2012年9月19日水曜日

情報戦って

 少し、扇情的な気配できな臭さを立てていこうというのでしょうか。それとも、どこでも民衆の声というものが、語られなければならない、底辺の人間の権利として尊重されるべきものだという人類の合意が、活かされる仕組みが出来つつある世紀になったのでしょうか。
 情報化時代と言われて久しい。それにもまた、胡散臭いことだと思う感覚を失くしてはならないのだと、やっと気付きました。情報は、早く、秘匿するよりも発信することで、自分を守れると考えてきて、他人から見たら赤裸々な部分も自分を守るために、他人の表現で語られるのではなく自己を形作るべきとしてきています。時々、私以外の人が文庫番を物語ることに、あまりにすごい思い違いに本人に確かめてよ、っと怒鳴りたくもなるのです。でも、情報そのものがお金になるからって個人情報の取り扱いに汲々とする世の中にしたのと、一緒が近頃の情報化時代の事ですよね。
 以前、インターネット子会社(文庫ではない)の発足式に招かれ、インターネットの時代と律令制について語ったことがありました。全国津々浦々に同じ書式で書かれたものが、早馬で伝えられるという事で、社会が成り立ったことと合わせて考えると腑に落ちる。という内容だったと思います。
 決して、インターネットだけが情報化ではないし、いつの時代でも、同じように情報を統制していくことの必要性があった事を語ったのだと思い出します。
 そして、今はパソコンでのやりとりだけに満足している日々を送り、本来の感謝をすべき、お伝えすべき気持ちはすれっからして、タイミングを外し、不義理をしています。
 この近年、、、リーマンショック以降でしょうか。誰からの出どころで、誰に向けての発信なのかが特定されない、個人発、世界向けの主張・ことばが多く見受けられます。インターネットの中に浸っていて、世界のすべてを知っているつもりになっている、文庫番なのですが、心強いようなうすら寒いような、現実感が有るのか無いのか。
 そういう日々に、南の海の上で、または日本海!での領土がどうとやらも、そして、大衆デモだという暴徒まがいの行進も伝わってきました。逆にその国の人々に、私の住んでいる国は、恒久的戦争放棄を至上としている国という事を伝えているのでしょうか。
 一歩も家から出ていないのが、一週間の大部分。食べ物の素材は配達されてくるし、細かい外で用事なら大人ばっかり家族の家人の誰かが、補ってくれる暮らしだからなのです。
 すべての現実感が、地に足を付けていない中で、どこの誰が発したのか、分け合い、結果評価ばかりで、その人の本意はさっぱり見えない交流を、重ねて知ったかぶりに磨きがかかっています。
 きな臭いことは大なり小なり情報戦です。誰がなんの意図をもって語ったのか。それが解らないままに、拡散させていくときに、自分の主体は薄れてしまいます。
 最終的に、情報戦の結果に巻き込まれてしまっても、そこで在り方を決めるのは、自己でしかありえないのです。時代のせい、政権のせい、社会のせい。それは結果。そこでの在り方は。自分という存在。どのように、自分を見つめられるのか、その教え、導きを誰から受けてきたのか。

 お彼岸での入りですね。少しご先祖様との交信という、情報戦も必要だと、文庫番には。

事の真偽
 

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