2011年11月7日月曜日

週が変わって

 雨といっても、そんなにたいした降りにもならずに、日曜が過ぎ新しい一週間がはじまります。この太陽暦で日々を数えていくのも、自然の時の刻みと言いながら恣意的経済に合わせているのかなと思い、身体を労わらないといけないと考えます。朝昼晩、毎日の食事。排泄。入浴。睡眠。
 曜日に関係なくなって、今日はいったい何の日だったろうとなるのかもしれません。それでいいじゃないかと、自分の呼吸があって、生きていける。
 その人が生きていくと言う最低限の保障をするのに、今の仕組みの方が合っていない部分が幸福な老後を約束できないのです。天体は自然の運行なのに、それに付随して暦が決められ、曜日もできて、いつの間にか暮らしというものが、暮らしの範囲の他者への配慮と感謝の交わりから、もっと大きい力の動きに連ならないと、動けないように組み立てられていて、その競争をしつづけるのが人生になってしまっているのです。
 おかしいと感じていても、抜けだせないのを当然としてしまうから、何事についても自分がどう判断したのかはあとで考える、まずは大勢が決める事で世の中は動くのだからという思考形式が、正しき社会人だろうと考えるような教育だったのです。労働可能年齢、終身雇用制、年金支給年齢。それらも、意味があったのかどうか、誰のためのものだったのか、誰によって判断されるのかと考えると、生きている枠の中でもがいてしまいます。まだ、現状を変えていかないとならない事も多く見つけるのです。

 でも、一番大事なのは、自分で判断し、その事に責任を持っている生き方だろうと思うのです。もう、父が死んだ年齢の今年を迎え、父が亡くなった時からずっと、一つの節目として考えてきたものは終了して、残された時間になったのです。付録のごとき自分の仕上げの時間が与えられたなら、それは喜んでいただこうと考えています。変に加齢を嫌がりたくないのです。
 まだ若い、と若いものと競うのではなく、自分らしい歳のとり方、齢の重ね方をしたいものです。穏やかに日々を暮らしながら、芯をもっている。それを夢見ています。一週間のはじまりといつもは思うのにふと疑問を感じました。

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