2014年7月6日日曜日

7月6日に

 書留封筒は届いたのだろうか。父が逝ってから30年。昨日の夕方打ち合わせはマハラバ村=人とひとの共同性を語るについての下打ち合わせ。
 いよいよ、手をつけなければならない文庫番の本業として、二階の窓の無い資料と在庫、その他の小部屋に籠って、箱を開けて古文書(ふるぶんしょう)を読んでいました。
 埃の匂いと、蒸し暑さの半日。母の骨箱の前にマリア像を供え、あの日を思い出していました。
その前の週にだったか、知り合いの葬儀を務めた父が、電話の向こうで、お腹が痛いと話したのを聞いて、男が痛いとか辛いと言うのは死ぬ時だ。と日頃言っていた父が、口にした事に、知人の葬儀で父と会っていた連れ合いに何か変わったところはなかったのか訊いても、身重であった私を気遣ってか、別に。という返事であったのが、7月6日の朝、母からの電話はお父さんが昨夜入院したの。と言うものであった時には、もう連絡すべき伯母叔父たちの住所録を携えて、丁度出勤前の連れ合いには休みを取ってもらいすぐに茨城に向かう事にしたのでした。
 あれから、30年。
今年の山の中にも一匹だけの蛍は光っているのでしょうか。最後にまた一隅を照らすかの如く、あの夜その年の最初の一匹だけの蛍は、母と私の見ていた庭の池に飛んできたのでした。
 兄が、翌日に比叡山から戻って、臈輩の方々と段取るまでに、ああ、多くの弔問の人々に対処した母が、長かった髪を葬儀の朝には美容室に行き、棺に入れた事。次々に思い出される今夜です。
 文庫番のもとに残されている資料。祖父の代の戦争前後の勧進帳。そこに書かれているもう私には知らない方々。そして母の遺したたくさんの活動記録。
 それらの中に、極僅かのマハラバ村の頃の資料。障害者解放運動は、障害者自身のものであるから、それらではなく、あくまでも庫裏方のもの。そして母の洗礼の時の書物。その二つを本日は確認できたのです。
 訳の解らない、由緒などありすぎるけれど、それらを外れた代々の住職。そして異教の母。
何が遺すべきであり、価値があるのか、番をするしかないと、また箱を閉じてみました。
 文庫番が、マハラバ村について語る日まで、約一ヶ月。

0 件のコメント: