2018年1月31日水曜日

一月は行く



  話の始まりは、そもそもは墨田で開いた学習会での、大潟村との交流の馬場目川上流にブナの植林をしに・・・・行くことにしたことから、遠路を寺下号でM&A企画を心配して、運転をかって出てくれたのは金城さんだったことからです。車中での話の中で、おやつといったら干し芋で、カチカチになって白く粉を吹いたのを焙って食べても甘くなって美味しいよね。そんな話ででかけた時のことからでした。その時には大潟村で芹のたっぷり入っただまこ鍋。
 それが茨城を愛する会で、ひたちなかに行き、北茨城に行き、あんこう鍋も楽しむ冬の企画になって。それから、数度冬のさなかの土日にあちこちを訪れてあんこう鍋。
 東日本大震災の年まで続けてみたのでした。そこの中身が「山仕事讃歌」に書かれていて、地域に対する愛着を考え、地域振興の行く先を考えると、そこに住む者の誇りであり、自分たちの価値を知ることだと結べたのは、茨城の同郷の中での話からだったようにも思っていたのでした。その金城さんが亡くなってお通夜の前にお顔だけおがまさせてもらって、山梨に戻って、その地での自分のこれからを考えるのでした。そして茨城を。

 この冬も、また春になる前に見送る人がいて、1月は行ってしまうのです。この2年間、特に思うことは、私たちの文化の中に写真というものが現れる前、遺影というものは無かったのだと、似姿を残すのではなく、人は何を手掛かりとして逝った人を偲んでいたのでしょう。一時も忘れることなく、生活の折々に思い出が蘇り、在りし面影が浮かぶのです。そうすると、現実の姿の意味と記録と記憶と、どれほどの差違があってなのか、お釈迦様の手のひらの上の時間もよもつひらさかも。電子上のことでないのは確かです。気をしっかり持ちたいものです。