって、人の在り方も、花の咲き方も見え方が違うのだと春ならぬ梅雨時ですら思います。さつきはほとんど花のあとを片付けて、蛍を見ながら夜の一時を憩うのです。
 文庫の会社はやっと申告も納税も終えたのに、個人である文庫番に通知がきたので、誰の扶養でもないけれど所得の無いと窓口に届けてきます。これから先も自分の力で。。。生計は配偶者の家計で。この程度じゃ駄目と情けなくもなるのです。せめて役員報酬の出る売上があれば、大手を振れるのに。人の在り方。そう、この世での人の在り方は縛られるものも多いのが現実。
 連れ合いにも、余分な負担をさらに掛けることをしながら、採算事業にならぬことばかり。ただ、昨日役所の窓口に出向いて行って、今迄の状況とは違う年金生活の中での世帯であることも、再確認します。小さい目で見れば自分の先々が茫漠とします。
 社会の中を考えれば、社会保障制度ってどうなっていくのだろうと、その行方を論じているはずの場を、他人事として考えてはならないのだけれど、とネットの情報を拾ったりします。それでも、また別な見方をすべきなんだ。新しい軸を社会に立てなきゃならないんだと、くじけそうな里山畑の周りの耕されていない畑。収穫されない実りを眺めながら思うのです。シルクの里の桑の実は誰も拾わずに、すでに廃れた匂いになってきました。第一次産業の人口は文庫番の子どもの頃から考えれば激減しているのです。機械化で補えるものではなかったのじゃないか、中山間地とは。もっと早くに人の優しさを身体的に活かせる文化だった事を思い出すべきだったのです。くらしとは機械の僕ではないのです。いつの間にか払わなければならないお金の額がどこの家庭でも家計の中に出来てしまって、それが他の人を生かすために使われるはずなのに、集められた結果は、集団!。発するところが個別な身体的なものであったのなら、そこで醸し出される文化は、個々別々に益するのが順当なのに。
被爆浜木綿は文庫番に大きな目で見えることを教えてくれるのでしょう。
 
 
 

2014年6月5日木曜日

コレクション



とよとみクリーンを買いにクリーンセンターに行ったらカラーマンホールの蓋がありました。三町村合併なのでそれぞれのマンホールの蓋が置いてあったのですが、文庫番の住んでいるところは、いち早く下水道整備をして、クリーンセンターを作って家庭の生ごみと下水道汚泥からの堆肥をつくって市民に売る仕組みができています。生ごみ用の専用袋も生分解性プラスチックなので、堆肥に混ざっていても、そのまま土になるというのです。小学校4年生の社会科見学コースにもなっています。
 この堆肥ご近所さんに教えてもらっていたのですけど、センターに電話しても、なかなか通じなかったのでたまたま市役所の支所に行った時に訊いたら、直接電話してもらって、センターで待っていてもらって、詳しく説明を聞く事ができました。普段は作業をしているので、事務室の電話に出られないのだと。この下水道整備のために、前の村民全戸39万円の供出でやって村内5か所に一時処理施設があって汚泥を集めるという話に、すごいことなのだと改めてびっくり。蛍を愛でているだけの私たち。ありがたいことです。
 里山畑の方には、甲州ワインビーフの牛糞堆肥を入れてもらっています。でも猪に食べられない作物を考えるのも難度が高いものです。美味しいものは大概の生き物が好きなようです。これもまだ一工夫しなくっちゃなりません。
庭畑でも作物も草花も、根っきり虫にも悪玉天道虫にもたかられて、時間があるからと連れ合いは一日土ほじりをしています。
 庭の前の川には蛍がでてきます。沢の蛍は身を焦がすけれど、文庫番は日焼けのシーズン。部屋の中でもう一度父の文章の読み直しです。非情は成仏しない。山川草木国土悉皆成仏とは。

2014年5月29日木曜日

宿るもの



 ベニカナメモチに取り付いている毛虫は、いろいろ考えたり物証を見つけたりすると、どうもマイマイガの幼虫のようです。一度岩洞湖の畔で大発生していた蛾の卵塊に驚いた事があったものです。ベニカナメモチにもまだいますが藤棚でも発見。夕方になると伸び始めた茗荷の群れの葉っぱにも降りています。殺生をします。虫も殺さぬなんて誰が言うのか、連れ合いは何でも私を同等に扱います。いえ、むしろ嫌な事が回ってくるようにも思います。殺虫剤は使いたくないなぁ。なんて、押し付けるのにうってつけの言葉。虫を潰すのは昨春には、あまりにも痛ましく、自分の気持ちも傷ついた感覚があったのに、今獲らないと卵でさらに増えると思うと、躍起になります。藤棚を見上げているので、麦わら帽子を被っていても仰向けでどんどん紫外線を浴びています。肌白が七難隠していたのは遠い話になるのです。
 昨日アップした下の写真の元。この春にあれもこれも閉ざされていた中に芽生えてきたもの。そう、言い知れぬ圧迫感の中であったのですけれど、今まで聞いてきた事をどこまでできるか、三月下旬までは家の中も、ものが大きく移動したり、片付けものも多かったり、閑居山に行ったり、味噌仕込みにあたふたしたり、昨年の種籾がどこにいったやらの管理不全。というより徹底して種は種箱に入れてあっただけでした。それを夫婦して忘れていて情けないお年頃。それどころじゃなかったですからね。そして種籾の塩水選別してみたり、温湯消毒は難しそう。そんな試行錯誤は、発芽育苗なんて、インターネット上の知り合いのプロの生産者の方々の情報に引きずられていました。
 だけど結局、発芽を頑張った苺パックを置いたのは、その前まで米麹の袋を開いていた場所で、なんだか灰色っぽくなる種籾に、慌てて外のミニ田んぼ予定だった旧漬物桶を代掻きもどきをして糠を撒いて、落ち着いたら移した稲たちです。それも藤棚の傍。昨日までは鳥除けにザルをかぶせてありましたが、それを外した写真が昨日のものです。ぜんぜん、田んぼじゃない。
 何も人助けもしてない、自己満足にすぎない。そもそも身内と言いながら兄の窮状すら放っておいて、穀つぶしとは何を言うかと自分を問いながら、自立と協同なんて言えるのか。そこにこそ自立した人格を認められ得るのだからと、さとる。
 毎年、お正月飾り用の稲藁くらいを採っていた継続。今年はどうなるかとも思ったのですが、やはり途絶える事ができなかったのです。
 穀物に宿る力。そしてそれを取り巻く有相無相。信じるという自己肯定。その先に他を信じる事ができるのだと。いつか、誰しもが互いに認め合える。そう菅野栄子さんの言う誰にも不満の無い世の中が来るのだろうと思うのです。
 
 

2014年5月28日水曜日

積雲の元


 春に割った薪を山宮から自宅の薪置き場に運んでいます。
 今朝も早朝畑に出てみれば、蕪が大きくなって収穫時。びっくり、残っていた種を全部蒔いた結果は、葉物が重なる毎日になりました。一昨日は雨模様の朝で、昨日は東新宿へ出なければならなかったので、畑に行かないうちに良く育っていました。午前中にもう一度車で行って葉物を抜いてきました。やったことがないとは考えが及ばないという事で、一番最初に小松菜を採った時は根付泥付きで運んで葉っぱ全体が泥だらけになったりしました。
 結構、採るところまでになりました。薪割りの時に冷やかしのおじいちゃんから、あの畑じゃ何もできないぞ。。と言われたので、半分諦めで蒔いたのですけど、毎朝のジュースにもなります。
 猪が大豆を食べてしまった話に、おじいちゃんは、猪も出るだろう、そっちの方にアトザン山というのがあって、昔はお産の後を運んで行って埋めたものだと。。それは大変貴重なお話を聞く事ができました。そうするとキツネや鳥が清浄(きれい)にしていって。と言うのです。その場に居た人からは、アトザンだけじゃなかったかもしれないな。とも。皆生きていくのがやっとだったから。
 その春の最後に神立に御粥を持って見舞いに行きました。穀潰し。御粥って穀物を柔らかく煮て、もっと丁寧には擂ったり裏ごしたりしたら、流動食だけになったら、ある意味本当に穀物をつぶしてになるなと、新しいことば合わせに気付いたのでした。
 介護とは福祉とはなんだろうと思うのです。食べるという事から考えるという事。この三年で三人の親たちが亡くなって、少しばかりの経験でも、以前考えていたのとは気持ちが違ってきました。
目の前に居る人に対して、どうしてもしたくなる行動。日曜日には横浜の横田弘氏の一周忌に行って、見舞った人もまた会う事ができました。マハラバ村を語れる人が少なくなっていく中。もう少し時間が欲しい、そう言いながら、採っても食べきれない作物。まだまだ、至らない文庫番です。