2014年4月9日水曜日

ウォーム・チェーン


 暖かくなってきて、咲いたタンポポは在来種なのでしょうか。ガクは上向きについています。
そう暖かくなってきて、いろいろな事が一安心。できるでしょうか。。。そう願いたいです。
 里山の畑も難題なのですが、ソフトランディングできるか。今年はできる範囲を、手動の機械を使って、有機肥料も撒いて、でも水はどうしましょう。依然としてイノシシの運動場。
 まあ、大豆は別なところを考えましょう。
 一昨日隣の畑のおばさん。いろいろ教えてくれます。用水の土手の蓬を摘んでいます。こっちは綺麗だから、消毒する前に摘むんだ。と言います。おばさんの畑は少量多品目なのですけれど、背負ったタンクでの消毒もします。その前に、あんた菜花摘んでいいよ。もっと持っていきな。
ここは、おじさんは亡くなって一人でやっているので、パルファームの耕耘機で瀧さんの手も借りて起しています。里山での耕作。決して楽ではないですけど、暖かい畑の上です。暖かいというか、甲府は昨日は25度を超えた真夏日でした。
 畑を起こしに行く前には庭での作業。そこに芹を車に積んでご近所さんが着ました。山の方で積んできたからと、どっさりと玄関に下ろしてくれます。卵とじにしたりお浸しでね、あ、もう少し食べれるね。と。それを台所に持って行っておきます。
 戻ってくると、これまたご近所のおじいちゃんが、出かけていなさったね。友達がね持ってきてくれたかと、箕に一杯の野沢菜の抜き菜を持ってきて、ついでにその箕も使っていいよと置いていきます。そう肥料撒きをどうするかと思っていたところでした。
 しかし、、摘みたての芹の始末も、黄色くなった葉や、水の中の他の植物が絡まっていてなかなか大変。小一時間で半分くらいの始末。そして抜き菜も、洗ってきたからというもので、新鮮ですが根を取って、これも茹でての作業をしながら、茹であがりを冷蔵庫に入れようとして、ああそうだ、ここまでこの春の菜の物たちは冷やされていないんだと気が付きました。そして人から人へと渡されている。このやりとりの範囲が無駄がないのだと、たくさんの葉っぱを、食べきれない葉っぱを二人の食卓に並べます。食べるのに事欠く者に届けることもできないけれど、取りあえずもらうばかりの文庫番は食べている。その食べきれないものをどうにか一緒に食べられる手立てがあればいいのだけれど。
 自給自立が回るという事は、食とかエネルギーとか経済だけでは足りないのだろうと思うのです。そこで、他のものと、分け合えられる、融通し合えるという事で自給自立が成り立つのです。そこにはこころの救済。それを超えての自他一如というか、絶対者への帰依というか、大きな意味では信仰、が互いの間にできる循環。それが成り立つ経済圏なのだと考えるのです。日光と江戸の関係を父の文の中で理解した時に、経済とは宗教と密接な物理的な範囲があるということでした。
 これからの地域をどう考えるのか、この数日の春の菜のやりとりのように、食と福祉が要ではあるし、地域の中での循環を作れることが求められているのだと思うけれど、それは即物的な次元では、崩れやすいものです。互いのこころの救済ができるものとなれば全体に歪まないのでしょう。本来は、社寺の果たす、もしくは宗教者の果たす役割なのですけれど。今の世の中には、宗教者も生きにくいのです。子どもの頃の様に山寺の麓の里の人たちが、たくさん取れたからと、ホウレン草や苺を持って登って来てくれたようであれば、互いが救われるたのです。文庫番は、菜っ葉の余分を使い切るには、力足らずでしかないのです。暖かなぬくもりのあるそんな循環ができないのかと思うのです。このタンポポのように。

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