2013年12月22日日曜日

年月を洗って

46年経ったと言います。そうだったのかこのベビーバス。この数日とろとろ石けんや、アルカリウォッシュやらで、繰り返し洗って、年月は流せないけれど、そこに積もった汚れが相手に不快にならない程度には落とせたかと考え、白い袋に入れて赤いリボンで結びました。(リボンは甲府駅で失くしました)46年前の春に生まれた赤ちゃんたち。そうマハラバのベビーラッシュ。自発的共同コロニーから成り立ったカップルたちには、当然のことに子供ができて、そう、その歴史。物として持っていた文庫番は、それらへの執着も手を放していこうと思うのです。
 だって、横田弘さんの葬儀で、覚君のベビーバス、私が保管しているの。と言ったら引き取ります。って答えられ。全国青い芝の会金子会長に、その引き渡しの場を創ってもらいたいと言ったら、よっしゃ。解ったよ。となったのですから。もう私の責任は、引き継いでもらえたのだと思いたい。
 マハラバ村で季節を隔てず生まれた子供たちを、湯船を使わせていたのは、文庫番の母。そのお湯を焚いたのは和尚である文庫番の父。私と同じ山の水で、私と同じ山の薪で、このベビーバスで私の母に抱かれて。
 どうして健全者が生きているのか。それは障害者を、より弱いとされる者たちを支えるために。一定の社会の枠では生きていけないものが居たら、その枠を壊す力を与えるために。
 全国青い芝の会に九州から、関西から、そしてもちろん茨城からも、集まってきて、皆が立ち会ってくれたこの引き渡し、健全者から健全者への引き渡しだけれど、障害者同士の結婚から、新たな希望が生まれていくことを、物証であり、人個人としての証明であるとして、今を生きる。
 この事が、福島の、悩んでいるこれからの生まれ出るいのちへの後押しとなるから。そして、その事を地域の、周りの社会も受け止めているという事を私のことばで言う機会をもらえたのです。文庫番冥利。
 もちろん、その汚れは簡単には落ちなかったから、天袋にしまっておいたと言っても、下の娘が使った後はほとんど放置してあっただけのものだから、プラスティック表面に着色したように色が重なってしまっていたものを、風呂場で、スポンジで洗いながら、石けんでどこまで落とせられるかを、しなければ、私自身の経てきた活動の意味もないじゃないかと、ゴシゴシの数日だったのです。石けんで洗うという事は、科学的根拠を追わなくていい。いのちの流れを、継承を断ち切らないため。決して奇形児を産まないためになんていうことばじゃないと、暮らしの中に言い続けてきて。だから今味噌も台所で熟成できる。より安全なものを求めるという事は排除には立たない。どこかで、互いを認めることで安全を保障していくのだから。と考える私の経てきた事。
 今、新たな里山に近く、芝も移したところで、毎夜、毎朝、茨城の山を思い、忘れないとは何なのかを考え、そこにある自身の執着を情けなく思っていても、そんな文庫番が、その中から、伝えられることで大きな叫びとなっていく事を、この夜に確認したのです。


 
 
今の脳性麻痺者が、障害者であるというだけでお金がでるので、家族が囲い込んでしまって、そのまま施設で満足してしまい地域で自立を目指さないと、小山さんは嘆きました。
 
 まるで、青い芝が芽生えた頃と同じようなことばであって、そしてさらに、では経済で、人の在り方が保障されるのかと。これからの社会をこれからの経済の組み立てを、もういちど、健全者は障害者をささえるためにというところから考えなければならないし、真の自己存在というのは、役職でもない立場でもない、己が何物なのかを自分で言えないものではだめだと、もう一度叫ばないと。

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