2012年9月10日月曜日

ポスターを剥がして

 地元神社の秋の禮大祭は滞りなく終了ということになりました。洗濯干してもまだ、家のどこかから、洗わなければならない年に一度のものや、しまっておかなければならないものなどが出てきます。義父母を見ながらの家での祭り見物だった私。でも年番を引き受けた連れ合いに、若い人たちでの町内の担ぎ手の集まりを立ち上げてきた娘たちとその周辺が、この三日間出入りしていた家でした。
 その、一段落した気持ちと、秋になってまた一年があらたまっていくのだという、季節の送りの時期になったのです。それは秋生まれの文庫番にとっては、一年を経た意味を考える時期になってきたという事です。東日本大震災以降の、腰を据えて、地軸の歪みと正対しようとする思い。社会の様々なひずみも、大きく転換できるという考えを見つめる時間なのです。世代を重ねても、虐げられる人々を生み出さない社会を、一人一人が自分が生を受けたことを喜び価値あるものとして、次世代へ伝えられる社会を、創っていく意思の確認です。
  歴史の過程で、人類という種族として協調し共生できる時代を創っていかないとならない。
畢竟、戦後民主主義と呼ばれてきたものは、たわいもなく、現状では、自由主義市場のために仕組まれてきた側面が大きく見えてしまい、逼塞した気分に多くの人が覆われています。
だからと言って、ほとんんどの歴史に読める支配と被支配の関係を変えていけると確信するのに、個人としての一人は、どこかで他人と自分を引き比べて優劣、正邪、その他、つまらない比較をしているじゃないかと煩悩の大きさに、その確信が崩されてしまい、何も前に進めなくなってしまう。己の地獄は、人間存在そのものの絶望だと、マハラバは考察しているのです。
 そうではあっても、昨年の3.11以降もそうであって良いのか。
その答えを求めて味噌を仕込み、ことばを練って、旅をつづけ、家を守り、地域に関わってきて、あらたな旅もしようと思うと。間違っていなかった。これで良いのだと、バカボンパパになります。
 家に居ることの意味。国とも対峙する家。いへ=炉の辺。食べるものを分かち合う場所。醸す力。敬虔ということ。甕の蓋を開けて、そこのつぶやきを聞き取っていく力。
その、一つの形式が、地元の禮大祭であるならば、今日のこの時間しっかり季節を送っていきましょう。

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