昨日は新宿での小さい打ち合わせが重なって、夕方の雨を見ながら小一時間、空いた時間を雨の中を帰る人々をCafeの窓外に見ていました。大勢の雑踏。傘をかわすように仕事帰りの夜に向かう人々。
同じ日の朝は、やっと出揃っていた大豆をまた烏がついばんでいる畑に居て、一人を感じ。夕方は都会の息苦しさの中でまた一人の時間を過ごし。
里山の畑の中にいても、新宿の帰宅の人混みを眺めていても、同じ日に広島でも福島でも沖縄でも経産省前でも、もっと多くの場で平和を求める声もあるのに、繋がっているのだろうか。
自分の中では、文庫番の日常は確かに、今こそその地平を歩みだした感覚はあるのですけれど、スクラムを組めるわけでもないし、座り込んでいるわけでもない。この雨は色は無い雨なのだろうか。黒い雨ではないのだろうか。
でも、同じ日に重ねた別々の三つの打ち合わせが、最後にお土産の味噌をもらって、一つに溶け合うのです。
私の日常。それはまた、別な誰かの日常もいとおしむもの。暮らしの手仕事であり、台所で繋がる。そう言っていた自分は過去のものでもなく、遠い未来に居るわけでもなく、この雨の降る夜を過ごしている一人なのです。それを言える人たちの会議ばっかりだったと、お味噌が教えてくれました。
新宿では夕立だった雨は、甲府を過ぎた誠園にも大豆畑にも僅かなお湿り程度だったようです。
透明な雨がまばらに降る8月6日
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