2011年1月19日水曜日

寒行

知人から電話があった。お宅のお兄さんについて、警察から連絡があって、何かしたようだ。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110119-OYT1T00057.htm
兄が警察につかまったのは何回になるのだろう。ずっと、私のところへの直接の連絡は来なくなっているので解らないのですけれど、またなのかという思いと、母はこれを聞いても大丈夫だろうかという思いとが、短い時間でフラッシュのように頭に浮かぶのです。
 でもね。お父さんの思想を一番お兄さんは受け継いでいると思うの。法というものが、取り締まりというのが如何に、体制のためにあるか。と言うと相手も、ある意味納得してくれる。
社会の不条理というもの。貧しい寺の子が、一人で生きていく時に托鉢しかできなかった。それから数十年。比叡山でした修行も、兄なりの論理もたぶん、受け入れる社会ではないのだと思っているし、住所も職業も、語らずして、認められる立場でない者なのだろうと。
 すでに、母が山を降り数年たった時から、絶えている関係ではあっても、兄は兄。

 それでも、兄からは連絡先としては、私ではないのです。身内という考えは出家だからなのか、すでに縁の切れたものと考えているのか、こちらに迷惑にならないようにと、言わなくなっているようだとしかここに書けない。推しはかろうとして、幾十年、片身を分けた兄であっても、そのこころの内は解らなくなってとざされたまま、どこかで世間様は、あなたのお兄さんと。
 言われるまでもなく一生。この兄については、私の兄である。そう思いながら、インターネット上のニュースでしか繋がっていないのです。
 むしろ、一人の托鉢僧の主張としてみれば、立派なものだと読むのです。一所不住、僧と認めるものがあっての僧であるのに、住所・職業が不明であるとは、やはり法の論理というのも、手続き論でしかないと。

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