2014年12月17日水曜日

礼文の海から


 荒巻鮭が届きました。近頃は荒縄で顎から吊るされているのではなく調理も保存もしやすいようにおろしてパックされているのだと、感心します。二人暮らしでも何とかします。
 礼文で獲れたと書かれていました。北海道の大雪の様子があちこちから届く日。あの厳しい北海道の雪に、高齢のあの人、縁者はどうしているだろうと、鮭を見ながらも今書き綴っているものを反芻します。それは北海道生まれの母の事。
 私には、母のように、人のためになるという生き方ができないのです。この贅沢な味も本当に食べるものが無い者とも分かち合おうともしない。閑居山で母が石油ストーブの上で拵えてくれていた三平汁。小学校からの帰りに山の下から、嗅ぎ分けていたあの頃。大勢の障害者や関わる人達、どの人数になっても、口を満たしていたあの鍋を、つくる事も出来ず、ひたすら自分を肥やしていくだけなのかと、感謝するまえに不甲斐なさを言いそうです。母を慕う人達にどれほど今の私が助けられているのか、改めて思うのです。どうお返しができるのか。
 お母さんのように人のために生きて下さい。というのはプレッシャー。ただただ、ああ食べたこう食べたと書き散らし、喰い散らし、涙散らし。
 自分の暮らしを綴るのは、暮らしというものは個に基づくものだから、全体でどうこうしろという考えじゃあないからだと、何遍でも称えるのですけれど、その考えだけじゃあ、御託を述べるだけ。
 まかり間違えば、羨ましがらせるようとしてと言われて、あまりにも書き手と読み手では意識が違うものだと情報の限界に落ち込んでしまったこともありました。
 かといって、茶化すしかない、極貧とも言う中にいまだに兄は居て。(多分)切られた縁にも、納得もせず、書く事で繋がるかとパソコンに向かえばエピキュリアン話にしかならず、文章は進まず、やっと茨城の山にまで母が来たところ。私が生まれたところ。
 
 

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