2016年12月11日日曜日

日和見です



















 ひよってるんですよ。切り干し大根をしっかり干すには、前に2日、干し始めてから最低3日は欲しいので、その上家の影にならないように、あちこちに移動させて風も下から通るようにして。
 お陽様追いかけて、日を過ごしてまだ数日かかりますね。
 この世に生まれて、もう来た道の方が、往く道よりも長くなって、自分の言ってきた事、やってきた事に変節があったのか、それとも一本道だったのか。寄り道、近道。いろいろしたけれど、お陽様はいつも一緒に来てくれています。
 故郷での読書会は、思いがけずに自分も作中に入ったかのような、懐かしい方々との再会の場でした。父や母の生き方に全然追いつけないままに、その生き方を問いかえす事だけを投げかけて、自分はいったいどんな生き方なのかとまた思います。ただただ懐かしいだけでは、駄目。ただただ暖かい思い出を語るだけでは駄目。じゃあ、今をどう生きるのか。言い切れたのでしょうか。
 そうでなくとも、自分の性格について、言い当てる事の出来た日でした。「無頓着」。そう親が実刑に服していても、全然気にせずに、伸びやかな思い出しかなく、兄とはそれぞれの暮らしと割り切るしかない自分は無頓着。
 当事者って誰?そう言うことによって、自分は余所見でいたのではないだろうか。その意気地の弱さが、時に右顧左眄している己を知っているのです。
 反体制も体制も、どちらも側も大差ない。そう言う理屈を見知って育ってしまった、という横柄さでしょう。
 東日本大震災以降、これ以上の原子力利用を人類はしてはならないと、地球という母星が叫んだのだと、人間の手に原子力を置いてはいけないと、せめて、この国の者は考えるはずだから、権力をもつものも虐げられている者も、どこかで、その合意の持ち方を、つくっていけると考えたけれども、この5年と9ヶ月は、そういう道を見つけられていないようです。1%と99%の話ももう聞かなくなってきています。むしろ排他的、武力的な物事に従う決め方を正しいと言う。そればかりが目について。
 お陽様のエネルギーがこれほど大根干してくれる。それを忘れてはいけないでしょう。

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